ポケットモンスター 窓際警部の逆転劇。あなぬけのヒモ一本で、悪の組織を全滅させて、壊れた世界を繋ぎ直す話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
フラダリラボの最深部には、機械の駆動音と、重苦しい沈黙だけが支配していた。崩壊したバイザーの破片が床に散らばり、マチエールを抱きしめる俺の腕の中で、彼女の震えが少しずつ収まっていく。
「……俺はハンサム。世界で一番、不釣り合いな名前の男だ」
心の中で繰り返すその言葉は、もはや組織から与えられた記号ではない。一人の少女を守り抜くと決めた、俺自身の誓いへと変わっていた。
「……素晴らしい。実に素晴らしいデータだ」
血の通わない拍手が、冷たい空間に響く。赤いスーツに身を包んだ男、クセロシキが、端末の画面から目を離さずに嘲笑を浮かべていた。
「被験者の感情の爆発が、拡張スーツの出力を限界まで引き上げた。ハンサムさん、君が彼女を大切に想えば想うほど、彼女の脳への負荷は高まり、より強力な兵器へと進化する。皮肉なものですね」
「……黙れ」
俺はマチエールを静かに床へ寝かせ、相棒のグレッグルに目配せをした。グレッグルは低く喉を鳴らし、主人の怒りを共有するように、その拳を構える。
「貴様は科学の進歩という言葉を、己の空虚を埋めるために使っているだけだ。マチエールが流した涙の重さを、その演算装置で測れるとでも思っているのか?」
「重さ? バカバカしい。感情など脳内物質の電気信号に過ぎない。フラダリ代表が目指した『美しい世界』を創るためには、凡百の犠牲など微々たるコストです」
クセロシキは、自身の狂信を疑うことさえ忘れたような瞳で俺を睨み返した。
「コストだと……?」
俺は一歩、また一歩とクセロシキへ歩み寄った。ポケットの中で、1本のあなぬけのヒモを握りしめる。それは記憶の迷宮を彷徨う俺を繋ぎ止める鎖であり、今は、目の前の男が踏み越えた一線を引き戻すための唯一の道具だった。
「10年前、俺もまた組織の『コスト』として相棒を失った。あの時の絶望を、俺は一生忘れない。だが、貴様がやっていることは、それよりもさらに醜悪だ。無垢な子供の未来を奪い、その心に拭えない傷を刻んだんだぞ!」
「ゲコォッ!」
グレッグルのどくづきが、クセロシキの防衛システムを火花と共に粉砕する。逃げ場を失った科学者は、よろめきながら後ずさり、無骨な機械の塊に背中を預けた。
「……終わりだ、クセロシキ。貴様の『科学』が、一人の少女の『勇気』に敗北したんだ」
俺はクセロシキの胸ぐらを掴み、その厚いレンズ越しに、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。そこにあったのは、冷徹な独裁者の顔ではない。自分の理論が根底から崩れ去るのを目の当たりにした、一人の怯えた「人間」の姿だった。
「……殺せばいい。君たちの『正義』は、敗者に慈悲を与えないのだろう?」
クセロシキの自嘲気味な言葉に、俺は少しだけ力を抜いた。
「……いいや。俺はもう、組織の犬じゃない。一人の、しがない探偵だ」
俺はポケットから、あなぬけのヒモを取り出し、彼の目の前にぶら下げた。
「貴様の中にも、微かな『後悔』があるはずだ。マチエールが時折見せた笑顔を、貴様はデータとして記録しながらも、心のどこかで『眩しい』と思ったのではないか?」
クセロシキが、僅かに視線を逸らした。
「……君に何がわかる」
「わかるさ。俺も、暗い穴から抜け出せずにいた男だからな。……自首しろ、クセロシキ。科学という名の罪を背負ったまま死ぬのは、あまりにも『美しくない』だろう?」
長い沈黙が流れた。
やがて、クセロシキは深く、長く溜息を吐き出した。
「……完敗だ。君のその、非論理的な言葉の重みにな」
彼は震える手で端末の全データを消去し、静かに両手を差し出した。
「マチエールに伝えてくれ。……スーツの調整は、私の人生で唯一、完璧ではなかったと」
「……ああ。彼女には、君が科学者の矜持を取り戻したと伝えておこう」
俺は、彼の手に手錠をかけなかった。代わりに、あなぬけのヒモの端を彼に握らせ、地上へと続く通路を指し示した。
「行こう。ミアレの灯りは、罪を悔いる者にも等しく降り注ぐ」
意識を取り戻したマチエールが、ふらつきながらも俺の元へ歩み寄る。
「ハンサムさん……。おじさん……」
「マチエール。もう、全部終わったよ」
俺は彼女を優しく支え、フラダリラボの冷たい闇を後にした。
背後で、科学の罪を象徴する機械たちが、電源を落とされ静かに眠りにつく。
俺はハンサム。世界で一番、不釣り合いな名前の男だ。
だが、この夜、俺は刑事としての矜持を、そして一人の人間としての温もりを、確かに取り戻していた。
事務所に帰ったら、マチエールと一緒に温かいココアを飲もう。
クセロシキという男が犯した罪は消えない。だが、彼が最後に見せた「後悔」という名の人間らしさを、俺は忘れないでおこうと思う。
ミアレの夜明けは、すぐそこまで来ていた。