紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF) 作:LongLong
第15話「家から」
放課後の廊下は、人がまばらだった。
ほむらは、教室を出て、昇降口に向かっていた。その途中で、後ろから呼び止められた。
「ほむらちゃん」
まどかだった。
ほむらが振り返ると、まどかが駆け寄ってきた。少し息が上がっていた。走って追いついたのだろう。
「ちょっと、いい?」
まどかの声は、いつもより少しだけ固かった。
ほむらは頷いた。
「どこか、静かなところで」
まどかが言った。
ほむらが先に歩き出した。階段の踊り場なら、人が通らない。そこに向かった。
まどかが後をついてきた。
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階段の踊り場は、西日が差し込んでいた。窓の外に、校庭の樹が見えた。葉が、少し揺れていた。
ほむらは、窓の方を向いて立った。まどかは、ほむらの横に立った。
「昨日の夜のこと」
まどかが切り出した。
「さやかちゃんから、少しだけ聞いたの」
ほむらは、窓の外を見たまま、頷いた。
「魔女を倒して、その途中で、誰かを助けたって」
「ええ」
「同じ学校の、先輩だって」
「そうよ」
ほむらは短く答えた。さやかがどこまで話しただろうか。ほむらが考えていた時、まどかが言った。
「その先輩、冬野さんって言うんだね」
ほむらの呼吸が、一瞬、止まった。
「冬野さん」
まどかが繰り返した。
「三年生の、壁際を歩いてる人。前髪で顔を隠してて、いつも一人でいる人」
ほむらは、窓の外から視線を動かして、まどかを見た。視線がぶつかる。まどかは、西日の中で、まっすぐほむらを見ていた。
「ええ」
ほむらは答えた。
「合ってる」
まどかは、窓の外に視線を移した。
「私、前から気になってて」
まどかが話し始めた。窓枠に置いた手に力が入り、きし、と小さな音が鳴った。
「廊下で、何度か見かけて。最初はよく分からなかったんだけど、だんだん、あの人がどういう歩き方をしてるか、分かるようになってきて」
まどかの声は、思い出すような声だった。
「声をかけたの。手を振って、『おはようございます』って言おうとしたの。でも、手を挙げたら、あの人の肩がびくって跳ねて」
ほむらは、黙って聞いていた。
「次は、手をポケットに入れて、声だけで言ったの。『おはようございます』って。そしたら、足は止まってくれたんだけど、返事はなくて。口が動こうとして、動かなかった」
まどかの声が、少し沈んだ。
「私、待ったんだけど、待つことが、あの人には圧力になってるみたいで。余計に動けなくなってるの、分かって。だから、『じゃあ、また』って言って、離れたの」
ほむらは頷いた。まどかの話は、詳細だった。実際にそこにいた人間の記憶だった。
「マミさんにも相談したんだけど……」
まどかが続けた。
「そしたらマミさん、紅茶のカップを持つ手が、一瞬、止まって。『気をつけてあげて』って、それだけ言ったの」
ほむらは、マミの反応を、想像した。マミが冬野さんについて何かを知っていることが、この短いエピソードで、確認できる。
「それから、帰り道に、通ったことがあるの」
まどかが言った。
「『冬野』って書かれた表札の家。夜だったけど、二階の窓が暗くて、一階の窓だけ、明かりがついてた」
まどかは、窓の外を見たまま、話し続けた。
「私、あの人のこと、ずっと気になってたの。でも、何もできなくて」
まどかが、ほむらの方を向いた。
「ほむらちゃん」
「何かしら」
「冬野さんのこと、なんとかできないかな」
ほむらの中で、いくつかのことが、同時に動いた。
まどかが、既にこの少女に関わっていた。ほむらが想定していなかったタイミングで、まどかはもう近づいていた。ほむらはそれを知らなかった。
ほむらの計算は、冬野さんを共通の課題として機能させて、まどかを安全圏に留めることだった。でも、まどかは最初から、錨の方に引き寄せられる側だった。
まどかの「なんとかできないかな」という言葉は、まどかの優しさだった。ほむらが最も恐れているものの一つ。優しさは、契約への扉を開く。
ほむらは、まどかに「関わらないで」と言いたかった。でも、言えなかった。それを言えば、まどかを傷つける。まどかを傷つけることは、ほむらの目的と真逆の結果を生む。
ほむらは、少しだけ、沈黙した。
それから、静かに答えた。
「……わかった。考えてみる」
まどかの顔が、わずかに明るくなった。
「本当?」
「ええ」
ほむらは、窓から校庭を見て答えた。
「あなたは、待っていて」
まどかは、しばらく、ほむらの横顔を見ていた。それから、小さく頷いた。
「うん。……ありがとう」
まどかが、階段を下りていった。その途中、一度だけ振り返った。
ほむらは、踊り場に、一人で残された。
西日が、少しずつ、強くなっていた。
ほむらは、壁に背中を預けた。右手を持ち上げる。ソウルジェムを見ると、薄い穢れが漂っていた。
昨夜、マミの家のリビングで確認した時より、少しだけ、深くなっていた。まどかとの会話で、また増えた。
計算を、組み立て直す必要があった。
まどかは、既に冬野さんに近づいていた。まどかの「なんとかできないかな」を、軽く受け流すことはできない。
まどかに、動いたと示す必要がある。
でも、自分が直接冬野さんに関わるのは、避けたい。ほむらが冬野さんに深く関われば関わるほど、まどかも関わってしまう。
大人を動かすのが、最適だった。
学校のカウンセラー。児童相談所。あるいは警察。
大人が動けば、まどかは「自分が動かなくても、誰かが見ている」と思う。それで、まどかは引き下がる。はずだった。
結果が伴わなくても、動いたという事実だけで、まどかは遠ざかる。きっと。
ほむらは、階段を下り始めた。
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夜が来た。
ほむらは、冬野家の前の通りに立っていた。二階建ての、白い壁の家。まどかが言っていた通り、二階の窓は暗く、一階の窓から鈍い光が漏れていた。
ほむらは、時間を止めた。
世界の音が消えた。風も、遠くの車の音も、全部止まった。
ほむらは、冬野家の玄関に近づいた。玄関のドアは施錠されていた。でも、関係なかった。ドアノブに魔力を流す。静かに開いた。
家の中に、入った。
玄関の三和土に、革靴が一足、丁寧に揃えられていた。男物の、くたびれた革靴。その横に、学校指定のローファーが一足。こちらも、きっちりと揃えられていた。
ほむらは、それを見た。
揃え方が、不自然だった。二つとも、爪先の角度が、左右で一分の狂いもなく、揃えられていた。靴紐の長さも、正確に対称だった。
ほむらは、玄関を上がった。
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一階のリビングに、父親がいた。
男は、ソファに座って、テレビを見ていた。テレビの画面は、止まった時間の中で、白く光ったままだった。男の手には、缶ビールがあった。口が半分開いていた。何かを噛んでいる途中で、時間が止まった。
男の顔を、ほむらは観察した。
整った顔だった。社会的には、印象の良い顔。でも、目の奥に、澱のようなものがあった。うっすらとした、見る人が見なければ気づかない澱。
ほむらは、リビングを出た。
二階に上がった。
階段の軋む音はしなかった。
二階には、三つのドアがあった。一つは寝室。一つは書斎のようなもの。そして、一番奥の、一番小さいドア。
ほむらは、一番奥のドアを開けた。
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六畳ほどの、狭い部屋だった。
ベッドが一つ。机が一つ。小さな本棚。それだけ。
装飾はなかった。ポスターも、写真も、ぬいぐるみも、何もない。壁は白いまま。窓にはカーテンがあったが、柄のない、薄い生成り色のものだった。
ベッドは整えられていた。シーツに、シワが一つもなかった。
机の上にも、物がほとんどなかった。教科書が、角を揃えて積まれていた。筆記用具が、長さ順に並んでいた。消しゴムが、その横に、使用済みの面を下にして置かれていた。
本棚にも、学校の教科書と参考書しかなかった。漫画も、小説もなかった。この子が自分で選んで買った本が、一冊もなかった。
ほむらは、部屋を、静かに見回した。
部屋の主は、ここにいなかった。今夜、どこにいるのかは、ほむらにはわからない。
ほむらは、ベッドの脇に、しゃがんだ。
シーツの下に、小さな箱があった。靴箱を再利用したような、何の変哲もない箱。ほむらは、それを、少しだけ引き出した。
中に、シャープペンシルが一本、薄い布に包まれて、丁寧に置かれていた。ほむらは、布を少しだけめくった。古い、安物のもの。芯が一本、折れかけて中から覗いていた。使われた形跡はなかった。
その隣に、紙に包まれた細長いものがあった。ほむらは、紙を少しだけめくった。チョコレートのかかった、棒状の菓子。一本だけ。チョコレートの表面が、少し白く変色していた。古いものだった。
袋はなかった。誰かから、一本だけ、もらったもの。
捨てずに、残してあった。
ほむらは、それを、元に戻した。
家を出た。通りに戻ってから、時間を動かした。
風が戻ってきた。遠くの車の音も。生暖かい夜風。
ほむらは、公衆電話を探して、歩き出した。
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児童相談所への電話は、短く済ませた。
匿名で、冬野家について通報した。学校での様子。手首の痣。可能性のある虐待の事実。淡々と、事務的に伝えた。相手は聞き取り、ケースとして記録した。
続いて、学校のスクールカウンセラーに、手紙を出した。同じ内容を、文体を変えて書いた。差出人は書かなかった。
ほむらは、郵便ポストの前で、一度だけ、手紙を手の中に止めた。
この手紙を投函すれば、冬野さんがカウンセラー室に呼ばれる。冬野さんにとっては、また一つ、見知らぬ場所に入る経験が増える。
でも、まどかが遠ざかる。
ほむらは、手紙をポストに落とした。
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翌週の火曜日。
ほむらは、放課後、カウンセラー室のある棟に来ていた。
面談の時間は、学校から漏れ聞いた情報で把握していた。冬野さん、三年三組、四時から。
ほむらは、カウンセラー室のドアから少し離れた、廊下の角に立った。ここなら、中の声が漏れてくる。姿を隠せる位置でもある。
四時になった。
ドアの向こうで、椅子を引く音がした。
「はい、どうぞ」
初老の女性の声。カウンセラーだろう。
ドアが開いて、閉まった。足音が、室内の絨毯に吸い込まれた。
ほむらは、壁に背を預けて、耳を傾けた。
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「こんにちは、冬野さん。座ってくれる?」
カウンセラーの声。
返事はなかった。
「じゃあ、今日は、少しお話しましょう。先生、冬野さんのこと、もう少し知りたくて」
紙をめくる音。ファイルを開けているのかもしれない。
「最近、学校はどう? 授業は、ついていけてる?」
返事はなかった。
「……そう。じゃあ、お家の方はどう? 何か、困っていることはない?」
返事はなかった。
沈黙が、長く続いた。ドアの向こうから、時計の秒針の音が、うっすらと漏れてきた。
「冬野さん。何か、辛いこと、ある?」
カウンセラーの声は、柔らかかった。でも、その柔らかさが、冬野さんには届かないことを、ほむらは知っていた。
冬野さんは、答える言葉を持っていない。言葉で答えることを、教わってこなかった。沈黙が、答えを代替している。
でも、カウンセラーには、それがわからない。
「恥ずかしいのかな? ゆっくりでいいのよ」
紙をめくる音。
「もしよかったら、また来週、お話ししましょうね。今日は、顔を見られただけで、先生、嬉しいから」
椅子を引く音。
「じゃあ、教室に戻っていいわよ。気をつけてね」
ドアが開いた。
ほむらは、廊下の角から、身を隠した。
冬野さんが出てきた。壁際を歩いて、ほむらの方に向かって来た。でも、ほむらの存在には、気づかなかった。顔を下に向けたまま、壁に沿って、静かに去っていった。
ほむらは、その背中を見送った。
予想通りだった。カウンセラーは、冬野さんの沈黙を「恥ずかしがっている」と解釈した。次の面談を約束した。でも、それだけだった。
予想通り、とほむらは自分に言い聞かせた。
でも、ほむらは廊下の角から動かなかった。冬野さんの背中が、廊下の向こうに消えるまで、見ていた。
消えてから、ようやく歩き出した。
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木曜日の夕方。
ほむらは、冬野家の、通りを挟んで反対側の、電柱の陰に立っていた。
児童相談所の職員が来るのは、今日の五時だった。ほむらは、児相に繰り返し電話をかけて、訪問の予定を引き出していた。職員の声の疲労感から、訪問は形式的なものになると、ほむらは予測していた。
五時五分前。
制服の女性と、スーツの男性が、通りに現れた。二人とも、ファイルを抱えていた。冬野家の門の前で、一度立ち止まって、何かを確認した。男性が頷いた。女性がインターホンを押した。
ほむらは、電柱の陰から、時間を止めた。
止まった時間の中で、ほむらは冬野家に侵入した。
父親は、リビングで立ち上がろうとしていた。冬野さんは、二階の部屋のドアのそばに立っていた。階段を下りるか下りないかの、境界の位置。
ほむらは、リビングと玄関の両方が見える位置を選んだ。階段の下、廊下の暗がり。ここなら、リビングの中の会話と、玄関先での挨拶の両方が聞こえる。姿は見えない。
時間を動かした。
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玄関のドアが開いた。
「こんにちは、児童相談所から参りました、高橋と申します」
女性の声。
「ああ、お待ちしておりました」
父親の声。整った、丁寧な声。電話で話すような、よそ行きの声。
「お時間いただきまして、申し訳ありません。少しだけ、お話を伺わせていただければ」
「ええ、どうぞ」
三人の足音が、玄関からリビングに移動した。
ほむらは、階段の下の影に、じっとしていた。
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「しずく、降りてきなさい」
父親が、二階に向かって呼んだ。
少女が階段を下りてきた。足音はしなかった。ほむらの側を、通り過ぎた。ほむらの存在には、気づかなかった。そのまま、リビングに入った。
「はい、じゃあ、そちらに座ってくれる?」
女性の声。
椅子の音。
冬野さんは、椅子に座った。ほむらの位置からは、見えない。でも、座り方は想像できた。椅子の前半分にだけ、お尻を乗せる。いつでも立ち上がれるように。
「冬野さん、突然のご訪問で申し訳ありません」
女性が切り出した。
「学校の方から、少しご様子について、お話を伺いまして」
「はあ」
父親の声。
「娘さんのことで、少し気になる点がありまして。確認のためにお伺いしました」
「娘のこと、ですか」
「ええ。学校でも、ちょっと、表情が乏しいといいますか、お友達とお話しされないようで」
「ああ」
父親の声が、少し柔らかくなった。
「娘は、少し繊細でして。小さい頃から、人見知りが強くてですね」
「そうなんですか」
「ええ。妻も私も、それを気にして、何度か病院に連れて行こうと思ったんですが、本人が嫌がりまして」
父親の声に、困った親の響きが混じった。適切に困っていた。練習されたような困り方。
「家庭内で、何か、ストレスになるようなことはないでしょうか」
男性の声。初めて男性が口を開いた。
「いや、特には。妻は看護師で、夜勤が多いものですから、家の中が寂しいということはあるかもしれません。でも、それ以外は」
「お父様との関係は?」
「私ですか? そうですね、最近は娘も思春期なので、少し距離はありますが、特別悪いわけでは」
父親は、笑いを混ぜた。
「まあ、父親と娘なんて、そんなものでしょう」
「そうですね」
女性が同意した。
ほむらは、聞いていた。
この父親は、慣れている。何度も、こういう場面を経験してきた。あるいは、想像の中で、繰り返し練習してきた。言葉の選び方、声のトーン、笑いを混ぜる位置。全部、対策してあった。
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「しずくさん」
女性が、直接冬野さんに声をかけた。
「学校、どうですか? 辛いこととか、ありますか?」
沈黙。
「お家は、どうですか? ちゃんとご飯、食べられてますか?」
沈黙。
「お父さんやお母さんと、お話しする時間は、ありますか?」
沈黙。
「……しずくさん?」
父親が、口を挟んだ。
「すみません、この子、本当に人見知りが強くて。初対面の方の前では、ほとんど話さないんです」
「そうですか」
女性の声に、わずかな諦めが混じった。
「しずくさん、じゃあ、質問を変えますね。体は、大丈夫ですか? どこか、痛いところとかは」
沈黙。
それから、小さな声がした。
「……大丈夫、です」
冬野さんの声。
ほむらは、初めて、冬野さんの声を聞いた。マミの家で過ごした夜、この子は何も言わなかった。今、ほむらが聞いているのが、この子の最初の声だった。
細くて、弱い声だった。
「大丈夫です」というその言葉は、冬野さんが自発的に発した言葉ではなかった。父親の前で、そう言うしかないから言っている。言わされている言葉。
「そう。よかった」
女性が頷いた。
「体のどこかに、傷があったりとか、そういうことは?」
沈黙。
「……大丈夫、です」
同じ答え。同じ声。
ほむらの指先に力が入っていた。
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十五分ほどで、面談は終わった。
「ありがとうございました、冬野さん。しずくさんも、お話聞かせてくれて、ありがとう」
女性が、形式的に挨拶した。
「何かありましたら、いつでもご連絡ください。お子さんの様子で、気になることがあれば」
「ええ、ありがとうございます」
父親の声は、最初と同じトーンだった。
職員が帰った。玄関のドアが閉まった。
ほむらは、階段の下の影に、じっとしていた。
リビングの空気が、変わった。
音では、わからなかった。でも、空気の密度が、変わった。
父親の足音が、リビングの中を、ゆっくり歩いた。
「しずく」
父親の声。
さっきまでの、整った声ではなかった。
「誰が通報した」
返事は、なかった。
「おい」
父親の声が、わずかに大きくなった。
「お前が、誰かに話したのか」
声は聞こえなかった。
「じゃあ、なぜ、あいつらが来る」
父親の足音が、大きく鳴った。
ほむらは、聞いていた。
動かなかった。介入する選択肢は、最初から排除していた。ほむらがここで出ていけば、全てが崩れる。まどかへの計算も、制度の確認も、全部。
ほむらは、動かなかった。
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物音がした。
何の音かは、わからなかった。椅子がずれる音かもしれない。体がぶつかる音かもしれない。
続いて、別の物音。
呼吸が、変わった。リビングから聞こえてくる、細い呼吸。浅くて、速くて、間隔が不規則。
父親の声は、もう言葉にならなかった。低い、何かを吐き出すような音。
それが、何度か続いた。
やがて、音が止まった。
「……部屋に戻れ」
父親の声。
足音が、リビングを出た。階段の方に向かった。
ほむらは、階段の下の影で、少女が通り過ぎるのを、じっとしていた。
冬野さんが、階段を上がっていった。一段ずつ、ゆっくりと。足を引きずるような音はなかった。でも、明らかに遅い、リズムの狂った足音だった。
二階のドアが、閉まった。
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ほむらは、時間を止めた。
止まった時間の中で、玄関から、家を出た。早く出たかった。
通りに出て、時間を動かした。
夜の風が、戻ってきた。
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ほむらは、歩き出した。
冬野家から、遠ざかる方向に。
途中で、街灯の下で、立ち止まった。
ソウルジェムを、取り出した。
濁りが、さっきより、深くなっていた。
カウンセラー室のドアの外に立っていた時より。家庭訪問を覗いていた時より。今、この瞬間の濁りが、一番深かった。
ほむらは、その濁りが、どの瞬間に生まれたか、正確には特定できなかった。
「大丈夫です」という声を聞いた時だったかもしれない。物音を聞いた時だったかもしれない。呼吸の変化に気づいた時だったかもしれない。あるいは、階段を上がる足音を聞いていた時だったかもしれない。
どれか一つではなかった。全部かもしれなかった。
そのまま、歩き続けた。
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翌朝、学校の廊下で、ほむらは冬野さんを見かけた。
いつもと同じ、壁際を歩いていた。同じ歩き方。同じ角度の肩。同じ下向きの顔。
でも、足取りが、いつもより、重かった。
袖口が、いつもより、深く引き下ろされていた。手首が、普段なら少しだけ見える位置にあるはずなのに、今朝は見えなかった。袖の下に、完全に隠されていた。
ほむらは、反対側の廊下を歩いていた。冬野さんには気づかれない距離。
冬野さんが、ほむらの視界を横切った。
ほむらは、視線を、教科書のファイルに落とした。
見続ける必要はなかった。結果は、もう出ていた。制度は失敗した。冬野さんはさらに傷ついた。どうしようもないことだった。
見続ける必要はない。
そう思いながら、ほむらの視線は、ファイルの上で、止まったままだった。文字を読んでいなかった。冬野さんの足音が、廊下の向こうに消えていくまで、ほむらはそこに立っていた。
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放課後。
ほむらは、校舎の屋上に登った。
屋上の金網越しに、校門が見えた。
冬野さんが、校門を出ていくのが見えた。
家の方向に、歩き始めた。いつもの道。でも、途中で、足が止まった。
ほむらは、金網に手をかけて、その光景を、じっと見ていた。
少女は、立ち止まっていた。家の方向を、見ていた。でも、歩かなかった。しばらく、そこに立っていた。
やがて、また歩き始めた。でも、家の方向ではない、別の方向に。すぐに、止まった。
別の方向に、歩きかけた。止まった。
どこにも行けなかった。家にも、他のどこにも。
ほむらは、屋上から、それを見ていた。
見る必要はなかった。結果はもう出ていた。
なのに、ほむらは、見ていた。
見続けていた。
金網の向こう、遠くの交差点で、小さな影が、また動き出すまで。それから、また止まるまで。
ソウルジェムが、また少し、濁った。
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数日後の放課後、ほむらは、まどかに会った。
まどかの方から、ほむらを見つけて、近づいてきた。
「ほむらちゃん」
「ええ」
「あの、冬野さんのこと」
まどかの声は、前回より、少し沈んでいた。
「何か、分かった?」
ほむらは、窓の外を見ていた。下校する生徒たちの姿が、校庭に見えた。まどかの質問に、答える言葉を、ほむらは既に用意していた。
「……大人に、相談した」
「うん」
「でも、うまくいかなかった」
まどかが、黙った。
しばらく、沈黙があった。
「じゃあ、どうすれば」
まどかの声は、小さかった。
ほむらは、窓の外を見たまま、答えた。
「今は、他の人たちが見ているから」
「他の人たち?」
「マミも、佐倉杏子も、美樹さやかも。あの子のこと、気にかけている」
「……そうなんだ」
「だから、あなたは、待っていて」
まどかは、答えなかった。
ほむらが、まどかの方を見た。
まどかは、下を向いていた。手を、スカートの前で、組んでいた。
「わかった」
まどかが、小さく言った。
でも、まどかの目の中に、何かが残っていた。下を向いた顔の、目の奥に、何か、ほむらが完全には読み切れないものがあった。
諦め、ではなかった。少なくとも、全てを諦めた目ではなかった。
ほむらは、それを、視界に収めた。
「……ごめんね、急に相談して」
まどかが、顔を上げて、小さく笑った。
「ありがとう、ほむらちゃん」
まどかが、去っていった。
ほむらは、その背中を、見送った。
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まどかが見えなくなってから、ほむらは、窓の外に視線を戻した。
校庭は、少しずつ、人がいなくなっていた。
ほむらは、ソウルジェムを取り出した。
宝石の中の穢れは、ここ数日で、最も深くなっていた。
でも、ほむらはグリーフシードを取り出さなかった。
「必要だから」
心の中で、繰り返した。
必要だから、制度を動かした。必要だから、結果を確認した。必要だから、冬野さんが傷つくことを許容した。必要だから、まどかに「待っていて」と言った。
全部、必要だった。
そう、自分に言い聞かせた。
でも、その言葉が、前より少しだけ、軽くなっている気がした。
軽くなっているのは、自分がその言葉を信じられなくなっているからか、あるいは、この言葉を繰り返すことに、慣れてきたからか。
ほむらには、わからなかった。
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夜が来た。
ほむらは、見滝原の街を歩いていた。
魔女の気配は、今夜は薄かった。遠くに、小さな歪みの予感があるくらいで、差し迫った結界はなかった。
住宅街の端に、ほむらは足を運んだ。
冬野家の方向ではなかった。そこから少し離れた、交差点の近く。
街灯の下に、誰かがしゃがんでいた。
ほむらは、足を止めた。
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冬野さんだった。
制服のまま。学校から帰っていなかった。
街灯の下で、膝を抱えて、しゃがみ込んでいた。頭を膝に埋めていた。長い黒髪が、肩から垂れていた。顔は見えない。
夜の八時を過ぎていた。家には帰っていない。
かといって、マミの家にも、行っていない。行く選択肢を、この子は自分では持たない。自分から「どこかに行く」ということを、知らない。
少女は、ただ、街灯の下にいた。
ほむらは、少し離れた場所から、それを見ていた。少女は、ほむらに気づいていなかった。膝の中に、顔を埋めたまま。
ほむらは、選択肢を、計算した。
このまま放置すれば、少女は夜を外で過ごす。魔女に襲われるリスクがある。この子は、結界の中に引き込まれやすい体質のようだった。前回もそうだった。
マミに連絡すれば、マミが迎えに来る。少女は、マミの家に行く。共通の課題が、マミの家に根付く。計算上、これが最適だった。
自分で声をかける選択肢もあった。でも、ほむらはそれを、すぐに排除した。自分が直接関わる理由は、ない。
ほむらは、携帯を取り出した。
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マミに、短く連絡した。
「冬野さんが、外にいる」
場所を伝えた。
「お願い」
マミは、二、三秒の沈黙の後、「すぐ行くわ」と答えた。
電話を切った。
ほむらは、ポケットに携帯を戻した。
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ほむらは、その場から離れた。
離れながら、ほむらは、一度だけ、振り返った。
街灯の下の、小さな影。膝を抱えて、顔を埋めた、細い身体。
ほむらは、視線を前に戻した。
歩き続けた。
角を曲がった。
もう、街灯の下の冬野さんは、見えなかった。
ほむらは、歩きながら、ソウルジェムを一度、確認した。
濁りは、さっきより、ほんの少しだけ、深くなっていた。
でも、浄化しなかった。
歩き続けた。
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街灯の下で、冬野さんが、一人残された。
しばらくして、遠くから、足音が聞こえた。
冬野さんが、顔を、ゆっくり上げようとした。