ポケットモンスター 配信画面の境界線。100万人の「ナンジャモ様」ではなく、目の前の「君」だけに狂わされたいボクの末路 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
午前四時。ハッコウシティの空は、夜の重たいインクが少しずつ薄まり、白濁した静寂に包まれていた。
私はジムのプライベートキッチンで、まな板の上に乗った無愛想なパンの塊と対峙していた。
「……なんでボク、こんなことしてるんだろ」
寝癖のついた髪を雑にポニーテールにまとめ、私は震える手で包丁を握る。
普段なら、ミサキが用意したカロリー計算完璧な栄養補助ゼリーか、デリバリーの映えるスイーツで済ませる時間だ。けれど、今の私の胃袋は、誰の意志も介在しない、純粋に私のためだけの「質量」を求めていた。
「ムイ?」
足元で、ハラバリーが不思議そうにこちらを見上げている。
「静かにしてて、ハラバリー。今、ボクは歴史的なクリエイティブ活動をしてるんだから。……あ、キュウリが滑った。ボクの動体視力を以てしても回避不能な軌道を描くなんて、やるじゃんこのキュウリ」
「……そのキュウリに負けてるジムリーダーの姿、世界中のファンに見せてあげたいよ」
背後の暗闇から、死神のように音もなくミサキが現れた。彼女はパジャマの上に薄いカーディガンを羽織り、ひどく眠そうな目で私の手元を覗き込む。
「……何、ミサキ。不法侵入? それとも、ボクの包丁捌きに惚れ直した?」
「仕事のメールで目が覚めたら、キッチンから殺意の籠もった刻み音が聞こえてきたから、防犯のために来ただけ。……何それ。サンドイッチ? 具材の厚みがバラバラすぎて、地層のモデルケースにでもするつもり?」
「うるさい。これは『カオス・サンド』なの。食べる場所によって味が変わる、ランダム要素の強いエンタメ飯だよ」
私は、不格好に切られたハムと、厚さが均一でないチーズをパンの間に無理やり押し込んだ。マヨネーズの量は明らかに過剰で、端からダラリと漏れ出している。
写真に撮れば「バズり」ではなく「炎上」しそうな、ひどく不細工な食べ物。
「……はい。ミサキの分。これ食べて、ボクに対するそのトゲのある語彙をマイルドにして」
「……毒味は君が先でしょ。……まあいいけど。お腹空いてたし」
私たちは、キッチンのカウンターに並んで座った。
外では、ハッコウシティの象徴である巨大ビジョンが、無人の広場に向かって虚しいほど明るい広告を垂れ流し始めている。
「……ん。……味、濃いね。マヨネーズが暴力の味がする」
ミサキは眉を寄せながらも、不格好な一切れを口に運んだ。
「でしょ。誰かの健康とか、視聴者の好感度とか、そういうのを全部無視して、ボクの脳が求めてる脂質と塩分だけを詰め込んだんだから。……ねえ、ミサキ。ボク、今までで一番美味しいかもしれない、これ」
「……君の味覚、ついに過労で壊れた?」
「壊れてないよ。……今まで食べてきたものはさ、全部『ナンジャモ』の血肉になるためのガソリンだったんだ。でも、これは……今の、このひどい寝癖で、靴も履いてないボクのためだけの食事。……形は悪くても、ボクがボクのために作ったっていう事実だけで、喉を通る時の感触が全然違うんだよ」
私は、口の周りにマヨネーズをつけながら、夢中でサンドイッチを頬張った。
パンの耳が少し硬くて、顎が疲れる。けれど、その確かな咀嚼の感覚が、昨夜まで胸に詰まっていた「言葉のトゲ」を、少しずつ押し流してくれるような気がした。
「……そ。なら、事務員としても見逃してあげるよ。……その、およそプロ意識の欠片もない、食べかけの惨めなサンドイッチを愛でる少女の姿はさ」
ミサキは最後の一口を飲み込み、私の横顔をじっと見つめた。
「……でも、次はもう少しキュウリを薄く切りなよ。……顎、外れるよ」
「……次はミサキが切ってよ。ボクは、具材を積み上げる監督(ディレクター)に専念するから」
「……それ、結局私が作ってるのと一緒じゃない?」
夜明けの光が、キッチンのステンレスを白く染めていく。
街が「ナンジャモ」を呼び覚ますまで、あと数時間。
私は、最後の一片を口に放り込み、幸せな重みを胃に感じながら、小さく笑った。
誰のためでもない、私のためだけの夜明け。
その味は、どんな高級なスイーツよりも、ひどく不器用で、ひどく自由な味がした。