ポケットモンスター 配信画面の境界線。100万人の「ナンジャモ様」ではなく、目の前の「君」だけに狂わされたいボクの末路 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
ハッコウシティの中央広場は、今日も情報の濁流に飲み込まれている。
「ナンジャモさん、こっち向いて!」「サインください!」「新曲のダンス、最高でした!」
全方位から飛んでくる声の矢を、私は完璧な軌道で受け流し、あるいは笑顔という盾で弾き飛ばす。
「おはこんハロチャオ! みんなの熱気、ボクのコイルがパンクしちゃいそうなくらいビンビンに届いてるぞー!」
跳ねるような声。完璧な身振り。
けれど、私の視界には、自分と彼らの間に張り巡らされた「透明な壁」がはっきりと見えていた。
「――はいはい、撮影タイムは終了! ナンジャモさんはこれから大事な『充電』の時間だから、道を開けてね!」
ミサキが事務的な手際で群衆を捌き、私をジムの専用車へと押し込む。
ドアが閉まった瞬間、防音材が外の世界の喧騒をシャットアウトした。
「……はぁ。今日も絶好調だね、ハッコウシティの皆さんは」
私はシートに深く沈み込み、重いコイルの髪飾りを一つ、指先で弄んだ。
「君の人気がインフレを起こしてる証拠だよ。で、どうだった? 今日の『ファンとの触れ合いイベント』は。少しは心が温まった?」
「……温まるわけないでしょ。ミサキだってわかってるくせに。ボクが今日、あそこの何百人と目が合ったと思う?」
「さあね。少なくとも君の瞳は、常に数万人の視聴者の平均値を探してたように見えたけど」
「正解。ボクが見てるのは、彼らの顔じゃなくて、彼らが掲げているスマートフォンのレンズなんだよ。レンズの向こう側にいる『数』と会話して、目の前にいる『人』とは一度も握手してない」
私は窓の外を流れる、キラキラとした街の光を見つめた。
人々は車の窓越しに私を指差し、歓声を上げている。けれど、この強化ガラス一枚が、私と世界を決定的に分断している。
「みんな、ボクに触れたがってる。でも、彼らが触ろうとしてるのはボクの皮膚じゃなくて、ボクというコンテンツの表面なんだよね。……透明な壁が、ずっとそこにあるんだ。ボクが『ナンジャモ』でいる限り、絶対に壊れない、冷たくて硬い壁がさ」
「……その壁があるから、君は壊れずに済んでるんじゃないの? あんな剥き出しの欲望に直接触れられたら、君みたいな繊細な回路は一秒でショートするよ」
ミサキは運転席からミラー越しに私を一瞥した。その目は、慰めではなく、冷徹なまでの事実を告げていた。
「壁の向こうは安全。でも、誰も入ってこれない。……ボクはさ、世界で一番有名なジムリーダーになって、世界で一番孤独な透明標本になっちゃったのかもね」
「……何、ポエマー気取ってるの。孤独が嫌なら、今すぐ車を止めて、あそこの人混みに飛び込んで『ボクを抱きしめて!』って叫べばいいじゃない。一分後には、別の意味で世界一有名になれるよ」
「……冗談でも最悪。……ボクは、この壁を愛してるよ。愛して、憎んで、それでもこれに寄りかかってなきゃ歩けないんだから」
私は膝の上で丸まっているハラバリーに手を伸ばした。
こいつだけは、壁の内側にいる。
こいつの体温だけが、透明な膜を透過して、今の私の指先を焼いている。
「……ミサキ。次の目的地、どこ?」
「ハッコウ電力とのタイアップ打ち合わせ。……その次は、ファンの子たちとのオンラインチャット会だよ。また『壁越し』の会話だね」
「……お望み通り。ボクは、最高に分厚い壁を作って、最高に透き通った笑顔を見せてあげるよ。……それがボクの、この街での戦い方なんだから」
車は、電子の海を滑るように進んでいく。
私は、自分を閉じ込めている透明な箱の感触を確かめるように、冷たい窓ガラスに額を押し当てた。
外はあんなに眩しいのに、ここには、私の吐息で曇った小さな、白く濁った世界だけが広がっていた。