ポケットモンスター 窓際警部の逆転劇。あなぬけのヒモ一本で、悪の組織を全滅させて、壊れた世界を繋ぎ直す話   作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった

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フォール・ガイの悲劇

視界のすべてが、狂った原色の渦に飲み込まれていく。上も下も、熱いも寒いも判別できない。ただ、鼓膜を突き破らんばかりの轟音と、全身をバラバラに引き裂こうとする圧力だけが、俺という存在を現実に繋ぎ止めていた。

 

「……俺はハンサム。世界で一番、不釣り合いな名前の男だ」

 

脳裏で繰り返される自嘲すら、引き千切られて霧散していく。

 

目の前で、相棒のグレッグルが漆黒の亀裂へと吸い込まれていった。異形の怪物——ウルトラビーストの触手に絡め取られ、光の粒子となって消えていく、あいつの背中。それが、10年前のあの日に俺が見た、最後の「相棒」の姿だった。

 

「グレッグル! 離せ! その個体を放せえッ!」

 

俺は叫んだ。叫びながら、自分でも気づかないうちに走り出していた。断崖の縁を蹴り、重力に逆らって、閉じようとするウルトラホールの口へと指を伸ばす。

 

「ハンサム特捜官、止まれ! 戻るんだ!」

 

背後でリラの絶叫が聞こえた気がした。だが、今の俺にとって国際警察の規律も、上官の命令も、泥水以下の価値しかない。

 

餌——フォールとして使われた無辜の人間。それを守るために盾となったポケモン。組織の「効率」という名の天秤にかけられ、切り捨てられた命。それを黙って見過ごすことが、俺の信じてきた正義だというのなら、そんなものは今ここで、この闇と一緒に消えてしまえばいい。

 

「うおおおおおッ!」

 

俺の指先が、閉じゆく裂け目の縁に触れた。瞬間、脳内に直接、何千何万という悲鳴が流れ込んでくる。人間の理解を超えた「異界」の波導。

 

「……っ、がはッ!」

 

衝撃が全身を走り、視界が真っ白に染まる。

 

「あいつを……グレッグルを、返せ……!」

 

俺は必死に闇を掻き毟った。だが、俺が掴んだのは相棒の温かい感触ではなく、無機質で冷酷な、次元の歪みそのものだった。

 

「……ダメ、よ。ハンサム……」

 

ふいに、耳元で掠れた声がした。餌としてそこに立たされていた、名前も知らない協力者の声だ。彼女は、異形の怪物が放ったエネルギーの余波に当てられ、既にその瞳から光を失いつつあった。

 

「君、しっかりしろ! 今、助ける!」

 

「いいの。……あなたは、生きて。……あの子が、あなたを……」

 

彼女の言葉は最後まで続かなかった。爆発的な閃光が亀裂の中心から放たれ、俺の意識を真っ暗な深淵へと叩き落とした。

 

どれほどの時間が過ぎたのだろうか。1秒か、あるいは100年か。

 

意識が浮上しかけた時、俺の耳に届いたのは、波の音だった。優しく、穏やかで、すべてを洗い流すような、ホウエン地方の海の音。

 

「……おい。……大丈夫か、あんた」

 

遠くで、誰かの声がする。

 

「すごいな、こんなところで倒れてるなんて。生きてるのか?」

 

俺は重い瞼を押し上げた。視界に飛び込んできたのは、突き抜けるような青空と、白い砂浜。そして、心配そうにこちらを覗き込む、見知らぬ男たちの顔だった。

 

「……ここは」

 

声が出ない。喉が焼けたように熱い。

 

「ここはバトルリゾートの海岸だよ。あんた、どこから流されてきたんだ? 服はボロボロだし、ひどい有様だぞ」

 

俺は砂の上に手をつき、上身を起こそうとした。だが、力が入らない。全身の関節が錆びついたように軋む。

 

「……グレッグル。……リラ……」

 

口から漏れた言葉は、自分でも意味のわからない断片だった。

 

「グレッグル? リラ? 仲間の名前か? ……おい、しっかりしろ。あんた、自分の名前は言えるか?」

 

男の問いかけに、俺は思考を巡らせた。

 

名前。俺の名前。

 

国際警察。特捜官。コードネーム。……なんだ? 俺は、誰だ?

 

「……わからない」

 

愕然とした。自分の過去が、名前が、これまで積み上げてきたすべての記憶が、あの漆黒の裂け目の向こう側に置いてこられたかのように、綺麗に抜け落ちていた。

 

俺のポケットの中から、何かが滑り落ちた。

 

砂の上に転がったのは、1本の、ありふれた「あなぬけのヒモ」だった。

 

「なんだ、そりゃ。大事なものか?」

 

俺はそのヒモを手に取った。指先に触れるザラついた感触。それを見た瞬間、胸の奥が、締め付けられるように痛んだ。

 

なぜだ。なぜ、この安っぽい道具を見ただけで、涙が出そうになる。

 

このヒモは、どこから抜け出すためのものだ? 崩れる洞窟か? それとも、二度と戻れない地獄の淵か?

 

「……思い出せない。……何も」

 

「そうか。記憶喪失ってやつか。災難だな」

 

男は同情を込めた目で見つめ、それから俺の肩を貸して立ち上がらせた。

 

「とりあえず、動けるようになるまで休めよ。あんた、見てくれだけは立派なんだから、しゃんとしろよ」

 

「……見てくれ?」

 

「ああ。ひどい汚れようだが、その顔立ちは悪くない。……そうだな、名前が思い出せないなら、とりあえず『ハンサム』とでも名乗っておけよ。このリゾートには、あんたみたいなハンサムな男が似合う」

 

「……ハンサム」

 

俺はその言葉を反芻した。

 

不釣り合いだ。記憶を失い、相棒を失い、ボロボロになって砂浜に打ち上げられた俺に、そんな輝かしい名前は似合わない。

 

だが、今の俺には、その偽りの名前以外に、自分を証明する術がなかった。

 

「……ああ。……そうだ。俺の名前は、ハンサムだ」

 

偽りの名。奪われた過去。

 

俺は、手の中の「あなぬけのヒモ」を強く握りしめた。

 

記憶の海はあまりにも深く、暗い。だが、このヒモの感触だけが、俺がかつて「誰かのために戦っていた」という、唯一の、そして最後の証拠のような気がした。

 

俺は、助けてくれた男の肩を借り、よろめきながら砂浜を歩き始めた。

 

ホウエンの明るい陽光が、俺の影を砂の上に長く落とす。

 

失ったものはあまりにも大きく、取り戻すべき道はまだ霧の中にある。だが、俺は歩かなければならない。この「ハンサム」という、世界で一番不釣り合いな名前を背負って。

 

いつか、あの裂け目の向こう側で消えた「何か」に、再び辿り着くその日まで。

 

バトルリゾートに吹き付ける潮風が、俺のボロボロになったコートを激しく揺らしていた。

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