春来たりなば、白菊はキヴォトスに咲く   作:ふぁくしみり

2 / 8
異邦の少年

 駅から逃げ出した時、少年はまだ、自分がどこにいるのか分かっていなかった。

 

 下関ではない。

 

 それだけは分かった。

 

 だが、それ以外のことは何一つ分からなかった。

 

 駅の外には、大きな広場が広がっていた。

 

 地下から地上へ出た途端、視界が開けた。

 高い建物。

 見たこともない形の灯り。

 壁一面に貼られた鮮やかな看板。

 空をゆっくり進む飛行船のようなもの。

 道路を滑るように走る車両。

 

 そのどれもが、少年の知る街の姿とは違っていた。

 

 人力車はいない。

 馬車も見えない。

 路面電車とも違う箱のような乗り物が、音も少なく道を走っている。

 

 その車両の窓は大きく、車体は妙に滑らかで、色も形も整いすぎていた。

 まるで職人が一つ一つ手で作り上げたものというより、どこか別の理屈で生まれたもののように見えた。

 

 少年は息を切らしながら、人の流れに紛れようとした。

 

 だが、すぐに無理だと分かった。

 

 目に入る者の多くが、女だった。

 

 年若い女。

 彼より少し年上に見える女。

 大人に近い背丈の女。

 そのほとんどが、頭上に光の輪を浮かべている。

 

 男は、見当たらなかった。

 

 そして、そもそも人でない者もいる。

 

 二本足で歩く犬のような者。

 猫のような顔をした者。

 鉄でできた人形のような者。

 それらが、誰にも驚かれることなく、荷物を運び、店先で話し、路地を歩いている。

 

 少年の足が一瞬止まりかける。

 

 ここは日本ではないのか。

 

 それとも、自分の知らない日本なのか。

 

 東京から下関へ向かう列車に乗ったはずだった。

 だが目覚めた先は、東方三番街広場という駅だった。

 山海経自治区という聞いたこともない名があり、百鬼夜行という怪異譚のような言葉が、学園の名として口にされていた。

 

 言葉は通じる。

 

 文字も、読めるものはある。

 

 けれど、世界そのものが通じていない。

 

 その時、不意に、胸の奥がざわめいた。

 

 列車の中。

 

 あの妙に静かな車両。

 

 自分のいる場所だけが切り取られたように人の気配がなく、ただ低く滑るような音だけが響いていた、不明瞭な空間。

 

 そして、あの女。

 

 白く、静かで、どこか遠い女。

 

 少女のようにも見えたが、その瞳には、暁乃が知らぬほど長い時間と、深い悔いが沈んでいた。

 

『……お願いします』

 

 声だけが、ふいに蘇る。

 

『助けてください』

 

 何を。

 誰を。

 

 聞き返したかったはずなのに、あの時は言葉が喉の奥でほどけて、声にはならなかった。

 

『私を』

『みんなを』

『キヴォトスを』

 

 キヴォトス。

 

 そうだ。

 

 あの女は、確かにそう言った。

 

 下関でも東京でもない、この見知らぬ場所の名を。

 

 夢ではなかったのか。

 いや、夢にしては、あまりに声が鮮やかすぎた。

 

 胸の奥には、最後に抱きしめられた時のぬくもりまで、まだ薄く残っている気がした。

 

『……暁乃くん、お願いします』

 

 あの声が、自分をここへ連れてきたのだろうか。

 

 分からない。

 

 分からないが、少なくとも一つだけは確かだった。

 

 この場所は、偶然たどり着いたどこかではない。

 あの女が口にした、キヴォトスという場所なのだ。

 

「……どうなって、いるのですか」

 

 呟きは、人混みと車両の音に呑まれた。

 

 背後から、遠く声が聞こえる。

 

「ねえ、さっき駅で騒ぎになった子、見た?」

 

「白髪で赤い目の子でしょ? 刀持ってたって」

 

「ヴァルキューレが探してるらしいよ」

 

「名前、なんだっけ。しらきく……? あきの……?」

 

「白菊暁乃、って言ってたらしいよ。すごく綺麗な子だったって」

 

「それでヘイローないとか、ちょっと怖くない?」

 

 その名前を聞いた瞬間、少年――白菊暁乃は反射的に身を低くした。

 

 名まで知られている。

 

 あの駅で答えた名前が、もう人の口に乗っている。

 

 ここで立ち止まれば、すぐに見つかる。

 

 暁乃は人の流れから外れ、広場の端へ向かった。

 

 そこには店が並んでいた。

 

 透明な扉が勝手に開く店。

 小さな箱の前で、薄い板をかざすだけで買い物を済ませる客。

 壁に据えられた機械が、光る画面とともに商品を売っている。

 

 暁乃はその前で足を止めた。

 

 水が売られていた。

 

 透明な容器に入った水。

 横には数字が光っている。

 

 百二十円。

 

 暁乃は一瞬、意味を取り違えたのかと思った。

 

 百二十円。

 

 水一つが。

 

 彼の知る感覚では、百円を超える金など軽々しく使うものではなかった。

 水を買うだけで、まともな家すら買えるのではないかと錯覚するほどの額だった。

 

 暁乃は機械の前で固まった。

 

 喉は渇いている。

 だが、百二十円など払えるはずがない。

 

 そもそも、彼の持っている銭がこの機械に通じるとも思えなかった。

 

 隣では、生徒らしき少女が何気なく薄い板をかざしていた。

 

 箱が澄んだ音を鳴らし、商品が落ちる。

 少女はそれを当然のように取り出し、蓋を開けようとして――そこで、暁乃に気づいた。

 

「あれ?」

 

 少女の目が丸くなる。

 

 白い髪。

 赤い目。

 白い服。

 抱え込むように持った黒い刀の包み。

 

 視線が暁乃の頭上へ上がる。

 

「……もしかして、駅の」

 

 次の瞬間、少女の表情に別の色が差した。

 驚きだけではない。

 一瞬、息を呑んで見入ってしまったような、そんな戸惑いだった。

 

「ほんとに……」

 

 暁乃は返事をしなかった。

 

 できなかった。

 

 少女が何かを言い切るより早く、彼は踵を返して走り出した。

 

「あっ、ちょっと!」

 

 背後で声がした。

 

 追ってくる気配はなかった。

 だが、もうそこにはいられなかった。

 

「……水が、百二十円」

 

 走りながら、暁乃はかすれた声で呟いた。

 

 値段だけではない。

 

 少女が手にしていた薄い板。

 周囲の者たちは、誰もが似たようなものを持っている。

 それを指で撫でると、光が変わる。

 誰かと話している者もいる。

 耳に小さな器具をつけ、誰もいない空間に向かって笑う者もいる。

 

 暁乃には、それが何なのか分からなかった。

 

 小さな鏡のようでもあり、帳面のようでもあり、遠くの誰かの声を運ぶ箱のようでもあった。

 

 便利なのだろう。

 

 恐ろしく便利なのだろう。

 

 けれど、彼には、魔法じみたものにしか見えなかった。

 

 その時、近くの広場に設置された大きな画面が明るく光った。

 

 絵が動く。

 

 人が話す。

 

 音が出る。

 

 暁乃は思わず身を引いた。

 

 芝居でも幻灯でもない。

 そこにいない者が、まるでそこにいるように喋っている。

 

 しかも、それを誰も不思議そうに見ていない。

 広場の人々は立ち止まりもせず、視線を向けることすらなく、その前を当たり前のように通り過ぎていく。

 

 頭の中が、少しずつ熱を持っていく。

 

 逃げねばならない。

 水が欲しい。

 場所が分からない。

 追われている。

 刀は抜けない。

 ここは日本ではない。

 だが、日本語は通じる。

 少女たちは銃を持っている。

 獣が歩いている。

 鉄の人が荷物を運んでいる。

 頭上に輪がある。

 自分にはない。

 

 思考が、まとまらない。

 

 暁乃は足を動かした。

 

 広場から離れる。

 大通りを避ける。

 追手の視線が届きにくい場所を探す。

 

 やがて、彼は建物の並びから少し外れた、人気のない細い通路へ入り込んだ。

 

 表通りの灯りが届きにくい裏路地だった。

 

 空気は少し湿っていて、冷えた石壁の匂いがした。

 奥には木箱が積まれ、使われていない看板が壁に立てかけられている。

 表の賑わいから切り離されたようでいて、それでも完全な静けさには遠く、遠くを走る車両の低い唸りや、どこかの戸が閉まる音が、壁越しにかすかに伝わってきた。

 

 暁乃はそこでようやく足を止めた。

 

 膝が震えていた。

 

 駅からどれほど走ったのか分からない。

 街のどこまで来たのかも分からない。

 

 息を整えようとしたが、うまくいかなかった。

 

 喉が渇いている。

 腹も空いている。

 頭の奥がぼんやりする。

 

 彼は壁に背を預け、そのままずるずると座り込んだ。

 

 黒い刀の包みだけは、最後まで腕の中に抱えていた。

 

「……師匠」

 

 声が漏れた。

 

 いつもなら、すぐに姿勢を正しただろう。

 弱音を吐く前に、考えるべきことを考えたはずだった。

 

 だが、その時の暁乃には、もう余裕がなかった。

 

「俺は……どこへ来てしまったのでしょうか」

 

 返事はない。

 

 あるはずがない。

 

 それでも、問いかけずにはいられなかった。

 

 暁乃は震える指で懐を探った。

 

 小さな写真が入っている。

 

 大切に紙に包み、何度も濡れないよう守ってきたものだった。

 

 彼はそれを取り出す。

 

 そこには、女性と幼い暁乃が写っていた。

 

 暁乃が十になった頃の写真だった。

 

 女性は椅子に腰かけている。

 背筋を伸ばし、薄く微笑み、片手を暁乃の肩に置いている。

 

 写真の中の暁乃は、今よりさらに幼かった。

 硬い表情。

 まだあどけなさの残る輪郭。

 けれど、女性の手が肩に触れているせいか、ほんの少しだけ安心した顔をしている。

 

 その写真を撮った日のことを、暁乃は覚えていた。

 

 色のない紙の上からでも、肩に置かれていた手の感触だけは、なぜかすぐに思い出せた。

 

 師匠が珍しく外出を促した日だった。

 

 暁乃にとっての「育った町」は、あの家を中心にした、ごく狭い世界だった。

 その外側に広がる街を知ってはいても、それはいつも師匠と共に見る景色だった。

 

 東京の町へ出て、写真館に入り、慣れない椅子に座らされ、じっとしていなさいと言われた。

 

 暁乃は緊張していた。

 

 師匠は楽しそうだった。

 

 

 

 ⸻

 

 

 

「そんな顔をしなくてもよいでしょう」

 

 写真館の椅子に座らされた暁乃を見て、師匠は静かに笑った。

 

「……顔、でございますか」

 

「ええ。まるで敵陣に斬り込む前の顔です」

 

「写真とは、魂を抜かれるものではないのですか」

 

「それを本気で信じているなら、今すぐ帰りましょうか」

 

「……いえ」

 

 暁乃は少しだけ背筋を伸ばした。

 

「師匠が望まれるなら、俺は構いませぬ」

 

「そういう言い方をすると、私がひどい女みたいですね」

 

 師匠はそう言って、細い指で暁乃の髪を整えた。

 

 白い髪が、写真館の窓から入る光を受けて淡く光る。

 

「じっとしていなさい」

 

「はい」

 

「瞬きも少し我慢なさい」

 

「はい」

 

「それから、そんなに力を入れない」

 

「……はい」

 

 師匠の手が、暁乃の肩へ置かれた。

 

 その手は冷たくもなく、熱くもなく、いつものように静かだった。

 

「師匠」

 

「何です」

 

「なぜ、写真を撮るのですか」

 

 師匠は少しだけ間を置いた。

 

「形に残しておきたい日もあるものです」

 

「今日を、ですか」

 

「ええ」

 

「今日は、特別な日なのですか」

 

「お前が十になりました」

 

「それだけでございますか」

 

「それだけ、とは言いません」

 

 師匠は暁乃の肩に置いた手へ、少しだけ力を込めた。

 

「子供が十まで生きるというのは、たいしたことなのですよ」

 

 暁乃は、その意味をよく分かっていなかった。

 

 ただ、師匠の声がいつもより少し柔らかいことだけは分かった。

 

「それに」

 

「はい」

 

「お前は本当に綺麗ですから」

 

 暁乃は目を伏せた。

 

「男に、そのような言葉は」

 

「似合わない?」

 

「……はい」

 

「では、似合うように生きなさい」

 

 師匠は笑う。

 

「白い髪、赤い目、白い肌。隠しても目立つなら、隠すだけ無駄です。ならば、堂々としていればよい」

 

「堂々と」

 

「ええ。綺麗なものは、下を向いていると少し勿体ない」

 

 暁乃は困った。

 

 困ったまま、しかし逃げることはできず、ただ師匠の手の温度を肩に感じていた。

 

 写真師が声をかける。

 

 動かないでください、と。

 

 暁乃は息を止めた。

 

 師匠の指が肩にある。

 

 それだけで、不思議と落ち着いた。

 

 写真の中の自分がわずかに安心した顔をしているのは、きっとそのせいだった。

 

 

 

 ⸻

 

 

 

 裏路地の湿った空気の中で、暁乃は写真を握りしめた。

 

 あの日の光。

 写真師の声。

 師匠の指先。

 彼女の香り。

 家へ戻る道。

 

 すべてが、急に遠くなった。

 

 それと重なるように、もう一つ別の白い影が脳裏をかすめた。

 

 列車の中で出会った、あの女。

 

 師匠とはまるで違うのに、なぜか同じように、自分へ何かを託そうとしていた人。

 

 暁乃は写真を強く握りしめた。

 

 思い出すなら、順に思い出さねばならない気がした。

 

 自分がどこから来て。

 何を失い。

 どうしてここへ流れ着いたのか。

 

「……師匠」

 

 声が、少しだけ震えた。

 

「助けて、ください」

 

 言ってから、自分で息を呑んだ。

 

 そんなことを言ったのは、いつ以来だろう。

 

 師匠なら、きっと叱ったかもしれない。

 

 あるいは、静かに笑ったかもしれない。

 

 ――困った子ですね。

 

 そんな声が聞こえた気がした。

 

「……紫乃様」

 

 その名を口にした瞬間、暁乃の胸の奥が痛んだ。

 

 師匠の名。

 

 白菊紫乃。

 

 口にすればするほど、もうそこにいないことを思い知らされる名前だった。

 

 暁乃は目を閉じた。

 

 裏路地の喧騒も、見知らぬ街の灯りも、遠くの機械音も、少しずつ薄れていく。

 

 代わりに浮かんだのは、自分が育った、あの家の気配だった。

 

 それは東京府の郊外にある一軒の家だった。

 

 細い道。

 竹垣。

 古い木戸。

 白菊の咲く庭。

 奥にある小さな稽古場。

 

 そして、夜のように美しい女。

 

 白菊紫乃。

 

 暁乃にとって、師であり、親であり、この世で最初に「帰る場所」と呼べる人だった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。