春来たりなば、白菊はキヴォトスに咲く   作:ふぁくしみり

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山海経編
山海経、春の噂


 春になって、山海経にも新しい学期が来た。

 

 朱城ルミは、今年で初級中学の三年生になる。

 

 山海経では、初級中学を終えた生徒の多くが、そのまま高級中学へ進級する。

 もちろん成績や素行、進路の都合で例外がないわけではないが、少なくともルミにとって高級課程は、遠い未知の場所ではなかった。

 

 同じ山海経の中で、少しだけ上の段へ進む。

 授業は難しくなり、求められることも増え、関わる相手も広がっていく。

 そのくらいの実感だった。

 

 けれど、ルミにとって高級課程には、もう一つ大きな意味があった。

 

 玄武商会。

 

 山海経の商人たちが集まる、大きな商会。

 料理の印象が強いが、ただの食堂の集まりではない。いくつもの飲食店を抱え、山海経の内外から食材を集め、料理を出し、商いを回す。

 伝統料理だけでなく、外の食材や異国の料理も取り入れようとする、山海経の中でも変化を恐れない気風の組織だった。

 

 その分、伝統を重んじる者たちからはよく思われていない。

 山海経らしさを乱す、と言う者もいる。

 けれどルミは、玄武商会のそういうところが嫌いではなかった。

 

 美味しいものを作るためなら、知らない食材も知りたい。

 もっと上手くなるためなら、外の料理も学びたい。

 それで食べた人が笑ってくれるなら、きっと意味がある。

 

 高級中学へ進めば、玄武商会の先輩たちとも今より深く関われる。

 料理だけでなく、仕入れや帳面、店を回すこと、客を見ることも、もっと本格的に学べるはずだった。

 

 だから新学期の始まりといっても、急に生活が一変するわけではない。

 けれど、胸の奥には小さな火が灯っていた。

 

 朝は早い。

 授業はちゃんとある。

 課題も出る。

 座学では古典や計算、歴史や文献の読み方を学び、午後になれば実習や手伝いで体を動かす。

 

 その合間に、ルミは店に立った。

 

 学園街の一角、初級中学と高級中学校舎の間をつなぐ通りから少し入ったところに、その食堂はある。

 昼になれば授業を終えた生徒たちが流れ込み、放課後になれば部活帰りの生徒や校舎に残っていた先輩たちが腹を満たしに来る。

 

 大店というほどではない。

 けれど、山海経の生徒たちには馴染みのある店だった。

 

 玄武商会の大きな料亭や有名店に比べれば、まだ小さな場所だ。

 それでも、料理を出し、客を迎え、金を受け取り、また明日のために仕込むという流れは同じだった。

 ルミにとっては、ここも立派な学び場だった。

 

 店の火は、朝のうちから入っている。

 

 大きな鍋に水が張られ、まな板の上では野菜が刻まれ、鉄鍋が少しずつ熱を帯びていく。

 湯気の匂い、炊きあがる飯の匂い、出汁の匂い。

 そこへ少しずつ、調味や研究用に試している香辛料の香りも混ざっていく。

 

 ルミは最近、香辛料の使い方を覚え始めていた。

 

 何でもかんでも辛くすればいいとは思っていない。

 それでは料理ではなく、ただの勢いだ。

 けれど、香りの立て方ひとつで料理の顔つきが変わるのが面白かった。

 

 少し加えるだけで、いつもの一皿が別の土地の料理のようになる。

 逆に、使いすぎれば山海経の料理が持つ芯までぼやけてしまう。

 

 その境目を探すのが、今のルミには楽しかった。

 

「ルミー、そっちの青菜終わった?」

 

「もうちょっとー! 切り口そろえたいから待って!」

 

「また細かいこと言ってる」

 

「細かいところが味に出るんですー」

 

 奥から飛んできた学友の声に、ルミは明るく返した。

 

 ここは、学生たちが手伝い、学び、時には半分実習のように店を回す場所でもある。

 厨房にはルミと同じ初級中学の学友がいて、客席には山海経の先輩や同級生たちがよく顔を出す。

 

 料理を覚えたい者。

 商いの流れを学びたい者。

 ただ温かい飯を食べに来た者。

 

 山海経らしく、店にはそういう生徒たちが自然と集まっていた。

 

「ルミちゃん、麻婆豆腐お願い。辛さ控えめで」

 

「はいはーい! 先輩は辛すぎると午後の授業で眠くなるんですよね?」

 

「よく覚えてるねぇ」

 

「お客さんの好みを覚えるのも料理人の仕事ですから!」

 

 ルミが胸を張ると、先輩の生徒が笑った。

 

「じゃあ、私のは辛めで」

 

「分かってるよー。君は辛くないと物足りないんでしょ?」

 

「さすがルミ」

 

「ふふん。もっと褒めていいよ」

 

「調子乗ると焦がすよー」

 

「焦がしませんー。火加減は料理人の命ですー」

 

 軽口を叩きながら、ルミは器を並べる。

 

 新学期のせいか、店の中にはいつもより少しだけ浮ついた空気があった。

 

 新しい授業の話。

 進級した先輩の話。

 委員会や部活の話。

 高級課程の校則が厳しいだとか、今年の古典は去年より難しいだとか、そんな話が飛び交っている。

 

 玄武商会に出入りしている先輩の話も、時折耳に入った。

 

「商会の実習、思ったより大変だったよ。料理だけじゃなくて仕入れ表まで見せられるし」

 

「品質管理も厳しいって聞いた」

 

「厳しいよ。食材の保存状態とか、香りとか、産地とか、ちょっとでも雑だとすぐ突っ込まれる」

 

 その話を聞くたび、ルミは少しだけ背筋が伸びた。

 

 大変そうだと思う。

 けれど、それ以上に楽しそうだとも思う。

 

 美味しい料理を作るだけでは足りない。

 その料理がどこから来た食材でできていて、どう運ばれ、どう保存され、どう客の前へ出されるのか。

 そこまで知って初めて、店を回すということなのだろう。

 

 ルミもまた、今年はもっと上手くなりたいと思っていた。

 

 料理の腕も。

 店を回す感覚も。

 それから、授業の方も。

 

 ただ手先が器用なだけでは足りない。

 味を組み立てるにも、帳面をつけるにも、相手を見るにも、頭は要る。

 山海経でやっていくならなおさらだ。

 

 いつか玄武商会で胸を張って料理を出すなら、なおさら。

 

 そんなざわめきの中に、奇妙な噂が混じってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 

「ねえ、聞いた? 東方3番街広場駅の騒ぎ」

 

 客席の一つで、高級中学の生徒が椀を前にして言った。

 

「またスケバン?」

 

「それともヘルメット団?」

 

「違う違う。今回はそういうのじゃないって」

 

 ルミは皿を置きながら、何となくその会話に耳を向けた。

 

 東方3番街広場駅。

 山海経方面から来る者も、別の自治区へ向かう者も使う大きな駅だ。

 学園街にいる生徒にとっても、決して遠い場所ではない。

 

「じゃあ何?」

 

「白い子」

 

「白い子?」

 

「白髪で、赤い目で、真っ白な服を着た女の子。駅で切符がどうとか揉めて、ヴァルキューレから逃げたらしいよ」

 

「何それ。迷子?」

 

「最初はそう思われてたみたい。でも変なんだって」

 

 話していた生徒が、少し声を落とした。

 

「ヘイローがなかったらしい」

 

 店内の空気が、ほんの少し変わった。

 

「ヘイローが?」

 

「見間違いじゃなくて?」

 

「事故とかじゃないの?」

 

「分かんない。しかも銃を持ってなかったって」

 

「銃なし?」

 

「うん。その代わり、刀みたいな長い包みを持ってたらしい」

 

 ルミは思わず振り返った。

 

「刀?」

 

「あ、ルミも聞いてた?」

 

「聞こえた。何それー、変なの」

 

 ルミは笑った。

 

 けれど、笑いながらも少しだけ引っかかった。

 

 不良生徒の騒ぎなら珍しくない。

 学園街の近くでも、小競り合いや迷惑な連中の噂くらいはいくらでも流れてくる。

 

 でも、ヘイローがない。

 銃を持っていない。

 刀のようなものだけを抱えている。

 白髪で、赤い目で、白い服の女の子。

 

 それは、いつもの「また変な生徒が暴れた」という話とは、少し違って聞こえた。

 

「あとさ、その子、喋り方も変だったらしいよ」

 

「喋り方?」

 

「すごく古風っていうか……『ございます』とか言ってたって」

 

「百鬼夜行の子じゃないの?」

 

「それが、百鬼夜行の子にしても変だって。そもそもヘイローがないし」

 

「じゃあ、どこの子なの?」

 

「分かんない。だからヴァルキューレも困ってるみたい」

 

「その子、大丈夫だったの?」

 

 ルミが聞くと、先輩の生徒は肩をすくめた。

 

「逃げたって話だからね。今も探してるんじゃない?」

 

「山海経の方へ来たら面倒だね」

 

「でもそんな目立つ子、すぐ見つかるでしょ」

 

「まあね。白髪で赤目で、刀みたいなの持っててヘイローなしとか、隠れる気あるの?って感じだし」

 

「……でもさ」

 

 別の生徒が、少しだけ声を落とした。

 

「ヘイローがないって、本当に大丈夫なのかな」

 

 その言葉に、一瞬だけ会話が止まった。

 

 ルミも、手に持っていた皿を少しだけ下げた。

 

 ヘイローがない。

 

 それは単に「変わっている」では済まない話だった。

 怪我なのか、事故なのか、病気なのか。

 そもそも、そんなことが起こるのか。

 

 誰にも分からない。

 

「……まあ、ヴァルキューレが探してるなら、そのうち保護されるんじゃない?」

 

 先輩の一人がそう言って、会話はそこで別の話題へ流れていった。

 

 午後の授業の話。

 料理実習の評価の話。

 高級課程の進度の話。

 新しく配られた課題の量が多すぎる、という愚痴。

 

 ルミも仕事に戻った。

 

 器を温める。

 麺を茹でる。

 客の辛さの好みを間違えないように確認する。

 同級生が焦がしかけた鍋を慌てて救う。

 

「ちょっと、火強すぎ!」

 

「わ、ほんとだ!」

 

「もう、だから言ったじゃん。焦げる前の匂い、覚えなきゃ」

 

「ルミ、そういう時だけ先輩っぽい」

 

「普段から先輩っぽいですー」

 

 忙しさの中で、噂は少しずつ薄れていく。

 

 それでも、ふとした拍子に頭をよぎった。

 

 白髪。

 赤い目。

 ヘイローなし。

 銃ではなく、刀のような包み。

 古風な喋り方。

 

「……変なの」

 

 ルミは小さく呟いて、鍋の火を少し弱めた。

 

 

 

 ⸻

 

 

 

 夜になって、店はようやく落ち着いた。

 

 最後の客を見送り、暖簾をしまう。

 床を掃き、卓を拭き、明日の仕込みに使う食材を確認する。

 

 昼の賑やかさが嘘のように、店の中は静かになっていた。

 

「ルミ、そっちの卓拭いた?」

 

「拭いたよー。あと奥の食材だけ確認する」

 

「明日の朝、豆腐届くって」

 

「分かった。香辛料は足りる?」

 

「たぶん。ルミが使いすぎなければ」

 

「使いすぎてないですー。必要な量ですー」

 

「この前もそう言って、全員の舌しびれさせたじゃん」

 

「あれは研究!」

 

「研究で済ませるには刺激が強すぎたよ」

 

 学友とそんなやり取りをしながら、ルミは棚の中を確認した。

 

 腕が少し重い。

 足も疲れている。

 

 けれど、嫌な疲れではなかった。

 

 今日もたくさん料理を出した。

 先輩たちは笑ってくれた。

 同級生たちとも、また少し上手く店を回せた。

 

 高級課程に進んでも、この積み重ねは続いていく。

 料理も、勉強も、人を見る目も、きっと今より深くなる。

 

 そしていつか、玄武商会で自分の料理を出せるようになりたい。

 

 山海経の伝統料理を大切にしながら、外の食材も、知らない料理も取り入れて、食べた人を驚かせるような一皿を作りたい。

 

 そう思うと、疲れていても胸の奥が温かかった。

 

「じゃあ、私先に帰るね」

 

「気をつけてねー」

 

「分かってるって」

 

 軽く笑って、ルミは店を出た。

 

 夜の空気が頬を撫でる。

 

 昼間の熱気がまだ少し残る通り。

 遠くの屋台から漂う料理の匂い。

 提灯の明かり。

 どこかで聞こえる笑い声。

 

 学園街の夜は、静かなようでいて、完全には眠らない。

 

 ルミは肩を回しながら、家への道を歩いた。

 

 少しだけ遠回りしてもいい気分だった。

 厨房の熱気から離れて、夜風に当たりたかった。

 

 店を出て通りを一本渡り、校舎へ続く道とは別の細道へ入る。

 昼間の噂は、もうほとんど頭の隅へ追いやられていた。

 

 そのはずだった。

 

 けれど、通りから少し外れた家影に、白いものが見える。

 

 最初は、捨てられた布かと思った。

 

 次に、人だと分かった。

 

 壁にもたれるように、小さな体が座り込んでいる。

 

 ルミは足を止めた。

 

 白い髪。

 白い服。

 暗がりの中でも分かるほど白い肌。

 

 そして、伏せた顔の奥に見えた赤い瞳。

 

 ルミの胸が、どくりと鳴った。

 

 昼間の噂が、急に輪郭を取り戻す。

 

 白髪。

 赤い目。

 ヘイローなし。

 銃ではなく、刀のような包み。

 

 ルミはゆっくり近づいた。

 

 その子の頭上には、何も浮かんでいなかった。

 

 代わりに、細い腕が黒い細長い包みを抱えている。

 服は見慣れない形で、背には革の鞄を負っていた。

 まるで遠い土地から、そのまま迷い込んできた旅人のようだった。

 

「……ねえ」

 

 ルミはできるだけ柔らかく声をかけた。

 

「君、大丈夫?」

 

 白い子は、弾かれたように顔を上げた。

 

 赤い瞳が、ルミを捉える。

 

 次の瞬間、立ち上がろうとした。

 

 逃げようとしたのだと、ルミにもすぐに分かった。

 

 けれど、その背後は行き止まりだった。

 

 家と塀に挟まれた細い影。

 逃げ道は、ルミのいる方にしかない。

 

 白い子は一歩下がり、すぐに壁へ背をぶつけた。

 

 そして、黒い細長い包みに手をかけた。

 

 ルミは息を呑んだ。

 

 けれど、相手の目を見て、すぐに両手を上げた。

 

「待って、待って。何もしないから」

 

 白い子は答えなかった。

 

 いや、答えられないようだった。

 

 唇がわずかに動く。

 けれど声は出ない。

 

 喉が渇ききっているのだと、ルミは気づいた。

 

 息は浅く、肩がわずかに震えている。

 顔色も悪い。

 それでも、赤い目だけが必死にルミを見ていた。

 

 怯えている。

 

 それが分かった瞬間、ルミの中の警戒が少しだけほどけた。

 

 噂の子かもしれない。

 

 ヘイローがない。

 刀のようなものを持っている。

 駅から逃げた。

 探している者もいる。

 

 普通なら、近づかない方がいい。

 誰かに知らせた方がいい。

 

 そう思うべきなのだろう。

 

 けれど、ルミはその子から目を離せなかった。

 

 白い髪は、夜の中でも淡く浮かび上がっている。

 赤い瞳は、熱を失いかけた灯のようだった。

 顔立ちは不自然なほど整っていて、噂で聞いた通りの少女に見える。

 

 けれど、目の奥には張り詰めた獣のような警戒があった。

 

 綺麗な子だ。

 

 場違いなほど、そんなことを思った。

 

 それから、すぐに別のことも思った。

 

 この子は、ひどく疲れている。

 

「……喉、渇いてるの?」

 

 ルミはゆっくり言った。

 

 白い子の指が、黒い包みを握りしめる。

 

 答えはない。

 けれど、唇の乾き方と、息の荒さを見れば分かった。

 

 ルミはそれ以上近づかず、その場にしゃがんだ。

 

 目線を低くする。

 

 白い子はルミより小さかった。

 立ったまま見下ろせば、それだけで怖がらせてしまう気がした。

 

 子供や、怯えた相手に接する時は、上から覗き込まない方がいい。

 店で迷子や泣いた後輩を相手にした時、自然と覚えたことだった。

 

「私は朱城ルミ。山海経初級中学の生徒」

 

 白い子は、ただルミを見ている。

 

「君を捕まえに来たわけじゃないよ」

 

 その言葉に、赤い瞳がわずかに揺れた。

 

「でも、ここにずっといたら危ないと思う。探してる人もいるだろうし」

 

 白い子は小さく息を呑んだ。

 

 その息が、ひどく乾いていた。

 

「ねえ」

 

 ルミはできるだけ明るく、けれど急かさない声で言った。

 

「うち、すぐそこなの。水もあるし、温かいものも出せる」

 

 白い子は動かない。

 

 ルミは少しだけ首を傾げた。

 

「怪しいって思うよね」

 

 自分で言って、少しだけ肩をすくめる。

 

「急に知らない人に言われても困るのは分かる。でも、このまま路地裏にいるよりは、うちに来た方が安全だと思う」

 

 白い子は、何かを言おうとした。

 

 唇が動く。

 

 けれど、やはり声は出なかった。

 

「無理に喋らなくていいよ」

 

 ルミはそう言った。

 

「声、出ないんでしょ」

 

 白い子の視線が、わずかに落ちる。

 

 認めたくないのかもしれない。

 でも、否定する声も出ないのだろう。

 

 ルミはゆっくり手を差し出した。

 

 触れるためではない。

 引っ張るためでもない。

 ただ、逃げ道を塞がない位置で、選べるように。

 

「大丈夫。無理に連れていかない」

 

 白い子の視線が、ルミの手に落ちる。

 

 細い指が、黒い包みから少しだけ離れた。

 

 けれど、完全には離さない。

 

 その様子を見て、ルミは小さく息を吐いた。

 

「……もう、噂よりずっと大変そうじゃん」

 

 白い子は何も言わなかった。

 

 ただ、ほんのわずかに膝の力が抜けた。

 

 次の瞬間、体が傾く。

 

「……っ」

 

 崩れそうになる体を、ルミは慌てて支えた。

 

「ちょっと……大丈夫!?」

 

 肩を支えた瞬間、思っていたよりずっと軽いことに気づく。

 

 細い。

 冷えている。

 服越しにも、体にほとんど力が残っていないのが分かった。

 

「……軽すぎるって、君」

 

 思わず小さく呟く。

 

 呆れたかったわけではない。

 ただ、驚いた。

 

 こんな状態で、どれだけ歩いていたのだろう。

 どれだけ逃げて、どれだけ一人で耐えていたのだろう。

 

「ほんとに、どれだけ歩いたの……?」

 

 白い子は答えなかった。

 

 答えられないまま、目を伏せている。

 

 逃げることも、振り払うこともできないらしい。

 それでも、黒い包みだけは手放そうとしない。

 

 ルミはその手元を見て、少しだけ眉を下げた。

 

 大事なものなのだろう。

 

 少なくとも、今この子から無理に奪っていいものではない。

 

「……とりあえず、うちに来て」

 

 ルミはもう一度、できるだけ柔らかく言った。

 

 白い子は、ほとんど聞こえない声で何かを返した。

 

 礼の言葉だったのかもしれない。

 謝罪だったのかもしれない。

 あるいは、ただ息が漏れただけだったのかもしれない。

 

 ルミには分からなかった。

 

 けれど、無理に聞き返す気にはなれなかった。

 

「大丈夫。急がなくていいから。歩ける? 無理なら、体預けて…」

 

 白い子は小さく頷こうとした。

 

 頷けていたのかどうかも分からないくらい、弱い動きだった。

 

 それでも、足を動かそうとしている。

 

 ルミはその体を支え直した。

 

 一歩。

 また一歩。

 

 知らない白い子を支えながら、夜の細道を戻っていく。

 

 その間も、その子は最後まで黒い細長い包みだけは離さなかった。

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