ポケットモンスター 窓際警部の逆転劇。あなぬけのヒモ一本で、悪の組織を全滅させて、壊れた世界を繋ぎ直す話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
どこまでも高く青い空、そして視界を焼き尽くさんばかりの強烈な太陽。カロス地方の都会的な湿り気とは無縁の、生命力に満ちた熱気が俺の頬を撫でる。アローラ地方。エーテルパラダイスの人工島に降り立った俺を待っていたのは、懐かしい潮騒ではなく、胃の奥が重くなるような予感だった。
「……俺はハンサム。世界で一番、不釣り合いな名前の男だ」
額に滲む汗を拭い、俺は独りごちた。国際警察特捜官のコートは、この南国の島ではあまりにも無骨で、浮いている。だが、この重みこそが今の俺を支える骨組みだ。ミアレに置いてきた穏やかな日々の記憶が、熱風に煽られて遠のいていく。
「ゲコッ」
足元でグレッグルが低く鳴いた。こいつもまた、この楽園の裏側に潜む「毒」の気配を察知しているらしい。
「わかっている。……行こう、相棒。今回のクライアント、いや、俺たちの新しい『上司』が待っている」
エレベーターで上層階へと向かう。扉が開いた先に広がる純白の回廊は、科学の粋を集めた清潔さと、どこか現実味を欠いた空虚さを漂わせていた。その中央、大きな窓を背にして立つ人影があった。
短く整えられた薄紫色の髪。理知的でありながら、どこか遠くを見つめるような瞳。その姿を見た瞬間、俺の心臓は激しく鐘を打った。
「……リラ、さん」
十年前、あの地獄のような掃討作戦で、次元の裂け目へと消えた俺の先輩。そして、当時の相棒であったグレッグルを失った元凶とも言える、悲劇の中心にいた女性。
「ハンサム特捜官。……そして、そのポケモン。遠路はるばる、よく来てくれました」
彼女は振り向き、淡々とした口調で言った。その声に、かつての鋭い覇気はない。代わりにあったのは、凪いだ海のような、静かすぎる静寂だった。
「リラさん、生きて……。ああ、よかった。ずっと、俺は……」
「失礼ですが」
リラは俺の言葉を遮り、わずかに首を傾げた。
「私の名前を知っているようですが、以前どこかでお会いしましたか? 私には、ここ数年の記憶しかありません。……バトルタワーでのこと、そして国際警察に拾われてからのこと以外は」
俺は息を呑んだ。目の前にいるのは間違いなくリラだ。しかし、彼女の瞳に俺の姿は映っていない。ただの「特捜官ハンサム」として、初対面の相手を見る冷徹な光があるだけだった。
「……いえ。失礼しました。有名な『UB対策特設官』の噂はかねがね、ということで」
「そうですか。……無理もありません。私は『フォール』ですから。あなを通り、記憶を失い、異世界の毒を浴びた漂流者。組織が私を重用するのは、その特異な体質がUBを惹きつける『餌』になるからに過ぎない」
毒。フォール。餌。
彼女の口から吐き出される言葉の一つひとつが、鋭利な刃となって俺の胸を切り刻む。十年前、彼女を守れなかったこと。そして今、彼女が自分の置かれた残酷な状況を、あきらめにも似た冷静さで受け入れていること。
「今回の任務は、アローラ全域で観測されている『ウルトラホール』の調査、および出現したUBの確保です。ハンサム特捜官、あなたには私のバックアップをお願いしたい。……何か異論は?」
「……ありません。リラ局長。特捜官ハンサム、全力を尽くします」
俺は深く頭を下げた。拳を強く握りしめ、爪が手の平に食い込む痛みで、溢れ出しそうな感情を押し殺す。
リラは「フォール」として、自らがUBを呼び寄せる毒であることを自覚している。だが、彼女は知らない。その毒を植え付けたのが、かつての過酷な任務であり、それを防げなかった男が今、目の前に立っているということを。
「ハンサム。……なんだか、不思議な気分です。あなたを見ていると、私の知らないはずの記憶が、少しだけ波立つような気がする」
リラがふと、窓の外の青い海を見つめて呟いた。
「気のせいです。……南国の太陽が、少し眩しすぎるだけでしょう」
俺は背を向け、回廊を歩き出した。
真実を告げることは、今の彼女から今の平穏を奪うことになる。記憶のない彼女は、自分を「組織に必要とされている人間」だと信じている。それがどれほど歪んだ形であれ、彼女にとっての今の正義を、俺が壊すわけにはいかない。
俺はコートの内ポケットに手を伸ばした。そこには、エマに預けたはずの「あなぬけのヒモ」の代わりに、国際警察の冷たいマニュアルが入っている。
「……俺はハンサム。世界で一番、不釣り合いな名前の男だ」
アローラの海は、どこまでも青く、美しい。
だが、その輝きの裏側には、十年前から続く「毒」が今も脈打っている。
リラを守る。今度こそ、死を懸けてでも。
彼女に過去を思い出させないという「嘘」を抱えながら、俺の最後にして最大の任務が、この熱い砂浜の上で幕を開けた。