ポケットモンスター 窓際警部の逆転劇。あなぬけのヒモ一本で、悪の組織を全滅させて、壊れた世界を繋ぎ直す話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
真っ白な砂。突き抜けるような青空。そして、鼓膜を優しく撫でる穏やかな波の音。
目を覚ました俺を待っていたのは、地獄のような次元の裂け目ではなく、あまりにも眩しすぎるホウエン地方の陽光だった。
「……俺は、ハンサム。世界で一番、不釣り合いな名前の男だ」
不思議なことに、意識が戻るのと同時にその言葉が口をついて出た。だが、今の俺にはその言葉が何を意味するのかさえ判然としない。
俺は誰だ。
なぜ、ボロボロになったトレンチコートを着て、砂浜に打ち上げられている。
思考の断片を繋ぎ合わせようとするたび、脳の奥底に鋭い痛みが走った。過去の記憶は、潮が引くように綺麗に消え去っている。
「おい、大丈夫か、あんた! 酷い有様だぞ」
頭上から降ってきた声に、俺は重い瞼を持ち上げた。そこには短パンを履いた陽気そうな若者が立っていた。
「……ここは」
「バトルリゾートの海岸だよ。あんた、どこから流されてきたんだ? 遭難か?」
「遭難……。いや、わからない。何も思い出せないんだ」
俺は砂に手をつき、這い上がるようにして上体を起こした。ポケットの中で何かがカサリと音を立てる。取り出してみると、それは1本の「あなぬけのヒモ」だった。
「なんだ、それは? 大事なお守りか何かか?」
「……わからない。だが、これを握っていると、胸の奥がひどく締め付けられるんだ。失くしてはいけないものを、どこかに置いてきたような……そんな気がしてならない」
俺は震える指先で、安っぽい麻のヒモを握りしめた。これが俺と「過去」を繋ぐ唯一の結び目だ。
若者は俺を支えて立ち上がらせると、近くのコテージへと連れて行ってくれた。鏡の中に映った自分の顔は、無精髭に覆われ、瞳には深い混濁が宿っている。
「鏡を見た感じじゃ、かなりの男前じゃないか。……おい、名前が思い出せないなら、とりあえず『ハンサム』とでも名乗っておけよ。このバトルリゾートには、あんたみたいなハンサムな男が似合う」
「ハンサム……」
俺はその響きを反芻した。記憶の底で、誰かがその名前を呼んでいたような気がする。いや、それは俺を嘲笑う声だったか、あるいは信頼を寄せる声だったか。
数日間、俺はこのリゾートの片隅で、ただ海を眺めて過ごした。
ここにはポケモンバトルを極めようとする熱いトレーナーたちが集まっている。彼らが叫ぶ技の名前や、ポケモンの咆哮。それらを聞くたびに、脳裏に一瞬だけ影がよぎる。
青いカエルのような姿。
そして、漆黒の渦。
「……ぐ、っ!」
激しい眩暈に襲われ、俺はその場に膝をついた。
「おじさん、大丈夫?」
声をかけてきたのは、まだ10歳にも満たないような少女だった。彼女の傍らには、愛らしいピカチュウが寄り添っている。
「ああ、少し立ちくらみがしただけだ。心配いらないよ、お嬢さん」
「おじさん、いつもそのヒモを見てるね。それ、ポケモンの道具?」
「これはね……俺の『命の恩人』かもしれないんだ。どこからか抜け出すための、道標のようなものさ」
俺は少女に無理やり笑顔を作って見せた。
記憶がない。それは、自分が何者でもないという自由であると同時に、足元が常に崩れ続けているような恐怖でもある。
俺はなぜ、このヒモだけを持ってここに辿り着いた。
誰かを助けようとしたのか。それとも、誰かに見捨てられたのか。
その日の午後、リゾートの桟橋に1隻の船がついた。降りてきたのは、スーツを着こなした冷徹そうな男たちだ。彼らは周囲を探索し、何らかの痕跡を探しているようだった。
彼らの胸元に輝くバッジを見た瞬間、俺の全身に鳥肌が立った。
「……国際警察」
なぜ、その言葉を知っている。
俺は本能的に建物の影に身を隠した。記憶はないはずなのに、身体が勝手に「隠れる」動作を選択している。
「……フォール・ガイの反応は消失。ターゲットは次元の彼方に消滅したと推測される」
男たちの密やかな会話が、潮風に乗って届く。
「……捜索を打ち切り、本件は『公務中の不慮の事故』として処理する。ハンサム特捜官の遺品も不要だ。記録を抹消しろ」
ハンサム特捜官。
それが、俺の本来の呼び名だったのか。
俺は影の中で自分の掌を見つめた。砂に汚れ、傷だらけの手。この手は、法の名の下に誰かを守ってきたのか。それとも、組織の駒として命を弄んできたのか。
「……公務中の、事故」
組織は俺を死んだものとして扱おうとしている。俺という人間が、かつてそこに存在した事実さえも、波が砂の城を崩すように消し去ろうとしている。
胸の奥から、煮え繰り返るような怒りが湧き上がってきた。
それが何に対する怒りなのかはわからない。自分を見捨てた組織へのか、あるいは、大事な何かを守れなかった自分自身へのか。
「……ふざけるな」
俺は握りしめていた「あなぬけのヒモ」をポケットにねじ込んだ。
俺は死んでいない。
記憶を失い、名前を奪われ、ただの漂流者としてここに打ち上げられても、俺の鼓動はまだ続いている。
「おーい、ハンサム! 晩飯の時間だぞ!」
短パンの若者が、遠くから俺を呼んでいる。
俺は一度だけ、国際警察の男たちが乗ってきた船を睨みつけ、それから踵を返した。
「……今行くよ。俺の名前は……」
言葉に詰まった。
ハンサム。それは今の俺にとって、皮肉な偽名に過ぎない。
だが、あの男たちが捨て去った俺の「真実」をいつか取り戻すその日まで、俺はこの不釣り合いな名前を盾にして生きてやる。
俺はハンサム。世界で一番、不釣り合いな名前の男だ。
漂流者の物語は、ここから始まる。失われた記憶の断片を拾い集め、いつかあの黒い渦の正体を突き止めるために。
俺は力強い足取りで砂浜を蹴り、明るい光の中へと踏み出した。背後で波の音が、すべてを忘れろと囁くように繰り返していたが、俺の指先には、あのザラついたヒモの感触が、確かに、熱く残っていた。