駅から逃げ出した時、少年はまだ、自分がどこにいるのか分かっていなかった。
下関ではない。
それだけは分かった。
だが、それ以外のことは何一つ分からなかった。
駅の外には、大きな広場が広がっていた。
地下から地上へ出た途端、視界が開けた。
高い建物。
見たこともない形の灯り。
壁一面に貼られた鮮やかな看板。
空をゆっくり進む飛行船のようなもの。
道路を滑るように走る車両。
そのどれもが、少年の知る街の姿とは違っていた。
人力車はいない。
馬車も見えない。
路面電車とも違う箱のような乗り物が、音も少なく道を走っている。
その車両の窓は大きく、車体は妙に滑らかで、色も形も整いすぎていた。
まるで職人が一つ一つ手で作り上げたものというより、どこか別の理屈で生まれたもののように見えた。
少年は息を切らしながら、人の流れに紛れようとした。
だが、すぐに無理だと分かった。
目に入る者の多くが、女だった。
年若い女。
彼より少し年上に見える女。
大人に近い背丈の女。
そのほとんどが、頭上に光の輪を浮かべている。
男は、見当たらなかった。
そして、そもそも人でない者もいる。
二本足で歩く犬のような者。
猫のような顔をした者。
鉄でできた人形のような者。
それらが、誰にも驚かれることなく、荷物を運び、店先で話し、路地を歩いている。
少年の足が一瞬止まりかける。
ここは日本ではないのか。
それとも、自分の知らない日本なのか。
東京から下関へ向かう列車に乗ったはずだった。
だが目覚めた先は、東方三番街広場という駅だった。
山海経自治区という聞いたこともない名があり、百鬼夜行という怪異譚のような言葉が、学園の名として口にされていた。
言葉は通じる。
文字も、読めるものはある。
けれど、世界そのものが通じていない。
その時、不意に、胸の奥がざわめいた。
列車の中。
あの妙に静かな車両。
自分のいる場所だけが切り取られたように人の気配がなく、ただ低く滑るような音だけが響いていた、不明瞭な空間。
そして、あの女。
白く、静かで、どこか遠い女。
少女のようにも見えたが、その瞳には、暁乃が知らぬほど長い時間と、深い悔いが沈んでいた。
『……お願いします』
声だけが、ふいに蘇る。
『助けてください』
何を。
誰を。
聞き返したかったはずなのに、あの時は言葉が喉の奥でほどけて、声にはならなかった。
『私を』
『みんなを』
『キヴォトスを』
キヴォトス。
そうだ。
あの女は、確かにそう言った。
下関でも東京でもない、この見知らぬ場所の名を。
夢ではなかったのか。
いや、夢にしては、あまりに声が鮮やかすぎた。
胸の奥には、最後に抱きしめられた時のぬくもりまで、まだ薄く残っている気がした。
『……暁乃くん、お願いします』
あの声が、自分をここへ連れてきたのだろうか。
分からない。
分からないが、少なくとも一つだけは確かだった。
この場所は、偶然たどり着いたどこかではない。
あの女が口にした、キヴォトスという場所なのだ。
「……どうなって、いるのですか」
呟きは、人混みと車両の音に呑まれた。
背後から、遠く声が聞こえる。
「ねえ、さっき駅で騒ぎになった子、見た?」
「白髪で赤い目の子でしょ? 刀持ってたって」
「ヴァルキューレが探してるらしいよ」
「名前、なんだっけ。しらきく……? あきの……?」
「白菊暁乃、って言ってたらしいよ。すごく綺麗な子だったって」
「それでヘイローないとか、ちょっと怖くない?」
その名前を聞いた瞬間、少年――白菊暁乃は反射的に身を低くした。
名まで知られている。
あの駅で答えた名前が、もう人の口に乗っている。
ここで立ち止まれば、すぐに見つかる。
暁乃は人の流れから外れ、広場の端へ向かった。
そこには店が並んでいた。
透明な扉が勝手に開く店。
小さな箱の前で、薄い板をかざすだけで買い物を済ませる客。
壁に据えられた機械が、光る画面とともに商品を売っている。
暁乃はその前で足を止めた。
水が売られていた。
透明な容器に入った水。
横には数字が光っている。
百二十円。
暁乃は一瞬、意味を取り違えたのかと思った。
百二十円。
水一つが。
彼の知る感覚では、百円を超える金など軽々しく使うものではなかった。
水を買うだけで、まともな家すら買えるのではないかと錯覚するほどの額だった。
暁乃は機械の前で固まった。
喉は渇いている。
だが、百二十円など払えるはずがない。
そもそも、彼の持っている銭がこの機械に通じるとも思えなかった。
隣では、生徒らしき少女が何気なく薄い板をかざしていた。
箱が澄んだ音を鳴らし、商品が落ちる。
少女はそれを当然のように取り出し、蓋を開けようとして――そこで、暁乃に気づいた。
「あれ?」
少女の目が丸くなる。
白い髪。
赤い目。
白い服。
抱え込むように持った黒い刀の包み。
視線が暁乃の頭上へ上がる。
「……もしかして、駅の」
次の瞬間、少女の表情に別の色が差した。
驚きだけではない。
一瞬、息を呑んで見入ってしまったような、そんな戸惑いだった。
「ほんとに……」
暁乃は返事をしなかった。
できなかった。
少女が何かを言い切るより早く、彼は踵を返して走り出した。
「あっ、ちょっと!」
背後で声がした。
追ってくる気配はなかった。
だが、もうそこにはいられなかった。
「……水が、百二十円」
走りながら、暁乃はかすれた声で呟いた。
値段だけではない。
少女が手にしていた薄い板。
周囲の者たちは、誰もが似たようなものを持っている。
それを指で撫でると、光が変わる。
誰かと話している者もいる。
耳に小さな器具をつけ、誰もいない空間に向かって笑う者もいる。
暁乃には、それが何なのか分からなかった。
小さな鏡のようでもあり、帳面のようでもあり、遠くの誰かの声を運ぶ箱のようでもあった。
便利なのだろう。
恐ろしく便利なのだろう。
けれど、彼には、魔法じみたものにしか見えなかった。
その時、近くの広場に設置された大きな画面が明るく光った。
絵が動く。
人が話す。
音が出る。
暁乃は思わず身を引いた。
芝居でも幻灯でもない。
そこにいない者が、まるでそこにいるように喋っている。
しかも、それを誰も不思議そうに見ていない。
広場の人々は立ち止まりもせず、視線を向けることすらなく、その前を当たり前のように通り過ぎていく。
頭の中が、少しずつ熱を持っていく。
逃げねばならない。
水が欲しい。
場所が分からない。
追われている。
刀は抜けない。
ここは日本ではない。
だが、日本語は通じる。
少女たちは銃を持っている。
獣が歩いている。
鉄の人が荷物を運んでいる。
頭上に輪がある。
自分にはない。
思考が、まとまらない。
暁乃は足を動かした。
広場から離れる。
大通りを避ける。
追手の視線が届きにくい場所を探す。
やがて、彼は建物の並びから少し外れた、人気のない細い通路へ入り込んだ。
表通りの灯りが届きにくい裏路地だった。
空気は少し湿っていて、冷えた石壁の匂いがした。
奥には木箱が積まれ、使われていない看板が壁に立てかけられている。
表の賑わいから切り離されたようでいて、それでも完全な静けさには遠く、遠くを走る車両の低い唸りや、どこかの戸が閉まる音が、壁越しにかすかに伝わってきた。
暁乃はそこでようやく足を止めた。
膝が震えていた。
駅からどれほど走ったのか分からない。
街のどこまで来たのかも分からない。
息を整えようとしたが、うまくいかなかった。
喉が渇いている。
腹も空いている。
頭の奥がぼんやりする。
彼は壁に背を預け、そのままずるずると座り込んだ。
黒い刀の包みだけは、最後まで腕の中に抱えていた。
「……師匠」
声が漏れた。
いつもなら、すぐに姿勢を正しただろう。
弱音を吐く前に、考えるべきことを考えたはずだった。
だが、その時の暁乃には、もう余裕がなかった。
「俺は……どこへ来てしまったのでしょうか」
返事はない。
あるはずがない。
それでも、問いかけずにはいられなかった。
暁乃は震える指で懐を探った。
小さな写真が入っている。
大切に紙に包み、何度も濡れないよう守ってきたものだった。
彼はそれを取り出す。
そこには、女性と幼い暁乃が写っていた。
暁乃が十になった頃の写真だった。
女性は椅子に腰かけている。
背筋を伸ばし、薄く微笑み、片手を暁乃の肩に置いている。
写真の中の暁乃は、今よりさらに幼かった。
硬い表情。
まだあどけなさの残る輪郭。
けれど、女性の手が肩に触れているせいか、ほんの少しだけ安心した顔をしている。
その写真を撮った日のことを、暁乃は覚えていた。
色のない紙の上からでも、肩に置かれていた手の感触だけは、なぜかすぐに思い出せた。
師匠が珍しく外出を促した日だった。
暁乃にとっての「育った町」は、あの家を中心にした、ごく狭い世界だった。
その外側に広がる街を知ってはいても、それはいつも師匠と共に見る景色だった。
東京の町へ出て、写真館に入り、慣れない椅子に座らされ、じっとしていなさいと言われた。
暁乃は緊張していた。
師匠は楽しそうだった。
⸻
「そんな顔をしなくてもよいでしょう」
写真館の椅子に座らされた暁乃を見て、師匠は静かに笑った。
「……顔、でございますか」
「ええ。まるで敵陣に斬り込む前の顔です」
「写真とは、魂を抜かれるものではないのですか」
「それを本気で信じているなら、今すぐ帰りましょうか」
「……いえ」
暁乃は少しだけ背筋を伸ばした。
「師匠が望まれるなら、俺は構いませぬ」
「そういう言い方をすると、私がひどい女みたいですね」
師匠はそう言って、細い指で暁乃の髪を整えた。
白い髪が、写真館の窓から入る光を受けて淡く光る。
「じっとしていなさい」
「はい」
「瞬きも少し我慢なさい」
「はい」
「それから、そんなに力を入れない」
「……はい」
師匠の手が、暁乃の肩へ置かれた。
その手は冷たくもなく、熱くもなく、いつものように静かだった。
「師匠」
「何です」
「なぜ、写真を撮るのですか」
師匠は少しだけ間を置いた。
「形に残しておきたい日もあるものです」
「今日を、ですか」
「ええ」
「今日は、特別な日なのですか」
「お前が十になりました」
「それだけでございますか」
「それだけ、とは言いません」
師匠は暁乃の肩に置いた手へ、少しだけ力を込めた。
「子供が十まで生きるというのは、たいしたことなのですよ」
暁乃は、その意味をよく分かっていなかった。
ただ、師匠の声がいつもより少し柔らかいことだけは分かった。
「それに」
「はい」
「お前は本当に綺麗ですから」
暁乃は目を伏せた。
「男に、そのような言葉は」
「似合わない?」
「……はい」
「では、似合うように生きなさい」
師匠は笑う。
「白い髪、赤い目、白い肌。隠しても目立つなら、隠すだけ無駄です。ならば、堂々としていればよい」
「堂々と」
「ええ。綺麗なものは、下を向いていると少し勿体ない」
暁乃は困った。
困ったまま、しかし逃げることはできず、ただ師匠の手の温度を肩に感じていた。
写真師が声をかける。
動かないでください、と。
暁乃は息を止めた。
師匠の指が肩にある。
それだけで、不思議と落ち着いた。
写真の中の自分がわずかに安心した顔をしているのは、きっとそのせいだった。
⸻
裏路地の湿った空気の中で、暁乃は写真を握りしめた。
あの日の光。
写真師の声。
師匠の指先。
彼女の香り。
家へ戻る道。
すべてが、急に遠くなった。
それと重なるように、もう一つ別の白い影が脳裏をかすめた。
列車の中で出会った、あの女。
師匠とはまるで違うのに、なぜか同じように、自分へ何かを託そうとしていた人。
暁乃は写真を強く握りしめた。
思い出すなら、順に思い出さねばならない気がした。
自分がどこから来て。
何を失い。
どうしてここへ流れ着いたのか。
「……師匠」
声が、少しだけ震えた。
「助けて、ください」
言ってから、自分で息を呑んだ。
そんなことを言ったのは、いつ以来だろう。
師匠なら、きっと叱ったかもしれない。
あるいは、静かに笑ったかもしれない。
――困った子ですね。
そんな声が聞こえた気がした。
「……紫乃様」
その名を口にした瞬間、暁乃の胸の奥が痛んだ。
師匠の名。
白菊紫乃。
口にすればするほど、もうそこにいないことを思い知らされる名前だった。
暁乃は目を閉じた。
裏路地の喧騒も、見知らぬ街の灯りも、遠くの機械音も、少しずつ薄れていく。
代わりに浮かんだのは、自分が育った、あの家の気配だった。
それは東京府の郊外にある一軒の家だった。
細い道。
竹垣。
古い木戸。
白菊の咲く庭。
奥にある小さな稽古場。
そして、夜のように美しい女。
白菊紫乃。
暁乃にとって、師であり、親であり、この世で最初に「帰る場所」と呼べる人だった。