ポケットモンスター 窓際警部の逆転劇。あなぬけのヒモ一本で、悪の組織を全滅させて、壊れた世界を繋ぎ直す話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
ミアレシティの夜は、何事もなかったかのように煌びやかな光を取り戻していた。プリズムタワーから放たれる輝きは路地裏の隅々までを照らし、かつてそこに潜んでいた怪盗の噂も、今では都市伝説のひとつとして消化されようとしている。
「……俺はハンサム。世界で一番、不釣り合いな名前の男だ」
ハンサムハウスのデスク。使い古されたトレンチコートを羽織り、俺は鏡の中の自分にそう語りかけた。休職届を出し、この街で「ただの男」として過ごした時間は、俺の人生においてもっとも人間らしい、温かな季節だった。
「おじさん、またココア淹れたよ。今度はマシュマロ入り!」
事務所の奥から、元気な声が響く。マチエールだ。かつて路地裏で震えていた少女は、今ではこの事務所を切り盛りする立派な助手に成長した。彼女の隣では、ニャスパーの「もこお」が楽しげに喉を鳴らしている。
「ああ、ありがとう、マチエール。だが……少し熱いな。猫舌の俺には、君の優しさは少々刺激が強いようだ」
「もう、贅沢言わないの! はい、グレッグルの分もね」
グレッグルは差し出されたココアをじっと見つめ、それから満足そうに「ゲコッ」と鳴いた。その平穏な光景を、俺は目に焼き付けるように見つめた。
だが、デスクの上に置かれた1通の封筒が、その平穏に終わりを告げていた。
差出人は国際警察本部。極秘の刻印が押されたその中身は、休職期間の強制終了と、アローラ地方への緊急出向命令。そして、かつての「先輩」であり、10年前に失ったはずの光——リラに関する不穏な報告だった。
「おじさん……? どうしたの、難しい顔して」
マチエールが首を傾げ、俺の顔を覗き込む。
「……マチエール。少し、大切な話をしてもいいかな」
俺はココアを一口啜り、熱さを堪えて言葉を紡ぎ出した。
「俺はこの街が好きだ。君と出会い、君の笑顔を守るために過ごしたこの日々は、俺の誇りだ。だが……世界のどこかで、まだ誰かが泣いている。俺にしか拭えない涙があるんだ」
マチエールの表情から、徐々に笑顔が消えていく。彼女は聡明な子だ。俺が何を言おうとしているのか、瞬時に理解したのだろう。
「……行くんだね。また、あの『怖い仕事』に戻るんだね」
「怖い仕事じゃない。俺は、俺自身のケジメをつけに行くんだ。……マチエール、この事務所を、君に託したい」
俺は引き出しから、事務所の合鍵と、俺が肌身離さず持っていた「あなぬけのヒモ」を取り出した。
「おじさん……これは……」
「これは俺の迷いの象徴だ。過去から抜け出せない、情けない男の証さ。だが、今の君には必要ないかもしれないな。君はもう、自分の足で光の中を歩いているんだから。……俺が戻るまでの間、この場所を守ってくれないか。ミアレの英雄、マチエールさん」
「……そんなの、反則だよ」
マチエールの大きな瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。彼女はあなぬけのヒモをぎゅっと握りしめ、顔を上げた。
「わかった。私、やるよ。ハンサムハウスの2代目所長として、この街の困っている人を、ポケモンを、全部助けてみせる。だから……」
マチエールは力強く、俺のコートの裾を掴んだ。
「だから、絶対に戻ってきて。おじさんの淹れる、苦くてまずいコーヒーを、また飲ませてよね」
「……ああ。約束だ。コーヒーの淹れ方は、向こうで特訓してくるとしよう」
俺は彼女の頭を一度だけ優しく撫で、グレッグルに目配せをした。相棒はすでに準備を整え、鋭い眼光で扉を見据えている。
「行くぞ、グレッグル。俺たちの戦場は、青い海と空の下にあるようだ」
事務所の扉を開けると、夜明け前の冷たい風が吹き込んできた。背後でマチエールとニャスパーが、いつまでも手を振っているのがわかる。
「……さらばだ、ミアレ。さらばだ、俺の天使」
俺は一度も振り返ることなく、階段を駆け下りた。
ポケットの中には、国際警察特捜官のバッジが、再びその重みを主張し始めている。
家族の温もりを捨て、父としての自分を封印し、俺は再び「組織の犬」に戻る。だが、その心は以前とは違う。守るべきものが、帰るべき場所が、今の俺にはある。
「俺はハンサム。世界で一番、不釣り合いな名前の男だ」
夜明けの街、ミアレ。
その光を背に受けて、一人の刑事が再び、終わりなき正義の旅路へと歩み出した。
遠くアローラの海から届く、潮騒の音が聞こえるような気がした。