ポケットモンスター 窓際警部の逆転劇。あなぬけのヒモ一本で、悪の組織を全滅させて、壊れた世界を繋ぎ直す話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
凍てつく風が、イッシュ地方の北端、セイガイハシティの波を白く逆立てている。2年前の騒乱から時を経て、この地は再び吹雪の予感に震えていた。
「……俺はハンサム。世界で一番、不釣り合いな名前の男だ」
厚手のコートの襟を立て、俺は水平線を睨んだ。口癖はもはや、凍りついた思考を動かすための儀式に近い。組織を辞める決意を胸に秘めたまま、俺は「最後の奉公」として、再び極寒のイッシュへと足を踏み入れていた。
「グレッグル、足元に気をつけろよ。氷漬けにされた街の傷跡は、まだ完全には癒えていないんだ」
グレッグルは、冷たい潮風に喉を鳴らし、重厚な足取りで俺の影に寄り添う。
今回のターゲットは、かつてのプラズマ団と手を組み、イッシュ全土を氷結させようとした狂気の科学者、アクロマ。知的好奇心のためならば倫理さえも実験台に載せるその男が、この近くの大型船に潜伏しているという情報を得た。
「おや、これは珍しい。国際警察の……いえ、今は『放浪の刑事』とお呼びすべきでしょうか」
静寂を切り裂くように、軽薄な、しかし知性に裏打ちされた声が響く。
甲板の上に立っていたのは、特徴的な髪型を揺らし、白衣を風になびかせた男。アクロマその人だった。彼はまるでお茶会に知人を招くかのように、穏やかな笑みを浮かべていた。
「……アクロマ。逃げ隠れはしないようだな」
「逃げる? なぜです。私は今、ポケモンの能力を極限まで引き出すための『対話』を試行錯誤している最中なのですよ。非効率な隠密行動に時間を割くのは私の流儀ではありません」
俺は一歩、氷の張った床を踏みしめた。手に持ったモンスターボールは、まだ閉じたままだ。
「ポケモンの力を引き出すための対話、か。プラズマ団を使い、キュレムの力を暴走させて街を凍らせたことが、君の言う対話なのか?」
「あれは一つのプロセスに過ぎません。私の目的は、ポケモンの潜在能力を真に引き出す鍵がどこにあるかを知ること。……ところでハンサムさん、あなたは気づいていないのですか?」
アクロマは眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、俺を指差した。
「あなた自身もまた、国際警察という大きな実験装置の中で、特定の能力を引き出されようとしている『検体』に過ぎない。その不自然な名前、空白の記憶、そして組織への不信感。それらすべてが、あなたという人間の出力をどう変化させるか。私は非常に興味がありますね」
「……あいにくだが、俺は実験動物じゃない。一人の人間だ」
「ならば証明してください。力で私をねじ伏せ、法に従わせるのがあなたの『正義』ですか? それとも……」
アクロマは一転して、残酷なほど冷静な声を出した。
「言葉という不確実なツールで、私の知性を説得してみせますか?」
俺はポケットの中で、あなぬけのヒモの感触を確かめた。結び目の一つひとつが、これまで出会ってきた人々の顔を思い出させる。アスラ、ヴィオ、そしてN。彼らとの対話で得たものは、組織から与えられた武器よりもずっと重い。
「……アクロマ。君の知性がどれほど高くても、一つだけ欠けているものがある。それは、対話の先にある『痛み』の共有だ」
俺はモンスターボールをポケットにしまい、丸腰のままアクロマの正面に立った。
「君が引き出そうとしている力は、ポケモンの命そのものだ。だが、命は数式じゃない。凍りついた街で震えていた人々やポケモンの心。それを無視した実験に、真実の答えなどあるはずがないんだ。……君ほどの男なら、本当は気づいているんだろ。自分の好奇心が、ただの『独り言』に成り下がっていることに」
沈黙が流れる。アクロマの笑みが、わずかに消えた。
「……痛み、ですか。非科学的な概念ですね。しかし……あなたのその、あまりにも非効率で、無謀な『対話』への固執。それが私の計算をわずかに狂わせるのは認めざるを得ない」
アクロマはふっと息を吐き、手に持っていたリモコンのような装置を、海へと放り投げた。
「今日のところは、あなたのその奇妙な熱量に免じて、実験を一時中断しましょう。……ハンサムさん、あなたは面白い。組織という檻を飛び出し、裸の心で世界と対話しようとするその姿。ポケモンの潜在能力よりも、ある意味では希少な観察対象です」
「……自首する気はないんだな」
「私はまだ、知るべきことが山ほどあるのでね。ですが、もし次にお会いする時、あなたがまだその『刑事の矜持』を持ち続けているなら……その時は、もっと深い対話を楽しめるかもしれません」
アクロマは霧の中に消えていくように、船の奥へと去っていった。俺はそれを追わなかった。いや、追う必要がないことを悟っていた。
「……グレッグル。俺にできるのは、やっぱりこれだけらしい」
グレッグルは、どこか呆れたように、しかし誇らしげに鼻を鳴らした。
暴力でもなく、権力でもなく。ただ、一人の人間として言葉を尽くすこと。それがどれほど無力で、遠回りなことか。だが、アクロマのような怪物にさえ、微かな「ノイズ」を刻むことができた。
通信機から、本部の催促が入る。
『ハンサム特捜官、アクロマの確保はどうなった。至急報告せよ』
俺は通信機を取り外し、足元の氷の上に置いた。
「……俺はハンサム。世界で一番、不釣り合いな名前の男だ。……そして、今日からは自由な男だ」
組織の犬である自分を、この凍てつくセイガイハの海に置いていく。
辞令も、肩書きも、名前さえも、本当は重要じゃない。
俺が俺であるために、誰かの涙を拭うために。
俺は凍った大地を蹴り、南へと続く道を選んだ。
カロス地方。そこには、俺を必要としている新しい「光」があるような気がした。