おくびょうな俺と、戦えと叫ぶこの体 作:リザードン大好きマン
森を抜けた先に、それはあった。
暗いはずの夜なのに、そこだけがぼんやりと浮かび上がっている。揺れない光が点々と並び、地面まで照らしている。近づくにつれて、それがただの光じゃないと分かる。規則的に並んだ灯り、同じ高さ、同じ色。自然のものじゃない。
足を止める。
目の前に広がっているのは、記憶の中にあった景色だった。
(……ここが、ニビシティか)
頭の奥に残っている知識と、目の前の現実が重なる。ポケットモンスター、レッドで見た街。最初のジムがある場所。岩の街。そういう“情報”は確かに知っている。
けど、実際に立つと、全然違う。
画面越しに見ていた時は、ただのマップだった。進む場所、寄る場所、その程度の認識。だが今は違う。空気がある。匂いがある。音がある。全部が“近い”。
石。
地面も、壁も、全部が硬い。踏んでも沈まない。爪が引っかからない。コツ、と乾いた音が足元で跳ねる。
逃げ場が少ない。
森なら、影に入れば隠れられた。でもここは違う。光があるせいで、どこにいても輪郭が浮く。見られている感覚が、常にまとわりつく。
(……なんか、やりづらいな)
自然に肩の力が入る。体が警戒している。
匂いも違う。土や草の湿りじゃない。焼けた油、肉、甘い何か、人間の匂い。それが混ざって、鼻の奥に残る。
……それでも、腹が減っている。
森で食ったはずなのに、何も残っていない。満たされない感覚だけが、ずっと居座っている。
視線を巡らせる。建物が並んでいる。石でできた箱みたいな形。その間を人間が歩いている。話し声、足音、笑い声。どれも大きくて、遠くまで響く。
その中に入る気はない。
路地に入る。少しだけ暗い。だが完全に隠れるほどじゃない。壁が近い分、音と匂いが濃くなる。
鼻が拾った匂いを辿る。強い油の匂い。その奥に、腐りかけた甘さ。
角を曲がると、袋が積まれていた。黒い袋。中身が押し込まれて、形が歪んでいる。
人間の捨てたもの。
一瞬だけ、手が止まる。
(……チッ)
分かっている。これは“餌”じゃない。だが、腹は減っている。
爪を立てて、袋を裂く。ビリッ、と嫌な音。中身がこぼれ、匂いが一気に広がる。油、腐敗、甘さ。全部が混ざって、鼻を刺す。
顔をしかめる。それでも手は止まらない。まだ食えそうなものを拾い上げる。形は崩れているが、腐りきってはいない。
口に入れる。
……何も感じない。
噛んで、飲み込む。ただそれだけ。満たされる感覚は、やっぱり来ない。
(……足りない)
もう一つ拾う。その時、背後で小さな音がした。
振り向く。
ピチューが、少し離れた位置で止まっている。ゴミの山を見て、動けずにいる。
当然だ。森にはなかったものだ。匂いも、見た目も、全部がおかしい。
「……ぴ、ちゅ……」
小さく鳴く。困惑と、不安。
俺は何も言わず、拾ったものを一つ置く。
ピチューはすぐには来ない。一歩出て、止まる。また一歩。匂いを嗅ぎ、顔をしかめる。それでも、腹は減っている。
ゆっくりと口をつける。最初は小さい一口。噛んで、止まる。それからもう一度、口に入れる。
少しずつ、食べ始める。
慣れていない。それでも理解している。“食べるしかない”と。
俺は視線を戻す。もう一つ拾って、口に入れる。
満たされない。何を入れても、底に落ちていくだけだ。
(……クソ)
その時だった。背中に、はっきりとした“視線”が刺さる。
気のせいじゃない。森で何度も感じてきた、獲物でも仲間でもない“意志を持った視線”。
反射で顔を上げる。路地の入口。
そこに、人間が立っている。
赤い帽子。
背中にリュック。
少年。
街灯の光を背に受けて、輪郭だけがくっきりと浮かんでいる。動かない。ただ、こちらを見ている。
ーー目が合う。
逸らさない。向こうも、逸らさない。距離は数歩。詰めれば一瞬。空気が一気に張り詰める。足裏に伝わる地面の硬さ、喉に残る油の匂い、全部が急に輪郭を持つ。
その瞬間、頭の奥で何かが引っかかった。
(……赤い帽子……?)
引きずり出されるみたいに、記憶が浮かぶ。平面の画面。小さなドット。ポケモンを連れて、町から町へ進んでいく存在。あの色、あの形。目の前の人間と、記憶の中の“それ”が重なる。
(……まさか)
思考が一瞬だけ止まる。
(……レッド、か?)
ありえない、と即座に切り捨てる声と、否定しきれない感覚が同時に残る。似すぎている。偶然で片付けるには、輪郭がはっきりしすぎている。
間合いを測る。逃げるなら右の曲がり角、仕掛けるなら一直線。どちらにも動ける距離。肩が自然に沈み、重心が前に寄る。ピチューの気配が背後で固まる。震えが、かすかに地面に伝わる。
人間の手が動く。
腰。
ボール。
――来る。
体が先に反応する。筋肉が締まる。視界が狭まる。踏み込みの起点だけを残して、余計なものが削ぎ落ちる。
その手は、止まった。
わずかな間。ほんの数秒。だが、やけに長く感じる静止。
それから、ゆっくりと方向を変える。リュックへ。中を探る動き。取り出されたのは、小さな包み。光を受けて、白く鈍く光る。
食べ物の匂い。
次の瞬間、それがこちらへ投げられる。軽い軌道。無造作に、だが正確に足元へ。
コトッ、と乾いた音。
視線は外れない。距離も変わらない。相手は踏み込まない。ただ、そこに立っている。
……理解が追いつかない。
捕まえないのか。
攻撃もしないのか。
なら、何だ。
(……なんだよ、それ)
喉の奥で、苛立ちが小さく弾ける。構えていた分だけ、力の行き場がなくなる。張り詰めていたものが、別の形で残る。
ピチューが、かすかに動く。包みの方を見る。俺は視線を落とす。拾う。
匂いはまともだ。腐っていない。さっきまで漁っていたものとは、明らかに違う“食べ物”の匂い。
指先が、ほんの一瞬だけ止まる。
施し。
その言葉が、嫌な形で浮かぶ。
(……クソが)
奥歯が鳴る。それでも、腹は減っている。理屈は関係ない。体が要求している。
開ける。中身を取り出す。形の整ったそれを、そのまま口に運ぶ。
味がある。
ちゃんとした“食べ物”の味だ。舌がそれを認識する。だが、満たされるわけじゃない。底のない空腹は、そのまま残る。ただ、落ちていく速度が少しだけ緩むだけだ。
残りを、ピチューに差し出す。
ピチューは一瞬だけ俺を見る。迷いが、目の奥で揺れる。それから、包みへ。さっきより動きが速い。ためらいはあるが、拒絶はない。受け取る。口にする。
分かりやすい反応だった。体が理解している。これは“食べ物”だと。
黙って食べる。
俺も食べる。
言葉はない。噛む音だけが、路地に残る。外の通りのざわめきが遠くで流れているのに、この場所だけ切り離されたみたいに静かだ。
ふと、顔を上げる。
路地の入口。
そこには、もう何もない。
赤い帽子の少年は、いつの間にか消えている。足音も、気配も、残っていない。最初からいなかったみたいに、空白だけがある。
(……レッド、なのか……?)
答えは出ない。出るはずもない。ただ、残る。
施されたという事実。
それを、受け取った自分。
喉の奥に、引っかかる。
吐き出すほどのものでもない。飲み込めないほどのものでもない。中途半端に残って、感覚を濁らせる。
それでも、飲み込む。
腹は、まだ満たされていなかった。
ーーーーー
路地を抜けて、少しだけ開けた場所に出る。建物と建物の隙間、灯りの届き方が変わって、影の濃さがまだらになる。
さっきよりはマシだが、それでも森とは比べ物にならない。どこにいても“見える”。その感覚が、ずっと背中に貼り付いて離れない。
足音を殺す。意味が薄いと分かっていても、やらないよりはいい。石の地面は音を拾う。爪が触れるたび、小さく乾いた音が跳ねる。壁に当たって、返ってくる。
(……隠れづらい)
匂いも同じだ。流れが読めない。風が抜けているせいで、方向が定まらない。森なら、匂いで位置も距離も分かった。ここは違う。混ざって、散って、残らない。
視線を巡らせる。遠くに人間がいる。二人。並んで歩いている。腰の位置に、丸い影。ボール。中に何かいる。気配がある。閉じ込められている気配。
(……あれか)
捕まえられたポケモン。
森で見たことはない。あそこにいる連中は、全部“外”にいた。ここは違う。持ち歩かれている。管理されている。
数が違う。仕掛ければ、すぐに増える。逃げ場も少ない。この場所で戦う意味がない。
歩く。
ピチューは、やっぱり少し後ろだ。一定の距離を保ったまま、離れない。さっきよりは近いが、まだ触れない位置で止まる。人間の気配が近づくたびに、体が小さく震えるのが分かる。
通りの先、ひときわ強い灯りがあった。
夜だというのに、その一角だけ空気が白く滲んでいる。街灯とは違う。もっと高い位置から、広く均一に照らす光。影が薄く、地面の凹凸までくっきり浮かび上がっている。
その中心に、人影が一つ。
建物の縁に寄りかかるように立っている。動かない。ただ、そこにいる。
その前方、地面を占めるように、もう一つの影。
いや、影じゃない。
イワーク。
視界に入りきらない。岩の節が連なり、地面から突き出ている。一本の体が、ゆっくりと呼吸しているみたいにわずかに上下する。表面は粗く、削れた跡が無数に残っている。硬い、という言葉じゃ足りない。そこにあるだけで、周囲の空気を押しのけている。
(……でけぇな)
足が、無意識に止まる。
森で見てきた連中とは、明らかに違う。サイズも、重さも、存在の密度も。地面に“乗っている”んじゃない。“噛み合っている”。動けば、地形ごと変わる。そんな感覚。
視線を上げる。
頭部が、わずかに動く。小さな目が、前方を見据えている。こっちじゃない。だが、それでも分かる。意識の質が違う。
(……あれが、岩の主か)
言葉にしなくても、納得が先に来る。
ただの野生じゃない。
かといって、完全に縛られているわけでもない。
そこにいる人間――壁にもたれている影と、妙に噛み合っている。命令を待つというより、“次を知っている”動き。抑えられているようで、同時に、許されている。
静かな圧。
それでも――
弱いとは、思えない。
むしろ、明確に“上”だ。
低い声が落ちる。
「いくぞ」
短い。抑えた声。
だが、それだけで十分だった。
イワークが、動く。
地面が鳴る。
持ち上がるように、体がしなる。次の瞬間、前方へ滑るように突き出る。速い。あの巨体で、速度がある。重さがそのまま前に出る。
ーードゴォッ!!
岩がぶつかる音。空気が押し潰される。衝撃が、遅れて足元に届く。石の床が軋み、粉が舞う。
止まる。
だが完全には止まらない。次の節が前に出る。連なった体が順番に追いついて、すぐに形を戻す。
無駄がない。
動きが“続いている”。
(……はは)
思わず、喉の奥で笑いが漏れそうになる。
見ているだけで分かる。
強い。
あれとやれば、どうなる。
一瞬、想像する。
踏み込む。
届くか。
……無理だな。
(……勝てねぇ)
あっさりと、結論が落ちる。
挑む以前の問題だ。
イワークがもう一度動く。今度は角度を変える。地面を擦る音が、低く長く伸びる。軌道が変わっても、勢いは落ちない。むしろ、次に繋げている。
(……制御してやがる)
あの巨体を、あの精度で。
人間が。
視線が、そちらに向く。
壁に寄りかかったままの男。腕を組んでいる。無駄な動きはない。必要な言葉だけを落としている。
(……誰だよ、あいつ)
顔がよく見えない。
だが、分かる。
“使ってる”んじゃない。
“通してる”。
あのイワークの動きは、単独じゃない。
(あれがポケモントレーナー)
正面からやり合う意味はない。
ここは、あいつらの場所だ。
戦えば、どうなるかは見えている。
あれ一体で終わりじゃない。
人間がいる。
ボールがある。
増える。
逃げ場はない。
勝てない。
(……やる意味がねぇ)
視線を切る。
興味はある。
だが、それだけだ。
ピチューが、背後で止まっている。
動けていない。
イワークから目を離せずにいる。体が小さく震えている。怖いのか、圧に当てられているのか、その両方か。
一歩、下がる。
それでようやく、ピチューの視線が外れる。
俺を見る。
(……行くぞ)
声には出さない。
それでも、伝わる距離だ。
「……ぴちゅ」
小さく鳴く。
さっきより弱いが、それでも前に出る音。
俺は背を向ける。
歩く。
灯りから離れる。
背後で、岩がぶつかる音がもう一度鳴る。
振り返らない。
(……ここじゃねぇな)
はっきりと分かる。
この街は、“通る場所”だ。
留まる場所じゃない。
強い奴はいる。
だが、それ以上に、ここは“管理されている”。
俺の場所じゃない。
(……次だ)
小さく息を吐く。
後ろで、足音。
ピチューが、ついてくる。
ニビシティの灯りが、少しずつ遠ざかる。
岩の音も、やがて消える。
前は暗い。
それでも、足は止まらなかった。
リザード
レベル???
特性:もうか
技:ひっかく えんまく なきごえ りゅうのいかり? ひのこ?