ポケットモンスター 窓際警部の逆転劇。あなぬけのヒモ一本で、悪の組織を全滅させて、壊れた世界を繋ぎ直す話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
テンガン山の頂、槍の柱。そこには、俺がこれまで信じてきた法律や秩序といったものが、あまりにも脆く、あまりにも無力であることを突きつける光景が広がっていた。
空が割れ、どろりとした深黒の渦が世界を飲み込もうとしている。国際警察特捜官として多くの修羅場を潜ってきた自負はあるが、目の前で繰り広げられる神話の具現化を前に、俺の足は震えていた。
「……俺はハンサム。世界で一番、不釣り合いな名前の男だ」
口に馴染んだ独白さえ、この歪んだ空間では虚しく響く。隣に立つグレッグルが、いつも以上に鋭い眼光で頭上の裂け目を睨みつけていた。
「グレッグル、落ち着け。……いや、落ち着くべきなのは俺の方か」
視界の先には、ギンガ団の首領、アカギが立っていた。彼はこの世界の全てを「心という不完全なもの」が生み出した紛い物だと断じ、新しい世界を創り出そうとしている。その瞳に宿るのは憎しみですらない。ただ、底の見えないほど深い、透明な虚無だった。
「法を司る者が、私を裁きに来たのか?」
アカギが、表情一つ変えずに問いかけてくる。その声は、裂け目から吹き付ける暴風を切り裂き、まっすぐに俺の鼓膜へ届いた。
「裁く……? ああ、そうだ。君のやっていることは、この世界の全ての命に対する最悪の背任行為だ。ギンガ団首領、アカギ。君を現行犯で……」
言いかけて、言葉が喉に詰まった。手にした手錠が、羽毛のように軽く感じる。この、宇宙の理が崩壊しようとしている場所で、鉄の輪っかに一体何の意味があるというのか。
「無意味だ。この世界そのものが消失すれば、君たちが守ろうとする法も、正義も、そして記憶すらも残らない」
「……それでもだ!」
俺は一歩踏み出した。足元のタイルが不気味にきしみ、重力が左右に揺れる。
「君が何を否定しようと、今この瞬間、恐怖に震えながらも立ち向かおうとしている少年がいる! 傷つきながらも寄り添うポケモンがいる! それを『不完全な心が生んだ幻』だなんて、俺は認めないぞ!」
「理解できないな。不完全なものは、排除されるべきだ。私はただ、完璧な静寂を求めている」
アカギの言葉が終わると同時に、影から噴き出した漆黒の異形が彼を飲み込み、裂け目の向こう側――「やぶれた世界」へと連れ去っていった。
静寂が訪れる。いや、それは静寂というよりも、音が死んでしまったかのような圧迫感だった。
「追いかけるぞ、グレッグル」
俺は震える手でコートの襟を正し、異形の消えた闇へと足を踏み入れようとした。だが、その時。
「おじさん、危ない!」
背後から声を上げたのは、トバリシティで救ったあの少年だった。彼は、伝説と呼ばれたポケモンたちの咆哮にさらされながらも、まっすぐに裂け目を見つめている。その瞳には、アカギの持っていた虚無とは正反対の、燃えるような意志が宿っていた。
「……少年。君は、まだここにいたのか」
「僕がやらなきゃいけないんだ。アカギさんを……止めるんだ!」
少年の隣には、ボロボロになりながらも主人を守るように構えるポケモンたちの姿があった。それを見た瞬間、俺の胸の中にあった迷いが、氷が溶けるように消えていくのを感じた。
「そうか。……ああ、そうだったな。法律が届かない場所があるなら、せめて人として、大人が道を示さなければならない。法が神に通用しなくても、俺は君の背中を守る盾にはなれる」
俺は少年の肩に手を置いた。
「グレッグル。俺たちの『法』を、あの虚無の男に見せつけてやろうじゃないか。正義なんて格好いいもんじゃない。泥臭く、しぶとく、生き延びてやるという執念だ」
グレッグルは短く、低く鳴いた。毒袋を膨らませ、準備は万端だと告げている。
俺たちは裂け目の中――重力が逆転し、時間が停滞した「やぶれた世界」へと飛び込んだ。そこは、理性の通用しない悪夢の庭園だった。浮遊する岩、逆流する滝。全てが歪んでいる中で、アカギだけが独り、灰色の世界を見つめていた。
「ここに来てどうする。ここは、私が求めた虚無の写し鏡だ」
「鏡なら、よく見てみるがいい、アカギ。君が否定した『心』が、ここまで君を追いかけてきたんだぞ!」
会話劇などという生易しいものではなかった。それは信念と虚無の激突だった。少年がポケモンを指揮し、アカギの歪んだ理想を打ち砕いていく。俺は、その戦いの余波から少年を逃がし、飛び散る破片から彼を庇い続けた。
ついに、アカギは膝をついた。だが、その表情に悔恨はない。
「……不完全な心が、私の理想を上回ったというのか。だが、私は諦めない。いつか必ず、全てが無に帰る日を……」
彼はそう言い残すと、異世界の霧の中へと姿を消した。
「待て! アカギ!」
俺の声は届かなかった。やぶれた世界が、元の形に戻ろうとして激しく震動を始める。
「少年、脱出するぞ! 急げ!」
元の世界、槍の柱へと戻ってきた時、空の裂け目は跡形もなく消えていた。そこにあるのは、ただの高く澄んだシンオウの秋空だった。
「……終わったんですね、おじさん」
少年が、疲れ果てた様子で地面に座り込んだ。
「ああ。終わった。……いや、一区切りだ」
俺は空を仰いだ。アカギを捕まえることはできなかった。国際警察としては、完全な失態だ。だが、この少年の瞳に宿る光を守り抜いたこと。それだけが、今の俺にとって唯一の確かな戦果だった。
「アカギさんの言っていたこと……。心があるから、人は争うって。それは本当なのかな」
少年の問いに、俺は少しだけ考え、それから笑った。
「かもしれないな。だがな、少年。心があるから、君は今日、誰かのために戦えたんだ。争う種も、慈しむ根も、同じ場所から生えている。それをどう育てるかが、俺たちの生き方ってやつだ」
俺はグレッグルの頭を軽く叩いた。こいつは相変わらず、可愛げのない顔で俺を見ている。
「さて、報告書にはなんて書けばいいかな。……『神に法律を説こうとして失敗しました』なんて書いたら、今度こそクビだな」
俺はコートのポケットに手を突っ込み、少年に背を向けて歩き出した。
「おじさん、また会える?」
「ああ。君のような熱いトレーナーがいる限り、国際警察の仕事はなくなりそうにないからな。……次に会うときは、もう少しマシな変装をしておこう」
歩き出す俺の背中に、冷たい風が吹き抜ける。槍の柱に残された静寂は、法の無力さを物語っていたが、同時に新しい決意を俺に刻み込んでいた。
世界を守る。それは、書面上の秩序を守ることじゃない。目の前の、この小さな光を絶やさないことだ。
「……俺はハンサム。世界で一番、不釣り合いな名前の男だ」
沈黙に包まれたテンガン山を下りながら、俺は自分にそう言い聞かせた。これから先、どんな闇が待ち受けていようとも、俺は俺の正義を、この不完全な心で刻み続けていく。
鉛のような雨はもう降っていなかったが、俺の胸の中には、消えない重みがしっかりと根を下ろしていた。