ポケットモンスター 窓際警部の逆転劇。あなぬけのヒモ一本で、悪の組織を全滅させて、壊れた世界を繋ぎ直す話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
バトルリゾートの夜は、波の音さえもどこか浮ついた華やかさを帯びている。だが、俺が身を置くコテージの片隅には、そんな南国の熱気など1ミリも届かなかった。
「……俺はハンサム。世界で一番、不釣り合いな名前の男だ」
鏡に映る自分に、そう問いかけてみる。他人が俺につけたその「名前」は、空っぽの器に注がれた毒のように、俺の神経をじわじわと侵食していく。記憶がないということは、自分の重力を失うということだ。俺が今踏みしめている砂浜が、実は底なしの沼であっても、俺にはそれを指摘する術がない。
俺はコートのポケットから、古びた1本の「あなぬけのヒモ」を取り出した。
「これだけが、俺を現実に繋ぎ止めている……」
ザラついた麻の感触。指先に食い込むその痛みが、唯一、自分が「かつて存在していた」ことの証明だった。俺はこのヒモを眺め、解き、また結ぶ。その繰り返しの中で、闇の向こう側から響く微かな「音」を拾い集めようとしていた。
「おじさん、またそれやってるの?」
ふいに、コテージの窓の外から声がした。昼間に出会った、ピカチュウを連れた少女だ。彼女は不思議そうに俺の手元を覗き込んでいる。
「……ああ。これを触っていると、少しだけ心が落ち着くんだ」
「それ、ただの道具でしょ? 洞窟からパッと逃げるための。そんなに大事なものなの?」
「道具、か……。確かにそうだろうな。だが、今の俺には、これがただの道具には見えないんだ。これは、俺自身なんだよ、お嬢さん」
「おじさん自身?」
少女は小首を傾げた。俺は自嘲気味に笑い、ヒモの結び目を見つめた。
「俺は、どこかの暗い穴の中に閉じ込められている気がするんだ。記憶という名の、出口のない洞窟にな。そして、このヒモの端っこを、誰かが……俺の大切な相棒が、外側で握ってくれている。そんな気がしてならないんだ」
「相棒……。おじさんのポケモン?」
その言葉が出た瞬間、脳裏を凄まじい衝撃が駆け抜けた。
『グレッグル! 離せ!』
鋭い叫び声。湿ったインクの匂い。濁った、だが信頼に満ちた瞳。
「……がはっ!」
俺は胸を掻き毟り、その場に崩れ落ちた。ヒモが手から滑り落ち、床を転がる。
「おじさん! 大丈夫!?」
「……あ、ああ……。大丈夫だ。……今、少しだけ見えたんだ。俺は、独りじゃなかった。俺と一緒に、暗い闇の中へ飛び込んでくれた奴がいた」
俺は震える手で、再びヒモを掴み取った。
この「あなぬけのヒモ」は、ただの脱出道具じゃない。これは、絆のメタファーだ。俺がどれだけ深い絶望の淵に沈もうとも、あの相棒が俺を繋ぎ止めてくれていた。あいつが命を賭して俺を「こちら側」へ押し戻してくれたのだと、魂が理解した。
「俺は……誰かを助ける男だった」
確信に近い断片が、霧の中から形を成していく。俺は、組織の駒として動くだけの機械ではなかった。少なくとも、あの相棒にとっては、命を預けるに足る「刑事」だったはずだ。
「お嬢さん。ありがとう。君のおかげで、少しだけ自分が分かった気がする」
「私、何もしてないよ?」
「いいや、君の問いかけが、俺の心の結び目を解いてくれたんだ」
俺は立ち上がり、ボロボロのコートを羽織り直した。
バトルリゾートの桟橋の方から、不穏な空気が漂ってくる。昼間に見かけた、あの冷徹な男たちの気配だ。国際警察。俺を「抹消」しようとしている組織。
俺はポケットの中でヒモを強く握りしめた。
「逃げるためのヒモじゃない。これは、立ち向かうためのヒモだ。俺を助けてくれたあいつに、胸を張れる自分に戻るためのな」
夜風が、俺の頬を叩く。記憶はまだ完全には戻っていない。だが、俺の心には、あなぬけのヒモによって手繰り寄せられた「正義」の端っこが、確かに握られていた。
たとえ名前が偽りであっても、この絆だけは本物だ。俺を「ハンサム」と呼んだあの男の言葉を、今度は俺自身が証明してやる。
俺は夜の闇へと足を踏み出した。その足取りは、波打ち際で倒れていた時のような弱々しさは微塵もなかった。
「行くぞ。俺の本当の『現場』は、こんなリゾート地じゃない」
背後でピカチュウが小さく鳴いた。俺は一度も振り返らず、桟橋へと続く道を突き進んだ。俺の手の中にあるヒモは、今や、過去の闇から俺を引きずり出すための、最強の武器へと変わっていた。