ポケットモンスター 配信画面の境界線。100万人の「ナンジャモ様」ではなく、目の前の「君」だけに狂わされたいボクの末路 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
ハッコウジムのバトルコート。照明は必要最低限に落とされ、ドローンカメラも今はスリープモードだ。配信という「フィルター」を通さない戦場は、驚くほど殺風景で、ただの無機質なコンクリートの塊に見える。
「……はぁ。ボクをこんな時間に呼び出すなんて、いい度胸してるよね。ギガも電力も有限だって、学校で習わなかったの?」
私は、寝癖を無理やり抑え込んだフードを深く被り、欠伸を噛み殺しながら目の前の挑戦者を見た。
そこに立っていたのは、ランクバトルでよく見かけるような洗練されたトレーナーではない。服は泥にまみれ、膝には擦り傷。手元のモンスターボールを握る指先が、隠しきれないほどガタガタと震えている少なからず「不格好」な少年だった。
「……お願いします。僕、どうしても、今のあなたと戦いたいんです」
「今のボク? 悪いけど、今のボクはバッテリー残量3パーセント以下のポンコツだよ。画面の中のキラキラしたナンジャモ様に会いたいなら、明日の朝まで待ちなよ」
「そうじゃなくて! 昨日の……雨の中のあなたを見たんです。一人で、ボロボロになって歩いてた、あの……」
少年の言葉に、心臓が跳ねた。
鏡を壊し、雨に打たれ、完璧な偶像が剥がれ落ちたあの醜態を見られていた。
「――っ、だったら余計に、戦う理由なんてないでしょ。今のボクは、君が憧れてるジムリーダーじゃない。ただの、機嫌の悪い女の子だよ」
「それでもいいです。僕は、あんなに必死な顔をしてる人を、初めて見たから。……だから、僕の全部をぶつけさせてください!」
少年が投げ出したのは、一匹のパモだった。
まだ進化もしていない、どこにでもいるようなポケモン。けれど、その瞳には、ハッコウシティのどんなネオンよりも純粋な、剥き出しの熱が宿っていた。
「……ちっ。ミサキ、見てるんでしょ。これ、バトルの規定違反で追い出していいよね」
影に控えていたミサキが、暗闇の中からタブレットの明かりに照らされた顔を出す。
「残念ながら、彼は正当な手続きで深夜の指名対戦権を行使してるよ。ジムの運営規定第8条。……受けてあげなよ。今の君には、こういう『不純物ゼロ』の暴力が必要でしょ」
「……あー、もう。どいつもこいつもボクを休ませる気がないんだから」
私は溜息を吐き、足元のハラバリーを軽く叩いた。
「ムイ」と、相棒が重厚な音を立てて前に出る。
バトルは、お世辞にもハイレベルとは言えなかった。
少年の指示は不器用で、タイピングミスのような致命的な隙だらけ。本来なら、数ターンで終わるはずの稚拙な攻防。
けれど。
「パモ、まだだ! 倒れるな! 届くんだ、その一撃!」
少年の叫びが、無人のスタジアムに反響する。
何度も弾き飛ばされ、地面を転がりながらも、パモはボロボロの体で立ち上がる。その必死な姿が、なぜか私の胸の奥を、チリチリと焼くような不快な熱で侵食していく。
「……しつこいよ。無駄だってわかんない? 数値も、戦術も、全部ボクが上なの。君のその『やる気』だけでひっくり返るほど、この世界は甘くないんだよ!」
「わかってます! でも、諦めたら、そこで僕の『本気』が嘘になっちゃうから!」
パモの放った電光石火が、ハラバリーの脇腹を掠める。
ダメージなんて微々たるものだ。けれど、その瞬間、私の指先が確かに熱を帯びた。
「……嘘。……そうだよ。ボクは、ずっとそうやって嘘をつかないために、自分を殺してきたんだっけ」
鏡を殴った時の痛みが蘇る。
完璧じゃない自分を許せなくて、化け物になってまで守ろうとした居場所。
目の前の少年は、その無惨な「本当」を、一歩も引かずに受け止めようとしている。
「……ハラバリー。もう、終わりにしよう。……ボクたちの、本気を見せてあげて」
最後の一撃。
眩い雷光がスタジアムを白く染め上げた後、そこには膝をつく少年と、力尽きたパモの姿があった。
「……僕の、負けです。……やっぱり、強かった」
少年は、悔しそうに顔を歪めながらも、どこかスッキリとした表情でポケモンをボールに戻した。
「……当たり前でしょ。ボクを誰だと思ってるの」
私はフードを脱ぎ、汗で張り付いた髪を乱暴にかき上げた。
完璧なナンジャモの顔じゃない。きっと、最高に不細工で、疲れ果てた顔。
「……ねえ。君。……名前は?」
「……タロウ、です」
「タロウくん。……次は、もっとマシな戦術を練ってきなよ。ボクのバッテリーを無駄遣いさせた罰として、次は完封してあげるから」
少年は目を見開き、それから、今日一番の笑顔で「はい!」と返事をした。
彼が去った後、再びスタジアムに静寂が訪れる。
「……で、どうだった? 不器用な挑戦者の熱に当てられた気分は」
ミサキが歩み寄ってくる。彼女の手には、いつの間にか二つのスポーツドリンクが握られていた。
「……最悪。筋肉痛確定。……でもさ、ミサキ」
私は、冷たいボトルを頬に押し当てた。
「……ちょっとだけ、放電できた気がする。……ボクの中に溜まってた、ドロドロしたものがさ」
「そう。なら、明日の朝一の収録は、もう少しマシな顔で映れそうだね」
「……ふん。余計なお世話だよ」
私は、誰もいないスタジアムを見渡した。
鏡の中の自分はまだ見つからないけれど。
少なくとも、今踏みしめているコンクリートの感触だけは、さっきよりもずっと、確かなものに感じられていた。