紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF)   作:LongLong

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第1話『見回りの先で』

第1話「見回りの先で」

 

その晩、ソウルジェムの反応はとても鈍かった。

 

魔女ではない。使い魔でもない。けれど、何か微かな歪みが街の片隅にある。そういう、判別しきれない夜が時々ある。マミは見滝原の住宅街を一人で歩きながら、ソウルジェムの色を確かめていた。淡い黄色は、いつもより少しだけ濁って見える。気のせいかもしれない。気のせいでないかもしれない。

 

街灯が等間隔に並ぶ通りを抜けて、公園に続く細い道に入る。二月の夜は、吐く息が白く凍る。クリーム色のジャケットの裾が、歩くたびに小さく揺れる。袖口やスカートの下から、容赦なく冷気が入り込んでくる。指先の感覚は、もうほとんどなかった。

 

「……気のせいかしらね」

 

呟いた声が、誰もいない通りに溶けていく。マミは小さく息を吐いて、引き返そうとした。あまり遅くまで出歩いていると、明日が辛くなる。一人暮らしの身としては、自分の体調管理は自分でやるしかない。

 

そう思って踵を返した、その時だった。

 

公園の入口の街灯の下に、誰かが座り込んでいるのが目に入った。

 

最初は、酔った大人かと思った。けれどシルエットは小さい。子供だ。マミは反射的に時計を見た。二十二時を過ぎている。この時間に、一人で。この寒さの中で。

 

ソウルジェムが反応しているわけではない。魔女の結界も使い魔の気配もない。けれど、マミは足を止めることができなかった。この気温の夜に、中学生くらいの子供が外にいていい時間ではなかった。

 

ゆっくりと、その人影に近づいていく。

 

街灯の白い光の中に、少女の輪郭が浮かび上がってきた。長い髪。膝を抱えて、地面を見ている。顔は俯いていて見えない。けれど、その肩から下の制服には見覚えがあった。クリーム色のジャケット、襟ぐりの黒いライン、カフスにあしらわれたレース。プリーツの入ったチェックのスカート。マミ自身が毎日着ているものと、同じだった。

 

──見滝原中学の生徒。

 

確認するまでもなかった。同じ学校の制服を間違えるはずがない。学年まではわからない。けれど、自分と同じ中学に通う少女が、こんな時間にこんな場所で、一人で蹲っている。それだけは確かな事実だった。

 

マミは数メートル手前で立ち止まり、声をかける前に少し息を整えた。あまり驚かせないように、低い声で。

 

「あの……、大丈夫?」

 

少女の肩が、びくりと跳ねた。

 

それは、驚き方として大きすぎた。声をかけられた、というだけでは説明のつかない反応だった。マミの身体の中で、警報のような何かが小さく鳴った。

 

肩の上下が、しばらく続いた。呼吸が速くなったのだろう、と気づくのに少し時間がかかった。それほど、少女の浅い呼吸は音を立てなかった。

 

少女の手が、無意識のように膝の上のスカートを握りしめた。指先は、冬の夜にさらされた色をしていた。白を通り越して、微かに青みがかっている。コートは着ていなかった。この寒さの中、制服のジャケット一枚だけ。マフラーも、手袋もない。鞄さえ持っていなかった。少女は自分の身体の熱だけで、この二月の夜に晒されていた。

 

細い手だった。細い、というのとも少し違う。何かが欠けているような細さ。

 

やがて、少女はゆっくりと顔を上げた。

 

動きは、滑らかではなかった。途中で二度ほど止まり、その止まり方が、マミに何かを確認しているように見えた。街灯の光を真上から浴びて、その顔が全て見えた時、マミは一瞬、息をするのを忘れた。

 

黒い髪だった。長くて、真っ直ぐで、街灯の下では少し青みを帯びて見えた。毛先は揃っていない。自分で切ったのか、切ってもらう相手がいないのか、どちらかだった。前髪は目の上まで下ろされていて、その前髪の下から、こちらもまた黒い瞳が覗いていた。

 

整った、と言うべきなのかどうか、マミにはわからなかった。整っている、確かに整っている。目鼻立ちそのものはむしろ綺麗と言っていい。けれど、それを感じさせる前に別のものが目についた。

 

顔色が、青白すぎた。街灯の光のせいではない。目の下に薄い影があった。唇の色が薄い。頬に肉がない、というほどではないが、あるべきところより少しだけ削がれている。

 

それ以上に、目だった。

 

その目は、マミを見ていなかった。

 

正確には、マミの顔を見ていなかった。少女の視線は、マミの胸の前あたり、もう少し下、両手のあたりに固定されていた。マミは無意識に、その視線の先を確かめるように自分の手を見た。何も持っていない。武装もしていない。ただの、普通の手だった。

 

それなのに、少女はその手から目を離さない。

 

「あの、寒くない?」

 

マミは声を柔らかくしてもう一度尋ねた。少女は答えなかった。返事はない、というよりは、返事をするという発想がないように見えた。マミの声は届いている。その証拠に、わずかに身体が硬くなった。でも口は動かない。

 

マミは少女から二歩ほど離れた位置で、ゆっくりとしゃがんだ。少しでも目線を低くした方が、怖がらせないかもしれないと思った。

 

「家、近くなの?」

 

返事はない。

 

「お父さんかお母さんに、迎えに来てもらえる?」

 

その瞬間、マミは間違ったことを訊いてしまったと気づいた。

 

少女の身体が、硬くなった。さっきよりもっと深く。膝の上でスカートを握っていた指に、目に見えて力が入った。布地が皺を寄せて白く引き攣れる。少女はその手を、もう片方の手で押さえた。押さえて、震えを止めようとしているようだった。

 

呼吸が浅くなったのが、二メートルの距離を挟んでもわかった。吸って、吐く、その間隔が短すぎる。吸うだけで、吐くのを忘れているように見える時もあった。

 

──家。

 

その単語に、この子は反応している。怖がっている。

 

マミは少しだけ言葉を選び直した。

 

「……ごめんなさい、変なこと訊いて。私、巴マミ。同じ学校なの。三年。見たこと、ないかしら」

 

名前を出した。同じ学校なのだと、この子に伝えるためでもあった。少女が答えなくてもいいように。一方的に与える形で。

 

少女は答えなかった。けれど、視線がほんのわずかに動いた。マミの手から、マミの口元へ。それから、また手へ。短い、確認するような動きだった。瞬きは少なかった。マミが何かを言い終えるまで、まばたきを忘れたように目を見開いている時間があった。

 

その動きを見て、マミは奇妙な感覚を覚えた。

 

この子は、私の口が何を言うか聞いている。同時に、私の手が何をするかを見ている。両方を同じくらい警戒している。それも、口の方をやや軽く、手の方を重く見ている。

 

人が話しかけてきた時、普通は相手の顔を見るものだ。顔が見られない時でも、声に集中する。手を見続けるなんて、普通はしない。

 

──何か、良くないことが。

 

言葉にならない不安が、マミの胸の奥に滲んだ。それが何なのかは、まだわからない。けれど、この子の身体は何かを覚えている。マミにはその中身までは見えない。ただ、見えない何かがこの子の周りにあることだけが、確かだった。

 

少女が、ゆっくりと立ち上がろうとした。

 

両手を地面についた。その手首が、細かった。手首というより、骨の形が薄い皮膚の下でそのまま輪郭を作っているような細さだった。力を入れて、少女は膝を起こそうとする。けれど一度目は失敗した。膝が震えて、また地面に戻った。二度目で、ようやく腰が浮いた。

 

ふらついた。膝に力が入っていない。長く座り込んでいたからかもしれないし、もっと前から立てなかったのかもしれない。マミは反射的に手を伸ばしかけて、すぐに止めた。

 

止めて、よかった。

 

伸びかけたマミの手を、少女の目が追った。追って、それから少女の身体が、見ていてわかるほど大きく固まった。固まる、というのは正確ではないかもしれない。固まるより先に、少女の呼吸が一瞬、止まった。吸っていた息が途中で切れて、吐くこともできないまま、肩の動きだけが止まる。時間が数瞬、止まったように見えた。

 

それから、ふらつきながらも一歩、後ろに下がった。マミが触れようとしたわけではない。ただ、手が動いただけだった。それだけで。

 

「あ……、ごめんなさい」

 

マミは手を引いた。両手を膝の上に戻して、ゆっくりと見せた。何もしないと示すために。

 

少女は、それでも警戒を緩めなかった。マミの手を見ていた。マミの両手が膝の上で動かないことを、しばらく、確かめるように見ていた。何秒かかったかはわからない。マミの両手が本当に動かないと確信できるまで、その目はそこから離れなかった。

 

ようやく視線が逸らされた時、少女は小さく、途切れた息を吐いた。止めていた息を、やっと吐ける場所を見つけたように。

 

その拍子に、少女の制服の袖が少しずれた。手首が見えた。

 

そこに、痣があった。

 

円形の、指の太さくらいの痣。色は黄色がかっていて、もう古いもののように見えた。けれどその近くに、もう一つ、色の違うものがあった。

 

転んだのかしら。

 

そう思おうとして、思い切れなかった。二つ並んでそこにあることが、何かを伝えてくる。それが何なのかは、マミには言葉にできなかった。

 

マミは、見ないふりをすることができなかった。視線が自然にそこへ吸い寄せられて、そして少女が、マミの視線が自分の手首に向いたことに気づいた。

 

少女の動きは、素早かった。袖を、もう片方の手で押し下げた。痣を隠した。それは隠す動作というよりは、何度も繰り返してきた、ほとんど無意識の癖のように見えた。

 

二人の間に、しばらく沈黙が落ちた。

 

夜風が吹いて、街灯が小さく揺れた。光の輪が、ほんの少しだけ動いた。マミはどう続ければいいかわからなくなっていた。何を言っても間違いになりそうだった。何を尋ねても、この子の傷を抉ることになりそうだった。

 

「ねえ」

 

マミは結局、何の準備もないまま口を開いた。

 

「もし、困った時に、頼れる人がいなかったら……」

 

言葉が続かなかった。上級生として何かを言おうとして、そういう言葉がこの場面では何の役にも立たないことに気づいたからだった。ケーキを焼いて、紅茶を淹れて、話を聞く。それがマミの知っている唯一の差し伸べ方だった。頭の中でずっと温めてきた、いつか誰かが使わせてくれるかもしれない手。でもそれは、目の前のこの子には届かない種類の手だった。

 

それでも、マミは続けた。続けるしかなかった。

 

「私の家、学校から近いの。同じ学校なんだから、もしよかったら、訪ねてきてくれてもいいのよ」

 

少女は何も言わなかった。マミの口が動くのを、見ていた。

 

「無理に、じゃなくていいの。本当に」

 

自分でも、何を言っているのかよくわからなかった。けれどマミは、どうしても何かを残したかった。この場で立ち去って、明日からこの子のことを忘れて、また魔女と戦う日々に戻る、ということができなかった。

 

少女は、ゆっくりと一歩、後ずさった。それから、もう一歩。

 

足の運び方は、静かだった。制服の靴が地面を擦る音さえしない。その静けさが、マミの耳にはかえって異様に響いた。

 

「待っ……」

 

マミは思わず立ち上がりかけて、また座り直した。立ち上がったら、少女が逃げ出してしまう気がした。

 

少女は、後ずさるようにしてマミから距離を取った。街灯の光の端まで来ると、そこで一瞬、動きが止まった。少女の黒い瞳が、最後にもう一度、マミの両手の位置を確かめた。確かに動いていないことを確認してから、やっと、向きを変えた。

 

歩き方は、まっすぐではなかった。膝にまだ力が入っていないのがわかる。それでも歩いた。途中で一度だけ、街灯の光が少女の肩にかかり、長い黒髪がわずかに揺れた。その背中はマミが想像していたよりずっと小さく、細かった。制服が、その細さに対して少し大きすぎるように見えた。

 

歩いて、街灯の白い光の輪の外に出ていった。

 

そして、闇の中に消えた。

 

マミはしばらく、その場に座り込んでいた。風が冷たかった。

 

立ち上がろうとして、少女が膝を抱えていた地面に、何か小さなものが落ちているのに気づいた。マミはそれを拾い上げた。シャープペンシルだった。古い、安物の、よくある中学生のペンケースに入っていそうな、何の変哲もないものだった。芯が一本、折れかけて中から覗いていた。

 

少女が落としていったのか、もっと前から誰かがここに落としていたのかは、わからなかった。ただマミは、それをジャケットのポケットに入れた。

 

捨てられなかった。

 

マミは立ち上がり、少女が消えていった方向を見つめた。闇しかなかった。けれどその闇の向こうに、少女が向かって歩いていく場所がある。それがどこなのかは、マミにはわからない。家かもしれない。家ではないかもしれない。家であってほしくない、と思った自分に、マミは少し驚いた。

 

魔女は倒せる。

 

それは、マミが何度も自分に言い聞かせてきた事実だった。魔法少女は、魔女を倒すために契約する。願いを叶えてもらう代わりに、魔女と戦う義務を負う。それがこの世界のルールで、マミはそのルールの中で生きてきた。

 

けれど、今夜の冷たさは、魔女から来たものではなかった。

 

何なのかは、わからない。わからないから余計に気になる。あの子の周りにある、名前のつかない何か。マミには見えない、でも確かに存在している、何か。

 

マミは自分が、そういうものに対して無力だということを、漠然と感じていた。これまでも、わかってはいた。魔法少女になっても、世の中の不幸が全部消えるわけじゃない。そんなことは知っていた。知っていたつもりだった。

 

でもそれは、知識としての話だった。

 

今夜、マミの目の前にいたのは、知識ではない。生きている子供だった。夜の公園で蹲っていた、声を出すこともできない子供だった。その子に、マミは何もできなかった。声をかけて、手を伸ばしかけて、手を引っ込めて、それで終わりだった。

 

「……ねえ」

 

マミは、誰もいない通りに向かって呟いた。

 

「ねえ、私は、何のために」

 

続きの言葉は出てこなかった。マミは口を閉じて、自宅の方向に歩き始めた。

 

歩きながら、ポケットの中のシャープペンシルを指先で確かめた。プラスチックの硬い感触が、指に伝わった。

 

次に会えたら、と思った。

 

次に会えたら、もう一度声をかけてみよう。今日よりも、もっと丁寧に。手を伸ばさないように気をつけて。あの子が逃げないように。

 

それが正しいことなのかどうかは、わからなかった。先輩として、というのとも違う気がした。マミは、自分が何になろうとしているのかよくわからないまま、夜の道を歩いていた。

 

家に帰り着いた時、ソウルジェムの色は元に戻っていた。淡い、いつもの黄色。

 

マミはそれを少し見つめてから、台所に向かった。お湯を沸かす。紅茶を淹れる。一人分の。いつも通りの一人分の。

 

カップを両手で包み、湯気の立つ茶色の液面を見下ろした。

 

今日は金曜だった。明日から、二日間の休みが続く。その二日間、あの子はどこにいるのだろう。あの、怖がっていた家に戻っているのだろうか。それとも戻らずに、この寒さの中でまたどこかで膝を抱えているのだろうか。

 

ケーキでも焼こうかしら、と昨日までは考えていた。誰かに食べてもらえるあてがあるわけでもないのに、マミは時々、ケーキを焼いた。一人暮らしの部屋で、一人分の紅茶と一人分のケーキを並べて、誰もいないテーブルの向かいに視線を置く。それがマミの週末の午後だった。いつかもし、誰かが訪ねてきてくれたら。その「もし」のために、マミはお茶を淹れる練習を欠かさなかった。

 

けれど今夜は、ケーキのことを考える気になれなかった。

 

代わりに浮かんでいたのは、街灯の下の、青白い顔だった。

 

マミはカップを置いて、目を閉じた。

 

同じ中学に通っているのなら、必ずどこかで会える。月曜の朝、学校で探してみよう。教室を覗いて、廊下を歩いて、昼休みの食堂でも。見つけたら、今度はもっと丁寧に声をかけよう。

 

それが正しいことなのかどうかは、わからなかった。ただ、二日間、何もせずに待つことは、できそうになかった。

 

月曜、もし、あの子が学校にいたら。

 

声をかけよう。

 

それから、もし、できるなら。

 

お茶を一杯くらい、一緒に飲んでもらえたら。

 

一人分の紅茶しか淹れたことのない台所で、マミは初めて、二人分の茶葉を測る自分を想像した。想像するだけで、指先が少し温かくなった気がした。

 

そんなことを考えながら、マミは長い夜を一人で過ごした。

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