紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF) 作:LongLong
第10話「一本足りない」
夜だった。
風見野の外れ、古い倉庫街の近くで、杏子は魔女の気配を追っていた。
一時間前、グリーフシードの反応を感知した。夕飯のラーメンを途中で切り上げて、追い始めた。こういう魔女は、たまにいる。結界を張らずに移動し続けるやつ。捕まえにくい。でも逆に言えば、弱い。結界を張って防御する力がないから、逃げ回っている。
杏子は屋根の上を跳んだ。赤い外套が夜風に流れた。
魔女の気配が、さらに遠ざかっていく。西の方へ。杏子は舌打ちした。
「逃がすかよ」
追った。
どのくらい走ったか、わからなかった。
魔女の気配が、ようやく止まった。結界を張り始めた反応。逃げ疲れて、腹を括ったらしい。
杏子は屋根の上で足を止めた。
周囲を見渡した。
見覚えのない街並みだった。マンションの数が多い。道が広い。街灯の形が違う。
杏子は眉をひそめた。
「……見滝原かよ」
見滝原。マミの縄張り。杏子が風見野に移ってから、一度も踏み込んでいない場所。踏み込まないようにしていた場所。
魔女の結界が、少し先で完全に開いた。
引き返すか、と一瞬思った。でも魔女はもう結界を張った。今引き返せば、この夜に走り回った時間が全部無駄になる。
「……ちっ」
杏子は舌打ちして、結界に向かって跳んだ。
仕留めて、グリーフシードだけ持って帰る。マミに見つかる前に。
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結界の中は、倉庫のようだった。鉄骨の梁と、積まれた木箱と、錆びた機械の残骸。空間が歪んで、大きなガレージを何重にも引き延ばしたような構造。
使い魔が湧いてきた。小さい。弱い。雑魚。
杏子は槍を振った。長く伸びた槍がうねり、同時に複数の使い魔を貫いた。
奥に進む。魔女の気配は、もう少し先。
通路を曲がった瞬間、杏子は足を止めた。
積まれた木箱の陰に、誰かがいた。
蹲っていた。
人間だった。学校の制服を着た女の子。前髪の長い、黒髪の子。肩をきつく縮めて、自分の腕を抱くようにして、木箱の陰で震えていた。
「……ついてねぇ」
杏子は呟いた。
結界に巻き込まれた一般人。運が悪かった。
使い魔が二体、その子を囲むように近づいていた。
杏子は槍を振った。使い魔が弾けた。もう一体、別角度から槍を突き込んで、仕留めた。
その子は動かなかった。顔を伏せて、震えているだけだった。
杏子は近づいた。
「おい、生きてるか」
返事はなかった。
杏子は屈んだ。肩に手を伸ばそうとして、止めた。何となく、触らない方がいい気がした。
「立てっか。出口こっちだよ」
返事はなかった。でも、肩がさらに小さく縮まった。
意識はある。聞こえている。
杏子は立ち上がった。
「……ちっ」
舌打ちして、その子の腕を取ろうとした。でも触れる直前で、また止めた。
触るな、と本能が言った。
なんでかはわからない。ただ、そう感じた。
「歩けんなら歩きなよ。魔女がまだいる」
その子の肩が、小さく頷くように動いた。頷いたのか、震えただけなのか、わからなかった。
でも、ゆっくりと立ち上がった。
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杏子は先を歩いた。その子は後ろから、三メートルくらい離れてついてきた。
使い魔が時々出てくるのを、杏子は蹴散らしながら進んだ。結界の入口の方向に戻る。本当なら魔女を仕留めてからの方が効率がいいけれど、こいつがいる状態で戦うのは面倒だった。
結界の歪みが薄くなる場所に、杏子は辿り着いた。
「ここだ。出るよ」
振り返った。その子が、三メートル後ろで立ち止まっていた。杏子の顔を見ていない。杏子の足元を見ている。正確には、杏子が手に持っている槍の先端を見ている。
杏子は槍を背中に回した。
「怖いか? これ」
返事はなかった。
杏子は槍を消した。手の中で光に変えて、霧散させた。
「消したぞ。出るよ」
その子が、ようやく動いた。ゆっくり、近づいてきた。杏子の横を通り過ぎる時、壁際を歩いた。鉄骨の梁に身体を寄せて、杏子からできるだけ離れて、通り抜けた。
杏子はそれを見ていた。
なんだこいつ、と思った。魔女より人間の方が怖いみたいな歩き方。
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結界を出た。
普通の、見滝原の裏通りに戻っていた。街灯が一本。古いアスファルト。夜の空。
その子は、結界から出た瞬間に、その場に座り込んだ。足に力が入らなかったらしい。
杏子は突っ立って、その子を見下ろしていた。
さて、どうするか。
一般人を結界から助けた経験はある。でも、放置して帰るだけだった。助けたというより、結果として助かったというだけ。
その子は、地面を見ていた。肩で息をしていた。
それから、顔を上げた。
杏子ではなく、遠くを見た。
その視線の先を、杏子も追った。
住宅街の方向。家が並んでいる方向。
その瞬間、その子の呼吸が変わった。ほんのわずかに。でも、はっきりと。浅くなった。速くなった。
杏子は、その変化を見た。
見た瞬間に、何かが引っかかった。
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その子の手が、震えていた。膝の上で、小さく。
制服の袖口が、少しめくれていた。
手首が、見えた。
杏子の視線が、そこで止まった。
痣があった。
古いやつ。黄色くなりかけた、前の痣。その上に、新しい、青黒いのが重なっていた。内側に。掴まれた形の痣だった。親指の跡が、はっきりと見える位置にあった。
その上にも、もっと古い痕。薄く茶色くなって消えかけているやつ。
何回も、何回も、同じ場所を掴まれた手首。
杏子の頭の中で、何かが、音を立てずに嵌まった。
「おい」
自分の声が、思ったより低かった。
「その手首」
その子が、びくりと肩を跳ねさせた。それから、ブレザーの袖口を、反対の手で、素早く引き下ろした。手首を隠した。
杏子は、それを見ていた。
その動作の速さ。反射的な速さ。毎日やっている動作の速さ。
杏子の中で、もう一つ、音がした。
家の方向を見た時の、あの呼吸の変化。それと、この手首。
家か。
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杏子は、しばらく何も言わなかった。
何か言うべきだった。何か、聞くべきだった。「誰にやられた」とか。「大丈夫か」とか。「警察に行け」とか。
でも、どれも違った。どれも、意味がなかった。
杏子は知っていた。
こういうやつに「警察に行け」と言っても、行かない。行けない。家に戻る。戻る以外の選択肢を持っていない。
自分がそうだった。
契約した後の、あの時期。父親があたしを悪魔を見る目で見るようになってから。家に帰りたくない日があった。魔女と戦える力を持っているのに、あの家には帰りたくなかった。それでも、帰る以外の選択肢がなかった。
杏子は、その子を見下ろした。
その子は、手首を隠した姿勢のまま、動かなかった。杏子の顔を見上げなかった。ただ、自分の膝を見ていた。
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杏子は、立ち上がった。
「勝手にしな」
そう言った。
自分の声が、思ったより乾いていた。
「家帰れんなら帰れよ。帰れねえなら、帰るな。あたしは知らねえ」
その子は、答えなかった。
杏子は背を向けた。
歩き出した。
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三歩、歩いた。
止まった。
舌打ちした。
ポケットに手を突っ込んだ。指先が、細長い袋に当たった。チョコプレッツェルの袋。今日の夕飯の代わりに買って、ラーメンがあったから食べずに残していた。
杏子は袋を引っ張り出した。
開けた。
一本、取り出した。
それから、三歩、その子の方に戻った。
その子は、同じ姿勢のまま座っていた。
杏子は、その手に、チョコプレッツェルを一本、押し付けた。
柔らかくでもなく、優しくでもなく、雑に。
「食え」
一言だけ言った。
その子が、びくりと震えた。でも、杏子はもう歩き出していた。
振り返らなかった。
結界の気配が、まだ残っていた。
杏子は建物の影を跳んで、結界に戻った。
魔女はまだ奥にいた。逃げ疲れて、結界の中心で蹲っているような気配。
杏子は無言で槍を出す。投げた。魔女が砕けた。あっけなかった。
グリーフシードが落ちた。
杏子は拾った。
ソウルジェムに当てて、穢れを吸わせた。赤い輝きが戻った。
結界が崩れた。倉庫街の、普通の夜に戻った。
杏子は屋根の上に跳んだ。
見滝原から出るには、東へ走る。
走り出す前に、一度だけ、振り返った。
さっきの裏通りの方向。
もう、その子は見えなかった。座り込んでいた場所も、角度的に見えなかった。
杏子は、舌打ちして、東へ跳んだ。
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風見野に戻るまでの屋根の上を、走りながら、杏子は考えていた。
いや、考えないようにしていた。
あの子のことは、考えない。
あたしには関係ない。結界から助けたのは、目の前にいたから仕方なく。チョコプレッツェルを渡したのは、なんとなく、気まぐれ。それだけ。
見滝原に入ったのも、魔女を追った結果。次はない。
次はない、と自分に言い聞かせた。
でも、ポケットの中のチョコプレッツェルの袋が、妙に軽かった。
一本足りない袋。
杏子は走り続けた。
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家に戻った。家、といっても、杏子が寝泊まりしている廃ビルの一室のことだった。
変身を解いて、床に座り込んだ。
チョコプレッツェルの袋を、ポケットから取り出した。
開けた。
一本、取った。
口に入れた。
甘かった。いつも通り。
でも、咀嚼しながら、杏子はふと思った。
あの子、あれ、食ったかな。
握ったまま、捨てたかもしれない。食べる気になれなかったかもしれない。あるいは、家に帰ってから、一人で食べたかもしれない。
どれだろう、と杏子は考えた。
考えて、自分に舌打ちした。
知るかよ、と声に出して言った。
袋の中のチョコプレッツェルを、もう一本取って、噛み砕いた。
残り、いつもより一本少ない。
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翌日。
杏子は風見野の魔女狩りに出た。いつも通り。グリーフシードを集めて、ソウルジェムを磨いて、魔力を確保する。孤独で、効率的で、余計なことを考えない日常。
夜、ビルに戻って、チョコプレッツェルを食べた。
一本足りない。
二日目。
同じ。
一本足りない。
三日目。
杏子は、袋の中を見ていた。いつもなら、もう少し残っているはずの量。でも一本足りないから、いつもより早く無くなる。
新しいのを買えばいい。そうだ。買えばいい。
でも、なぜか、その「一本足りない」ことが、頭の中に残り続けた。
あの子の姿も、消えなかった。手首の痣。家の方向を見た時の呼吸。杏子が槍を消した時の、ほんの少しだけ緩んだ肩。壁際を歩いて通り過ぎた姿。
自分の父親のことを、久しぶりに思い出した。
あの頃の、自分の父親。教会が潰れた後の、酒に溺れた父親。怒鳴り声。あの目。
杏子は目を閉じた。
思い出したくないことを、あの子のせいで、思い出している。
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四日目の夜。
杏子は屋根の上に立っていた。
風見野の夜空を見上げて、それから、遠くを見た。
見滝原の方向。
魔力の気配。グリーフシードの反応。
あるような、ないような。
杏子は思った。
気のせいかもしれない。でも、確かめる価値はあるかもしれない。
見滝原には魔女が出る。マミが全部は倒せない。杏子が拾う分があってもいい。グリーフシードは早い者勝ちだから。
それに。
あの辺で魔女が出れば、もしかしたらまた、誰かが巻き込まれるかもしれない。
その「誰か」のことは、杏子は考えていなかった。考えていない、ということにした。
杏子は跳んだ。
見滝原の方向へ。
ポケットの中で、チョコプレッツェルの袋が、軽く音を立てた。
今日買った新しい袋。封を開けてある。
まだ食べない。何のために開けたのか、杏子は自分に訊かなかった。
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夜の見滝原。
杏子は屋根の上を跳びながら、気配を探った。
魔女の気配。グリーフシードの反応。
いくつか、小さい反応があった。でも、すぐに消えた。マミが処理したのかもしれない。あるいは、元からそんな反応はなかったのかもしれない。
杏子は、住宅街の方に足を向けた。
なぜそちらに行くのか、自分に訊かなかった。
屋根の上から、下を見た。
普通の家が並んでいた。見覚えのない家。当たり前だ。あの子の家がどこかなんて、杏子は知らない。
知らないのに、探していた。
杏子は自分に気づいて、舌打ちした。
「……何してんだよ、あたし」
声に出した。
答えはなかった。
杏子は屋根の上で足を止めた。
ポケットから、チョコプレッツェルを一本取り出した。
口に入れた。
甘かった。
咀嚼しながら、杏子はぼんやり思った。
あたしは、何をしに来たんだろう。
魔女を追ってきた、ということにしていた。でも、魔女はいなかった。いない、ということに気づいた後も、杏子は見滝原にいた。帰らなかった。
屋根の上で、夜風に外套が流れた。
杏子はしばらくそこに立っていた。
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結局、その夜は、あの子には会わなかった。
どこにいるかもわからない。家は知らない。名前も知らない。学校も知らない。
会えるはずがなかった。
会いたかったわけじゃない、と杏子は自分に言った。
ただ、魔女の気配を追ってきただけだ。
そう言いながら、杏子は周囲を見回した。
遠くに、住宅街が見えた。誰かがあの中の一つに住んでいる。そいつが、今、何をしているかは知らない。生きてるかも知らない。
知るかよ、と杏子は呟いた。
呟きながら、ポケットの袋から、もう一本、チョコプレッツェルを抜いた。
口に入れる前に、指先で少し握った。
それから、食べた。
風見野への帰り道、屋根を跳びながら、杏子は思った。
あの子、今日、どこかで、あのチョコプレッツェル、食ったかな。
考えて、また舌打ちした。
知らねえよ。
知らねえ、と自分に言いながら、杏子はもう一度、振り返った。