紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF) 作:LongLong
第11話「あら、佐倉さん」
マミが異変に気づいたのは、三日前からだった。
いつもの見回りのルート。街の東側の住宅街。マミが担当している範囲。
その日、街灯の影で、小さな魔力の痕跡が残っていた。魔女を倒した後の、微かな残滓。グリーフシードを吸収した時の、特有の波形。
でもマミは、そこで魔女を倒していない。
誰かが、倒した。
マミより先に。マミの縄張りで。
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翌日も、同じ痕跡があった。別の場所。街の北側。
翌々日、今度は倉庫街の方向でも。
マミは歩きながら、その痕跡を辿った。
魔女の気配を感知してから、マミが駆けつけるまでの間。その隙間に、誰かが入り込んでいる。グリーフシードを回収して、消えている。
マミの手が、少し冷たくなった。
誰かが、自分の領域を荒らしている。
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四日目の夜、マミは早めに動いた。
魔女の気配を感知した瞬間、すぐに変身して、跳んだ。今日こそ、先回りする。
到着した結界は、小規模なものだった。マミは入って、使い魔を掃討した。奥の魔女を仕留めて、グリーフシードを回収した。
問題なく処理できた。
でも、その帰り道だった。
屋根の上を跳びながら、マミは、別の気配を感じた。
魔女ではない。魔法少女の気配。
美樹さんのものではない。
近い。
マミは足を止めた。屋根の縁に立って、気配のする方向を見た。
少し離れた別の屋根の上に、人影があった。
赤い外套。長い髪。槍。
マミの息が、一瞬、止まった。
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佐倉さん。
名前が、先に浮かんだ。
それから、記憶が追いついてきた。
彼女が見滝原を出てから、何年経っただろう。二年。いや、三年になるのかもしれない。家族のことがあってから、彼女は一人になった。マミが声をかけようとしても、応じなかった。
別の街で魔女狩りをしているとは、噂で聞いていた。風見野の方、だったか。
でもマミの縄張りには、来ていなかった。来ないようにしていた、はずだった。
それが、今、目の前にいる。
マミは、静かに跳んだ。
彼女のいる屋根の、向こう側に。
着地した音で、彼女が振り向いた。
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二人の間には、十メートルほどの距離があった。
夜風が、赤い外套を揺らした。
佐倉さんの表情は、読めなかった。少なくとも、昔のような明るさはなかった。もっと硬い、閉じた顔だった。
マミも同じだろう、と思った。自分の顔の筋肉が、今、どういう形になっているか、自分ではわからない。
先に口を開いたのは、マミの方だった。
「……佐倉さん」
苗字で呼んだ。
昔もそう呼んでいた。今も同じ呼び方。でも、声が違った。自分で聞いて、マミはその違いに気づいた。
昔のマミの「佐倉さん」には、柔らかさがあった。後輩を、丁寧に、抱え込むように呼ぶ声。今の「佐倉さん」は、距離を確認する声だった。
同じ言葉なのに、温度が違った。
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佐倉さんが、少し笑った。
口の端だけ、少し上げた。目は笑っていなかった。
「お久しぶりです、巴先輩」
「先輩」と言った。
マミを見下すような、それでいて拒絶する言い方だった。
マミは、何も答えなかった。
「相変わらず、お綺麗なこって」
佐倉さんは続けた。
「見滝原で、ご活躍みたいじゃん」
マミは、佐倉さんの顔を見ていた。
読めなかった。何を考えているか。何を思ってここに来たのか。
でも、マミは知っていた。
ここ数日、マミの縄張りを荒らしていたのは、この人だった。
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「佐倉さん」
マミの声が、自分で思ったより低く出た。
「ここは、私の縄張りよ」
佐倉さんの眉が、わずかに動いた。
「勝手に入ってこないで」
言ってから、マミは自分の声に少し驚いた。
こんな言い方をするつもりはなかった。もっと柔らかく、事情を聞いてから、話すつもりだった。
でも、口から出たのは、冷たい線引きの言葉だった。
佐倉さんは、しばらくマミを見ていた。
それから、舌打ちした。
「ちっ」
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「別にさ、あんたの縄張りを荒らしに来たわけじゃないよ」
佐倉さんは、肩をすくめた。
「魔女を追ってたら、こっちに入っちまったのさ。それだけ」
「……三日連続で?」
マミの声が、冷たかった。
佐倉さんの口元が、少し固くなった。
「魔女は自由に動くっしょ。あたしが追ってたら、こっち来るだけじゃん。マミが先に仕留められないから、あたしが拾ってやってただけ」
「……拾ってもらう必要はないわ」
「へえ」
佐倉さんは、槍を肩に担ぎ直した。
「この街の魔女全部、処理できてんの?」
マミは答えなかった。
答えられなかった、と言うべきかもしれない。実際、マミは最近、捕りこぼしが増えていた。鹿目さんと美樹さんの見学が増えてから、戦闘の密度が少し変わっていた。美樹さんが魔法少女になってからペースはあがったが、それでも追いついているとは言えなかった。
でも、それは佐倉さんに話すことではなかった。
「私の問題よ」
マミは、そう言った。
「あんたの問題で、あたしを締め出すってのか」
「締め出しているわけじゃない。ルールの話よ」
「ルール」
佐倉さんが、鼻で笑った。
「何のルール? あんたが決めたルール?」
「魔法少女の間の、不文律よ。縄張りは、そこにいる魔法少女のもの。他の街の人間が、勝手に拾うものじゃない」
「へえ」
佐倉さんは、何度目かの「へえ」を口にした。
「あたしは聞いたことないけどね、そのルール」
マミは、黙った。
佐倉さんも、黙った。
夜風が、二人の間を通り過ぎた。
マミは、この場面をどう終わらせるべきか、考えていた。考えながら、口からは別の言葉が出ていた。
「佐倉さん」
「何」
「あなたの街に戻って」
佐倉さんが、マミを見た。
「あたしの街、ね」
「風見野のこと。そう聞いているわ」
「ふーん。噂はちゃんと届くんだ」
「佐倉さん」
「分かったよ」
佐倉さんは、槍を背中に回した。
「帰るよ。せっかくの見滝原なのにね」
皮肉だった。
マミは、応じなかった。
佐倉さんが、背を向けた。
屋根の縁に立って、次の屋根に跳ぶ姿勢を取った。
跳ぶ直前、一度だけ、振り返った。
「マミ」
マミの肩が、少しだけ動いた。
「あんた、変わったね」
佐倉さんは、そう言った。
「昔は、もう少し、目が柔らかかったよ」
それだけ言って、跳んだ。
赤い外套が夜空に舞って、屋根の向こうに消えた。
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マミは、しばらく動けなかった。
屋根の上に、一人で立っていた。
夜風が、髪を揺らした。
佐倉さんの言葉が、耳の中で、まだ残っていた。
「目が柔らかかった」。
マミは、自分の顔に手を当てた。目の周りに触れた。冷たかった。何の感触もなかった。柔らかいも硬いも、自分では分からない。
変わった、と言われた。
そうかもしれない、とマミは思った。
あの子のことがあってから。鹿目さんに「気をつけてあげて」としか言えなかった夜から。シャルロッテの牙が頬を撫でた夜から。マミの目の中に、何かが、少しずつ入れ替わっていた。
それが柔らかさを失わせたのか、それとも別の何かを足したのかは、マミにはまだわからなかった。
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マミは、屋根の上から下りた。
住宅街の道を、変身したまま歩いた。街灯の光が、足元に落ちていた。
歩きながら、マミは考えた。
佐倉さんに、もっと柔らかく話せたはずだった。「魔女を追ってたのね」と言えば良かった。「お疲れ様」と言えば良かった。あるいは、昔のように「一緒にお茶でも」と言えば良かった。
でも、どれも言えなかった。
代わりに出たのは、「ここは私の縄張りよ」だった。
なぜだろう、とマミは考えた。
答えは、少し考えればわかった。
怖かったからだ。
あの子を壊したマミが、佐倉さんに近づいたら、佐倉さんも壊してしまうかもしれない。そう思ったから、先に遠ざけた。縄張りの線で、距離を取った。
それが、「目が柔らかくなくなる」ということなのかもしれなかった。
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一方、跳んだ屋根の上、いくつか先。
杏子は、建物の屋上で足を止めていた。
夜の見滝原を、一度だけ、振り返った。
マミのいた方向。しかし、もう、マミの気配は感じなかった。
杏子は、舌打ちした。
「……ちっ」
予想より、冷たかった。
噂では、マミは最近も魔法少女二人で動いているらしい、と聞いていた。美樹さやかとかいう新人。先輩風を吹かせて、後輩を率いているらしい、と。昔の二人のように。
だから、もっと甘くなっているかと思っていた。
実際には、逆だった。
マミは、昔より硬くなっていた。
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杏子は、マミの最後の表情を思い出していた。
「あなたの街に戻って」と言った時の、あの顔。
冷たかった。確かに冷たかった。
でも、杏子は知っていた。あの冷たさの下に、何かがある。マミは昔から、先輩風を吹かせる時に、自分の何かを隠そうとする癖があった。
今日のマミも、同じだった。
何かを隠していた。
何を隠しているのかは、杏子にはわからなかった。わからないけれど、あのマミは、昔のマミとは違う場所に立っていた。
「あんた、変わったね」
杏子は、自分が言った言葉を、もう一度、口の中で繰り返した。
マミに言ったつもりだったけれど、その言葉は、自分にも跳ね返ってきた。
あたしも、変わった。
昔のあたしなら、マミに「縄張りを荒らすな」と言われたら、もっと食ってかかっていた。殴り合いになっていたかもしれない。
でも今日のあたしは、舌打ちして引き下がった。
なんで引き下がったのか、杏子は自分に訊いた。
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訊かなくても、答えはわかっていた。
あの子のことを、マミに気づかれたくなかった。
杏子がこの街に来ている本当の理由。見滝原の住宅街の、どこかの家で震えているかもしれない、あの手首の痣の子。
それをマミに知られたら、マミはきっと関わろうとする。先輩風を吹かせて、紅茶を淹れて、優しく話しかけるのだろう。
杏子は、マミのそういうやり方が、通じないとなぜか直感していた。あの子の反応を見た限り、マミの「いい先輩」は、あの子にとっては別の種類の圧力になる。
だから言わなかった。
マミに、あの子のことを、言わなかった。
言わなかったのは、あたしが独りでなんとかしたいから、ではない。
あたしも、どうすればいいかわからないから。
マミに任せれば、あの子は壊れる。あたしが抱え込んでも、どうにもできない。
どうにもできない相手を、どうにもできないまま抱えて、見滝原を歩いている。
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杏子は、チョコプレッツェルの袋を、ポケットから取り出した。
開いている袋。一本、取り出した。
口に入れる前に、手の中で、少し握った。
それから、噛み砕いた。
夜の見滝原の屋上で、杏子は一人で、チョコプレッツェルを噛んでいた。
甘かった。
いつも通り。
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風見野に戻る道を、杏子は跳んだ。
屋根から屋根へ。赤い外套が夜風に流れた。
跳びながら、杏子は考えた。
誰にも、言わない。
あの子のことは、あたしの中だけにしまっておく。
そう決めた。
決めたけれど、決めたことを決めた瞬間に、杏子は自分に舌打ちした。
なんで、あの子のことを、自分の中に「しまっておく」なんてことを考えるのか。
他人じゃん。関係ないじゃん。見滝原の、知らない子じゃん。名前も知らないじゃん。
知るかよ、と口の中で呟いた。
呟きながら、杏子は、次の屋根に跳んだ。
ポケットの中で、チョコプレッツェルの袋が、軽く音を立てた。
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マミも、同じ夜、同じ街で、家に帰っていた。
変身を解いて、リビングの電気をつけた。
ガラステーブルの前に、椅子が並んでいた。マミの椅子、鹿目さんの椅子、美樹さんの椅子。
そして、あの椅子。
あの子の椅子。
マミは、あの椅子を見ながら、キッチンに入って、湯を沸かした。
紅茶を淹れた。一人分だけ。
カップを持って、自分の椅子に座った。
テーブルの向こう、あの椅子を見た。
今日、佐倉さんと会った、とマミは心の中で呟いた。
あの子のことを、佐倉さんに話そうかと、一瞬、思った。昔の後輩なら、こういう話をできたかもしれない。「気にかけている子がいるんだけど、傷つけてしまった」。そう言えたかもしれない。
でも、言えなかった。
今の佐倉さんに、言えるはずがなかった。
マミは紅茶を一口飲んだ。少し熱かった。
「目が柔らかかった」。
佐倉さんの言葉が、もう一度、頭の中で鳴った。
マミは目を閉じた。
昔の自分は、どんな目をしていたのだろう。
思い出そうとしたけれど、思い出せなかった。