紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF) 作:LongLong
第13話「共通の」
本棚の列が途切れた、その先。
開けた広間の、中央に、それはあった。
巨大な古い本。
見上げるほどの大きさで、見開きに開かれていた。革の表紙が黒ずんで、ページの縁が焼けたように黄ばんでいた。文字は書かれていない。代わりに、二つに開かれたページの内側に、白い歯が何列も並んでいた。
ページの上に、一人の少女が横たえられていた。
制服。黒髪。細い身体。
小さな紙で出来た使い魔たちが、少女を本の上に運び終えた瞬間だった。ぱらり、ぱらりと紙をめくる音がして、本のページが、ゆっくりと、閉じようとしていた。
杏子の視界が、それを捉えていた。
あの子だ。認識する前に、杏子の身体が動いていた。
右手が槍を呼んだ。でも、いつもの槍じゃなかった。
全身の魔力を、一本の槍に集めた。
心臓から、魔力が吸い出される感覚があった。手足の末端が冷たくなる、あの感覚。ソウルジェムが一気に濁る。普段の戦闘では絶対にしない使い方。グリーフシードで濯がなければ、今夜の残りの魔力は底を突く。
構わなかった。
ページが、閉じ切る前に、止めなければならなかった。
杏子の右手の中で、槍が、組み上がっていった。普段の三倍の太さ。穂先の根元で、赤い魔力が螺旋を描いて凝縮していく。光が、圧縮されて、塊になっていく。
腕の筋肉が悲鳴を上げた。肩の関節が、内側から引き裂かれるような痛み。構わなかった。
杏子は槍を、頭の後ろまで、引いた。
振り上げた腕の角度を、一瞬で、計算し直した。本の開き口。少女に当たらず、魔女の動きを止める位置。ページが閉じる動きの中で、杏子の目が捕捉した。
踏み込んだ。
前足の下で、古い絨毯が裂けた。次の瞬間、絨毯の下の結界の地面まで、蜘蛛の巣状に亀裂が走った。杏子の体重と魔力の全部が、その一点に集まっていた。
投げた。
投げた、というより、放った。
赤い光が、広間を、ひとすじ、割った。
空気が、槍の通った軌跡の後ろで、遅れて破裂した。音が、二拍遅れで追いかけてきた。鞭を鳴らすような、大気の悲鳴。
槍は、一直線だった。
広間を横切る距離を、瞬きひとつの間に、埋めた。
本のページが、閉じ切ろうとしていた。上下の歯が、少女の身体を噛み砕く寸前だった。
そこに、杏子の槍が、ねじ込まれた。
穂先が、本の開き口の、ちょうど中央を貫いた。赤い魔力の螺旋が、ページを貫通した。上のページを貫き、下のページまで貫き、本の背骨にまで、深く、深く、食い込んだ。
槍が、本の背骨に、突き立った。
魔力の余波で、本の周りの空気が、円形に歪んだ。本の表紙が、衝撃で震えた。落ちかけていた埃が、上方向に跳ね上がった。
本が、閉じられなくなった。
ページと歯が、噛み合わせの途中で、止まった。杏子の槍が、魔女の口を力ずくで押し開いていた。
ぎし、という嫌な音が、広間に響いた。
本が、閉じようとして、閉じられない音。槍で噛み合わせを狂わされた上下の歯が、空を噛もうとしている音。
紙の使い魔たちが、一斉にざわめいた。紙のページが、火花のように鳴った。ぱち、ぱち、ぱちぱちぱち、と。広間の空気が、敵意で満ちた。
杏子は、もう次の槍を握っていた。
「マミ!」
叫んだ。振り返らなかった。次の槍を構えながら、本を見ていた。口の中にいるあの子を、早く、下ろさないと。
マミの気配が、横を駆け抜けた。
金色のリボンが、広間の空気を切った。リボンが本の上を走り、横たえられた少女の身体に絡みついた。マミのリボンが、精密に少女の胴を巻いた。少女の身体が、ページの歯から、引き剥がされた。
本が、さらに大きく、ぎしと鳴った。
「美樹さん!」
マミの声。
さやかが、剣を抜いて飛び込んできた。杏子の左側を駆け抜けて、紙の使い魔たちに斬り込んだ。使い魔の紙が、裂けた。
ほむらが、盾を構えて、マミの側に回った。落とされた少女を、ほむらの盾が風から守った。
四人が、同時に動いていた。
杏子は、槍を構え直した。
本体は、本。開いたまま閉じられない、巨大な本。その本の「噛み合わせ」を止めている限り、魔女は本来の攻撃ができない。
でも、ただの槍一本で永遠に止められるわけじゃなかった。
杏子の槍が、ぎしぎしと、本のページに押し返されていた。魔女の力が、噛み合わせを戻そうとしている。杏子の魔力が、それと拮抗している。
「マミ、そいつ生きてるか!」
杏子はもう一度、叫んだ。
「生きてるわ!」
マミの声が返ってきた。少女を抱えたまま、少し離れた本棚の陰に下がっていた。
杏子は、それを聞いた瞬間に、詰めていた息を、吐いた。
少しだけ。
残りの息を、次の戦闘に回した。
このままじゃ、保たない。
杏子は、両手を前に出した。魔力を、もう一本の槍に凝縮し始めた。普段は使わない、大型の投擲槍。本の背骨まで貫く、破壊用の一本。魔力がごっそり持っていかれる。でも、構わなかった。
あと少しで完成する、その時だった。
───視界の中で、何かが、一瞬で変わった。
さっきまで空中にいた使い魔が、別の位置にいた。さやかの剣の軌道が、さっきと違う角度になっていた。ほむらの姿も、さっきと違う場所に立っていた。
そして、本の周りに、見覚えのない物が、幾つも配置されていた。
爆弾だった。
本の背に集中して、並んでいた。
杏子は、一瞬、何が起きたか分からなかった。
それから、すぐに理解した。
ほむらの魔法。詳しくはわからない。ただ、一瞬で爆弾を仕掛けた。杏子には体感できない間に、全部の準備を終えた。
杏子の腕は、まだ大型槍を作り終えていなかった。
「完成させろ、ってことかよ」
杏子は、歯を食いしばった。
赤い魔力を、最後まで絞り込んだ。
腕の中で、大型の槍が、完成した。穂先が、赤い魔力で輝いていた。
その瞬間だった。
爆発が、結界を揺らした。
連鎖する爆発のなか、本の背骨が、露わになった。
杏子は、再び槍を投げた。
赤い光が、広間を縦に切った。
槍が、本の背骨に、深く、深く、突き刺さった。穂先が背骨を貫通して、反対側まで抜けた。
本が、絶叫した。
紙の音だった。大量の紙が、一斉に裂ける音。
ページが、バラバラに舞った。使い魔たちが、空中で弾けた。
本の本体が、崩れ始めた。表紙が剥がれ、ページが散らばり、魔力の塊が露出した。
さやかが、最後の一撃に駆け込んだ。剣が、魔力の塊を、一閃した。
広間の色が、褪せた。
本棚が、歪んで、消えていった。
夜の街が、戻ってきた。
杏子たちは、住宅街の、ある家の前の通りに立っていた。古い木造の家の並ぶ、普通の通り。街灯が一本、足元に光を落としていた。
グリーフシードが、アスファルトの上に転がっていた。
誰も、拾わなかった。
四人の視線は、マミが抱きかかえた少女に、集まっていた。
少女は、目を閉じていた。
呼吸は、浅いけれど、ある。意識はない。
制服が、埃で汚れていた。前髪が、汗で少し額に張り付いていた。
マミが、少女を、丁寧に地面に寝かせた。
杏子は、少女の傍らに屈み込んで、制服の袖口を見た。
めくった。
手首に、痣があった。
古いやつの上に、新しいやつが重なっていた。あの夜、杏子が見た時より、一段、増えていた。
杏子は、舌打ちした。
「……やっぱりかよ」
小さく、呟いた。
呆れと、苛立ちと、認めたくない心配が、混じっていた。
息を吐いた。詰めていた息を、最後まで。
マミが、杏子の横顔を見ていた。
「佐倉さん」
マミの声が、さっきまでと違った。
「この子を、知っているの」
杏子は、答えなかった。
答える義務はなかった。でも、今の杏子には、嘘をつく気力も残っていなかった。
「……前に、会ったことある」
それだけ言った。詳細は言わなかった。
マミが、それ以上は訊かなかった。
さやかが、横から、遠慮がちに言った。
「あの、あたしも、この先輩、知ってて」
マミとさやかと杏子、三人の視線が、少女の上で、交差した。
三人とも、この子を、違う角度から、知っていた。
誰も、どの角度から知っているかは、今は話さなかった。
気まずい沈黙が、流れた。
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ほむらは、一歩引いた場所で、三人を見ていた。
腕は下ろしていた。戦闘は終わった。ほむらの注意は、少女ではなく三人の方に向いていた。
三人とも、この少女を、知っていた。
マミは、しゃがんで少女の顔を見ている。その目に、ほむらは覚えのある色を見た。後悔の色。
さやかは、少し遠巻きに、少女を見ている。その目に、怯えの色があった。
杏子は、少女の手首に触れていた。触れるというより、袖をめくって、痣を確認していた。その目に、ほむらが過去に会った時から変わらない、冷たさの下の焦燥があった。杏子が見滝原に来ていた本当の理由が、ここにあった。
三人とも、この少女を、それぞれ違う角度から「知っている」。
ほむらだけが、この少女を知らなかった。
ほむらは、この少女の顔を、しばらく見ていた。
この少女の手首の痣。母親か父親か、あるいは別の大人か。ほむらは、この少女がどういう環境にいるかを、一瞬で推測した。
この少女は、マミを知っている。さやかを知っている。杏子を知っている。そして三人は、この少女を、それぞれ違う形で、気にかけている。
対立していた三人が、今、同じ方向を向いて、この少女を守っている。
ほむらの頭の中で、歯車がひとつ、静かに回った。
マミが、顔を上げた。
「……とりあえず、私の家に」
迷いのない声だった。
杏子が、答えなかった。でも、反対もしなかった。
さやかが、頷いた。
ほむらも、反対しなかった。頷きもしなかった。ただ、目を伏せた。
マミが、少女を、リボンで軽く包んで、抱え上げた。慣れた手つきだった。
四人が、歩き出した。
夜の住宅街を、しずくを挟む形で、四人が並んで歩いた。
ほむらは、一番後ろを歩いた。
前を歩く三人の背中が、夜の街灯の下で、影を落としていた。
マミの背中。少女を抱えている。
さやかの背中。少女をちらちらと気にしている。
杏子の背中。少女の方を見ないようにしているのが、見ないようにしていることで、かえってわかる。
ほむらは、その三つの背中を、視界に収めた。
この少女が、三人の共通の課題になる。既にそうなっている。
三人は、この少女について、おそらくまだ互いに多くを知らない。でも、これから知ることになる。それぞれが、少女に対して持っている感情を、今後は共有することになる。
共有すれば、対立は止まる。
少なくとも、この少女を守るという一点については、三人は同じ方向を向く。
マミと杏子の縄張り争い。さやかと杏子の対立。全部、この少女の存在の前では、一時的に停止する。
ほむらは、それを、冷静に見ていた。
「使える」と思った。
この少女を、錨にすれば、三人は同じ場所に留まる。対立の再開を、防げる。ワルプルギスの夜まで。三人を同じ方向に向けたまま維持することが、可能になる。
ほむらの目的のために、この少女の存在は、都合がいい。
ほむらは、その判断に、罪悪感を感じなかった。
感じなかった、わけではないかもしれない。
少女の寝顔を、一瞬、見た。
制服の胸元で、呼吸が浅く、小さく上下していた。前髪が、汗で額に張り付いていた。まだ目を覚ましていない。これから目を覚ました時、どう反応するだろう。
この少女にとって、それは、また別の恐怖になるかもしれない。
ほむらは、その可能性を、一瞬、考えた。
考えて、消した。
必要だから、そうする。
ほむらは、心の中で、その言葉を繰り返した。「必要だから」。正当化ではなかった。言い訳でもなかった。ただ、事実として、そうする。
少女がその過程で少し壊れることがあっても、それは、ほむらにとっては、許容範囲の結果だった。
ほむらは、前を歩く三人の背中を、もう一度、見た。
マミが、少女を抱えている腕に、力が入っていた。
杏子が、マミの斜め後ろを歩いていた。いつでも何かあれば飛び出せる位置。
さやかが、一番近くを歩きながら、少女の顔を時々覗き込んでいた。
三人とも、この少女を、守ろうとしていた。
ほむらは、それを、記憶に刻んだ。
この配置を、維持する。
この共通の課題を、失わせない。
夜の住宅街の、街灯の下を、三人が歩いていった。
その後ろを、ほむらが、静かに歩いていった。