異世界転生したカール・マルクス   作:匿名

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第十四話

 

 

「父上、本当に戦車競技に出るのですか?」

 

 

 

 

 私がそう尋ねた時、石造りの窓枠の向こう側には、乳白色の濃い霧が音もなく漂っていた。

 

 

 空気はどんよりと重く湿っている。肌にまとわりつく粘り気は、これが瑞々しいはずの春のものとは到底信じられない、異例の不快さだった。

 

 本来、この内陸の地に海の湿った風がここまで届くことはない。

 

北東に広がる広大な湿地帯からも、この館はそこそこ距離を置いているはずだった。

 

 

 それなのに、この正体不明の湿気はどうだ。

 

 

 部屋の窓は、少しでも空気を通そうと大きく開け放たれていたが、部屋を満たす蒸し暑さは微塵も変わらない。

 

壁に掛けられた精密な温度計に目をやれば、華氏にしておよそ六十五か六十九といったところか。摂氏に直せば二十度にも満たない、本来なら快適の範疇に入るはずの数値だ。

 

 

 しかし、この水中に近いような湿気がすべてを台無しにしている。

 

数値上の快適さと、皮膚が感じるベタつくような嫌悪感。

 

その乖離そのものが、今の私の精神状態を代弁しているようだった。

 

 

 

「ああ。そこそこの成績を残せたらいいんだがね。あんまり順位が低かったら、君も困るだろう?」

 

 

 父は長方形の鏡の前で簡素な旅行着を整えながら、軽い口調で答えた。

 

「いちおう全力は尽くすよ。ふふ、まあ、吉報を待っていてくれ」

 

 

 父は最後にそう言って、従者を連れて、馬を駆って大きな馬車と共に領地を去っていった。

 

その背中がだんだんと霧に溶けて、だんだんと全体が青っぽくなり、そして見えなくなるまで、私は開いた窓から動かなかった。

 

 

 

 父が向かったのは、港湾都市ペルドル。

 

 

 

 網の目のように張り巡らされた水路と、絶え間ない海運で栄えたあの街の名は、私が知るA地球のフランス語における『Perdre』との偶然の一致のようだが、今の私にはそれが不吉な呪いのように思えてならなかった。

 

負ける、だなんて意味の名前の街で開かれるなんてちょっと嫌ではあるが、至って普通の地名だし、まあしょうがない。

 

私はついついこの世界に存在しない常識を振りかざしてしまったようだ。

 

ペルドルは、かつて同じ名前の子爵が街を治めていた。

 

しかし……隣国との戦争で艦砲射撃に会い、上陸の憂目にあった。

 

そのせいで方伯は前線で行われたという波状攻撃だけでも大変なのに背後を突かれ、実質的な二正面戦闘へと突入した。

 

なんとか復興はしたものの、責任を負い、

今はペルドル子爵とは全く無関係な人間が治めている。

 

 

そんな街は、敗北というのがまさに似合う歴史をしていた。

 

 

 

 

 しかしそんな所で開かれる戦車競技。それはかつて、この大陸における出世の象徴だった。

 

 

 

 優勝すれば多数のお金と共に名誉ある栄典を授与され、さらに興を召した皇帝陛下から広大な土地を賜ったり、貧乏貴族から大金持ちへ、あるいは小貴族から大貴族へと駆け上がることができた。

 

 

だが、それは何代も前の、まだ開拓の余地が残されていた時代の寓話だ。

 

 今の時代、拡張先は無くなった。方伯がかつての戦争で対峙していたという島嶼国家は消え、帝国全体の土地が開発されていく。

 

 しかしそんな今の時代、戦車競技で敗北した場合の末路は、あまりに惨めだ。

 

 

 負ければ車体を奪われる。それだけではない。

 

 ありとあらゆる装飾から、枠に至るまで解体され、敗者は車輪のみを持ち帰る。

 

それがこの競技の、伝統という名の屈辱だった。

 

 

車輪のみ、車輪のみだ。

それ以外は優勝者が総取りする。

 

優勝景品として敗北者の車軸を飾り、悦に浸るようなことも勝者はする。

 

我が先祖はしかしそれとは別に自らの戦車を展示していたそうだが、なにせ二百年も前のことなので、頑丈に作られた木の車軸しか残っていない。

 

 

まあ、ふとしたミスで私が燃やしてしまった訳だが。

 

 

 競技自体も野蛮極まりない。

 

 

 魔法の撃ち合いは許容され、進路妨害は正義、車体をぶつけ、車軸を壊し、敵を横転させることもヨシとされる。

 

貴族同士の殺し合いは法で禁じられているが、戦車競技の最中に不慮の事故で死ぬことは珍しくない。

 

 

 その戦車を曳くのは、二頭の馬だ。

 

 

 しかし、それは我が領地のブドウ農場で見かけるような温厚な家畜ではない。

 

体躯は人間のそれを二回りも上回り、強靭な骨格と、良き飼料によって桁違いの牽引力を発揮する怪物。

 

馬とも呼べぬような、強き馬である。

 

 

 私はそんな思案を重ねつつも窓を閉め、私は執務室の机に戻った。

 

 

 

 ペルドル。あの街を思い出すだけで胸が焼ける。

 

 

 麻の縄に煮え滾るコールタールを塗り、帆を毎日数千枚と織り上げ、油圧で起重機が回転する。

 

次第に発展していき、成果を上げる工業と物流の化け物。

 

この世界に産業革命が起きるとしたら、あのような街から起きるのだろう。

 

あの方伯が支配する街には、呼吸するように富が流れ込む。

 

 北西部へ伸びる主要街道は、最終的にあの港に吸い込まれる。だが、その恩恵はこのルイゼル男爵家にまでは滴り落ちてこない。

 

 陸路では、主要街道を死ぬ気で飛ばしても、一日を超える旅程だ。

普通に行けば二日ほどである。

 

 

内陸部だから海まで遠いというのに、南の子爵は海と面している。

 

アルファベットのJのような形状の領地をした子爵。本当に土地の形が腹立たしいが、その港までが、これまた遠い。

 

 

 物理的には、海路は陸路の八倍どころか十倍以上の速度で物を運ぶ。

 

風向きが一定で、近海では高波が無い。

 

自然が沈黙する、まるで物流に使えとでも言うような海路があるからだ。

 

 

 

 物流が良すぎるということは、内陸の領主にとって地獄を意味する。

 

 

 

それは、たとえば私の父のように。

 街道の維持費、石畳の補修、警備の兵員……それらを賄うための通行税を取らなければ、領地の物価は破壊される。

 

だんだん物価が安くなっていく。大量輸送のために船をどんどん作るから、それに合わせて通行税を増やさなければいけない。

 

もしくは、間接的に税金を取るかだが。

 

 

 

船で運ばれてきた安価な物資がノーガードで流れ込めば、我が領地の誇りであるぶどう栽培も、ワイン醸造も、瞬く間に外来の安い酒に駆逐され、産業は空洞化するだろう。

 

 

 だが、税を上げたとて荷はさらに海からこの領地へと代わる代わるやってきて、主要街道から隅々まで行こうとする。

 

あれこれ名目を変えて搾り取るだけ搾り取らなければいけない。逆進性のある通行税は物価高を引き起こす最良の手段だ。

 

しかしその移動は馬車だ。

 

それゆえ馬車のために設計された主要街道の発展は、地形的な用地の限界に達していた。

 

 

爆発的な再興など、夢のまた夢だ。

 

 

 

 そして何より、この忌々しい霧だ。

 

 

 春先に二十度を超え、この湿度。

 

 ぶどう農家なら、この空気を吸っただけで血の気が引くだろう。

 

カビの繁殖、特に『べと病』や『灰色かび病』にとって、これ以上の楽園はない。

 

 

 新梢が伸び、これから花を咲かせようというこの繊細な時期に、領地の生命線であるぶどう園が死神の霧に包まれている。

 

あの北方の丘陵地帯はどうなのだろう?

湿気ていないのだろうか。

 

もし北方のぶどう園が湿気でやられていたら……考えもしたくないが、考えてみると致命的だ。

 

 

まず煉瓦のように固められた、ワインの元が届かなくなる。

 

そして次に、ぶどうジュースを飲む消費者が困り果てる。

 

そしてその次は……

 

 

 

 

 

 私の、そんな思案と焦燥を煽るように、ノックの音が響いた。

 

 

 

 入ってきたのは、父が去り際に業務代理として指名した男、ムーロスだった。

 

 

 

 

 

私の従兄弟にあたるが、年齢は一回り以上も上で、何よりその背丈が異常だった。

 

 

 

二メートル近い長身は、初めて対面した時、見上げる私の首が痛くなったほどだ。

 

 

 

 彼は長い髭を蓄え、常に顔に脂汗を浮かべていた。

 

 

 この蒸し暑さに堪えかねているようだったので、私が親切心を込めて扇はいるかと聞いてやったというのに、彼は無言のまま懐から扇を取り出し、バタバタと仰ぎ始めた。

 

 

 少し腹が立つ。だが、怒りの本質は彼の寡黙さだとか、まるで老人のように長い髭と、レモンの香りがする水を暇さえあれば吹き付けていることではない。

 

 

彼に任された領主としての職務……すなわち裁判官としての無能さだ。

 

 

 

 

 

 最近、領内では相次ぐ酒類の組織的な窃取が起きていた。

 

 不況と空洞化が進む中、地場産業の魂であるワインを盗むなど、領地への反逆も同義だ。

 

そのリーダー格をようやく捕らえ、今日の公判に臨んだというのに。

 

 

 

「……」

 

 

 ムーロスが書類を置いた。

 

 

私が机の方に向かって歩いていき、チラリと覗く。

 

 

 

「たかだか十年だと?」

 

 

 

 私は思わず声を発してしまった。流れるように、次々と言葉が出てくる。

 

 

「組織的な窃盗、それもこの窮状においてだ。なぜ一生の労働にさせなかった! 犯罪者とて労働力だという理屈はわかるが、これはあまりに甘い。極悪人には、それにふさわしい対価を払わせるのが領主の務めだろう!」

 

 

 

 ムーロスは汗をハンカチで拭い、扇を閉じた。

 

 

「まあ、エドワードよ。犯罪者は監獄に入れられるべきだと思うか?」

 

「そうだ!監獄に入れるべきだ……公判だぞ!」

「市民が見ている中で労働刑、それも十年……被害者への精神的な補填はどうするんだ?」

 

 

「このムーロスにはひとつ、考えがある。たとえばあの男、主犯格の一人ではあるが、あれほど急速に拡大できた資金源が判明していない。」

 

「開いた瞳孔、発汗の過多、筋肉及び関節の固縮」

 

「監獄に入れたとてだ。恭しく世話をしてやるというのか。高い塀と、鉄格子の中で、十年間も過ごさせるか。」

 

 

 

「そうだ。そうだ!そうだ!市民は怒るぞ!」

 

 

 

「いいや、監獄に入れた方が市民は怒るのだ。これは何故か?」

 

 

 

ムーロスはそう問いかけてきた。

 あいつとは、決定的に価値観が合わない。

 このB地球における領主の仕事は膨大だ。裁判はその一環に過ぎない。

 

だが、秩序を維持するための司法を適当に片付けるべき雑務として処理しているように私は感じた。

 

そんなムーロスの態度は、我慢がならなかった。

 

 

 もっと気楽に処刑をしたいものだ。

 A地球の歴史にあるフランス革命のように、ギロチンをずらりと並べ、一気に刃を落として、領地の淀んだ空気を切り裂いてやりたい。

 

 

 

 こんな人間を代理に選ぶ父も、父だ。

 

 

 ぽっと出の甥に重要事項を任せ、実の息子である私に窓の外の霧を数えさせる。まるで後継者として私を信じていないかのようだ。

 

 窓の外、霧の向こうでぶどうの葉が湿気に腐っていく音が聞こえるような気がした。

 

 

 戦車競技に向かった父。

 私に向かって反論し、事務を捌くムーロス。

 そして、ギロチンの刃の輝きを夢想する私。

 

 ルイゼル男爵領の春は、まだ始まったばかりだというのに、その終わりはあまりに近くに感じられた。

 

 

 

私が道路の時間整理を提案したところで失敗するというのも、よく分かった。

 

そして父が戦車競技に出かけても、こうして私の自由を封じようとする人間が現れるというのもわかった。

 

ならばもう近代化の夢は、この男爵家で叶うことはない!

 

 

この帝国の都には沢山の情報が集う。どの時代のどの国であったとて、首都には常々……技術も情報もあるというもの。

 

 

もしかしたら私の蒸気機関をどこかに見出してくれる人が居るかもしれん。

 

 

 

たとえば海運だ。

 

私の前世の人生において大半の時間を過ごしたイギリスでは、蒸気船が幾つも港湾都市に停泊し、そして大量の荷物を運んだわけだ。

 

このB地球において帆船が優位な以上、蒸気船導入で物流は容易に変わりうる。

 

 

陸路の鉄道はもう諦める。私はこんな領地を継承するのも嫌だ。責任から逃れたいし、とにかく、この知識を広めるべきだと考えている。

 

 

広める方法は何でもいい。だが








方伯の戦役

北方の国家と西方の国家、両方とも大砲の撃ち合いを行った。

既存の防衛線が存在した北方は、砲弾によって護られたが……西方の島嶼に"かつて"存在した国家との戦いでは一時的な敗北を喫した。

上陸作戦によって戦線から兵士の引き抜き及び、訓練済みだった一部の民間人を魔導部隊として転換を試みた。

民兵による抵抗で時間稼ぎをしたことにより、上陸作戦がされてはいたものの、蹂躙には至らなかった。

が、しかしそれはそれとして海戦での敗北がきっかけに軍事的威信の低下などや疎開などで領民は逃げ、子爵領は滅びた。


戦役は勝利に終わったが、この勝利は数多くの犠牲の上に成り立った。

だがこの時、方伯は辺境の総督として海外領土を手にした。

現在は島々を貿易拠点として活動圏を大幅に拡張することに成功した。



方伯の戦役によって利益を享受した親戚らは一斉に経済的な成長を遂げ、皇帝からの正式な承認やら式やらを経て、一斉に子爵として叙爵された。


以降、この地域は方伯の親戚で固められることとなった。

なお、街道を作るのが大変だった山岳地帯及び沼地やらは取り残され、それが今の男爵領の土地へと繋がっている。
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