紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF)   作:LongLong

16 / 17
第16話『もう一度』

第16話「もう一度」

 

電話が鳴った時、マミは紅茶を淹れている途中だった。

 

一人分のカップ。ティーポットの中の茶葉が、ちょうど開き始めたところ。いつものダージリン。

 

携帯を手に取って、画面を見た。

 

暁美さん。

 

マミは、その名前を少し見つめてから、電話に出た。

 

「もしもし」

 

「冬野さんが、外にいる」

 

挨拶もなかった。ほむらの声は、いつもより少しだけ短かった。場所を伝えられた。住宅街の端の、交差点の近く。

 

「お願い」

 

それだけ言って、ほむらは電話を切った。

マミは、淹れかけの紅茶をそのままにした。上着を取って、部屋を出た。

 

-----

 

夜の道を、マミは急いだ。

 

走りはしなかった。走ると、靴の音が響く。この時間の住宅街には、響きすぎる音だった。早歩きで、でも止まらずに、交差点の方へ。

 

ほむらの声は、短かった。でも、短すぎた。何かを削った声だった。マミは、それを思い出しながら歩いた。

 

交差点が見えてきた。

 

街灯が、一つ、立っていた。白い光が、アスファルトに丸い輪を描いていた。

 

その輪の中に、小さな影があった。

 

マミの足が、止まりそうになった。

 

膝を抱えて、頭を埋めて、黒髪が肩から垂れていた。制服。

 

前に、同じような姿を、見たことがあった。

 

同じような、というのは正確ではなかった。

 

同じだった。

 

冬の夜の公園。街灯の下。膝を抱えた少女。その光景の記憶を、胸の中でそっと脇にどけた。

 

数メートル手前で足を止めた。

 

少し息を整えた。

 

靴の音を、少しずつ、小さくしながら近づいた。

 

冬野さんは、まだ気づいていなかった。膝の中に、顔を埋めたまま。

 

マミは、街灯の輪に入る少し手前で、もう一度止まった。

 

両手は、身体の脇に下ろしたまま。動かさないように。

 

「冬野さん」

 

声は、できるだけ静かに出した。

 

冬野さんの肩が、わずかに、動いた。

 

顔を上げた。ゆっくりと。

 

街灯の下で、前髪の下の黒い瞳が、マミを見た。

 

視線は、マミの顔には、すぐには向かなかった。まず、マミの両手。それから、口元。それから、また手。

 

その順番を、マミは覚えていた。何度も、この子の視線の動き方を見てきた。

 

でも今夜は、少しだけ違った。

 

最後に、ほんの一瞬だけ、マミの目を見た。

 

ほんの一瞬だった。

 

すぐにまた、下を向いた。でも、確かに、マミの目と視線が合った。一度だけ。

 

マミは、その一瞬を、受け取った。

 

「うちに、来ない?」

 

マミは、そう言った。

「来なさい」ではない。「来ない?」

 

冬野さんは答えなかった。

 

答えないことを、マミは知っていた。

 

マミは、しばらくその場に立っていた。急がなかった。

 

しばらくして、冬野さんが、膝に手をついた。立ち上がろうとした。

 

膝がふらついた。

 

マミの手が、無意識に、伸びかけた。

 

止めた。

 

伸びかけた手を、ゆっくりと、元の位置に戻した。

 

冬野さんは、それを見ていた。マミの手が止まったことも、元に戻ったことも、全部見ていた。

 

冬野さんは、もう一度、膝に力を入れた。今度は、自分の力で、立った。

 

マミの顔は見なかった。でも、マミの身体の前、二、三歩離れた位置で、止まった。

 

マミは、ゆっくりと、家の方向に歩き出した。

 

振り返らなかった。振り返らなくても、後ろから足音がついてくるのが、わかった。

 

三歩の距離を保ったまま。

 

前と、同じ歩き方。

 

-----

 

マンションの前に着いた。

 

冬野さんが、一瞬、建物を見上げた。

 

見覚えのある建物のはずだった。前にも何度か来た場所。でも、冬野さんの目は、最初に建物を見上げる。一瞬、足が止まる。

 

マミは、そのことを、静かに受け入れていた。

 

エレベーターに乗った。冬野さんは、少し後ろに立った。マミは、ボタンを押す時も、手を動かさない位置から押した。冬野さんの視界を横切らないように。

 

階に着いた。

 

玄関のドアを開けて、マミが先に入った。

 

「どうぞ」

 

振り返らずに、そう言った。

 

冬野さんが、玄関に入ってくる気配があった。ドアが、静かに閉まった。音を立てずに。

 

靴を脱ぐ音さえしなかった。

 

マミは、振り返った。

 

冬野さんは、ローファーを脱いで、両手で持って、揃えて置いているところだった。前と、同じ動き。

 

-----

 

リビングに通した。

 

冬野さんが、部屋の四隅を、一瞬で確認する目の動きをした。

 

以前と同じ。

 

でも、その後の動きが、以前とは少し違った。

 

以前は、一番奥の椅子の前で立った。

今夜も、一番奥の椅子の前で立った。

 

同じ。

 

ただ、立ち方が、少しだけ違った。以前は、椅子を見ていた。今夜は、椅子を見ないで、その前に立っていた。

 

マミは、それに気づいた。でも、何も言わなかった。

 

マミは、キッチンに入った。

 

ケーキは焼いていなかった。紅茶も淹れなかった。

 

冷蔵庫を開けて、中を見た。卵。キャベツの残り。豚肉。味噌。

 

簡単なものしか、作らないつもりだった。

 

-----

 

鍋に水を入れて、火にかけた。

 

まな板を出した。包丁を出した。

 

キャベツを切り始めた。

 

冬野さんは、まだ立っていた。リビングの椅子の前で。

 

マミは、それが視界の端に入っていた。

 

冬野さんが、まだ座っていないこと。

 

以前のマミだったら、「座って」と言っていただろう。「どうぞ、座ってくれる?」と、にこやかに。そうすることが、相手への気遣いだと思っていた。

 

でも、今は違う。

 

この子は、勧められないと、座らない。勧められたら、座りたくなくても座る。自分がどちらを望んでいるのかを、自分でもわからないまま、立っていることがある。

 

マミが「座って」と言うと、この子は、座らなければならなくなる。

 

だから、マミは、言わない。

 

マミは、キャベツを切り続けた。

 

マミも、座らなかった。

 

まな板の前で、立ったまま、手を動かし続けた。

 

時間が過ぎた。冬野さんは、まだ立っていた。

 

マミは、豚肉を切っていた。

 

キッチンとリビングの境目の空気が、静かだった。鍋の湯が、沸き始めた。マミは、だしの素を入れた。味噌を溶いた。具を入れた。何も話さなかった。

 

冬野さんが、ちらりと、マミの背中を見たのが、マミにはわかった。

 

見返さなかった。

 

味噌汁ができた。豚肉をフライパンで焼いた。塩と胡椒だけで。ご飯を、二人分、よそった。

 

全部、テーブルに並べた。

 

マミは、自分の椅子に手をかけて、引いた。

 

それから、冬野さんが座るはずの、一番奥の椅子の方に、歩いた。

 

その椅子の背に手をかけた。静かに、引いた。冬野さんは、その動きを、目で追っていた。マミは、椅子を引いてそのまま戻った。

 

自分の席に戻って、立ったままでいた。

 

冬野さんは、マミが引いた椅子の前で動かなかった。

 

マミは、待った。

 

しばらくして、冬野さんが、小さく息を吸った。

 

座った。

 

椅子の前半分に、静かに腰を下ろした。

 

マミも座った。

 

「いただきます」

 

マミは、小さく言った。

 

冬野さんは、口を動かそうとしたように見えた。音にはならなかった。でも、唇が、わずかに動いた。

 

マミは、お椀を手に取った。

 

冬野さんは、まだ手を動かしていなかった。

 

マミは、味噌汁を一口、飲んだ。

 

それから、ご飯を一口、食べた。

 

冬野さんの手が、ようやく動いた。箸を持った。持ち方がとても丁寧だった。ご飯を一口分、箸の先に取った。口に運んだ。噛んだ。飲み込んだ。動きが止まった。

 

前と、同じだった。

 

しかし、今夜は、前とは少し違った。

 

冬野さんは、もう一度、箸を動かした。今度は、味噌汁のキャベツを、一切れ。

 

口に運んだ。噛んで、飲み込んだ。もう一度、動きが止まった。

 

マミは、食べ続けた。自分のペースで。冬野さんを待たずに。でも、急がずに。

 

冬野さんは、また、箸を動かした。以前より、一口分、多かった。マミは、それに気づいた。気づいていることを、見せなかった。

 

-----

 

食事が、終わった。

 

マミが、先に食べ終わった。

 

冬野さんは、まだ少し、残っていた。

 

マミは、立たずに、自分の手を膝の上に置いて、待った。

 

冬野さんが最後まで食べた。

 

箸を置いた。手を膝の上に置いた。それから、ゆっくりと、食器に手を伸ばした。

 

自分の使った茶碗、お椀、箸。全部、マミが出した時と、同じ位置に、戻した。茶碗の縁の向き。お椀の持ち手の角度。箸の先端の向き。全部、最初の配置に、正確に戻した。

 

マミは、それを、見ていた。何も言わなかった。気づいていることすら、見せなかった。

それだけが、今のマミにできることだった。

 

-----

 

食器を一緒に下げた。

 

マミが流しに運んだ後、冬野さんも、自分の分を持って、静かに運んできた。マミは、「置いておいて」と言った。冬野さんは、流しの横に、自分の食器を置いた。丁寧に。

 

マミは、洗い物を、後回しにした。冬野さんを、リビングに戻した。

 

リビングで、マミは言った。

 

「今夜、うちで、休んで」

 

冬野さんは、答えなかった。帰ろうともしなかった。

 

マミは、続けた。

 

「明日も、ここにいて、いいわ」

 

冬野さんの肩が、ほんの少しだけ動いた。

 

マミは、それに気づいたが、言及しなかった。

 

「学校には、行ってもいいし、休んでもいい」

 

「ここに、いていい」

 

「……いつまでって、決めなくて、いい」

 

言葉を、一つずつ、置いていった。

無理に、押し付けないように。でも、ちゃんと伝わるように。

 

冬野さんは、下を向いていた。返事はなかった。

 

いつもなら、マミはそこで、もう一度、「大丈夫?」とか、「わかった?」とか、確認を求めていただろう。

 

今夜は、確認を求めなかった。

 

求めたら、この子は、何か答えなければならなくなる。答えられないことを、答えさせてしまう。

 

マミは、黙って待った。冬野さんが、何も言わないことを、受け入れた。

 

しばらくして、マミは、寝室のドアを開けた。

 

「寝るなら、こっちを使って」

 

冬野さんは、動かなかった。マミは、それ以上、促さなかった。自分はリビングに戻って、ソファに座った。

 

冬野さんは、まだ立ったままだった。リビングの、椅子の近く。

 

マミは、ソファに、薄い毛布を広げた。

 

自分が寝る用意をした。それを、冬野さんに見せた。

 

自分は、ソファで寝る。寝室は、あなたが使っていい。そのことを、言葉ではなく動作で伝えた。

 

-----

 

冬野さんが、ゆっくりと、寝室の方に歩いた。ドアの前で、一度、止まった。

 

中を覗き込んだ。前にも入ったことのある部屋。この前は、マミも隣で寝た。今夜は、マミはここにはいない。

 

冬野さんが、中に入った。

 

ドアを、静かに閉めた。

 

音は、ほとんど、しなかった。

 

リビングに、マミが一人で残った。ソファに座って、天井を見上げた。

 

紅茶を淹れかけたまま、放置した部屋。テーブルの上には、使われなかったカップが、一つ、置いてあった。

 

マミは、立ち上がって、そのカップを、片付けた。

 

冷めた紅茶を、流しに捨てた。カップを洗った。水切りに置いた。

 

それから、洗い物の続きをした。冬野さんが使った茶碗。お椀。箸。丁寧に、洗った。

 

洗い物を終えて、もう一度、ソファに戻った。

 

毛布をかけた。横になった。天井を見上げた。

 

マミの胸の中で、いくつもの夜の記憶が、動いた。

 

最初の夜、公園で、この子を見つけた時のこと。

 

次の週、この子を家に連れてきた時のこと。ケーキを焼いて、紅茶を淹れて、笑顔で迎えた。

 

「何か言って」と言ってしまった時のこと。

 

そして、みんなで泊まった、あの夜のこと。

 

全部、マミの中にあった。

全部、取り消せない記憶だった。

今夜、マミは、その記憶の続きを、書いていた。

 

ケーキを焼かなかった。紅茶を淹れなかった。笑顔を作らなかった。「座って」と言わなかった。「大丈夫?」と訊かなかった。

 

何もしなかった。

何もしないことを、選んだ。

それが、今のマミに、できることの全部だった。

 

-----

 

寝室のドアの向こうから、小さな物音がした。

 

ベッドに入る音、だろうか。

毛布を引き上げる音、かもしれない。

それとも、ただ寝返りを打った音。

 

マミには、わからなかった。

 

わかる必要も、なかった。

 

ただ、この子が、今夜、この家の寝室にいる。

 

それだけが、事実だった。

 

マミは、目を閉じた。眠れそうに、なかった。

でも、目を閉じていた。

 

今夜、この子は、ここにいる。

明日も、ここにいる、かもしれない。

明後日も、明々後日も。

ずっと先までは、わからない。

ただ、少なくとも、明日の朝までは、この家に、この子が、いる。

 

マミは、その一つの事実を、ゆっくりと、胸の中に、置いた。

 

取り戻せない過去の記憶の上に。

 

-----

 

寝室の方から、小さな寝息が、聞こえ始めた。

聞こえ始めた、気がした。

マミは、確かめなかった。

目を閉じたまま、ソファの上で、じっとしていた。

 

夜が、ゆっくりと更けていった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。