ポケットモンスター 窓際警部の逆転劇。あなぬけのヒモ一本で、悪の組織を全滅させて、壊れた世界を繋ぎ直す話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
摩天楼が空を突き刺し、行き交う人々が波のように押し寄せる街、ヒウンシティ。イッシュ地方の心臓部とも言えるこの場所は、常に湿った潮風と排気ガスの匂いに満ちている。
俺は、細い路地の奥にあるカフェのテラス席で、冷めきったコーヒーを眺めていた。
「……俺はハンサム。世界で一番、不釣り合いな意味の名前を持つ男だ」
口の中で転がした独白は、都会の喧騒に飲み込まれて消える。ホウエンで記憶を失い、国際警察に「再保護」されてから、俺にはこの偽名が与えられた。組織が俺に付けたこの名前は、汚れ仕事を隠すための安っぽいメッキのようであり、同時に、過去を奪われた俺という存在を嘲笑う刻印のようでもあった。
「……何を難しい顔をしているんだ、グレッグル。そんなに見つめても、このコーヒーはもう美味くないぞ」
足元で喉を鳴らすグレッグルに視線を落とす。シンオウで出会い、共に修羅場を潜ってきた「二代目」の相棒だ。こいつの不敵な笑みだけが、今の俺にとって唯一の現実だった。
今回の任務は、イッシュ地方を震撼させた秘密結社、プラズマ団の残党、七賢人の追跡だ。彼らはかつて「ポケモンの解放」を説き、世界を二分しようとした。王と呼ばれた少年、Nを担ぎ上げて。
「ハンサム特捜官、聞こえるか」
耳の奥に埋め込まれた通信機から、冷徹な事務方の声が響く。
「……ああ。良好だ。こちらヒウン、第4埠頭付近。ターゲットの目撃情報は?」
「北側の路地、プライムピア周辺だ。奴らはまだ潜伏している。速やかに接触し、身柄を確保せよ。抵抗する場合は、相応の処置を許可する」
「『相応の処置』か……。相変わらず、物騒な言い草だな」
俺は立ち上がり、コートの襟を立てた。
組織は俺を信じていない。記憶を失い、一度は「死んだ」はずの男。彼らが俺に求めているのは、正義の追求ではなく、汚れを確実に拭い去るための掃除屋としての機能だ。俺に付けられた「ハンサム」という名も、実のところ、俺という個人の抹消を意味しているのではないか。そんな疑念が、霧のように胸の奥に澱んでいた。
「行くぞ、グレッグル」
霧の深い路地裏へと足を踏み入れる。ヒウンの迷宮は、光と影のコントラストが激しい。華やかなメインストリートから一歩外れれば、そこは廃棄されたコンテナと野良ポケモンたちの縄張りだ。
「……いたな」
路地の突き当たり、古びた倉庫の前に立つ人影。プラズマ団の象徴である奇妙な装束を纏った男が、一人、霧の中に佇んでいた。七賢人の一人、アスラだ。
「……誰だ。我々の眠りを妨げる者は」
アスラが静かに問いかける。その声に敵意はなく、ただ深い疲弊と、失われた理想への未練が混じっていた。
「国際警察だ。アスラ、君を現行犯で拘束する。無駄な抵抗はやめて、大人しく同行してもらおうか」
「国際警察……。法の名の下に、我々を裁きに来たというわけか。だが、君たちの守る法とは何だ? 弱者を切り捨て、秩序という名の枷をはめるための道具ではないのか?」
「……。俺に思想を説いても無駄だ。俺はただの執行官だよ」
俺はモンスターボールを手に取る。だが、アスラは動こうとしなかった。彼はただ、霧の向こうにある高層ビル群を見つめている。
「我々は間違っていたのかもしれない。だが、N様が見ようとした夢までが間違いだったとは思いたくない。君、名前は?」
「……ハンサムだ。……不釣り合いな名前だがな」
「ハンサム……。偽りか、真実か。君の瞳には、組織の犬としての光ではない、迷いと悲しみが宿っている。……いいだろう。抵抗はしない。だが、覚えておくがいい。真実は、常に霧の向こう側にあるのだ」
アスラは静かに両手を差し出した。
俺は手錠を取り出し、その手首にかけた。金属が噛み合う冷たい音が響く。
「……確保した。これより本部に移送する」
通信機に向かって短く告げる。だが、胸の奥のモヤモヤは晴れなかった。
プラズマ団という組織は、確かに法を犯した。世界を混乱に陥れた。だが、彼らが追い求めた「真実」の欠片は、今、俺を縛り付けているこの「組織の正義」よりも、ずっと純粋だったのではないか。
俺に偽名をつけ、都合のいい道具として再利用する国際警察。
理想に破れ、霧の中に消えゆく七賢人。
どちらが正しいのか、今の俺には判断がつかない。
「……グレッグル、帰るぞ。まずは一皿、ヒウンアイスでも食わないとな。……少しは頭が冷えるかもしれん」
グレッグルは、俺の顔をじっと見つめた後、フンと鼻を鳴らした。
霧が深くなる。ヒウンの街の灯りが、ぼんやりと遠のいていく。
俺はハンサム。世界で一番、不釣り合いな名前を背負った男。
この街に潜入した俺は、ターゲットを一人捕らえた。だが、俺自身が、組織という名の深い霧に飲み込まれつつあることを、まだこの時の俺は気づかずにいた。
正義とは。真実とは。
その答えは、まだこのイッシュ地方の、冷たいコンクリートのどこかに隠されているはずだった。