異世界転生したカール・マルクス   作:匿名

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第十五話

 

「寂しくなるけど、こっちはこっちでやっておくよ! あんたはあんたの場所で、しっかりやるんだよ!」

 

 

 妹の、少し背伸びをしたような威勢のいい声が、朝の澄んだ空気に響き渡る。

 

 開け放たれた馬車の窓からは、必死にこちらを覗き込もうとする妹の赤くなった鼻先と、その隣に笑顔で千切れんばかりに大きな右手を振る父の姿が見えた。

 

戦車の車軸を片手で持ち上げる様は圧倒的だったが、妹は邪魔そうな顔をしていた。

 

 

 

「絶対に失礼を働くんじゃないよ! 相手は帝都の方々格なんだからね、絶対だからね!」

 

 

 何度も繰り返されるその言葉は、もはや忠告というより、離れがたい寂しさを紛らわせるための呪文のようだった。

 

 私は、精一杯の笑顔を返しながら、窓枠を掴む手に力を込める。

 

喉の奥がツンと熱くなり、何かを言い返そうとしたけれど、言葉にすれば涙がこぼれてしまいそうで、ただ大きく頷くことしかできなかった。

 

 

 

 御者の鋭い掛け声と共に、馬車がゆっくりと動き出す。

 

 

 

 車輪が道を叩く規則的な振動が、私の座席の下から心臓へと直接伝わってきた。

 

 コッコッコッコという鶏にも似た煉瓦の音が、昨日まで当たり前だった家が、私という存在を切り離して、背後へと流れ始めていく。

 

 

 私は帝都に往くのだ。

 

 その事実は、これまで何度も頭の中で繰り返してきたはずなのに、実際に動き出した車輪の重みを感じて初めて、私の現実に深く突き刺さった。

 

 南に近い帝都は、ここから馬車に揺られて一ヶ月は確実にかかる距離にある。

 

 

一ヶ月――それは、季節が一つ変わるほどの時間だ。

 

 今、この窓を抜けていく風は、故郷の冷ややかな秋の気配を帯びているけれど、目的地に着く頃には、南国特有の湿り気を帯びた生暖かい風が私を迎えることになるのだろうか。

 

 

 馬車が角を曲がるたびに、見慣れた景色がパズルのピースを剥がされるように消えていく。

 

 

 私が乗る最後尾のこの馬車は、前方におよそ七つほどの馬車を随伴させているらしい。

 

 

 長い行列は、まるで一匹の巨大な生き物のようにうねりながら、霧の立ち込める街道へと消えていく。

 

 前方は深い霧に包まれ、先行する馬車の影すら朧げだ。まるで、私の行く末を暗示しているかのような、白く、底の見えない不透明な世界。

 

 視線を馬車の中に戻せば、そこには上質な革張りの椅子がぽつんと一つ、私を待つように置かれていた。

 

 帝都への旅ということで父が用意したこの座席は、村では見たこともないような精緻な刺繍で彩られている。

 

肘置きからは滑らかな革の質感と、馬車の中ではほのかに香る真新しい油の匂いがした。

 

けれど、その豪華さは、今の私の心にはあまりに余計なものに感じられた。

 

 この座席は、誰かを迎え入れるために設えられたはずなのに、どうしてこれほどまでに空虚なのだろう。

 

広い座面が、私がこれまで背負ってきた日常を、強制的に拭い去ってしまったかのような寂寞感が漂っている。

 

 

 

 私はもう一度、窓にしがみつくようにして外を見た。

 

 どんどん遠ざかっていく門を、一瞬たりとも見逃したくなくて、じっと目を見開く。

 

 

 わが家の誇りでもあった正門は、遠くからでもはっきりと判別できるほど、発色豊かな緑色に彩られていた。

 

先祖代々、少しずつ塗り重ねられてきたその色彩は、朝日に照らされて翡翠のような深い輝きを放っている。

 

 

 その翡翠の緑が、視界の端でゆらゆらと揺れている。

 

 

 

 それが涙のせいなのか、遠ざかる速度のせいなのかは分からなかった。

 

 もう、家族の姿は豆粒ほどになり、やがて景色の中に溶けて見えなくなった。

 

 妹の高い声も、馬のいななきと車輪の音にかき消されて久しい。

 

 それでも、私は手を振り続けた。

 

 冷たくなり始めた風が、窓から入り込んで私の頬を打つ。

 

 

 

 瞳に焼きついた翡翠色の残像が、いつか帝都の眩しさに上書きされてしまうその時まで。

 

 私は、自分がどこから来た何者であるかを忘れないために、見えなくなった故郷の空に向かって、いつまでも、いつまでも手を振り続けていた。

 

 

その時、私は帝都に行ったら何をしようかと考えていた。

 

家では結局なにも思いつかなかったけれど、こうして行く時にはポンポンと考えが浮かんでくる。

 

 

食事処を漫遊するのもいいだろうけど、都では物価が信じられないくらい高いらしい。

 

人口流入でどんどんと膨れる首都。

 

それに合わせて物価が上がっているらしいけれども、賃金がその分高いらしく。

 

 

 ガス灯が常に点灯し、昼行灯にコールタールから取ったガスが消えていく。

 

そんな様子を本で読んだ。

 

 活字をなぞっただけの知識が、今は馬車の揺れと共に熱を帯びた実感を伴い始める。

 

高賃金という蜜に誘われるように集まる人々。その濁流の中に、私は身を投じるのだ。

 

一ヶ月後、この馬車を降りる時、私はまだ翡翠色の門を懐かしむのままでいられるだろうか。

 

それとも、都市への期待感で胸をいっぱいにしているのだろうか。

 

期待と、それと同じくらいの重さを持った不安が、革張りの椅子の沈み込みとなって私の身体を捉えていた。

 

 

 

 

 このオーストリア・ハンガリー帝国によく似た国家は、どれほどの都市を抱えているのだろう。

 

 

 

人口八十万の、この領地の総人口を上回る……百万人の都市があると言う。

 

過密の中で魔術を学ぶというのは嫌だけれど、まだ自分の夢というのが無いし、目標と言うのはあるけれど、何か人生の指針を見つけられたら良いなあ。

 

 

そんなことを漠然と考えながら、馬車の振動を聞いていた。

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