ポケットモンスター 配信画面の境界線。100万人の「ナンジャモ様」ではなく、目の前の「君」だけに狂わされたいボクの末路 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
ハッコウシティの空が、ついに堪えきれずに決壊した。
電気代を滞納したわけでもないのに、街を彩っていたはずのネオンは水滴に滲み、まるで古い液晶パネルが壊れたような、不明瞭で冷たい色彩へと成り果てている。
「……あーあ。最悪。ボクの自尊心が、湿度100パーセントの重みで折れそう」
私は、ジムの通用口から一歩踏み出したところで立ち尽くした。
いつもならハッコウシティの誇る完璧な排水システムが機能しているはずだが、今日に限ってはその処理能力を嘲笑うかのような豪雨だ。
「ナンジャモさん、傘。さっさと差さないと、その高そうな髪飾りのコイルたちが漏電して、君自身が感電死するっていうギャグみたいなニュースが流れますよ」
背後から、事務的な冷たさを一切崩さないミサキが、ビニール傘を差し出してきた。
「……いらない。今日は、傘を差すだけの握力も残ってないの。……ねえ、ミサキ。この雨、ボクの代わりに空が泣いてくれてるって解釈していい? ライトノベルのヒロインっぽく」
「バカなこと言ってないで、早く入ってください。その衣装、特注でしょ。クリーニング代が君の月収一ヶ月分くらい飛ぶよ」
「……いいよ。もう、全部濡れちゃえばいいんだ。……第一、傘なんて差したところで、ボクの心の浸水は止められないし」
私はミサキの手を振り切り、土砂降りの街へと足を踏み出した。
一瞬で、世界が冷たくなった。
自慢の厚底の靴に水が入り込み、歩くたびにグチャリと、私のプライドを汚すような音が鳴る。
「……ねえ、見てよ、ミサキ。誰もボクを見てない」
街を行き交う人々は、自分の足元を濡らさないことに必死で、フードを深く被り、猫背で歩く私に気づく者は一人もいない。あんなに私を縛り付けていた「透明な壁」は、雨のカーテンというさらに分厚い壁によって上書きされていた。
「……当たり前でしょ。みんな生きてるんだから。君というコンテンツを消費する余裕があるのは、晴れてて、腹が膨れてる時だけ。雨の日は、誰もが自分の『生存』に手一杯なの」
ミサキは呆れたように言いながら、自分だけはちゃっかり傘を差して、私の後を追ってくる。
「……最高だね。ボク、今、この街で一番透明かもしれない。……ねえ、笑っちゃうよ。あんなに必死に作り上げた『ナンジャモ』が、たかだかH2Oの塊に負けて、こんなに簡単に消えちゃうんだから」
私は立ち止まり、天を仰いだ。
叩きつけるような雨が顔を打ち、完璧だったはずの表情をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。
髪飾りのコイルたちが、磁力を維持できずに力なく垂れ下がり、私の肩にその重みを預けてきた。
「……ムイ、ムイ……」
足元で、ハラバリーが雨を吸い込んで、いつもより二回りくらい重厚な声で鳴く。
「……ハラバリー。君はいいよね。雨に濡れても、君は君のままでいられる。……ボクは、この格好をして、この靴を履いてないと、自分が誰なのかも説明できないのに」
「……相変わらず、面倒くさい自意識の迷路を彷徨ってるね」
ミサキが隣に立ち、私の頭上に傘を差し掛けた。
途端に、激しい雨音がプラスチックの膜に遮られ、少しだけ静かな空間が生まれる。
「……傘、いらないって言ったのに」
「君が風邪を引いたら、明日の撮影スケジュールが全部白紙になる。それは私の職務怠慢になるの。……いい加減、諦めなよ。完璧じゃない自分を許せないのは、世界で君一人だけだよ、ナンジャモ」
「……ミサキに、何がわかるのさ」
「何もわからないよ。ただ、今の君が、画面の中にいるあのキラキラした人形より、ずっと『人間』らしくて見てられるってことくらいかな。……泥を跳ね上げて、震えながら立ってる君の方が、よっぽどハッコウシティの景色に馴染んでる」
私は、傘の柄を握るミサキの指先を見た。
白くて、細くて、私と同じように微かに震えている。
「……ふん。……今のボク、相当ひどい顔してるんでしょ。……隈も、崩れた化粧も、隠しようがないくらい」
「最悪だね。視聴者に見せたら、一晩でファンが半分に減るくらいの放送事故だよ」
「……なら、いいや。……半分減るなら、残りの半分は、このボクでも愛してくれるかもしれないし」
私は、ミサキが差し出した傘を、自分の手で握り直した。
相変わらず雨は激しく、街の光は滲んでいる。
けれど、濡れた靴の重さも、冷え切った指先の感覚も、今は不思議と心地よかった。
「……帰ろ。……お腹、空いた。……ハッコウシティで一番高くて、一番体に悪いジャンクフード、奢ってよ」
「……君の健康管理も私の仕事なんだけど。……まあ、今日くらいは、不法投棄されたゴミみたいな食事も許してあげるよ」
私たちは、雨に滲むハッコウシティの喧騒へと消えていった。
完璧な自分を演じるための靴音は、もう聞こえない。
けれど、アスファルトを蹴る不格好な足音だけが、今の私を確かに未来へと繋いでいた。