白菊の家を離れることにしたのは、それから間もなくのことだった。
そこは暁乃にとって、ただの住処ではなかった。
雨の夜に拾われ、名を与えられ、剣を教わり、食事を取り、眠り、叱られ、褒められ、紫乃の声を聞きながら育った場所だった。
帰るべき場所。
そう呼べるものが、この世にあると暁乃に教えてくれた家だった。
だからこそ、そこに一人で残ることができなかった。
逃げたのではない。
そう自分には言い聞かせた。
ただ、朝になっても紫乃がいないことを、昼になっても紫乃が戻らないことを、夜になっても縁側に煙管の煙が立たないことを、毎日確かめ続けることに耐えられなかった。
暁乃は革の鞄を出した。
紫乃が以前、旅に使えるようにと用意してくれていたものだった。
そこへ最低限の着替え、手ぬぐい、少しの金、筆記具、紙に包んだ写真、そして紫乃の煙管を入れた。
黒い刀は、布で巻いて肩にかけられるようにした。
最後にもう一度だけ家の中を見回す。
畳。
障子。
台所。
稽古場へ続く廊下。
縁側から見える白菊の庭。
すべてが、昨日までと同じ姿で残っていた。
けれど、そのどこにも紫乃はいない。
「……行ってまいります」
誰に向けたものでもない挨拶を残し、暁乃は木戸を閉めた。
⸻
行く先に大きな目的はなかった。
最初は、東京府の外れを歩くだけのつもりだった。
けれど、一つ町を越え、川を渡り、峠道を歩き、見知らぬ宿場に泊まるうちに、足は少しずつ遠くへ伸びていった。
道中、人に頼まれれば荷を運んだ。
書き物ができぬ者のために代筆もした。
店先で帳面の数字が合わずに困っている者がいれば、横から手伝った。
山道で迷った親子を麓まで案内したこともある。
馬車の車輪がぬかるみに取られていれば押し、雨宿りの軒先で泣いている子供がいれば、黙って隣に座った。
そして、荒事に巻き込まれれば、刀を抜いた。
紫乃なら眉をひそめるようなことも、いくつかした。
ならず者の腕を打ったことがある。
刃物を振り回した男を地面へ転がしたこともある。
相手の命を奪わぬように加減はしたが、それでも、剣を人へ向けたことに変わりはなかった。
そのたびに暁乃は、自分へ言い聞かせた。
これは人助けだ。
師匠の教えから外れているのかもしれない。
けれど、見て見ぬふりはできない。
暁乃はよく働いた。
剣の腕は役に立った。
読み書きができることも役に立った。
礼を知っていることも、相手の言葉の裏を読むことも、紫乃に教わったものはすべて、旅先で彼を助けた。
それは皮肉でもあった。
紫乃のもとを離れた後も、暁乃を生かしているのは、紫乃から与えられたものばかりだった。
そうして得た金は、少年が持つには十分すぎる額になった。
紫乃が残してくれた金もあった。
白菊の家も、すぐには手放す必要がない。
暁乃は贅沢を好む性質ではなかったが、気づけば彼の手元には、相応にまとまった蓄えがあった。
⸻
東京へ戻ってきたのは、春の終わりだった。
その頃、暁乃は十二になっていた。
街は相変わらず騒がしかった。
人力車。
路面電車。
洋装の男女。
新聞売りの声。
どこか遠くから聞こえる汽笛。
家へ戻ることもできた。
けれど、すぐには足が向かなかった。
あの家には、師匠がいない。
それをもう一度確認する勇気が、まだなかった。
だから暁乃は、旅を続けることにした。
今度は荒事ではなく、ただの旅を。
誰かを助けるためでも、頼まれた荷を運ぶためでもない。
自分が遠くを見て、自分が知らない土地へ行き、自分の足ではなく大きな乗り物に身を任せるための旅。
自分のための休暇。
そう呼ぶには少し不格好だったが、他に言葉が見つからなかった。
⸻
東京駅は、暁乃の目にも立派だった。
赤い煉瓦の壁。
左右に大きく構えた建物。
高く広がる屋根。
人の流れを飲み込むような大きな玄関。
完成してからまだ長い年月は経っていない。
それでも駅は、すでに帝都の顔として堂々とそこに立っていた。
人々は忙しなく行き交い、駅員の声が響き、蒸気の匂いが空気に混じる。
遠くで汽笛が鳴るたび、暁乃の胸は少しだけ浮き立った。
東京へ戻ってきたものの、白菊の家へはまだ足が向かない。
ならば、どこかへ行こう。
そう思って駅へ来たはずだった。
けれど、行き先までは決めていなかった。
暁乃はしばらく構内を歩き、やがて時刻表の前で足を止めた。
黒い文字が並んでいる。
東京を発ち、各地へ向かう列車の名。
時刻。
行き先。
等級。
その中に、暁乃の目を引く文字があった。
東京発、下関行き。
特急一・二列車。
下関。
行ったことのない土地だった。
そこがどのような町なのか、どのような海が見えるのか、どのような人々が暮らしているのか、暁乃は何も知らない。
けれど、だからこそよかった。
知っている場所へ向かえば、どうしても白菊の家を思い出す。
紫乃と歩いた道を思い出す。
紫乃がいないことを、また確かめてしまう。
ならば、いっそ何も知らないほど遠くへ行ってみたかった。
暁乃は時刻表の前で、しばらく動かなかった。
特急。
普通の列車ではない。
限られた駅にだけ停まり、遠方へ向かう客を運ぶための特別な列車。
富裕な客や、長い旅路を急ぐ者たちが用いる、食堂車、展望車、そして寝台車を連ねた長距離列車。
東京から下関まで、二十時間を超える道中だという。
それほど長く列車に揺られるということが、暁乃には不思議なほど魅力的に思えた。
ただ目的地へ向かうのではない。
列車の中で食べ、景色を見て、夜を越え、知らない土地へ運ばれていく。
移動そのものが、一つの旅になる。
普段の暁乃であれば、身の丈に合わぬものとして遠ざけただろう。
だが、旅で得た金があった。
紫乃の残した蓄えもあった。
そして何より、その時の暁乃は、ただ遠くへ行ってみたかった。
二十時間を超える長い道中。
東京を離れ、夜を越え、知らぬ土地へ向かう時間。
それくらい長い旅ならば、もしかすると胸の中に残り続けているものも、少しは静まるかもしれない。
暁乃は切符売場へ向かった。
人々が窓口の前に並び、それぞれの行き先を告げている。
駅員の声。
金銭のやり取り。
切符に鋏を入れる音。
紙の擦れる音。
暁乃は少しだけ緊張しながら、自分の番を待った。
「下関まで」
そう告げる声は、思ったより小さくなった。
駅員は暁乃の姿を一度見た。
白い髪。
赤い瞳。
まだ幼い顔立ち。
そして背に負った革の鞄と、布で包まれた長い刀。
一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、すぐに仕事へ戻る。
「一等か、二等か」
問われて、暁乃は少し迷った。
高い。
分かっている。
だが、手元には旅で得た金がある。
紫乃の残した蓄えもある。
それに、これは自分のための旅なのだ。
そう思わなければ、きっといつまでも選べない。
「……一等で」
暁乃は答えた。
切符が渡される。
東京から下関ゆき
紙に記されたその文字を見た時、暁乃はようやく、自分が本当に遠くへ行くのだと実感した。
暁乃は切符を大切に懐へしまい、黒い刀を布で包み直し、革の鞄を背負い直してホームへ向かった。
やがて、下関行きの列車が視界に入る。
堂々とした客車の列。
窓の向こうに見える上等な座席。
食堂車の気配。
寝台車の標識。
暁乃は、思わず足を早めた。
大人びた振る舞いを心がけている少年ではあったが、この時ばかりは年相応の色が顔に出ていた。
目元がほんの少し明るくなり、客車のつくりを眺める視線にも熱がこもる。
「……これが」
小さく呟く。
誰に聞かせるためでもない。
ただ、声に出さずにはいられなかった。
食堂車では温かい料理が出るという。
寝台車では、揺れる列車の中で眠れるという。
展望車からは、走り去る景色を眺めることができるという。
列車の中で食べ、列車の中で眠り、夜を越えて遠くへ行く。
そのことが、暁乃にはひどく贅沢に思えた。
紫乃が生きていれば、きっと静かに笑っただろう。
――そんなに浮かれるものではありませんよ、暁乃。
そんな声が、ふと耳の奥に蘇る。
暁乃は少しだけ背筋を伸ばした。
「……失礼いたしました、師匠」
心の中で呟き、客車へ乗り込む。
⸻
列車が東京を離れる頃、窓の外には夕暮れが滲んでいた。
暁乃は質の良い座席に腰を下ろし、流れていく景色を眺めていた。
柔らかな座面。
磨かれた窓枠。
荷棚に収まった鞄。
通路を静かに行き交う客の気配。
線路の継ぎ目を刻む規則正しい揺れ。
車輪の音。
時折、どこかで響く連結部の軋み。
それらは旅の音だった。
窓には、夜へ向かう景色と一緒に、暁乃自身の姿が映っていた。
白い髪。
赤い瞳。
まだ幼さの残る輪郭。
膝の横には、黒い刀の包み。
紫乃は、綺麗だと言った。
だが、窓に映る自分を見ても、暁乃にはよく分からなかった。
ただ、そこに映る少年はどこか所在なげだった。
自分のための旅に出たはずなのに、どこへ向かえばよいのか分からない顔をしていた。
⸻
暁乃は食堂車にも足を運んだ。
白い卓布。
行き交う給仕。
皿に盛られた料理。
窓の外を流れる夜の灯り。
暁乃は何度か洋食器の扱いに戸惑った。
だが、周囲を見ながら、ぎこちなくも真面目に倣った。
温かな料理は、旅の疲れた体に染みた。
食堂車の灯りは明るく、そこだけが小さな社交場のようだった。
暁乃にはそれが少し眩しく、少し楽しかった。
食後には展望車へも行った。
走り去る線路。
遠ざかる灯り。
闇へ溶けていく町。
汽笛の音。
暁乃は手すりに触れ、しばらく言葉もなく景色を見ていた。
荒事でもなく、逃亡でもなく、誰かに頼まれた道行きでもない。
ただ遠くへ運ばれていく。
それは、暁乃が長く知らなかった感覚だった。
やがて彼は自分の席へ戻った。
寝台へ移るにはまだ少し早かった。
しばらく座席に腰を下ろし、窓の外を眺める。
夜の景色が流れていく。
見知らぬ町。
見知らぬ川。
見知らぬ闇。
「師匠」
声には出さない。
ただ、胸の内で呼んだ。
俺は、少し遠くへ行ってまいります。
返事はない。
それでも、暁乃は膝の横に置いた黒い刀の包みにそっと手を添えた。
布越しに伝わる硬さが、紫乃の手の代わりのようにそこにあった。
帰る場所を離れても、紫乃に教えられたものだけは、自分の中から消えていない。
そう思おうとした。
列車の揺れが、少しずつ意識をほどいていく。
音が遠ざかる。
車輪の響き。
線路の継ぎ目。
汽笛。
暁乃は、黒い刀の包みに手を添えたまま、座席で静かに眠りへ落ちていった。
⸻
眠りは深かった。
列車の揺れに身を任せているうちに、暁乃の意識は夜の底へ沈んでいった。
車輪の音も、客の声も、遠くで鳴る汽笛も、少しずつ水の向こう側のもののようにぼやけていく。
そして、どこかで音が変わった。
途切れたのではない。
止まったのでもない。
ただ、暁乃の知る列車の音ではなくなった。
目を覚ました。
正確には、意識だけが先に浮かび上がった。
暁乃は目を閉じたまま、何かがおかしいと感じた。
揺れが違う。
あの規則正しい継ぎ目の振動がない。
車輪が線路を叩く音も、聞こえ方がまるで違っていた。
代わりに、低く滑るような唸りが響いている。
蒸気機関車の息遣いではない。
客車の軋みでもない。
まるで目に見えない大きな力が、床下で静かに歌いながら、車両全体を滑らかに押し出しているようだった。
暁乃は目を開ける。
そこは、自分が乗ったはずの車両ではなかった。
壁も、床も、窓も、灯りも、まるで違う。
座席は見たことのない材質で、窓の形も、天井の光も、どこか現実味が薄い。
だが、列車であることだけは分かった。
そして、車内には誰もいなかった。
暁乃だけが座席に座っている。
通路の先には扉があり、その向こう、さらに連なった車両には人影が見える。
だが、彼のいる車両だけは、不自然なほど静かだった。
列車の中にいるはずなのに、そこだけが世界から切り離されたようだった。
目の前に、女が立っていた。
清らかな女だった。
年齢は分からない。
少女のようにも、彼よりずっと年上の者のようにも見えた。
白い髪。
静かな瞳。
触れれば消えてしまいそうなほど淡い気配。
だが、その存在感はあまりに深かった。
白く、静かで、どこか遠い。
その瞳には、暁乃が知らないほど長い時間と、深い悔いが沈んでいた。
「……私の、過ちでした」
女はそう言った。
暁乃は口を開きかけた。
あなたは誰なのか。
ここはどこなのか。
なぜ自分の名を知っているのか。
聞きたいことはいくつもあった。
けれど、言葉にはならなかった。
声が出ないわけではない。
身体が動かないわけでもない。
ただ、その場所はひどく不明瞭だった。
床も、窓も、座席も、輪郭が淡く揺れている。
低く滑るような音だけが、遠い水底から響くように耳へ届いていた。
ここで声を上げてよいのか。
問いを投げてよいのか。
暁乃には、それすら分からなかった。
女は、彼の沈黙を責めることなく続けた。
「私の選択。私の願い。私が見落としたもの」
「そして、それによって招かれた、これから起こりうる全ての悲劇」
静かな声だった。
けれど、その静けさは痛ましかった。
「私は、それを避けるために先生を呼びました」
「キヴォトスに必要な大人を」
「生徒たちの隣に立ち、選択し、責任を負ってくれる人を」
キヴォトス。
聞き慣れない響きだった。
国の名なのか、町の名なのか、何かの組織の名なのかすら分からない。
だが、女の声の中では、それはただの地名ではなかった。
守られるべきもの。
これから何かを失うかもしれないもの。
そして、暁乃がまだ知らぬまま巻き込まれていくもの。
そんな重さを帯びて聞こえた。
先生。
暁乃は、次にその言葉を胸の内で繰り返した。
師を指す言葉なら知っている。
人を教え、導く者をそう呼ぶことも知っている。
けれど、彼女の言う「先生」は、ただの呼び名ではないように思えた。
まるで、ひとりの人物の名を告げるように。
まるで、これから現れる誰かを、すでに世界が待っているかのように。
先生という人が、誰なのか。
暁乃には分からなかった。
それでも、女の声に込められた切実さだけは分かった。
「けれど、先生だけでは届かない場所があります」
女はゆっくりと目を伏せた。
「大人だからこそ届く場所があるように」
「大人ではないあなたにしか、届かない場所がある」
暁乃の指が、わずかに膝の上で動いた。
「白菊暁乃さん」
名を呼ばれる。
「あなたは、本来この世界の人ではありません」
「あなたには、あなたの時代があり、あなたの師がいて、あなたの帰るべき場所があった」
その言葉に、暁乃の胸が痛んだ。
雨音の中で聞いた紫乃の声。
稽古場の冷えた畳。
縁側に差し込む月明かり。
朝の井戸水の冷たさ。
自分の髪を整える白い指。
火のついていない煙管を持ったまま、遠くを見る横顔。
白菊の家で過ごしたものが、一瞬だけ鮮明に浮かび、すぐに遠のいた。
「それを、私は奪ってしまったのかもしれません」
女は、懺悔するように言った。
「あなたを巻き込むべきではなかった」
「あなたはまだ、責任などという言葉を背負う年齢ではないのでしょう」
「先生のように大人として立つことを求めるべきではない」
「まして、キヴォトスの行く末など……本来、あなたに託してよいものではありません」
暁乃は、何かを言おうとした。
違います、と言いたかったのか。
なぜ俺なのですか、と問いたかったのか。
それとも、ただ彼女の名前を聞きたかったのか。
自分でも分からなかった。
だが、言葉は喉の奥で形になる前に、列車の音へ溶けていった。
「それでも」
女は暁乃を見た。
「お願いします」
その声だけが、ほんの少し震えていた。
「助けてください」
暁乃は息を呑んだ。
「先生を」
「生徒たちを」
「私が守りきれなかったものを」
「これから失われるかもしれない、たくさんの明日を」
女の瞳が、まっすぐ暁乃に向けられる。
「助けてください」
「私を」
「みんなを」
「キヴォトスを」
再びその名が響いた。
キヴォトス。
暁乃はその言葉を知らない。
けれど、女がその名を口にするたび、その場所には多くの人がいて、多くの声があり、多くの明日があるのだと感じた。
まだ見たこともない。
知らない。
分からない。
それでも、そこに何かがあるのだとだけは分かった。
その言葉は、命令ではなかった。
祈りだった。
暁乃は、それを拒めなかった。
まだ何も知らない。
キヴォトスが何なのかも、先生が誰なのかも、生徒たちがどんな人々なのかも知らない。
それでも、目の前の女が何かを失いかけていることだけは分かった。
「あなたは、きっと多くの場所へ行くでしょう」
「多くの人に出会い、救い、そして救われるでしょう」
「けれど、どうか忘れないでください」
女は、祈るように言った。
「大事なのは、背負わされた運命ではありません」
「その時、何を選ぶかです」
列車の音が遠ざかる。
低く滑るような唸りも、車内の光も、彼女の輪郭も、少しずつ淡くなっていく。
「あなたが先生と出会った時」
「その人を守ってください」
「その人が背負いすぎる時は、支えてください」
「その人があなたを助けようとした時は……どうか、拒まないでください」
暁乃は、わずかに目を見開いた。
助けられる。
自分が。
その言葉だけが、胸に引っかかった。
「あなたは、誰かを救うためだけに来るのではありません」
「あなたもまた、救われるためにここへ来るのですから」
女の輪郭が淡くなっていく。
白い光が、車内を満たしていく。
暁乃は今度こそ声を出そうとした。
けれど、女の方が一歩早かった。
彼女は静かに近づき、暁乃を抱きしめた。
――あたたかい。
夢のように不確かな場所で、そこだけがはっきりと現実だった。
「……ごめんなさい」
耳元で、女が囁いた。
暁乃は動けなかった。
いや、動かなかった。
その腕を振りほどいてはいけない気がした。
女は、彼を抱きしめたまま、最後に言った。
「……暁乃くん、お願いします」
その声が胸の奥に沈んだ瞬間、暁乃の意識は深く暗転した。