衝撃のその先へ…   作:アグD

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岡戸さんの裏側です。
どうぞ!


幕間:騎手①

 

2005年の春。

岡戸和夫は、静かに自分の“終わり”を悟っていた。

 

中央競馬の歴史に名を刻んだ名手。数々の名馬と共に走り、幾度もG1の栄光を掴んだ。

 

そして今――彼は、中央競馬史上初の通算3000勝を目前にしていた。

 

だが、岡戸自身はその記録に対して一切の迷いも執着も持っていなかった。

 

『記録なんてものは、結果としてついてくるだけだ』

 

彼はいつもこう考えていた。

 

『焦ってやろうとしても、背伸びしてやろうとしても、身につくものじゃない』

 

だからこそ、

『今、与えられたことを、今、自分ができることを、ただ自然体で積み重ねていく』

ただ、それだけを心掛けてきた。

 

その“自然体の努力”が、気づけば歴史的な数字を積み上げていた。

 

だが――その岡戸でさえ、ある日、はっきりと気づいてしまった。

 

身体が、もう昔のようには動かない。

 

馬がわずかに外へ張った時、

昔なら反射で内へ戻せた。

だが今は、一瞬遅れる。

 

その“一瞬”が、勝負の世界では致命的だった。

 

(……俺はもう、思い通りに馬を動かせていない)

 

その事実を認めた瞬間、

胸の奥に冷たい穴が空いた。

 

(こんな状態で、馬に乗る資格なんてない)

 

そして、静かに決意した。

 

 

――騎手を辞めよう。

 

 

だが、その決意には

ひとつだけ、どうしても拭えない“後悔”があった。

 

『……ルドルフのような馬に、最後にもう一度乗りたかった』

 

シンボリルドルフ

皇帝と呼ばれた名馬。

岡戸が心から惚れ込んだ馬。

 

あの馬の背中にもう一度――

そう思うたびに、胸が締め付けられた。

 

(もう、あんな馬には出会えないだろう)

 

そう思っていた。

 

その時だった。

 

「そういえばさ、うちの日高に“テイオーの仔”がいるんだよね…」

 

知人の何気ない一言が、

岡戸の心をわずかに揺らした。

 

(テイオーの……仔?)

 

トウカイテイオー

華麗で、軽やかで、強くて、賢くて――

ルドルフの後継として輝いた名馬。

 

その血を引く馬が、日高にいる。

 

岡戸は思わず問い返した。

 

「どういうことだ? 今の血統の主流はサンデーサイレンスのはずだが…」

 

知人は肩をすくめて言った。

 

「いやさ、06世代ってサンデーサイレンスが途中で種付けを中止しただろ? そのせいで、アストレアの種付けができなかったんだよ」

 

「それでも、その親のアストレアは父トニービンの良血じゃなかったか? 昔、お前がそんなことをぼやいていた気がするが…」

 

「そうなんだよ。しかもそのアストレアがなかなか受胎しなくてな。色々と父親を変えてみても受胎しなくて、もう13歳だし……“そろそろ引退させてあげたい”って話になってたんだ」

 

知人は続けた。

 

「そこで最後の望みでサンデーサイレンスを頼んだんだが、中止されちゃってさ。本当に困ってたんだよ。そこで、たまたま近くで種付けしていたトウカイテイオーに白羽の矢が立ったってわけ」

 

「いや、それでもほかにいい選択肢はあったんじゃないか?」

 

「まぁ、後になって色々と揉めたけど……あの時は“それしかない”と思ったんだ。運命ってやつだよ」

 

「運命か……」

 

岡戸は、ふと空を見上げた。

 

『そしたら、俺がこの話を“今”聞けたのも……運命なのかもしれないな』

 

胸の奥で、何かが小さく灯った。

 

『よし……決めた。最後にその馬を見てから引退しよう』

 

引退前の“最後の旅”のつもりで、

岡戸は日高へ向かった。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

「お! 岡戸来たか! お前なら、テイオーの仔の話をしたら来ると思ってたよ!」

 

岡戸が牧場に着くと、軽い挨拶と共に知人が少し苦しそうにしながら言った。

 

「……ただな、そのテイオーの仔、売れ残ってるんだよ」

 

「売れ残り……? どうしてだ?」

 

知人は苦笑しながら、指を一本立てた。

 

「理由は単純だ。デカすぎるんだよ」

 

「デカい?」

 

「今の時点で500kg近い。

 このまま成長したら550kgは確実だって言われてる」

 

岡戸は思わず息を呑んだ。

 

大型馬は迫力がある。

だが――

 

「……大型馬は怪我しやすい」

 

「そう。あんたも知ってるだろ?脚元に負担がかかるし、調整も難しい。しかも――」

 

知人は声を潜めた。

 

「テイオーの仔だ」

 

岡戸の胸が、ズキリと痛んだ。

 

トウカイテイオー。

華麗で、強くて、賢くて――

だが、怪我に泣かされた名馬。

 

「ただでさえテイオーの血は結果が出ていないのに、“怪我のリスク”を考えると、買う人はどうしても少なくなるんだよ」

 

知人は肩をすくめた。

 

「愛嬌はあるし、柔軟性もある。テイオーの良さをちゃんと受け継いでる。しかもルドルフのような賢さも持ち合わせている。その上、うちの牧場で一番強い馬だ。だけど――“デカすぎる”ってだけで敬遠される」

 

岡戸は黙って聞いていた。

 

(愛嬌があって、賢くて、柔らかい……

 それでいて、テイオーの血……)

 

知人は続けた。

 

「気性が荒いとか、扱いづらいって噂はあるがな……

 実際はまったく逆だ。あいつは驚くほど真面目で、頭も良い。

 ただ――デカすぎるんだよ」

 

岡戸は眉をひそめた。

 

「デカいだけで、そんなに?」

 

「そうだ。あの体格だと、近づくだけでビビるやつが多い。馬自身は悪くない。むしろ、周りが勝手に怖がってるだけだ。あいつは賢いから、それを分かってて“舐められないように”必要最低限だけ強く見せてるんだよ」

 

知人は肩をすくめた。

 

「愛嬌もあるし、柔らかさもある。テイオーの良さをちゃんと受け継いでる。でも――あのサイズでテイオーの血だ。怪我のリスクを考えたら、手を出す人間はどうしても少なくなる」

 

知人は小さく息を吐いた。

 

「……だからこそ、あんたに見てほしかったんだ。本物かどうかを、判断できるのは、もうあんたくらいしかいない」

 

(本物かどうか、か……)

 

胸の奥が、じわりと熱くなる。

 

「……その仔は、どこにいる?」

 

「こっちだ。放牧地に出してある」

 

知人に案内され、牧場の奥へと歩いていく。風が少し強くなり、草の匂いが濃くなった。柵の向こう、広い放牧地の中で、数頭の若い馬たちが草を食んでいる。

その中に――ひときわ目を引く黒い影がいた。

 

「……あれか」

 

陽の光を吸い込んだような黒い馬体。

まだ成長途中だというのに、他の馬より一回りも二回りも大きい。

だが、その巨体は鈍重さとは無縁で、

一歩ごとにバネが弾けるような柔らかさがあった。

 

他の馬がちょっかいを出しても、

最初は軽く受け流し、

それでもしつこく絡んでくると、

最小限の動きで頭をコツンと当てて黙らせる。

 

(……無駄がない。

 力任せじゃない。

 ちゃんと“加減”を知っている)

 

岡戸は、思わず息を呑んだ。

 

「どうだ?」

 

知人が横で問いかける。

 

「……確かにデカいな。

 だが、脚の運びは軽い。

 背中も柔らかそうだ」

 

黒い馬――ダークソブリンが、ふとこちらを向いた。

大きな黒い瞳が、じっと岡戸を捉える。

 

(目が……いい)

 

ギラついているわけでも、怯えているわけでもない。

強さと好奇心と、ほんの少しの警戒心。

それでも、こちらを“測る”ような冷静さがあった。

 

「ソブリンー。こっち来い」

 

知人が声をかけると、ソブリンはゆっくりと歩いてきた。

近づくにつれて、その大きさがはっきりと分かる。

 

(……確かに、これは怖がられるかもしれんな)

 

柵越しに目の前まで来たソブリンは、

しばらく岡戸をじっと見つめ――

 

ペロッ。

 

「……おい」

 

さらにもう一度。

 

ペロペロッ。

 

「ちょ、やめろ、くすぐったいぞ」

 

知人が吹き出した。

 

「ははっ! やっぱりやったな。それ、ソブリンの“歓迎の印”なんだよ」

 

岡戸は、思わず笑ってしまった。

 

(……なんだ、こいつ)

 

さっきまで胸の奥にあった冷たい穴が、

少しだけ埋まっていくような感覚があった。

 

ソブリンは、もう一度だけ岡戸の手を舐めると、

満足したように鼻を鳴らした。

 

(愛嬌があって、賢くて、柔らかい。

 それでいて、この馬体、このバネ……)

 

胸の奥で、はっきりとした言葉が浮かぶ。

 

(――こいつは、走る)

 

「……なぁ」

 

岡戸は、柵越しにソブリンの首筋をそっと撫でながら言った。

 

「この馬、本当に買い手がついていないのか?」

 

「ああ。何人も見に来たが、みんな首を横に振って帰っていったよ。

 “リスクが高すぎる”ってな」

 

知人の声には、諦めと悔しさが滲んでいた。

 

「このままだと、どうなる?」

 

「安い値段でどこかに流れるか、

 最悪、行き先が決まらないまま……ってことも、なくはない」

 

その言葉に、岡戸の胸がきゅっと締め付けられた。

 

(こんな馬が……そんな終わり方をするのか)

 

ソブリンは、何も知らない顔で、

また草を食べ始めている。

 

(ルドルフのような馬に、最後にもう一度乗りたかった――

 そう思っていた俺の前に、

 テイオーの仔が現れて、

 しかも、こんな馬が売れ残っている)

 

「……なぁ」

 

岡戸は、自分でも驚くほど静かな声で言った。

 

「この馬を、救いたいと思ったら――私は、何から始めればいい?」

 

知人は、少しだけ目を見開き、

すぐに真剣な表情になった。

 

「まずは、預け先だな。信頼できる調教師を探すこと。それから、馬主だ。金を出してくれる人間がいなきゃ、どうにもならない。 まぁ、騎手はお前がやるからいいだろう…」

 

(調教師……馬主……)

 

岡戸の頭に、ひとりの顔が浮かんだ。

 

(不二沢……)

 

そして、長年共に戦ってきた騎手仲間たちの顔も。

 

(そうか。まだ、やれることはある)

 

ソブリンが、ふとこちらを振り返る。

その黒い瞳が、まっすぐに岡戸を見つめていた。

 

(お前がここにいるのが“運命”なら――俺が動くのも、きっと“運命”だ)

 

岡戸は、そっとソブリンの首をもう一度撫でた。

 

「……分かった。私が、動いてみるよ」

 

その声は、自分でも驚くほど落ち着いていて、

しかし芯の通った響きを持っていた。

 

知人は目を見開き、すぐに顔をほころばせた。

 

「本当に動いてくれるのか!いやぁ……ありがたいよ。お前ほどの男が力を貸してくれるなら、きっと道が開ける」

 

だが、すぐに表情を曇らせる。

 

「こっちでもな、最近メイショウの松本さんがもう一頭探してて、この仔の話をしたら“ちょっと興味ある”って言ってくれたんだ。だから、もう一度頼んでみるつもりだが……」

 

知人は苦しげに続けた。

 

「正直、あのサイズと血統だ。断られる可能性の方が高い。だから……頼む。お前の力も貸してくれ」

 

岡戸は静かに頷いた。

 

「任せてくれ。私にできることは、全部やってみるよ」

 

その言葉は、

まるで自分自身に言い聞かせるようでもあり、

ソブリンに誓うようでもあった。

 

 

 





デカすぎんだろ……

あと、ヒロインの一人?一匹は決めてあるんですけど、書いて欲しい子がいたら感想で教えてください!行けそうだったら組み込みます。
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