次に目を覚ました時、暁乃は見知らぬ座席に座っていた。
車内は、やはり変わっていた。
自分が乗ったはずの車両ではない。
木の壁も、見慣れた灯りも、寝台もない。
広く、明るく、滑らかで、どこか清潔すぎる空間。
列車は走っている。
聞き慣れていたあの継ぎ目の振動がない。
低く途切れぬ唸りが、床下から静かに響いている。
時折、天井のどこかから澄んだ合図音が鳴った。
鐘とも笛とも違う。人の手で鳴らすものではなく、箱の中に閉じ込められた小さな音が勝手に震えているようだった。
暁乃は周囲を見回す。
彼のいる車両には、やはり誰もいなかった。
だが、前方の扉についた窓の向こうには、人影がある。
連なった次の車両には客が乗っているらしい。
耳の生えた少女が座席に腰かけ、別の者は手の中の薄い板を見つめていた。
そして、どの少女の頭上に、光があった。
輪のようなものだった。
髪飾りではない。
帽子でもない。
何かの紐で吊られているわけでもない。
淡く光る輪が、当然のように彼女の頭の上に浮かんでいる。
暁乃は思わず目を凝らした。
だが、車両の扉越しではそれ以上は分からない。
こちらの車両だけが、まるで空白のように空いている。
暁乃は、ゆっくりと窓の外を見た。
そこには、発展した街並みが広がっていた。
高い建物。
複雑に伸びる道路。
見たことのない車両。
空に掲げられた大きな表示。
遠くには、塔のようなものまで見える。
暁乃は言葉を失った。
「……下関は」
呟く。
「これほど、発展していたのでしょうか」
彼は、本気でそう思った。
東京から下関へ向かう列車に乗ったのだ。
ならば、目覚めた先が下関であると考えるのは自然だった。
だが、窓の外を流れる街は、彼の知るどの町とも違っていた。
横文字とも漢字ともつかない表示。
鮮やかな看板。
人々の服装。
そして、時折見える少女たちの頭上に浮かぶ光の輪。
あの輪。
先ほど、隣の車両に見えたものと同じだった。
暁乃は、それを最初、飾りか何かだと思った。
だが、誰の頭上にも自然に浮かんでいる。
それどころか、光は動いても落ちず、触れられてもいない。
暁乃は、窓に近づいた。
「……百鬼夜行」
脳裏に、幼い頃に聞いた怪異譚が浮かぶ。
異形の者たちが夜を練り歩くという、あの物語。
ここは、それに紛れ込んだのではないか。
彼は半ば本気で、そう考えた。
その時、天井から柔らかな声が降ってきた。
『まもなく終点、東方三番街広場、東方三番街広場です。お忘れ物のないようご注意ください』
暁乃は肩を跳ねさせた。
人の声だった。
だが、近くに人はいない。
声は車両の上から、壁から、どこからともなく響いている。
「……誰が」
暁乃は思わず天井を見上げた。
『山海経自治区方面へお越しのお客様は、東方門前通り連絡口、または三番街南口をご利用ください』
山海経。
それも、聞き慣れない言葉だった。
東方三番街広場。
山海経自治区方面。
下関ではない。
暁乃は、ようやくそれを認めざるを得なかった。
⸻
列車は、やがて終点に着いた。
速度が落ちていく。
床下の唸りが弱まり、やがて静かに止まる。
周囲の車両から、人々が立ち上がる気配がした。
荷物を持つ音。
談笑する声。
足音。
暁乃は刀の包みを抱え、座席から立ち上がった。
その時、扉の上で小さな音が鳴った。
次の瞬間、扉が左右へ滑るように開いた。
暁乃は思わず足を止めた。
誰も手をかけていない。
戸口に立つ者もいない。
それなのに、扉はまるで意思を持つもののように、何事もなく開いた。
周囲の客たちは、誰一人として驚いていない。
それが当然であるかのように、開いた扉からホームへ降りていく。
「……勝手に、開くのですか」
呟いた声は、車内のざわめきに紛れた。
暁乃は刀の包みを抱え、慎重にホームへ降りる。
そして、すぐにまた足を止めた。
今度は、乗っていた列車そのものを見たからだった。
彼が東京駅で乗ったのは、蒸気機関車に牽かれた客車列車だった。
先頭には黒い機関車があり、煙を吐き、息をするように蒸気を漏らしていた。客車は客車として連なり、引かれるものとしてそこにあった。
だが、目の前にある列車には、それがない。
汽車がない。
煙突もない。
煤の匂いもない。
前へ引いていくはずの黒い機関車が、どこにも見当たらない。
ただ、銀色の大きな箱がいくつも連なっていた。
どの車両にも窓があり、扉があり、どれも同じように客を乗せる箱に見える。
先頭も後ろも分からない。
客車ばかりが、見えない力でひとつながりになって走っているようだった。
床下からは、まだかすかに低い唸りが残っている。
それは蒸気の音ではない。
火と水と鉄が力を出している音ではない。
暁乃には、それが何で動いているのか分からなかった。
「……機関車は」
思わず探すように呟く。
けれど、答える者はいない。
周囲の客たちは、そんなことを気にする様子もなく、銀色の列車から降りていく。
暁乃だけが、取り残されたようにその車体を見上げていた。
そして、ようやく周囲へ目を向ける。
耳の生えた少女がいた。
獣の耳。
尻尾まである。
しかし、周囲の者たちは誰も驚いていない。
別の方には、二足で歩く動物のような存在がいた。
さらにその向こうでは、機械でできた人間のようなものが、荷物を運んでいる。
ホームの上には、光る板がいくつも吊られていた。
そこには行き先や時刻らしき文字が、淡い光で表示されている。
文字の一部は読める。だが、表示が勝手に切り替わるたび、暁乃は目を奪われた。
壁には色とりどりの広告やポスターが並んでいる。
絵は鮮やかで、字は大きく、まるで町そのものが人の目を奪おうとしているかのようだった。
人々の手には、薄い板がある。
彼女たちはそれを指で撫で、時折そこへ向かって話しかけ、光る画面を見て笑っている。
暁乃には、それが何なのか分からない。
小さな鏡にも見えた。
帳面にも見えた。
遠く離れた誰かの声を閉じ込めた箱のようにも見えた。
コンコースへ続く階段の横には、奇妙な段があった。
段そのものがゆっくり動き、人々を上へ運んでいる。
暁乃は目を見開いた。
階段が、人を運んでいる。
それもまた、周囲の者にとっては驚くことではないらしい。
少女たちは話しながらその動く段へ乗り、何の疑問も抱かず上へ流されていく。
暁乃は思わず一歩下がった。
「……本当に、百鬼夜行にございますか」
呟いた声は、駅の喧騒に紛れて消えた。
ホームの端に立つ少女たちは、当たり前のように銃を肩にかけていた。
暁乃はそこで初めて、胸の奥が冷えるのを感じた。
ここは下関ではない。
少なくとも、自分が知る日本ではない
⸻
ホームからコンコースへ向かうだけでも、暁乃には容易ではなかった。
どこを見ても、彼の知る駅とは違っている。
床は磨かれ、壁には光る板が並び、頭上からは人の声のような案内が降ってくる。
誰かが叫んでいるわけでも、駅員が声を張っているわけでもない。
けれど、声は確かに駅全体へ響いていた。
人々は迷いなく歩いていく。
薄い板を手にした少女たちが、その光る面を指で撫でながら通り過ぎる。
大きな荷を持った獣のような者が、当然の顔で通路を進む。
機械でできた人のようなものが、無機質な足音を立てて壁際を歩いている。
暁乃は、黒い刀を包んだ細長い布包みを両腕で抱え、革の鞄を背負ったまま、流れに逆らわぬよう慎重に歩いた。
出口はどこか。
切符は、どこで見せればよいのか。
目に入るもののほとんどは分からなかったが、それでも駅という場所である以上、出入りを見張る場所はあるはずだった。
やがて、人々が一定の列を作って通っている場所が見えた。
低い柵のようなものが並び、その間を通る者たちが、手にした薄い板や小さな札を機械へかざしている。
すると柵が開き、人々は何事もなく向こう側へ抜けていく。
暁乃には、その仕組みは分からない。
だが、その近くに、駅員らしい服を着た少女が立っていた。
帽子。
制服。
胸元の札。
色や形こそ見慣れぬものだったが、駅で人を案内し、切符を確かめる者の姿としては、彼の知る時代にも通じる面影があった。
ならば、あそこだ。
暁乃はそう判断した。
この奇妙な駅で、初めて自分の知るものに近い場所を見つけた気がして、ほんのわずかに息をつく。
そして、改札へ向かった。