紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF)   作:LongLong

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第17話『ただいま』

第17話「ただいま」

 

朝、マミは制服に着替えて、リビングを通った。

 

冬野さんは、椅子に座っていた。いつもの椅子。いつもの座り方。前半分にだけ腰を下ろして、背もたれには触れない。

 

制服を着ていた。学校に行く日もある。行かない日もある。今日はどちらなのか、マミは訊かなかった。

 

「行ってきます」

 

返事はなかった。

 

マミは玄関で靴を履いた。冬野さんの靴は玄関の隅に完璧に揃えられていた。左右の爪先の角度が一分の狂いもなく揃っている。マミの靴は、昨夜脱いだままの角度で少し斜めになっていた。

 

ドアを開けて、出た。

 

廊下を歩きながら、ふと思った。

 

あの子は今日も、家にいるだろう。帰ってきた時、あの椅子に座っているだろう。

 

いつも、そうだった。

 

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学校では、いつも通りの一日が過ぎた。

 

授業を受けた。昼休みは教室で一人、弁当を食べた。放課後、ソウルジェムを確かめた。魔女の気配はなかった。

 

帰ることにした。

 

帰る場所がある、ということが少しだけ以前と違っていた。以前は帰る場所はあった。ただ、そこに誰もいなかった。

 

商店街で、夕食の買い物をした。

 

二人分を買った。

 

何を買うか、少し迷った。冬野さんが何を食べられるか、まだ全部はわからない。わかっているのは、量が少ないこと。味の濃いものを避けること。最初の一口に時間がかかること。

 

豆腐と、卵と、白菜を買った。

 

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玄関のドアを開けた。

 

「ただいま」

 

返事はなかった。

 

リビングに入ると、冬野さんは朝と同じ椅子に座っていた。同じ姿勢。同じ位置。

 

一日中、ここに座っていたのかもしれない。マミが帰る直前に、ここに戻ってきたのかもしれない。どちらなのかは、わからなかった。訊かなかった。

 

テーブルの上が、朝と少しだけ違っていた。

 

マミが朝、出しっぱなしにしていたティーポットが、元の場所に戻っている。流しに置いてあったマグカップが、棚に戻されている。テーブルに置き忘れた砂糖のスプーンが、引き出しに入っている。

 

マミはそれに気づいた。

 

何も言わなかった。

 

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キッチンに入って、夕食の準備を始めた。

 

白菜を切った。豆腐を切った。卵を溶いた。

 

冬野さんはリビングにいた。今日は立っていなかった。椅子に座ったまま。

 

数日前は、立っていた。マミが料理をしている間ずっと、椅子の前で立っていた。今日は座っている。

 

マミはその変化に気づいた。口には出さなかった。

 

鍋に水を入れて、火にかけた。白菜を煮た。味噌を溶いた。豆腐を入れた。

 

簡単な味噌汁と、卵焼き。それだけの夕食。

 

テーブルに並べた。

 

マミは冬野さんの椅子の背に手をかけた。少しだけ引いた。それから自分の席に戻った。

 

冬野さんが小さく息を吸って、座り直した。椅子の前半分。

 

「いただきます」

 

マミが言った。冬野さんの唇が、わずかに動いた。

 

マミは味噌汁を飲んだ。

 

冬野さんの箸が、動いた。卵焼きの端を、小さく切り取った。口に運んだ。

 

最初の一口が、数日前の夜より、ほんの少しだけ早かった。

 

マミはそれに気づいた。気づいていることを見せなかった。

 

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食事が終わった。

 

冬野さんが食器に手を伸ばした。

 

茶碗、お椀、箸、小皿。全部、マミが出した時の配置に正確に戻した。

 

マミは、それを見ていた。何も言わなかった。

 

食器を流しに運んだ。冬野さんも、自分の分を運んできた。マミが「置いておいて」と言うと、流しの横に、丁寧に置いた。

 

マミは洗い物をした。

 

冬野さんはリビングに戻った。

 

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紅茶を淹れた。二人分。

 

冬野さんの前にも、カップを置いた。何も言わずに。

 

冬野さんはしばらくカップを見ていた。やがて両手でカップを包んだ。一口飲んだ。

 

マミは自分のカップを持って、ソファに座った。本を開いた。

 

冬野さんは椅子に座ったまま、何もしていなかった。

 

時計の音だけが部屋に響いていた。

 

この時間が、何日か、続いていた。

 

毎日、同じ時間に、同じ場所で、同じ静けさの中にいた。話すことはほとんどなかった。マミが本を読み、冬野さんが座っている。紅茶が冷めていく。時計が進む。

 

それだけの夜が、繰り返されていた。

 

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ある朝。

 

マミが玄関で靴を履こうとして、手が止まった。

 

マミの靴が、いつもと違う位置にあった。

 

昨夜、脱いだ時の角度ではなかった。少しだけ奥に移動していて、冬野さんの靴と平行に揃えられていた。爪先の角度が、左右で正確に合っている。

 

マミはしゃがんだ。

 

二足の靴を、見た。

 

冬野さんの靴と、マミの靴。同じ揃え方で、並んでいた。

 

冬野さんがマミの靴を揃えていた。

 

マミはしばらくしゃがんだまま、二足の靴を見ていた。

 

立ち上がった。靴を履いた。

 

「行ってきます」

 

返事はなかった。

 

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別の朝。

 

マミが「行ってきます」と言って、玄関に向かった。

 

後ろで、椅子が鳴った。

 

振り返ると、冬野さんが立ち上がっていた。制服を着ていた。鞄を持っていた。

 

今日は、学校に行く日だった。

 

マミは何も言わなかった。靴を履いた。冬野さんも玄関に来て、ローファーを履いた。

 

二人で、マンションを出た。

 

並んで歩いたわけではなかった。マミが前、冬野さんが後ろ。いつもの三歩の距離。

 

朝の通学路は、生徒が多かった。同じ制服を着た生徒たちが、校門に向かって歩いていた。友達同士でおしゃべりをしている子、イヤホンをつけている子、走っている子。

 

その流れの中でマミはふと気づいた。

 

後ろの足音が、少し近くなっていた。

 

三歩が、二歩になっていた。

 

冬野さんが生徒たちの流れの中で、マミとの距離を少しだけ縮めていた。

 

マミは振り返らなかった。歩幅も変えなかった。ただそのまま歩き続けた。

 

校門に着いた。

 

マミが校門を入った。冬野さんも入った。廊下の分岐点で、二人は別々になる。マミは二組、冬野さんは三組。

 

マミは分岐点でふと振り返った。

 

冬野さんは、もう壁際を歩いて、三組の方に向かっていた。いつもの歩き方。いつもの肩の角度。マミの方は、見ていなかった。

 

マミは自分の教室に向かった。

 

言葉を交わしたわけではなかった。隣を歩いたわけでもなかった。ただ、同じ玄関から出て、同じ道を歩いて、同じ校門をくぐった。それだけだった。

 

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ある放課後、鹿目さんと美樹さんが来た。

 

美樹さんがリビングに入った瞬間、「おじゃましまーす」と大きな声を出した。冬野さんの肩が、小さく跳ねた。美樹さんは気づかなかった。

 

鹿目さんは、気づいていた。気づいて、美樹さんの袖を引いた。美樹さんが少し声を落とした。

 

マミが紅茶を淹れた。四人分。ケーキも出した。いつもの、マミの得意な、ストロベリーのショートケーキ。

 

美樹さんが「うまい!」と言った。鹿目さんが「おいしいです、マミさん」と言った。

 

冬野さんは、ケーキを一口、食べた。紅茶を一口、飲んだ。それで動きが止まった。

 

鹿目さんが冬野さんの方をちらりと見た。何か言いかけて、やめた。代わりにマミに向かって話し続けた。学校のこと。先生のこと。さやかの部活のこと。

 

冬野さんは三人の会話を聞いていた。参加はしなかった。ただ椅子に座って、聞いていた。

 

美樹さんが帰り際、冬野さんに手を振った。「じゃあね、先輩」。冬野さんは動かなかった。返事もなかった。

 

鹿目さんは手を振らなかった。代わりに小さく頷いた。冬野さんの目がほんの一瞬だけ、鹿目さんの方に動いた。

 

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別の夜、暁美さんが来た。

 

魔女の報告だった。南の方で結界が一つ消えた、という話。玄関で、立ったまま、短く話した。

 

暁美さんの視線が一度だけリビングの方に流れた。冬野さんが椅子に座っているのが廊下から見えていたはずだった。

 

暁美さんは、何も言わなかった。冬野さんのことを話題にしなかった。

 

「気をつけて」

 

マミが言った。

 

暁美さんは頷いて、帰った。

 

玄関のドアが閉まった後、マミはリビングに戻った。冬野さんは椅子に座ったまま何も変わっていなかった。暁美さんが来たことに気づいていたのかどうかもわからなかった。

 

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この家に人が来ることが増えていた。

 

以前は、マミ一人だった。紅茶も一人分。ケーキも一人分。夕食も一人分。

 

今は、違った。

 

冬野さんがいて、鹿目さんと美樹さんが時々来て、暁美さんが時々来る。

 

マミの部屋は少しだけ賑やかになっていた。賑やかという言葉は正確ではないかもしれない。冬野さんは何も話さないし、暁美さんも短い報告だけで帰る。鹿目さんと美樹さんが来た時だけ声が増える。

 

それでも、マミの部屋の空気は、以前とは変わっていた。

 

一人分の紅茶を淹れていた頃とは、違う部屋になっていた。

 

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帰り道、マミは歩きながら考えていた。

 

冬野さんは、「ありがとう」を言わない。

 

「おいしい」も言わない。「おはよう」も「おやすみ」も「行ってらっしゃい」も言わない。

 

言わないのではなく、言えないのだと、マミは知っていた。

 

言葉で応えるということを、この子は教わってこなかった。

 

代わりに、食器を元の位置に戻す。靴を揃える。ティーポットを棚に戻す。カップを洗って元の場所に置く。

 

全部、言葉の代わりだった。

 

マミはそれを理解していた。理解したことを口に出さなかった。

 

口に出せば、冬野さんは自分のやっていることを意識する。意識すればできなくなるかもしれない。見られていると知ったらやめてしまうかもしれない。

 

だから、マミは、気づいていないふりを続けた。

 

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その日、マミは早く帰った。

 

魔女の気配がなかった。放課後、すぐに帰ることにした。いつもより一時間ほど早い。

 

マンションのエレベーターを上がった。

 

玄関のドアの前で、鍵を出した。

 

静かに、開けた。

 

「ただいま」は、まだ言わなかった。

 

靴を脱いで、廊下に入った。リビングの方に、足を向けた。

 

リビングには、誰もいなかった。椅子は空だった。

 

台所の方から、かすかな音がした。

 

マミは廊下の途中で足を止めた。

 

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台所に、冬野さんが立っていた。

 

棚の前に立って、マミのカップに手を伸ばしていた。

 

カップは、棚の中に並んでいた。五つ。花柄のもの、白い無地のもの、縁に金の線が入ったもの。マミが少しずつ集めたカップ。

 

冬野さんはその中の一つに指先を添えていた。

 

取っ手の向きを、直していた。

 

ほんの数ミリ。他の誰にもわからないような小さな調整。取っ手が全部同じ方向を向くように。右に少しだけ回していた。

 

指先だけが、静かに動いていた。

 

マミは廊下の端からそれを見ていた。

 

息を止めていた。

 

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冬野さんの身体が、動きを止めた。

 

気配に、気づいた。

 

ゆっくりと、振り返った。

 

マミと、目が合った。

 

冬野さんの目が、大きく開いた。

 

手が、カップから離れた。

 

身体が、固まった。

 

何かを壊したわけではなかった。何かを盗んだわけでもなかった。カップの取っ手の向きを、直していただけだった。

 

それなのに、冬野さんの身体は、見つかった人間の反応をしていた。

 

肩が上がった。呼吸が止まった。両手が、身体の横に、ぴったりとついた。

 

マミは、見てしまった。

 

この子がマミのいない時間にマミの持ち物を少しずつ整えていたこと。カップの向きを揃えること。ティーポットを棚に戻すこと。スプーンを引き出しに入れること。全部、マミが気づいてはいたけれど直接見たことはなかった行為の、その瞬間を見てしまった。

 

マミは冬野さんの目を一瞬だけ見た。

 

それから、視線を逸らした。

 

台所ではなく、玄関の方を見た。

 

「ただいま」

 

それだけ、言った。

 

リビングに、入った。台所には、行かなかった。ソファに座って、鞄を下ろした。

 

台所の中で、何かが小さく動く気配がした。

 

冬野さんが台所から出てきた。

 

静かに。足音なく。

 

リビングの、いつもの椅子の前まで来て、座った。

 

椅子の前半分に。

 

マミは、何も訊かなかった。

 

冬野さんも、何も言わなかった。

 

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その夜の夕食は、いつも通りだった。

 

マミが作って二人で食べた。冬野さんの食べる量は少しだけ増えていた。味噌汁を三口飲んだ。卵焼きを二切れ食べた。

 

食べ終わった後、冬野さんが食器を元の位置に戻した。

 

マミは、気づかないふりをした。

 

いつも通りだった。

 

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紅茶を淹れた。二人分。

 

冬野さんの前にカップを置いた。

 

冬野さんがカップを両手で包んだ。一口飲んだ。

 

マミも、飲んだ。

 

時計の音だけが響く、いつもの夜だった。

 

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冬野さんが寝室に入った後、マミは台所に立った。

 

棚を、開けた。

 

カップが、並んでいた。

 

取っ手の向きが、全部、同じ方向に揃えられていた。

 

マミが普段揃えない向き。マミは取っ手の向きを気にしたことがなかった。使う時に持ちやすければそれでよかった。

 

冬野さんはそれを全部同じ向きに揃えていた。

 

右向き。全部、右。

 

マミはその取っ手の向きをしばらく見ていた。

 

直さなかった。

 

冬野さんが揃えた向きのまま、棚を閉めた。

 

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ソファに横になった。

 

毛布をかけた。目を閉じた。

 

明日もこの子はここにいる。

 

明日も「ただいま」と言う。

 

返事はないだろう。

 

代わりに、靴が揃えられている。カップの向きが直されている。ティーポットが棚に戻っている。

 

全部、この子の言葉だった。

 

マミには、それが聞こえていた。

 

聞こえていることを、この子には、言わない。

 

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寝室の方から、小さな寝息が聞こえた。

 

マミは目を閉じたまま耳を澄ませていた。

 

あの子の寝息がこの部屋にある。

 

それだけでこの部屋の空気が少しだけ違っていた。

 

一人分の紅茶を淹れていた頃の空気とは、違う空気。

 

マミはその違いに名前をつけなかった。

 

名前をつけなくても、よかった。

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