ポケットモンスター 配信画面の境界線。100万人の「ナンジャモ様」ではなく、目の前の「君」だけに狂わされたいボクの末路 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
ハッコウシティを囲む海は、夜になると街の明かりを吸い込んで、毒々しいほどに深い青色へ変わる。
その境界線である防波堤の上に、私は一人で座っていた。
「……ムイ、ムイ……?」
足元でハラバリーが、寄せては返す波の音に合わせるように、のんびりと瞬きをしている。
ここには巨大ビジョンも、自分を追いかけてくる自意識の残像もない。ただ、少しだけ生臭い磯の香りと、冬が近いことを知らせる冷たい風があるだけだ。
「……寒いなぁ。……ねえ、ハラバリー。この風、何ボルトくらいあると思う?」
「ムイ」
「だよね。計測不能。ボクの心の電圧計も、今は針が死んでるし」
私はオーバーサイズの袖に顔を埋め、溜息を吐き出した。
その溜息さえも、風に拐われて闇に溶けていく。
「――あーあ、やっぱりここにいた。ナンジャモ、君を探すのには、ハッコウシティの検索エンジンより私の勘の方が優秀みたい」
背後から聞こえてきた、聞き慣れた皮肉混じりの声。
振り返らなくてもわかる。ジムの運営スタッフであり、私の「裏」を管理するミサキだ。
「……何。もう今日の仕事は全部終わったはずだよ。今はボク、ただの迷子のクラゲになってる時間なの」
「迷子のクラゲにしては、その髪飾りのコイルたちが威嚇射撃の準備をしてるけど? ほら、放電を止めさせて。私の端末が壊れたら請求書は君に回すから」
ミサキは私の隣に、無造作に腰を下ろした。手には、温かい缶コーヒーが二つ。
「はい。今の君に必要なのは、高い靴音じゃなくて、糖分とカフェインでしょ」
「……ありがと。でも、コーヒーはブラック派って設定、ボクのプロフに書いてなかったっけ?」
「あれはファン向けの公式プロフ。今の君は、砂糖をこれでもかと入れた激甘のカフェオレを、泣きそうな顔で啜りたい気分のはずだよ」
図星を突かれ、私は黙って缶を受け取った。
プルタブを開けると、甘ったるい香りが鼻腔をくすぐる。
一口飲むと、安っぽい砂糖の味が、冷え切った喉をじりじりと焼くように通り過ぎていった。
「……ねえ、ミサキ。この街ってさ、青いよね」
「……ハッコウシティのコンセプトカラーだしね」
「そうじゃないよ。光が多すぎて、影が全部、深い青色に塗り潰されてる気がするんだ。……ボクも、その影の一部なんじゃないかって、たまに思う」
私は遠くに見える、煌々と輝く市街地を見つめた。
あそこには、何万人もの期待と、欲望と、称賛が渦巻いている。
その中心で踊り続けている「ナンジャモ」という光。
けれど、光が強ければ強いほど、その直下にある影は濃くなる。
「みんながボクを見て『眩しい』って言うたびに、ボクの中の青い影がどんどん広がっていくんだ。いつか、この影が光を飲み込んじゃったら、ボクはどうなっちゃうのかな」
「……飲み込まれたら、その時はただの『女の子』に戻るだけでしょ。別にかまわないじゃない。君がジムリーダーを辞めたって、世界は回るし、ハッコウシティの電気は消えない」
「……ミサキって、本当にデリカシーがないよね。そこは『君がいないと夜は明けない』くらい言えないの?」
「お世辞を言っても同接は増えないよ」
ミサキは空を見上げ、短く笑った。
「でもさ。その『青い影』を抱えてるからこそ、君の放つ光は誰かの救いになってるんじゃない? 完璧な光なんて、眩しいだけで目が潰れる。君が抱えてる憂鬱は、君の光を優しくするためのフィルターだよ」
「……フィルター、か。……そんなに、高価なものじゃないよ。ただの、臆病な私の抜け殻」
私は最後の一口を飲み干し、空き缶をぎゅっと握りしめた。
パコン、と軽い音が、夜の海に響く。
「……さて。そろそろ帰ろ。あんまりここにいると、ハラバリーが塩分でふやけちゃうし」
「そうだね。明日の配信は『寝起き風・ハッコウシティの朝焼けライブ』でしょ。隈の消しゴムマジック、強めにかけてあげるから」
「……ふん。余計なお世話」
私は立ち上がり、再び「ナンジャモ」の輪郭を整える。
海風に乱された髪を直し、コイルたちの出力を調整し、そして――。
胸の奥に広がる、消えない「ブルー」を、無理やり笑顔の裏側に押し込める。
「おはこんハロチャオ、ミサキ。明日は、今日よりももっと眩しいボクを見せてあげるから、覚悟しときなよ?」
「はいはい。楽しみにしてるよ、トップ配信者様」
私たちは、青い闇に沈む防波堤を後にした。
背後で、ハッコウシティの海がまた一つ、波の音を立てて私の溜息を飲み込んでいく。
明日もまた、街は電気の粒に満たされ、私はその光の中で、誰にも言えない孤独を踊り続けるのだ。