ポケットモンスター 配信画面の境界線。100万人の「ナンジャモ様」ではなく、目の前の「君」だけに狂わされたいボクの末路 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
ジムリーダー室の気圧は、外のハッコウシティが晴天であろうとお構いなしに、いつも底冷えしている。
私はデスクに突っ伏し、指先に残るキーボードの感触と、網膜に焼き付いた数字の残像を振り払おうと目を閉じた。けれど、暗闇の中では、放電しきれなかった感情が、逃げ場を失った電子のようにパチパチと私の神経を逆撫でしてくる。
「……ムイ」
ハラバリーが、心配そうに私の足元に体を寄せてきた。
その湿った感触さえ、今はひどく重たく感じて、私は無意識に足を引いた。
「……ごめん。今は、誰の体温も受け付けられないんだ」
「――それ、私に対しても有効? 有効だとしても、報告書は物理的に君のデスクに積まれる運命にあるけど」
ドアを開けて入ってきたのは、相変わらず私のパーソナルスペースを更地にする天才、ミサキだ。
「ミサキ。今すぐその報告書をシュレッダーにかけて、ついでに私の意識もシャットダウンして。……もう、一ミリも『ナンジャモ』を動かす電力が残ってない」
「知ってるよ。さっきの収録、笑顔の口角が0.5ミリ下がってた。視聴者には『ミステリアスな大人っぽさ』って解釈されてたけど、私の目には『今すぐ逃げ出したい不機嫌な子供』にしか見えなかったね」
ミサキは報告書の束を置くと、私の隣に椅子を引き寄せた。
「何が溜まってるの。第2クールの撮影は順調。好感度指数も安定。サンドイッチだって不格好なりに美味しかったでしょ」
「……わかんないよ。わかんないから、こんなに苦しいんじゃん」
私はデスクから顔を上げ、ミサキを睨みつけた。視界が、不自然に潤んでいる。
「サンドイッチを食べて、自分のために笑って、不器用な挑戦者に当てられて……。それで全部解決して、『本当の私』が見つかって、めでたしめでたしってなると思ってた。……でも、違うんだよ。中途半端に『私』を思い出したせいで、余計に『ナンジャモ』との境界線がガタガタになって、どっちの足で地面を踏んでるのかもわかんなくなっちゃったんだよ!」
声が震える。
今まで、完璧なロジックと放送用のテンプレートで封じ込めてきたドロドロとした何かが、喉の奥までせり上がってくる。
「ボクは、ナンジャモでいなきゃいけない。でも、ボクはただの私でもいたい。……そんなの無理だよ。ボクの体は一つしかないのに、二つの人格が互いに放電し合って、中身はもう真っ黒に焦げ付いてるんだよ!」
「……放電しなよ。溜め込むから苦しいんでしょ。電気タイプが一番やっちゃいけないのは、絶縁体に閉じこもることだって、君が一番知ってるはずだけど」
「放電できるわけないじゃん! 誰に!? ファンの前で泣く!? ミサキに八つ当たりする!? そんなの、ダサすぎて死にたくなるよ!」
「ダサくていいじゃん。……誰も見てないよ。ここは、透明な壁の内側でしょ」
ミサキの声が、不意に、事務的な響きを脱いで、柔らかい毛布のように私の肩に落ちた。
「……っ」
その一言が、私の最後の防壁を、あっけなく粉砕した。
目から、溢れ出したのは涙なんて綺麗なものじゃない。それは、言葉にできなかった不満、恐怖、孤独、そして自分への苛立ちが混ざり合った、濁った熱量だった。
私は、デスクを拳で叩きながら、子供のように泣きじゃくった。
みっともない。格好悪い。ジムリーダーの威厳も、インフルエンサーの矜持も、全部この涙と一緒に床に垂れ流して、私はただの、弱くて不器用な一人の女の子として崩れ落ちた。
ミサキは何も言わなかった。
慰めるような甘い言葉も、分析的な助言も。
ただ、私の背中に静かに手を置き、その「放電」が嵐のように過ぎ去るのを、隣で黙って受け止めていた。
「……はぁ。……はぁ。……ひどい。ボクの顔、今、世界で一番不細工」
どれくらいの時間が経っただろうか。
涙が枯れ、呼吸が整い始めた頃、私はぐちゃぐちゃになった袖で目を擦りながら呟いた。
「同感だね。これじゃあ、解像度4Kのカメラには耐えられない。……でも、心拍数は安定したみたいだ」
ミサキはいつの間にか用意していたウェットティッシュで、私の汚れた顔を乱暴に拭った。
「……ミサキ。……ボク、少しだけ、軽くなったかも」
「電気を使い切ったあとの、心地よい脱力感でしょ。……いいよ、今日はもう寝な。報告書のチェックは、明日の私が『未来の自分』に丸投げしといてあげるから」
「……最低な事務員。……でも、ありがと」
私は、空っぽになった心の中に、ハッコウシティの夜風が少しだけ吹き込んでくるのを感じた。
放電しきった後の闇は、意外にも静かで、穏やかだった。
私は、まだ赤く腫れた目で、けれど少しだけ晴れやかな心で、相棒のハラバリーを今度こそ優しく抱き寄せた。