最初の問題は、そこで起きた。
暁乃は持っていた切符を差し出した。
東京から下関までの切符。
彼にとっては当然、それで通れるはずだった。
だが、改札に立っていた駅員の少女は、切符を見るなり首を傾げた。
「……えっと、これは?」
「切符にございます」
「うん、それは分かるんだけど……どこの切符かな?」
少女の声は柔らかかった。
暁乃の背丈は、まだ高くない。
白い髪と赤い目。
白い肌。
細い体つき。
背には古めかしい革の鞄。
腕には、布で巻かれた細長い包み。
その包みを大事そうに抱えている姿は、奇妙ではあった。
だが、顔立ちだけを見れば、驚くほど整っていた。
白く、静かで、どこか硝子細工のように危うい。
駅員の少女は一瞬だけ、その顔をまじまじと見た。
どこか息を呑むような間があった。
けれど、すぐに仕事を思い出したように、もう一度切符へ目を戻す。
「東京より、下関まで」
「トーキョー? シモノセキ?」
少女は少し困ったように笑った。
「ごめんね、その駅名はこの路線にはないと思うんだけど……どこから来たのかな?」
「東京からにございます」
「えーっと……」
少女は切符をもう一度見る。
紙質も、印字も、彼女の知るものとは違っていた。
今の駅で使われる切符とは規格がまるで合わない。
だが、そこに書かれている文字は読めた。
「たしかに、トーキョー……シモノセキ……って書いてある、けど」
少女はますます困ったような顔になった。
「でも、東方三番街広場駅の切符じゃないね。連絡切符でもなさそうだし、改札機に通せる形式でもないし……そもそも、こんな切符、初めて見たかも」
「こちらは、下関ではございませんか」
「しものせき……?」
少女は本当に分からない、という顔をした。
「ここは東方三番街広場だよ。山海経自治区の外縁にある広域駅。東方文化圏方面へ行く人がよく使うところなんだけど……えっと、迷子かな?」
暁乃は答えられなかった。
山海経。
自治区。
広域駅。
単語の意味は、辛うじて拾える。
だが、彼の知る地理とは何一つ噛み合わなかった。
少女は少し身を乗り出す。
「大丈夫? どこの学園の子?」
「学園、でございますか」
「うん。学生証は持ってる?」
「学生証……」
「所属は?」
問いの意味が分からない。
暁乃は必死に答えようとした。
「俺は、白菊暁乃と申します。東京より下関へ向かう途中、気づけばこちらに」
少女が一瞬、目を瞬いた。
「……え、俺?」
それは咎める声ではなく、戸惑いそのものだった。
少女の知る「俺」という一人称は、書物や古い物語の中に出てくる男性の言葉だった。
少なくとも、目の前にいるような、白く整った顔立ちの小さな女の子が口にするものではない。
キヴォトスで男子という存在を実際に見ることは、ほとんどない。
物語や記録の中では知っていても、日常の中で耳にする一人称ではなかった。
それなのに、この子はごく自然にそう言った。
しかも、口調はひどく古風で、落ち着いている。
芝居の真似にも聞こえそうなのに、ふざけている様子はまるでない。
「う、うん……わかった、白菊ちゃん」
それでも駅員の少女は、まだ優しく接していた。
「ちょっと落ち着こうか。お家の人は? 迎えの人はいる?」
「……分かりませぬ」
「そっかぁ……」
少女は少し困ったように眉を下げた。
その時、彼女の視線が暁乃の頭上へ向いた。
「……あれ?」
「何か」
「白菊ちゃん、ヘイローは?」
「へいろー、でございますか」
「うん。頭の上の……えっと、輪っか」
輪。
その言葉で、暁乃はようやく思い至った。
少女たちの頭上に、当たり前のように浮かんでいた光。
飾りにも、冠にも見えず、それでいて誰も気に留めていなかった不可思議な輪。
あれを、ヘイローと呼ぶのか。
暁乃は自分の頭上を見上げようとして、当然何も見えないことに気づくだけだった。
「……ございません」
「ない、の?」
少女の声から、柔らかさが少し消えた。
「怪我してる? どこか痛い? 事故に遭ったとか……?」
「怪我は、しておりません」
「でも、ヘイローがないのは……」
その言葉を聞きつけたのか、周囲の視線が集まり始めた。
別の駅員らしい生徒が近づいてくる。
「どうしたの?」
「この子、切符がおかしいし、所属も分からないみたいで……それに、ヘイローがないの」
「ヘイローがない?」
その言葉で、空気が変わった。
数人の視線が一斉に暁乃の頭上へ向く。
暁乃には、その意味が分からない。
だが、彼女たちが何か異常なものを見る目をしていることだけは分かった。
「それに、ほら」
誰かが、暁乃の腕の中を指差した。
彼が抱えている布包みは、ただの荷物にしては長すぎた。
布で巻かれてはいても、細く伸びた形と、わずかな反りまでは隠しきれない。
暁乃は無意識に、それを抱く腕へ力を込めた。
「これは、刀?」
「この地区の子じゃないよね?」
「服装的に百鬼夜行の子? でもヘイローがないって……」
百鬼夜行。
その言葉に、暁乃は思わず目を上げた。
百鬼夜行とは、異形の者たちが夜を練り歩く怪異譚の名ではなかったか。
耳や尾を持つ少女。
二本足で歩く獣のような者。
鉄でできた人のようなもの。
頭上に光の輪を浮かべる者たち。
暁乃から見れば、この場にいる者たちこそが、まさに百鬼夜行の住人に思えた。
なのに彼女たちは、暁乃へ向かって問うている。
お前が百鬼夜行の者なのか、と。
そのことが、暁乃にはますます分からなかった。
「俺は……」
言いかけて、言葉が止まる。
自分は東京から来た。
下関へ向かっていた。
そう説明したところで、彼女たちには伝わらない。
暁乃は初めて、言葉が通じているのに、世界が通じていないのだと理解した。
「それに、この子……こんな物は持ってるのに、銃がないよ」
誰かがそう言った。
銃。
その言葉には、暁乃も覚えがあった。
この駅にいる少女たちの多くが、それらしきものを持っている。
だが、暁乃の知る銃とは随分違っていた。
木と鉄でできた無骨なものではない。
色が塗られ、飾りが付けられ、紐や小さな人形のようなものをぶら下げている者までいる。
まるで持ち主の好みに合わせて飾り立てられた道具のようだった。
それでも、銃は銃だった。
形も、構え方も、引き金の位置も、暁乃の知るそれと通じるものがある。
あれが人を撃つための道具であることは、見れば分かった。
異様だった。
少女たちが、当たり前のようにそれを持っていることも。
それを飾っていることも。
そして周囲の誰も、そのことをおかしいと思っていないことも。
ざわめきが大きくなる。
駅員の少女はまだ暁乃を怖がらせまいとしていた。
「白菊ちゃん、ちょっとだけ駅務室に来てもらえるかな? 大丈夫、怒ってるわけじゃないから。確認だけ、ね?」
「確認……」
「うん。君が困ってるなら助けたいし、もしかしたら病院に連絡した方がいいかもしれないし」
彼女は優しい。
暁乃にも、それは分かった。
だが、同時に別の足音が近づいてきた。
駅員とは違う制服の生徒たちだった。
駅の騒ぎを聞きつけたのだろう。
彼女たちは腕章のようなものをつけ、やはり銃を携えていた。
その銃もまた、暁乃の知るものとは違っていた。
黒一色ではなく、白や青の塗装が入り、銃床には小さな飾りが揺れている。
だが、彼女たちの立ち方と視線だけは、飾りとは無縁だった。
職務として人を止める者の目だった。
「通報があった子って、この子?」
最初に来た生徒は、事務的にそう言った。
駅員の少女が少し姿勢を正す。
「はい。切符と所属が確認できなくて……」
「ヴァルキューレ警察学校の者です。状況を確認します」
制服の生徒はそう名乗った。
「ゔぁる……きゅーれ……?」
暁乃は小さく繰り返した。
聞いたことのない響きだった。
学校の名なのか、役目の名なのか、組織の名なのかすら分からない。
だが、その名乗りを聞いた周囲の生徒たちが少しだけ道を空けたことで、彼女たちがこの場で何かしらの権限を持つ者だということだけは分かった。
そのヴァルキューレの生徒は、暁乃を見ると、ほんの一瞬だけ言葉を止めた。
「……」
白い髪。
白い肌。
赤い目。
幼い背丈に似合わぬ静かな立ち方。
その異様さとは別の意味で、目を離しづらい顔だった。
「……思ったより小さいね」
言い直すようにそう言って、彼女は仕事の顔へ戻った。
「まだ不審者って決まったわけじゃ……」
駅員の少女はそう言って、手元の切符を見せた。
「この子、東京から下関へ向かってたって言ってるんです」
「……トーキョー? シモノセキ?」
ヴァルキューレの生徒が眉を寄せる。
「聞いたことない駅名だけど」
「私も知らないです。でも、ほら」
駅員の少女は、切符の印字を指で示した。
「ここに、ちゃんと書いてあるんです。トーキョーからシモノセキまでって」
ヴァルキューレの生徒は切符を覗き込んだ。
そこには確かに、見慣れない紙質と古い印字で、東京、下関という文字が残っていた。
「……偽造?」
「だとしても、こんな形式の切符、初めて見ました。規格も違いますし、改札機にも通らないと思います」
「うーん……」
ヴァルキューレの生徒は一瞬だけ考え込んだ。
それでも、視線はすぐに暁乃へ戻る。
「確認しよう」
彼女は少し屈み、暁乃と目線を合わせようとした。
「名前を教えてくれる?」
「……白菊、暁乃にございます」
「白菊、暁乃ちゃんね」
ヴァルキューレの生徒は端末に指を走らせた。
小さな板の表面に光が走る。
文字のようなものが現れ、消え、また現れる。
暁乃にはそれもまた、奇妙な術のように見えた。
「所属は?」
「所属、とは」
「どこの学園の生徒かってこと。この辺なら山海経か、百鬼夜行か、それとも別の学園か」
「俺は、学園には……」
その一言で、彼女の眉がわずかに動いた。
「……俺?」
暁乃は、そこで初めて気づいたように口を閉ざした。
駅員の少女とヴァルキューレの生徒が、ほんの一瞬だけ顔を見合わせる。
見た目はどう見ても、ひどく綺麗な少女だ。
なのに一人称は「俺」
しかも口調は古めかしく、どこか芝居じみているのに、ふざけているようには見えない。
理解できない。
だが、理解できないからこそ、余計に強く囲い込んで保護しなければならない気がした。
「……東京より、下関へ向かう途中にございました」
ヴァルキューレの生徒は小さく息を吐いた。
怒っているというより、困っている顔だった。
「その説明はさっき聞いた。でも、それだけだと保護記録が作れないの」
「保護、でございますか」
「うん。白菊ちゃんが迷子なのか、事故に遭ったのか、それとも誰かに連れてこられたのか、確認しないといけない」
彼女は端末から顔を上げ、改めて暁乃を見た。
そして、そこで初めて言葉を止めた。
「……本当に」
視線が、暁乃の頭上で止まる。
「ない……」
職務的だった表情が、わずかに崩れた。
彼女はすぐに気を取り直そうとしたが、その一瞬の驚きは隠しきれなかった。
「ヘイローが、ないんだね」
「先ほども、そのように言われました」
暁乃は静かに答える。
「それは、皆様にはあるものなのですか」
問い返されて、ヴァルキューレの生徒は一瞬だけ返答に詰まった。
「……普通は、あるよ」
駅員の少女が小さく頷く。
「だから、事故か病気かもしれないって思って……」
同伴のヴァルキューレ生徒が低く言った。
「医療機関に連絡した方がいい」
「うん。でもその前に、所持品確認」
最初の生徒は、暁乃の全身を見た。
「背中の鞄も確認させて。危ないものが入ってるかもしれないから」
暁乃は反射的に鞄へ手を回しかけた。
その中には旅のための最低限の着替えや小物、紙に包んだ写真、紫乃の煙管、細々とした持ち物が入っている。
大したものではない。
だが、他人に触れさせたいものでもなかった。
「大丈夫。ゆっくりでいいよ」
ヴァルキューレの生徒は子供に言い聞かせるような声で続けた。
「鞄と、その刀。順番に確認するだけ。怖がらなくていい」
優しい。
けれど、その優しさは出口のない輪のようでもあった。
いつの間にか、駅員の少女たちも、同伴のヴァルキューレの生徒も、暁乃を半ば囲む位置に立っていた。
押さえつけるためではない。
逃がさぬために、穏やかに包んでいるのだ。
「それと、その刀。危ないものだから、まず預からせて」
「これは」
暁乃の手が、布に包まれた刀へ向かいかける。
その瞬間、別の生徒がわずかに銃へ手を寄せた。
大きく構えたわけではない。
威嚇でもない。
だが、その動きだけは暁乃にも分かった。
敵意ではない。
しかし、拘束する意思がある。
ここで捕まれば、何も分からないまま身動きが取れなくなる。
暁乃は息を詰めた。
紫乃の教えが脳裏をよぎる。
――無用な争いは避けなさい。
はい、師匠。
――ただし、己の身を守る判断を誤ってはなりません。
はい。
暁乃は、心の中で深く頭を下げた。
申し訳ございません、師匠。
次の瞬間、彼は駆け出した。
「あっ!」
「待って、白菊ちゃん!」
「逃げた!」
背後で声が上がる。
暁乃は人混みを縫うように走った。
銃声はまだない。
だが、追ってくる足音が複数ある。
彼は刀を包む布の結び目へ手を伸ばしかけ、すぐに思いとどまった。
ここで抜いてはならない。
相手はまだ、彼を殺そうとしているわけではない。
ならば斬る理由はない。
暁乃は低く身をかがめ、改札横の通路へ飛び込んだ。
東方三番街広場駅は、地下に広がる大きな駅だった。
天井は高く、吹き抜けの上階には別の通路が見える。
壁一面には光る案内板が並び、人の声ではない案内音が幾重にも重なっていた。
階段。
昇降機。
動く歩道のようなもの。
そのすべてが暁乃には見慣れない。
耳の生えた少女が振り返る。
二足で歩く獣のような者が、荷物を抱えて道を避ける。
機械でできた人間のようなものが、無機質な目で彼を見る。
そしてその中を、色鮮やかに飾られた銃を持つ生徒たちが追ってくる。
すべてが異様だった。
だが、立ち止まるわけにはいかなかった。
上へ。
人の流れと、壁に描かれた矢印の向きから、地上へ出る道があることだけは分かった。
暁乃は階段へ飛び込んだ。
一段飛ばしに駆け上がる。
革靴ではない足袋の底が、硬い床を叩く。
背後から追跡する声が響き、吹き抜けに反響した。
「応援要請! 東方三番街広場駅で通報があった子が逃走!」
ヴァルキューレの生徒が通信機に向かって叫んでいる。
少し間があった。
「特徴、白髪、赤い目、白い服装! 身長は低め、年齢は小学生から中等部くらいに見えます! 刀のようなものを所持!」
暁乃は踊り場を曲がり、さらに上へ走った。
息が熱い。
足音が近い。
どこからか、別の警備の声も聞こえる。
さらに一拍置いて、通信の声が揺れた。
「えーっと……ヘイローがありません!!」
その報告が、吹き抜け全体に響いた。
暁乃は振り返らなかった。
案内板の文字は読めるものと読めないものが混じっていた。
だが、「三番街南口」という文字だけは見えた。
南口。
出口だ。
暁乃はそこへ向かって走った。
自動で開く扉の前を、人々が当然のように通っていく。
暁乃は一瞬だけ足を止めかけ、扉が左右に開くのを見て、そのまま外へ飛び出た。
地下の圧迫感が消えた。
途端に、広い空と、巨大な建物群と、無数の看板が視界に流れ込んでくる。
東方三番街広場。
その名の通り、駅の外には大きな広場が広がっていた。
見たこともない車両が道路を走り、頭上では飛行船のようなものがゆっくりと動いている。
広場の向こうには、朱色の門と、提灯の並ぶ通りが見えた。
下関へ向かうはずだった少年は、そこで初めて、完全に見知らぬ都市のただ中へ出た。
何も分からないまま。
ただ、捕まってはならないという直感だけを頼りに。