紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF) 作:LongLong
第16話「もう一度」
電話が鳴った時、マミは紅茶を淹れている途中だった。
一人分のカップ。ティーポットの中の茶葉が、ちょうど開き始めたところ。いつものダージリン。
携帯を手に取って、画面を見た。
暁美さん。
マミは、その名前を少し見つめてから、電話に出た。
「もしもし」
「冬野さんが、外にいる」
挨拶もなかった。ほむらの声は、いつもより少しだけ短かった。場所を伝えられた。住宅街の端の、交差点の近く。
「お願い」
それだけ言って、ほむらは電話を切った。
マミは、淹れかけの紅茶をそのままにした。上着を取って、部屋を出た。
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夜の道を、マミは急いだ。
走りはしなかった。走ると、靴の音が響く。この時間の住宅街には、響きすぎる音だった。早歩きで、でも止まらずに、交差点の方へ。
ほむらの声は、短かった。でも、短すぎた。何かを削った声だった。マミは、それを思い出しながら歩いた。
交差点が見えてきた。
街灯が、一つ、立っていた。白い光が、アスファルトに丸い輪を描いていた。
その輪の中に、小さな影があった。
マミの足が、止まりそうになった。
膝を抱えて、頭を埋めて、黒髪が肩から垂れていた。制服。
前に、同じような姿を、見たことがあった。
同じような、というのは正確ではなかった。
同じだった。
冬の夜の公園。街灯の下。膝を抱えた少女。その光景の記憶を、胸の中でそっと脇にどけた。
数メートル手前で足を止めた。
少し息を整えた。
靴の音を、少しずつ、小さくしながら近づいた。
冬野さんは、まだ気づいていなかった。膝の中に、顔を埋めたまま。
マミは、街灯の輪に入る少し手前で、もう一度止まった。
両手は、身体の脇に下ろしたまま。動かさないように。
「冬野さん」
声は、できるだけ静かに出した。
冬野さんの肩が、わずかに、動いた。
顔を上げた。ゆっくりと。
街灯の下で、前髪の下の黒い瞳が、マミを見た。
視線は、マミの顔には、すぐには向かなかった。まず、マミの両手。それから、口元。それから、また手。
その順番を、マミは覚えていた。何度も、この子の視線の動き方を見てきた。
でも今夜は、少しだけ違った。
最後に、ほんの一瞬だけ、マミの目を見た。
ほんの一瞬だった。
すぐにまた、下を向いた。でも、確かに、マミの目と視線が合った。一度だけ。
マミは、その一瞬を、受け取った。
「うちに、来ない?」
マミは、そう言った。
「来なさい」ではない。「来ない?」
冬野さんは答えなかった。
答えないことを、マミは知っていた。
マミは、しばらくその場に立っていた。急がなかった。
しばらくして、冬野さんが、膝に手をついた。立ち上がろうとした。
膝がふらついた。
マミの手が、無意識に、伸びかけた。
止めた。
伸びかけた手を、ゆっくりと、元の位置に戻した。
冬野さんは、それを見ていた。マミの手が止まったことも、元に戻ったことも、全部見ていた。
冬野さんは、もう一度、膝に力を入れた。今度は、自分の力で、立った。
マミの顔は見なかった。でも、マミの身体の前、二、三歩離れた位置で、止まった。
マミは、ゆっくりと、家の方向に歩き出した。
振り返らなかった。振り返らなくても、後ろから足音がついてくるのが、わかった。
三歩の距離を保ったまま。
前と、同じ歩き方。
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マンションの前に着いた。
冬野さんが、一瞬、建物を見上げた。
見覚えのある建物のはずだった。前にも何度か来た場所。でも、冬野さんの目は、最初に建物を見上げる。一瞬、足が止まる。
マミは、そのことを、静かに受け入れていた。
エレベーターに乗った。冬野さんは、少し後ろに立った。マミは、ボタンを押す時も、手を動かさない位置から押した。冬野さんの視界を横切らないように。
階に着いた。
玄関のドアを開けて、マミが先に入った。
「どうぞ」
振り返らずに、そう言った。
冬野さんが、玄関に入ってくる気配があった。ドアが、静かに閉まった。音を立てずに。
靴を脱ぐ音さえしなかった。
マミは、振り返った。
冬野さんは、ローファーを脱いで、両手で持って、揃えて置いているところだった。前と、同じ動き。
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リビングに通した。
冬野さんが、部屋の四隅を、一瞬で確認する目の動きをした。
以前と同じ。
でも、その後の動きが、以前とは少し違った。
以前は、一番奥の椅子の前で立った。
今夜も、一番奥の椅子の前で立った。
同じ。
ただ、立ち方が、少しだけ違った。以前は、椅子を見ていた。今夜は、椅子を見ないで、その前に立っていた。
マミは、それに気づいた。でも、何も言わなかった。
マミは、キッチンに入った。
ケーキは焼いていなかった。紅茶も淹れなかった。
冷蔵庫を開けて、中を見た。卵。キャベツの残り。豚肉。味噌。
簡単なものしか、作らないつもりだった。
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鍋に水を入れて、火にかけた。
まな板を出した。包丁を出した。
キャベツを切り始めた。
冬野さんは、まだ立っていた。リビングの椅子の前で。
マミは、それが視界の端に入っていた。
冬野さんが、まだ座っていないこと。
以前のマミだったら、「座って」と言っていただろう。「どうぞ、座ってくれる?」と、にこやかに。そうすることが、相手への気遣いだと思っていた。
でも、今は違う。
この子は、勧められないと、座らない。勧められたら、座りたくなくても座る。自分がどちらを望んでいるのかを、自分でもわからないまま、立っていることがある。
マミが「座って」と言うと、この子は、座らなければならなくなる。
だから、マミは、言わない。
マミは、キャベツを切り続けた。
マミも、座らなかった。
まな板の前で、立ったまま、手を動かし続けた。
時間が過ぎた。冬野さんは、まだ立っていた。
マミは、豚肉を切っていた。
キッチンとリビングの境目の空気が、静かだった。鍋の湯が、沸き始めた。マミは、だしの素を入れた。味噌を溶いた。具を入れた。何も話さなかった。
冬野さんが、ちらりと、マミの背中を見たのが、マミにはわかった。
見返さなかった。
味噌汁ができた。豚肉をフライパンで焼いた。塩と胡椒だけで。ご飯を、二人分、よそった。
全部、テーブルに並べた。
マミは、自分の椅子に手をかけて、引いた。
それから、冬野さんが座るはずの、一番奥の椅子の方に、歩いた。
その椅子の背に手をかけた。静かに、引いた。冬野さんは、その動きを、目で追っていた。マミは、椅子を引いてそのまま戻った。
自分の席に戻って、立ったままでいた。
冬野さんは、マミが引いた椅子の前で動かなかった。
マミは、待った。
しばらくして、冬野さんが、小さく息を吸った。
座った。
椅子の前半分に、静かに腰を下ろした。
マミも座った。
「いただきます」
マミは、小さく言った。
冬野さんは、口を動かそうとしたように見えた。音にはならなかった。でも、唇が、わずかに動いた。
マミは、お椀を手に取った。
冬野さんは、まだ手を動かしていなかった。
マミは、味噌汁を一口、飲んだ。
それから、ご飯を一口、食べた。
冬野さんの手が、ようやく動いた。箸を持った。持ち方がとても丁寧だった。ご飯を一口分、箸の先に取った。口に運んだ。噛んだ。飲み込んだ。動きが止まった。
前と、同じだった。
しかし、今夜は、前とは少し違った。
冬野さんは、もう一度、箸を動かした。今度は、味噌汁のキャベツを、一切れ。
口に運んだ。噛んで、飲み込んだ。もう一度、動きが止まった。
マミは、食べ続けた。自分のペースで。冬野さんを待たずに。でも、急がずに。
冬野さんは、また、箸を動かした。以前より、一口分、多かった。マミは、それに気づいた。気づいていることを、見せなかった。
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食事が、終わった。
マミが、先に食べ終わった。
冬野さんは、まだ少し、残っていた。
マミは、立たずに、自分の手を膝の上に置いて、待った。
冬野さんが最後まで食べた。
箸を置いた。手を膝の上に置いた。それから、ゆっくりと、食器に手を伸ばした。
自分の使った茶碗、お椀、箸。全部、マミが出した時と、同じ位置に、戻した。茶碗の縁の向き。お椀の持ち手の角度。箸の先端の向き。全部、最初の配置に、正確に戻した。
マミは、それを、見ていた。何も言わなかった。気づいていることすら、見せなかった。
それだけが、今のマミにできることだった。
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食器を一緒に下げた。
マミが流しに運んだ後、冬野さんも、自分の分を持って、静かに運んできた。マミは、「置いておいて」と言った。冬野さんは、流しの横に、自分の食器を置いた。丁寧に。
マミは、洗い物を、後回しにした。冬野さんを、リビングに戻した。
リビングで、マミは言った。
「今夜、うちで、休んで」
冬野さんは、答えなかった。帰ろうともしなかった。
マミは、続けた。
「明日も、ここにいて、いいわ」
冬野さんの肩が、ほんの少しだけ動いた。
マミは、それに気づいたが、言及しなかった。
「学校には、行ってもいいし、休んでもいい」
「ここに、いていい」
「……いつまでって、決めなくて、いい」
言葉を、一つずつ、置いていった。
無理に、押し付けないように。でも、ちゃんと伝わるように。
冬野さんは、下を向いていた。返事はなかった。
いつもなら、マミはそこで、もう一度、「大丈夫?」とか、「わかった?」とか、確認を求めていただろう。
今夜は、確認を求めなかった。
求めたら、この子は、何か答えなければならなくなる。答えられないことを、答えさせてしまう。
マミは、黙って待った。冬野さんが、何も言わないことを、受け入れた。
しばらくして、マミは、寝室のドアを開けた。
「寝るなら、こっちを使って」
冬野さんは、動かなかった。マミは、それ以上、促さなかった。自分はリビングに戻って、ソファに座った。
冬野さんは、まだ立ったままだった。リビングの、椅子の近く。
マミは、ソファに、薄い毛布を広げた。
自分が寝る用意をした。それを、冬野さんに見せた。
自分は、ソファで寝る。寝室は、あなたが使っていい。そのことを、言葉ではなく動作で伝えた。
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冬野さんが、ゆっくりと、寝室の方に歩いた。ドアの前で、一度、止まった。
中を覗き込んだ。前にも入ったことのある部屋。この前は、マミも隣で寝た。今夜は、マミはここにはいない。
冬野さんが、中に入った。
ドアを、静かに閉めた。
音は、ほとんど、しなかった。
リビングに、マミが一人で残った。ソファに座って、天井を見上げた。
紅茶を淹れかけたまま、放置した部屋。テーブルの上には、使われなかったカップが、一つ、置いてあった。
マミは、立ち上がって、そのカップを、片付けた。
冷めた紅茶を、流しに捨てた。カップを洗った。水切りに置いた。
それから、洗い物の続きをした。冬野さんが使った茶碗。お椀。箸。丁寧に、洗った。
洗い物を終えて、もう一度、ソファに戻った。
毛布をかけた。横になった。天井を見上げた。
マミの胸の中で、いくつもの夜の記憶が、動いた。
最初の夜、公園で、この子を見つけた時のこと。
次の週、この子を家に連れてきた時のこと。ケーキを焼いて、紅茶を淹れて、笑顔で迎えた。
「何か言って」と言ってしまった時のこと。
そして、みんなで泊まった、あの夜のこと。
全部、マミの中にあった。
全部、取り消せない記憶だった。
今夜、マミは、その記憶の続きを、書いていた。
ケーキを焼かなかった。紅茶を淹れなかった。笑顔を作らなかった。「座って」と言わなかった。「大丈夫?」と訊かなかった。
何もしなかった。
何もしないことを、選んだ。
それが、今のマミに、できることの全部だった。
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寝室のドアの向こうから、小さな物音がした。
ベッドに入る音、だろうか。
毛布を引き上げる音、かもしれない。
それとも、ただ寝返りを打った音。
マミには、わからなかった。
わかる必要も、なかった。
ただ、この子が、今夜、この家の寝室にいる。
それだけが、事実だった。
マミは、目を閉じた。眠れそうに、なかった。
でも、目を閉じていた。
今夜、この子は、ここにいる。
明日も、ここにいる、かもしれない。
明後日も、明々後日も。
ずっと先までは、わからない。
ただ、少なくとも、明日の朝までは、この家に、この子が、いる。
マミは、その一つの事実を、ゆっくりと、胸の中に、置いた。
取り戻せない過去の記憶の上に。
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寝室の方から、小さな寝息が、聞こえ始めた。
聞こえ始めた、気がした。
マミは、確かめなかった。
目を閉じたまま、ソファの上で、じっとしていた。
夜が、ゆっくりと更けていった。