今日は短めです。
どうぞ!
朝日杯が終わった後、俺は美浦トレセンへ戻ってきた。レースの熱狂はまだ耳に残っている。だが、厩舎の空気はどこか静かで、冬の冷たい風が通り抜けていく。
『……ここに帰ってくると、落ち着くなぁ』
あの大歓声の余韻が、まだ身体の奥で震えている。けれど、この静けさは嫌いじゃない。ここは俺が“走る馬”として過ごしてきた場所だ。
不二沢さんは俺の首を撫でながら言った。
「よく頑張ったな、ソブリン。お前はしばらく故郷で長期の放牧に出して、身体を休めよう」
『うん……ちょっと疲れたかも』
言葉にしてみると、胸の奥がふっと軽くなった。レースの緊張がようやく解けて、身体の芯がじんわり温かくなる。久しぶりに故郷に帰るのか……あの広い空、冷たい風、草の匂い。思い出すだけで胸が少し熱くなる。
『……みんな、元気かな…特にサム…』
そんな思いを胸に抱きつつ、俺は素直に頷いた。
その日の昼下がり。もう明日にはここを出て、故郷に帰って心身共にリラックスできる――そう気を抜いていた矢先だった。
「そういえば、次の有馬でゼンノロブロイが引退か…」
「そうだった…家の稼ぎ頭だったのに…俺の懐がさみしくなるぜ…」
見知った調教師さん達の声が、冬の空に溶けていく。ゼンノロブロイ。美浦の“ボス”と呼ばれた名馬。俺にとっては、厩舎で一番頼りになる兄貴分だった。
『ロブロイさん……引退……?』
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
聞きたい。本当なのか、どう思っているのか。すぐ隣に聞くだけなのに――
『……聞けないよ……』
ロブロイさんは俺よりずっと大人で、ずっと強くて、俺が馬としてどう生きるのかを教えてくれた大切な方だ。そんな存在に、「本当に引退するんですか?」なんて……怖くて聞けなかった。
もし聞いてしまったら、本当に二度と会えなくなるような気がして。
その夜、俺は厩舎の中でほとんど眠れなかった。
翌日。放牧地へ向かう馬運車の前。そこには、すでにロブロイさんが立っていた。黒鹿毛の大きな馬体。落ち着いた瞳。どこか悟ったような表情。
「よぉ、ソブリン」
『ロブロイさん……』
ロブロイさんはゆっくりと近づき、俺の首に鼻先を寄せた。
「人間たちの言う、てれび?ってやつでお前のレース見てたぞ。お前……強くなったな」
『えへへ……ありがとう』
ロブロイさんは少し笑って、そして静かに言った。
「……俺はもう引退だ。次のレースが最後になるらしい」
『……うん』
「だからよ――」
ゼンノロブロイはソブリンの目をまっすぐ見た。
「後のボスの座は、お前に任せる。美浦のやつらをまとめるのは、お前しかいねぇ」
『ぼ、ボス!? 俺が!?』
「そうだ。お前ならできる。お前より歳上のやつらもお前なら認めるはずだ」
俺は胸が熱くなった。そんなことにかまわず、ロブロイさんは続ける。
「それにな……お前も種牡馬になれば、また一緒に暮らせるはずだからよ…頑張れ。俺が負けたレース全部獲れ」
『……ロブロイさん……』
冬の風が吹き抜ける。空は澄んでいて、どこまでも青かった。そして、不二沢さんが、馬運車の扉を開けた。
「ソブリン、行くぞ。しばらくゆっくりしてこい」
『……うん』
俺は一歩、また一歩と馬運車へ向かう。そのたびに、胸の奥がじんわり熱くなる。ロブロイさんが、すぐそばまで歩み寄ってきた。
「行け、ソブリン。これからはお前の時代だ。」
その言葉が、胸の奥に深く刻まれる。俺は振り返り、ロブロイの姿をしっかりと目に焼き付けた。
『ロブロイさん……俺、絶対に強くなるから!!』
そして――天に向かって首を伸ばし、腹の底から声を放った。
「ヒィィィィィィィィィィィィン!!!!!」
冬空に響く、別れの嘶き。ロブロイさんは静かに頷き、その瞳はどこまでも優しかった。俺は馬運車に乗り込み、扉がゆっくり閉まる。エンジンがかかり、車体が動き出す。ロブロイさんの姿が、少しずつ遠ざかっていく。
『……絶対に、また会おうね』
俺はその姿を、いつまでも、いつまでも見つづけていた。
実際、ソブリンはロブロイさんと同じところの種牡馬になれるのか?