白菊暁乃は、自身がいつどこで生まれたのかを知らなかった。
母の名も、父の顔も知らない。
ただ、自分が最初から誰かに望まれていた子ではなかったのだろう、ということだけは、幼い頃から何となく分かっていた。
白い髪。
赤い目。
雪のように色の薄い肌。
それが人目を引くことも、時に不吉なものを見るような目を向けられることも、暁乃は早くから知っていた。
おそらく、その姿ゆえに忌まれたのだろう。
あるいは、抱えきれぬものとして手放されたのだろう。
けれど、紫乃はそのことを詳しく語らなかった。
捨てられたのだとも、憐れむべきだとも言わなかった。
ただ暁乃に名を与え、食事を与え、刀を与え、帰る場所を与えた。
彼が自分というものをはっきり覚えている頃には、すでに東京府の郊外にある一軒の家で暮らしていた。
人里から遠く離れているわけではない。
それでも、町の喧騒からは少し外れた場所だった。
細い道を抜け、竹垣と古い木戸を過ぎた先。
庭には白菊が植えられ、奥には小さな稽古場があった。
世間から隠れている、というほど大袈裟ではない。けれど、そこに住む女は明らかに人目を避けていた。
女の名は、白菊紫乃。
暁乃にとって、師であり、親であり、この世で最初に「帰る場所」と呼べる人だった。
紫乃が暁乃をどこで拾ったのか、彼は詳しく聞かされたことがない。
ただ一度、幼い暁乃が尋ねた時、紫乃は縁側で煙管を手にしたまま、静かに答えた。
「あなたは、雨の夜に泣いていました」
「俺が、ですか」
「ええ。けれど、雨音に消えてしまいそうな、細い声でした。まるで、泣くことまで遠慮しているようで」
「師匠が、拾ってくださったのですか」
「拾った、という言い方はあまり綺麗ではありませんね」
紫乃は煙管の先を軽く揺らし、薄く笑った。
「けれど、まあ……夜に落ちていた白い花を、手折らずに連れ帰った。そう言えば、少しは聞こえがよいでしょう」
「白い花、でございますか」
「ええ。雨に濡れて、泥に触れて、それでも妙に綺麗でした」
「俺は、花ではございません」
「知っています」
紫乃は楽しそうに目を細めた。
「けれど、たとえが美しい方が、聞いている方も少し救われるでしょう」
それ以上は教えてくれなかった。
紫乃は、そういう人だった。
優しい。
だが、甘くはない。
美しい。
だが、その美しさには、どこか刃物のような静けさがあった。
彼女の美しさは、町で見かける華やかな女たちのそれとは違っていた。
透き通るような白い肌。
夜を溶かしたような黒髪。
細い首筋。
静かな目元。
立っているだけで、どこか人ではないものがそこに紛れているような気配があった。
艶やかで、清らかで、どこか恐ろしい。
暁乃にとって紫乃は、美しい人というより、夜の静けさが人の形を取ったような存在だった。
⸻
剣を握るということは、暁乃にとって、物心がついた頃から日々の一部だった。
いつ始まったのかを思い出すより先に、畳の匂いと、冬の朝の冷たさと、目の前に立つ紫乃の白い指を覚えている。
「暁乃」
紫乃はいつも、彼の名を静かに呼んだ。
怒鳴ることはなかった。
けれど、その声には不思議な強さがあった。
「剣は、己を大きく見せるために振るうものではありません」
「はい、師匠」
「人を従わせるためでも、誇るためでも、奪うためでもない」
紫乃は、黒い鞘に収まった刀を暁乃の前に置いた。
鞘も、柄も、鍔も、そして刃までもが黒い刀。
幼い暁乃は、それを夜の欠片のようだと思った。
紫乃の持つ夜が、形を得てそこに横たわっているように見えた。
「では、何のために振るうのでしょうか」
暁乃が問うと、紫乃は少しだけ笑った。
「それを一生考えなさい」
「教えてはくださらないのですか」
「教えられた答えなど、いざという時には役に立ちません」
紫乃は、黒い刀を指先で撫でる。
「自分で選びなさい、暁乃。選べない者に、刃を持つ資格はありません」
答えはくれなかった。
紫乃の剣は、暁乃が知るどんなものより静かだった。
稽古場で紫乃が刀を抜くと、風の流れが変わる。
足音はほとんどなく、振るわれた刃は目で追うより先に終わっている。
斬られた藁束は、倒れるまで自分が斬られたことに気づいていないように見えた。
その静けさを、暁乃は毎日見上げて育った。
そして、見上げているうちに、自分の体にも少しずつ剣が染み込んでいった。
⸻
暁乃は強かった。
少なくとも、世間一般の荒事で彼に敵う者はほとんどいなかった。
子供でありながら、大人の男を相手にしても怯まず、刃物を持つ相手にも冷静でいられた。
だが、それでも紫乃には届かなかった。
どれだけ稽古を積んでも、彼女の白い指先はすぐ目の前で暁乃の喉元を取る。
踏み込みを読まれ、呼吸を乱され、刀を抜く前に負ける。
「腕だけは育ちましたね」
紫乃はそう言った。
「ですが、まだ心が急いています」
「申し訳ございません」
「謝る前に、直しなさい」
「はい、師匠」
「お前は勝てる相手にほど、刃を急ぐ。勝てるからこそ、急いではなりません」
紫乃は身を屈め、暁乃の目を覗き込む。
「強い者が急げば、それはただの暴力になります。美しくありません」
「美しく、でございますか」
「ええ」
紫乃は微笑む。
「どうせ振るうなら、美しくありなさい。刃も、姿も、心も」
その言葉は、いつも重かった。
暁乃は、自分が弱いから紫乃の教えを守っているのではない。
世間に出れば、自分の剣が十分すぎるほど通じてしまうことを知っていた。
だからこそ、紫乃の言いつけは重かった。
抜けば勝てる。
勝てるからこそ、抜いてはならない。
それを彼女は、暁乃の体に染み込ませた。
⸻
紫乃が暁乃に教えたのは、剣だけではなかった。
字を読むこと。
文を書くこと。
書かれた言葉の裏にある意図を拾うこと。
帳面をつけること。
金の扱い。
人に礼を尽くす作法。
初対面の相手と話す時の間合い。
食事の仕方。
客を迎える時の振る舞い。
人の家に上がる時の所作。
目上の者への言葉。
女に年を尋ねてはならぬという、冗談めいた忠告まで。
紫乃は、世間から離れて暮らしていながら、暁乃が世間で生きていけるように育てた。
「剣だけで生きる者は、剣に頼りすぎます」
紫乃はよく言った。
「人と話しなさい。字を読みなさい。相手の困りごとを知りなさい。己の腹だけでなく、人の腹具合も見なさい」
「腹具合、でございますか」
「ええ。人は空腹だと、だいたい碌なことをしません」
紫乃は澄ました顔でそんなことを言う。
「それに、腹を満たす術を知っている者は強いのです。刃より先に飯を出せる者は、なかなか侮れませんよ」
「飯で、刃に勝てるのですか」
「勝てる時もあります」
紫乃は当然のように答えた。
「空腹の者に説教をしても、耳には入りません。まず食べさせる。話はその後です」
「では、剣より飯の方が大切な時もあるのですね」
「ええ。ようやく一つ賢くなりましたね」
暁乃は真面目に頷いた。
母の記憶はない。
父の顔も知らない。
暁乃にとって、人の形をした世界の中心は、いつも紫乃だった。
彼女は夜になると、縁側で煙管を吸った。
細い指に挟まれた煙管の先から、白い煙が薄く伸びる。
それが月明かりに溶けていく様子を、暁乃はよく隣で眺めていた。
「師匠」
「何です」
「煙は、美味しいのですか」
紫乃は暁乃を見下ろし、少し意地悪く笑った。
「子供には、まだ早いものです」
「俺は、いつか吸えるようになりますか」
「大人になれば」
「大人とは、いつからでしょうか」
「自分の弱さを、人のせいにしなくなった時から」
暁乃はその意味を、よく分かっていなかった。
それでも頷いた。
「では、俺は早く大人になります」
「急がなくてよろしい」
紫乃は煙を吐き、夜空を見た。
「子供でいられる時間は、短いものですから」
その横顔を、暁乃はよく覚えている。
ある日、紫乃は暁乃の髪に触れた。
白い髪。
陽に透けると、ほとんど銀にも見える髪だった。
暁乃の肌は紫乃に似て白く、瞳は赤かった。
それがどうしてなのか、暁乃は知らない。紫乃も語らなかった。
ただ、紫乃は時折、からかうように言った。
「お前は、本当に綺麗ですね」
暁乃は困った。
「男に、そのような言葉は似合いませぬ」
「あら。綺麗なものを綺麗と言って、何が悪いのです」
「ですが」
「白い髪に、赤い目。雪の中に灯った火のようです。隠すには惜しい」
「……師匠」
「ならば、強くなりなさい」
紫乃は細い指で、暁乃の額を軽く弾いた。
「綺麗で、強いなら、誰にも文句は言われません」
「……はい、師匠」
「それでも文句を言う者がいたら」
「いたら?」
「適当に聞き流しなさい」
暁乃は真面目に頷いた。
紫乃は、それを見て少しだけ笑った。
⸻
そうした日々が、ずっと続くものだと暁乃は思っていた。
朝に稽古をして、昼に読み書きを学び、夜には縁側で紫乃の煙を眺める。
季節が巡っても、年を重ねても、その形だけは変わらないのだと、幼い暁乃はどこかで信じていた。
紫乃の死は、突然だった。
あまりにも静かで、暁乃は最初、それが死だと分からなかった。
前の日も、二人はいつも通りに過ごした。
朝、暁乃は庭を掃き、井戸から水を汲んだ。
紫乃は稽古場で待っていた。
「肩に力が入りすぎています」
「はい」
「力で斬ろうとするなと、何度言えば分かるのです」
「申し訳ございません」
「謝る前に、直しなさい」
「はい、師匠」
稽古はいつもより短かった。
紫乃は途中で少し咳をした。
暁乃が心配して近づくと、彼女は手で制した。
「大事ありません」
「ですが」
「心配そうな顔をすると、お前はますます幼く見えますね」
「……申し訳ございません」
「謝らなくてよいのです。可愛らしい、と言っているのですから」
紫乃はいつものように笑った。
そう言われれば、暁乃は引き下がるしかなかった。
昼には粥を食べた。
紫乃はいつもより少しだけ食が細かった。
けれど、それを暁乃に悟らせまいとするように、いつもと同じ声で彼の箸の持ち方を直した。
「急いで食べない」
「はい」
「食べ方には、その人の心が出ます」
「俺の心は、乱れておりますか」
「少しだけ」
「……申し訳ございません」
「だから、謝る前に直しなさい」
夕方、二人は縁側に座った。
紫乃は煙管を持っていたが、火はつけなかった。
暁乃はそのことに気づいた。
「今日は、吸わないのですか」
「たまには、夜気だけでも良いでしょう」
紫乃は空を見ていた。
その横顔は、いつもより遠くに見えた。
「暁乃」
「はい」
「もし私がいなくなっても」
唐突な言葉だった。
暁乃は顔を上げる。
「そのようなことを、仰らないでください」
「もしもの話です」
「もしもでも、嫌にございます」
紫乃は少し笑った。
「困った子ですね。そんな顔をされると、こちらが逝きそびれてしまいます」
「師匠」
「冗談です」
紫乃は、火のついていない煙管を指先で回した。
「では、聞き流しなさい。けれど、忘れてはなりません」
「……はい」
「剣を、人を傷つけるためだけに使ってはなりません」
「はい」
「己を粗末にしてもなりません」
「はい」
「人のためと言いながら、自分を数に入れぬことも、愚かなことです」
暁乃は、その言葉の意味を半分ほどしか分かっていなかった。
「覚えておきます」
「覚えるだけでは足りません」
「では」
「いつか、分かりなさい」
紫乃は静かに暁乃の髪を撫でた。
「お前は、いつか誰かのために無茶をするのでしょうね」
「俺は、師匠の教えを守ります」
「ええ。守りなさい」
紫乃は微笑む。
「けれど、教えを守ることと、自分を殺すことは違います。そこを間違えると、私は夢枕に立ちますよ」
「それは……困ります」
「でしょう。ですから、困らせないようにしなさい」
その夜、紫乃は早く休んだ。
暁乃は少し不安だったが、紫乃に「明日の朝、いつも通り起こしに来なさい」と言われ、従った。
⸻
翌朝。
暁乃はいつもの時刻に起きた。
井戸の水は冷たく、庭の空気は澄んでいた。
彼は顔を洗い、紫乃の部屋へ向かった。
「師匠」
障子の向こうへ声をかける。
返事はなかった。
眠っているのだろうか。
紫乃が朝に遅れることは、ほとんどなかった。
「師匠、朝にございます」
もう一度呼ぶ。
やはり、返事はない。
暁乃は胸の奥が少しだけ冷えるのを感じながら、障子を開けた。
紫乃は布団の中で静かに目を閉じていた。
眠っているように見えた。
あまりに穏やかで、あまりに綺麗だった。
暁乃は枕元に座り、彼女の名を呼んだ。
「師匠」
返事はなかった。
「紫乃様」
やはり、返事はなかった。
暁乃は彼女の手に触れた。
冷たかった。
その時になって初めて、暁乃は自分の世界の中心が消えたことを知った。
泣き声は出なかった。
ただ、息の仕方が分からなくなった。
白菊の家は、その朝から急に広くなった。
稽古場も、縁側も、台所も、紫乃の部屋も、すべてが同じ形で残っている。
だが、そこに紫乃はいない。
煙管もある。
黒い刀もある。
彼女が畳んだ衣も、読みかけの本もある。
何一つ消えていないのに、何もかもが失われていた。
⸻
葬儀を終えた後も、暁乃はしばらく家にいた。
朝、稽古をする。
昼、掃除をする。
夜、縁側に座る。
紫乃がいないだけで、すべてが別の場所のようだった。
稽古場に立てば、今にも障子の向こうから「肩に力が入りすぎています」と声がする気がした。
台所に立てば、箸の持ち方を直されるような気がした。
縁側に座れば、月明かりの中に薄い煙が立ちのぼるような気がした。
そのたびに暁乃は、知らず知らず耳を澄ませた。
障子の向こうに衣擦れの音がしないか。
庭の奥から、静かな足音が戻ってこないか。
名前を呼ぶ声が、ふと夜気に混じらないか。
けれど、聞こえるのは虫の声と、風に揺れる葉の音ばかりだった。
紫乃の声も、煙管の煙も、畳を踏む足音も、もうどこにもなかった。
ある夜、暁乃は紫乃の煙管を手に取った。
火をつけ、見よう見まねで口に含む。
次の瞬間、激しく咳き込んだ。
「……っ、げほっ……」
涙が滲んだ。
煙のせいなのか、他の何かのせいなのか、自分でも分からなかった。
「師匠……」
呼んでも、返事はない。
「っ、うぅ……しのっ、様っ……」
その夜、暁乃は初めて声を殺して泣いた。