春来たりなば、白菊はキヴォトスに咲く   作:ふぁくしみり

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白菊と朱城

 ――そこまでを、暁乃は途切れ途切れに思い出していた。

 

 駅を飛び出し、見知らぬ街へ転がり出たところまで。

 

 そこで意識は、ようやく今へ引き戻された。

 

 背には、冷えた石壁の感触があった。

 湿った空気が、肌にまとわりついている。

 手の中には、まだ色のない小さな写真があった。

 

 暁乃は浅く息を吐いた。

 

 喉は渇いたままだった。

 腹も空いている。

 脚には、走り続けた後の鈍い痛みが溜まっていた。

 胸の奥では、息をするたびに熱が擦れるようだった。

 

 だが、ここで座り込んでいてよいわけではないことも分かっていた。

 

 駅からは逃げた。

 けれど、この街そのものから隠れ切れたわけではない。

 

 あの、ヴァルキューレと名乗る生徒たちは、今も自分を探しているだろう。

 

 白い髪。

 赤い目。

 白い服。

 黒い刀の包み。

 そして、頭上に何もないこと。

 

 この街では、そのどれもがあまりに目立ちすぎる。

 

 ――ヘイローがありません!!

 

 吹き抜けに響いたあの声が、ふいに耳の奥で蘇る。

 

「……結局、何なのでしょうか、へいろーとは」

 

 かすれた声が、自分でも頼りなく聞こえた。

 

 輪。

 

 駅員の少女は、そう説明していた。

 

 頭の上に浮かんでいる輪。

 この街の少女たちが、当たり前のように持っているもの。

 動いても落ちず、手で支えている様子もなく、飾りのようでいて飾りではないもの。

 

暁乃は、先ほど見た光景を思い返す。

 

 駅員の頭上にもあった。

 通り過ぎていく生徒たちの頭上にもあった。

 耳や尾を持つ少女にも、銃を肩にかけた少女にも、皆それぞれ違う形の光が浮かんでいた。

 

 色も、形も、微妙に違っていたように思う。

 細い輪の者もいれば、飾りのように複雑なものを浮かべている者もいた。

 

 けれど、誰もそれを気にしていなかった。

 

 帽子よりも、髪飾りよりも自然に。

 まるで呼吸と同じように、そこにあるものとして扱っていた。

 

 だが、すべての者にあるわけではなかった。

 

 二足で歩く獣のような者には、なかった。

 荷物を運んでいた機械の人形にも、なかった。

 店先で働いていた、明らかに人ではない者たちの頭上にも、何も浮かんでいなかった。

 

 暁乃はそこまで思い出して、ようやく一つの形を掴みかけた。

 

 あの輪は、この街に住む全ての者にあるものではない。

 

 おそらく、人の姿をした少女たち。

 あるいは、学園に属する生徒たち。

 少なくとも、駅員や銃を持つ者たちにとっては、あって当然のもの。

 

 だからこそ、彼女たちは暁乃の頭上を見て顔色を変えたのだ。

 

 獣に輪がないことには驚かない。

 機械に輪がないことにも驚かない。

 けれど、人の姿をした自分にそれがないことには驚いた。

 

 その事実が、暁乃の胸を冷たく撫でた。

 

「……俺は」

 

 自分は、この街の少女たちと同じ形をしているように見えるのだろう。

 だからこそ、駅員は迷子かと尋ねた。

 だからこそ、ヴァルキューレと名乗った者たちは保護しようとした。

 

 だが、その前提を支えるはずの輪だけがない。

 

 この街の者から見れば、自分はただの迷子ではない。

 獣でも、機械でもない。

 けれど、生徒でもない。

 

 人の姿をしているのに、あるべきものがない。

 

 それが、どれほど異様に見えるのか。

 暁乃は、ようやく少しだけ理解した。

 

「……俺は、本当に」

 

 言葉が喉で止まった。

 

 異物。

 

 そう言い切るには、あまりに心細い言葉だった。

 けれど、それ以外に今の自分を表すものを、暁乃は知らなかった。

 

 だが、そこまで考えても、それが何なのかまでは分からない。

 

 身分を示すものなのか。

 生まれつき備わるものなのか。

 それがないことは、怪我なのか。病なのか。

 それとも、この街の者でない証なのか。

 

 駅の者たちは、暁乃の頭上を見た瞬間、はっきりと顔色を変えた。

 

 それは、刀よりも、切符よりも、彼女たちを動揺させていたように思える。

 

 暁乃はそっと自分の頭上へ手を伸ばした。

 

 当然、何もない。

 

 指先が触れたのは、自分の白い髪だけだった。

 

「……俺には、ない」

 

 呟いてから、口を閉ざす。

 

 それが何を意味するのかは分からない。

 分からないからこそ、胸の奥がひどく落ち着かなかった。

 

 誰に問うても、答える者はいない。

 

 暁乃は写真をそっと紙へ包み直し、懐へ戻した。

 

 紙越しに伝わる薄い硬さが、かろうじて彼を今に繋ぎ止めていた。

 

「……行かねば」

 

 壁に手をつき、重い体を起こす。

 

 膝がわずかに揺れた。

 視界の端が一瞬、暗くなる。

 それでも、立たねばならなかった。

 

 刀の包みを抱え直し、背の革鞄の位置を確かめる。

 

 鞄の革紐が肩に食い込む。

 刀の重みが腕に残る。

 懐の写真が、衣の内側でかすかに擦れる。

 

 見慣れたものの重みだけが、妙に現実だった。

 

 それから、暁乃は再び人気のない道を選ぶように歩き出した。

 

 

 

 ⸻

 

 

 

 どれほど歩いたのか、自分でも分からなかった。

 

 明るかった空は少しずつ色を失い、建物の影は長く伸び、やがて街は昼とは違う灯りで満ち始めた。

 

 暁乃は大通りを避けた。

 駅へ戻る流れを避けた。

 制服姿の生徒たちが集まっている場所を避け、腕章をつけた者や、周囲へ目を配っている者のいる道を避けた。

 店先の灯りが強く、人の視線が集まりやすそうな通りも避けた。

 

 それでも、完全に人目を逃れることはできない。

 

 細い道を抜けようとした時、向こうから歩いてきた生徒が暁乃を見て足を止めた。

 

「あれ……?」

 

 暁乃は顔を伏せ、歩調を早める。

 

「ねえ、今の子……」

 

「白髪だったよね」

 

「赤い目……?」

 

 背後で、小さな声が重なった。

 

 振り返ることはしなかった。

 

 別の角では、薄い板を手にした少女たちが談笑しながら歩いていた。

 暁乃は壁際を抜けようとしたが、そのうちの一人がふと顔を上げた。

 

「ねえ、あの子」

 

「え、何?」

 

「すごい白い……」

 

 視線が頭上へ向かったのが分かった。

 

 暁乃は息を詰める。

 

「……ヘイロー、見えなくない?」

 

「え、まさか。駅の子?」

 

 その言葉が耳に届いた瞬間、暁乃は早足になった。

 

「ちょっと、君――」

 

 呼び止める声がした。

 

 だが、振り返らない。

 

 走り出せば余計に目立つ。

 けれど、立ち止まれば捕まる。

 

 その間の速度で、暁乃は道を曲がった。

 

 体は重い。

 息は浅い。

 それでも足を止められない。

 

 時おり、通りの向こうから笑い声が流れてくる。

 どこかの店先では灯がともり、見知らぬ文字が明るく浮かんでいる。

 薄い板を手にした少女たちが、顔を寄せ合って笑っている。

 二足で歩く獣のような者が、荷物を抱えて角を曲がる。

 機械でできた人のようなものが、何の迷いもなく道を進む。

 

 人々はそれぞれの帰る場所があるように、迷いなく歩いていた。

 

 その中を、暁乃だけが異物のように彷徨っていた。

 

 逃げる先々で目に入るものは、やはり彼の知る世のものではなかった。

 

 光る看板。

 自動で開く扉。

 静かに走る車両。

 頭上に輪を浮かべた少女たち。

 誰にも驚かれぬ獣や機械の住人。

 

 見れば見るほど、自分が本当に異郷へ来てしまったのだという実感だけが深くなっていく。

 

 喉の渇きは、やがて痛みに変わった。

 

 唾を飲み込もうとしても、喉の奥が乾いて貼りついている。

 腹は空きすぎて、かえって何も感じなくなりつつあった。

 ただ、体の芯から力が抜けていく。

 

 足袋の底は硬い地面を踏み続け、脚には重い痛みが溜まっていった。

 

 それでも、止まれば見つかる気がした。

 

 見つかれば、また囲まれる。

 刀を預からせろと言われる。

 鞄を見せろと言われる。

 どこから来たのか、どこの学園なのかと聞かれる。

 

 答えられない問いばかりだった。

 

「……下関へ、向かっていたはずなのに」

 

 声はほとんど音にならなかった。

 

 東京から下関へ。

 それだけならば、旅の道筋は分かっていた。

 

 だが今は、どこへ向かえばよいのか分からない。

 

 あの白い女は、助けてほしいと言った。

 

 先生を。

 生徒たちを。

 キヴォトスを。

 

 けれど、暁乃はそのキヴォトスで、水一つ買うこともできない。

 

 そう考えた瞬間、胸の奥に小さな苦笑のようなものが浮かび、すぐに消えた。

 

 笑う余裕など、もうなかった。

 

 人目を避けるつもりで細い通りへ入ったはずなのに、どの道も似たように見えた。

 

 曲がった先にまた灯りがあり、また見知らぬ建物があり、また輪を浮かべた少女たちがいる。

 

 どこまで行っても、この街は終わらない。

 

 人気の薄い通りへ入り込み、家影にもたれるようにしてようやく立ち止まった時には、もう暁乃にはほとんど余力が残っていなかった。

 

 壁へ肩を預け、呼吸を整えようとする。

 

 だが、整わない。

 

 息を吸う。

 喉が痛む。

 息を吐く。

 胸が熱く軋む。

 

 体の中にあるはずの水分が、すべて抜けてしまったようだった。

 

 それでも、刀だけは手放さなかった。

 

 黒い包みを抱えたまま、暁乃はじりじりと壁に沿って身を落としていく。

 

 石の冷たさが背へ伝わった。

 足から力が抜け、膝が曲がる。

 革鞄が壁に擦れ、小さく音を立てた。

 

 夜の気配が、少しずつ濃くなっていた。

 

 その時だった。

 

 路地の入口の方で、かすかな足音がした。

 

 暁乃は、はっと顔を上げた。

 

 輪を持つ者か。

 

 駅のあの者たちの仲間か。

 

 反射的に、指先へ力が入る。

 黒い包みを掴み、壁を背にしたまま身を起こそうとする。

 

 だが、足に力が入らない。

 

 路地の向こうに立っていたのは、一人の少女だった。

 

 頭上にはやはり、あの光の輪がある。

 

 背は、暁乃よりはっきり高かった。

 少女と呼ぶにはまだ幼さも残しているが、立ち姿には年下を自然に見下ろせるだけの高さがある。

 暁乃が見上げる形になるせいか、彼女の輪も、夜の灯りを背負うように淡く浮かんで見えた。

 

 けれど、その目には、駅で自分を囲んだ生徒たちのような鋭さがなかった。

 

 警戒はしている。

 驚いてもいる。

 だが、銃へ手を伸ばす者の目ではない。

 

「……ねえ」

 

 少女が声をかける。

 

「君、大丈夫?」

 

 その声を聞いた瞬間、暁乃は逃げねばと思った。

 

 思っただけで、体は動かなかった。

 

 立ち上がろうとした拍子に膝が揺れ、背後の壁へ肩をぶつける。

 退こうとした先は行き止まりだった。

 家と塀に挟まれた狭い影の中で、暁乃はようやく、自分が追い詰められた獣のような格好をしていることに気づいた。

 

 少女はその様子を見て、すぐに両手を上げた。

 

「待って、待って。何もしないから」

 

 近づいてはこない。

 

 それが、かえって不思議だった。

 

 駅の者たちは優しかった。

 だが、その優しさは暁乃の周りを少しずつ塞いでいくものだった。

 逃げ道を消し、荷を調べ、刀を預かろうとする優しさだった。

 

 目の前の少女は違った。

 

 手を上げたまま、足を止めている。

 こちらが怯えていることを見て、距離を測っている。

 

 暁乃は答えなかった。

 

 いや、答えようとしたが、声が出なかった。

 

 喉が、ひどく乾いている。

 

 息をするだけで痛い。

 胸が上下するたびに、視界の端が暗くなった。

 

 少女は少しだけ表情を曇らせた。

 

「……喉、渇いてるの?」

 

 暁乃の指が、包みを握りしめる。

 

 答える代わりに、喉が小さく鳴った。

 それが余計に惨めで、暁乃は唇を噛む。

 

 少女はそれ以上詰めず、その場にしゃがんだ。

 

 背の高い彼女が膝を折ると、ようやく視線の高さが近くなる。

 上から覗き込まず、こちらが顔を上げすぎなくても済む位置。

 それを意識しているのだと、暁乃にも何となく分かった。

 

 敵意のない姿勢だった。

 

「私は朱城ルミ。山海経初級中学の生徒」

 

 山海経。

 

 その名は、駅の放送でも聞いた。

 

 ここが、その近くなのだと暁乃はぼんやり思った。

 

 朱城ルミ。

 

 名前を名乗られた。

 それも、捕らえる者の名乗りではなく、ただ自分が何者かを知らせるための声だった。

 

「君を捕まえに来たわけじゃないよ」

 

 赤い瞳が、わずかに揺れた。

 

「でも、ここにずっといたら危ないと思う。探してる人もいるだろうし」

 

 探している。

 

 その一言で、暁乃の背にまた冷たいものが走る。

 

 けれど、目の前の少女の声は、駅の者たちとは違っていた。

 

 囲い込むような柔らかさではなく、もっと素朴で、温度があった。

 言葉を選びながらも、変に飾らない声だった。

 

「ねえ」

 

 少女――ルミは、少しだけ困ったように笑った。

 

「うち、すぐそこなの。水もあるし、温かいものも出せる」

 

 水。

 

 その言葉だけで、喉が痛むほど反応した。

 

 温かいもの。

 

 その言葉で、空っぽだった腹の奥がかすかに鳴った。

 

 暁乃は唇を動かした。

 

 警戒せねばならない。

 知らぬ相手について行ってはならない。

 頭のどこかでは、そう思っている。

 

 だが、体はもう限界に近かった。

 

 目の前の少女の着衣には、外の空気とは別の匂いが薄く残っていた。

 

 火を使う場所の匂い。

 飯を炊く匂い。

 油と湯気が衣に移ったような、温かなものを扱う者の匂い。

 

 それが、不意に腹の奥を強く刺激した。

 

「……怪しいって思うよね」

 

 ルミは自分で言って、少しだけ肩をすくめた。

 

「急に知らない人に言われても困るのは分かる。でも、このまま路地裏にいるよりは、うちに来た方が安全だと思う」

 

 暁乃は、何かを言おうとした。

 

 礼か。

 拒絶か。

 自分でも分からない。

 

 だが、喉から出たのは掠れた息だけだった。

 

「無理に喋らなくていいよ」

 

 ルミはそう言った。

 

「声、出ないんでしょ」

 

 暁乃は目を伏せた。

 

 認めたくはなかった。

 だが、否定する声も出ない。

 

 ルミはゆっくりと手を差し出した。

 

 引きずるためでも、捕まえるためでもない。

 ただ、こちらが選べるように置かれた手だった。

 

「大丈夫。無理に連れていかない」

 

 その言葉に、暁乃はしばらく動けなかった。

 

 師匠なら、どうしただろう。

 

 この手を取るなと言っただろうか。

 知らぬ者を信じるなと、静かに戒めただろうか。

 

 それとも。

 

 己の身を守るために、時には人へ頼れと、言っただろうか。

 

 ――人のためと言いながら、自分を数に入れぬことも、愚かなことです。

 

 ふいに、紫乃の声が胸の奥で揺れた。

 

 暁乃は、ほんのわずかに息を呑む。

 

 答えは返ってこない。

 

 けれど、黒い包みを抱えた手から、少しだけ力が抜けた。

 

 その瞬間、膝が耐えきれず折れた。

 

「……っ」

 

 崩れそうになった体を、ルミが慌てて支えた。

 

「ちょっと……大丈夫!?」

 

 軽い声ではなかった。

 

 本気で驚き、本気で心配している声だった。

 

 暁乃は目を伏せたまま、肩を支えられていた。

 逃げることも、振り払うこともできない。

 

 ルミの腕は細い。

 それでも、彼女は暁乃より背が高く、体もまだしっかりしていた。

 支えられると、暁乃の体が自分で思っていたよりずっと軽く、弱っていることが分かってしまう。

 

「……軽すぎるって、君」

 

 ルミが小さく呟いた。

 

 その声には、呆れよりも心配が滲んでいた。

 

「ほんとに、どれだけ歩いたの……?」

 

 暁乃は答えられない。

 

 喉が痛い。

 頭が重い。

 視界が揺れる。

 

 ただ、支えられている肩の辺りだけが、少し温かかった。

 

「……とりあえず、うちに来て」

 

 もう一度、そう言われる。

 

 暁乃は、ほとんど聞こえない声で何かを返した。

 

 自分でも何を言ったのか分からない。

 

 礼だったのかもしれない。

 謝罪だったのかもしれない。

 あるいは、ただ息が漏れただけだったのかもしれない。

 

 ルミは聞き返さなかった。

 

 ただ、暁乃の体を支え直し、できるだけゆっくり立たせようとした。

 

「大丈夫。急がなくていいから。歩ける? 無理なら、体預けて……」

 

 暁乃は小さく頷こうとした。

 

 頷けたのかどうか、自分でも分からない。

 

 それでも、足を動かした。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 知らぬ少女に支えられながら、知らぬ街の夜を進む。

 

 その間も、暁乃は最後まで黒い包みだけは手放さなかった。

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