紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF)   作:LongLong

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第18話『久しぶりのソファ』

第18話「久しぶりのソファ」

 

マンションの前で、杏子は立ち止まっていた。

 

見上げた。見覚えのある建物。何階建てだったか、正確には覚えていない。ただ、あの部屋が上の方にあることは覚えている。

 

昔、ここに通っていた。

 

マミと一緒に戦っていた頃。週に二回か三回、放課後にここに来た。エレベーターのボタンを押す時、毎回少しだけ緊張していた。マミの家に行くということが当時の杏子にとっては特別なことだった。

 

それがいつの間にかなくなった。

 

杏子はポケットに手を突っ込んだまましばらく立っていた。

 

あの子の様子を見に来ただけだ。

 

そう、自分に言い聞かせた。

 

インターホンを押した。

 

「はい」

 

マミの声。変わっていなかった。

 

「……あたし」

 

「あら。上がってきて」

 

エレベーターのボタンを押した。昔と同じボタン。昔と同じ階。

 

-----

 

玄関のドアが開いた。

 

「いらっしゃい、佐倉さん」

 

マミはエプロンをつけていた。料理の途中だったのかもしれない。

 

「たまたま近く通ったから」

 

杏子は目を合わせずに言った。マミは微笑んだ。信じていない顔だった。信じていないことを、口には出さなかった。

 

「上がって。ちょうど、お茶にしようと思ってたところ」

 

靴を脱いだ。雑に。踵を踏んで脱いで、そのまま上がった。

 

玄関の隅に、冬野の靴があった。完璧に揃えられていた。爪先の角度が左右で正確に合っている。

 

杏子はそれをちらりと見た。自分の靴は、斜めに転がっている。

 

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リビングに入った。

 

冬野が、椅子に座っていた。いつもの椅子。いつもの座り方。

 

杏子が入ってくると、冬野の視線が動いた。杏子の顔ではなく、杏子の手の方に。ポケットから出ている指先を、一瞬、追った。

 

杏子はそれに気づいた。前に結界から助けた夜と、同じ目の動き方だった。

 

杏子はソファに座った。斜めに。足を組んだ。

 

部屋を見回した。

 

変わっていなかった。

 

ガラステーブル。三人掛けのソファ。壁際の本棚。窓のカーテン。

 

本棚に見覚えのある背表紙が並んでいた。マミが「これ、面白いのよ」と薦めてきた推理小説。まだ棚にあった。

 

棚の上にティーカップが並んでいた。花柄のもの、白い無地のもの、縁に金の線が入ったもの。昔杏子がいつも使っていたのは白い無地の大きめのカップだった。紅茶が苦手で、量を減らすために大きいカップを選んだ。注ぐ量が同じなら、大きいカップの方が少なく見える。マミにはバレていた。

 

壁の時計も、同じ位置にあった。同じ形。秒針が、同じ速さで回っている。

 

全部、覚えている。覚えていることが、少しだけ、喉の奥に引っかかった。

 

マミが口を開いた。

 

「紅茶、淹れるわね」

 

「別にいい」

 

マミは聞いていなかった。キッチンに入っていった。

 

リビングに、杏子と冬野が残された。

 

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テレビのリモコンが、テーブルの上にあった。

 

杏子は手を伸ばして、テレビをつけた。何でもよかった。音があれば、沈黙を気にしなくて済む。

 

ニュース番組が映った。天気予報をやっていた。明日は晴れ。気温は十五度。杏子には関係のない情報だった。

 

ポケットからポッキーの箱を出した。封を切って、一本抜いた。齧った。

 

あの子は椅子に座ったまま何もしていなかった。テレビを見ているのかどうかもわからなかった。視線は、テレビの方向に向いていたが、画面を見ている目ではなかった。どこかもっと近い場所を見ている、あるいは、どこも見ていない。

 

杏子はポッキーを齧りながら視界の端で冬野を見ていた。

 

椅子の前半分にだけ座っている。背もたれには触れていない。両手は膝の上。

 

あの夜と、同じだった。結界から引きずり出して、通りに座らせた時と、同じ座り方。あの時は、杏子がチョコプレッツェルを一本、こいつの手に押し付けた。「食え」と。雑に。

 

今日は、雑にはしない。理由はわからない。ただ、今日は、違う気がした。

 

杏子が、ポッキーをもう一本、箱から抜いた。

 

冬野の前のテーブルに、横向きに置いた。

 

何も言わなかった。

 

冬野は、それに触らなかった。テーブルの上のポッキーを見て、それから、杏子の手を見て、また視線を下ろした。

 

杏子は気にしなかった。自分のポッキーを齧った。テレビを見た。

 

天気予報が終わって、スポーツニュースに変わった。野球の結果をやっていた。杏子は野球には興味がなかった。チャンネルを変えた。バラエティ番組。芸人が何かをやって、スタジオが笑っていた。

 

杏子は、画面を見ていた。

 

視界の端で、あの子の手が動くのを、待っていた。待っているつもりはなかった。ただ、視界の端に、冬野の手があった。

 

時間が過ぎた。

 

五分か、十分か。

 

杏子がバラエティ番組の芸人のネタに、ほんの少しだけ口の端を上げた瞬間だった。

 

冬野の指先が、テーブルの上に伸びた。

 

ポッキーに触れた。指先だけで、つまんだ。テーブルから持ち上げた。

 

杏子は、視線を動かさなかった。テレビを見たまま。

 

冬野が、ポッキーを口に運んだ。小さく噛んだ。音はほとんどしなかった。杏子がポッキーを噛む音の、五分の一くらいの音。

 

杏子は、気づいていた。気づいていないふりをした。

 

ポッキーを、もう一本、自分の分を齧った。

 

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キッチンから、やかんの音がしていた。湯が沸く音。棚を開ける音。カップを出す音。

 

マミの動きの音を杏子は耳で追っていた。覚えのある音だった。昔もこうだった。杏子がソファでテレビを見ている間、マミがキッチンで紅茶を淹れていた。やかんの音、棚の音、カップの音。順番まで同じだった。

 

あの頃は、マミが紅茶を淹れている間、杏子はソファで宿題をしていた。宿題はほとんどやらなかった。ノートを広げて、ペンを持って、テレビを見ていた。マミに「宿題は?」と訊かれて、「やってる」と嘘をついた。マミは信じていなかった。信じていないまま、紅茶を淹れてくれた。

 

今日は、宿題はない。ノートもない。ペンもない。

 

あるのは、ポッキーの箱と、隣の椅子に座っている子と、昔と同じ音を立てているキッチン。

 

-----

 

マミがトレイを持って戻ってきた。

 

紅茶が三人分。カップが三つ。湯気が立っていた。

 

杏子の前に置かれたカップは、白い無地の、大きめのもの。昔、杏子がいつも使っていたカップ。

 

杏子はそれを見た。

 

マミは何も言わなかった。当然のようにそのカップを杏子の前に置いた。

 

「あたし、紅茶とか別にいらねえんだけど」

 

「そう。じゃあ、飲まなくていいわ」

 

マミは穏やかに言って、自分のカップを手に取った。

 

杏子は舌打ちした。カップを手に取った。一口飲んだ。

 

ダージリン。

 

昔と、同じ味だった。温度も、濃さも。マミの淹れ方は変わっていなかった。

 

冬野も、しばらくして、カップを両手で包んだ。一口、飲んだ。

 

三人が、紅茶を飲んでいた。

 

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テレビのバラエティ番組が終わって、ドラマの再放送が始まった。杏子はチャンネルを変えなかった。何でもよかった。

 

マミがソファの端に座っていた。杏子がソファの反対の端。冬野は椅子。

 

三人の間に、会話はなかった。

 

杏子がポッキーを齧る音。マミが紅茶を啜る音。テレビのドラマの台詞。それだけ。

 

杏子は、テレビの画面を見ていた。見ていたが、内容は頭に入っていなかった。

 

このソファに座るのは、何年ぶりだろう。

 

マミと決裂してから、一度も来なかった。来る理由がなかった。来たくもなかった。マミのやり方と、杏子のやり方は、合わなかった。それだけのことだった。

 

それだけのことだったはずなのに、このソファの座り心地を、身体が覚えていた。背もたれの角度。クッションの沈み具合。肘掛けの高さ。全部。

 

杏子は、足を組み直した。

 

マミが口を開いた。

 

「最近、結界の発生、多くない?」

 

「ああ。南の方で、ちょっとな」

 

「気をつけてね」

 

「別に」

 

会話は、それで終わった。

 

冬野は、二人の会話を、聞いているのかいないのか。視線はテレビの方を向いていた。

 

杏子は冬野が魔法少女の話を理解しているかどうか考えた。結界。魔女。ソウルジェム。この子は、あの夜、結界に巻き込まれた。魔女に襲われた。四人に助けられた。そこまでは体験している。それ以上のことは、たぶん、知らない。

 

知らなくていい、と杏子は思った。

 

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マミが立ち上がった。

 

「夕飯の支度、するわね。佐倉さん、食べていく?」

 

「いや、いい」

 

「そう。じゃあ、ゆっくりしていって」

 

マミがキッチンに入っていった。

 

また、杏子と冬野が、二人になった。

 

杏子は、ポッキーの箱を見た。残り三本。

 

一本抜いて、齧った。

 

あの子は、椅子に座ったまま、カップを両手で包んでいた。中身はもう空かもしれない。空のカップを、両手で包んでいた。

 

杏子はそれを見て何も言わなかった。

 

テレビのドラマが、クライマックスに差しかかっていた。主人公が何かを叫んでいた。杏子には筋がわからなかった。途中から見たから。

 

冬野の視線がテレビの方に向いていた。さっきより少しだけ画面を見ているように見えた。ドラマの内容に興味があるのか、ただ光が動いているのを見ているのか、わからなかった。

 

「……おもしろいか、これ」

 

杏子が、呟いた。冬野に訊いたのか、独り言なのか、自分でもわからなかった。

 

冬野は、答えなかった。

 

答えないことを、杏子は知っていた。

 

ドラマのエンディングが流れた。杏子は、テレビを消した。

 

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杏子が立ち上がった。

 

「帰るわ」

 

キッチンから、マミの声が聞こえた。

 

「もう帰るの?」

 

「長居するつもりなかったし」

 

杏子は玄関に向かった。

 

ポケットからポッキーの箱を出した。残り二本。

 

テーブルの上に、置いた。

 

「残り、好きにしな」

 

誰に言ったのかは、はっきりしなかった。

 

玄関で、靴を履いた。

 

履きながら、冬野の靴を見た。来た時と同じ位置に、完璧に揃えられていた。

 

杏子の靴は、来た時と同じように、雑だった。

 

マミが玄関まで来た。エプロンをつけたまま。

 

「また来てね、佐倉さん」

 

「……たまたまだっつの」

 

杏子は振り返らずに言った。

 

マミは何も言い返さなかった。

 

ドアが閉まった。

 

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マンションの外に出た。

 

夜の空気が、少しだけ冷たかった。

 

ポケットに手を突っ込んだ。ポッキーの箱がない。置いてきたから。指先が、何もないポケットの底に触れた。

 

歩き出した。

 

あのソファに座ったのは、久しぶりだった。

 

あのカップで紅茶を飲んだのも、久しぶりだった。白い無地の、大きめのカップ。マミは覚えていた。覚えていて、何も言わずに出した。

 

文句を言いながら飲むのも、同じだった。ダージリンの味も同じだった。

 

変わったのは、あの椅子に座っている子がいること。

 

あの子がいるから、あのソファに座れた。あの子の様子を見に来た、という理由があるから。あの子がいなかったら、マミの家に来る理由がない。

 

来る理由を、あの子が作っている。

 

杏子はそれを知っていた。知っていることを誰にも言わなかった。

 

……ただ、本当にそうなのか、杏子にはわからなかった。

 

あの子がいなくなっても、来るかもしれない。来ないかもしれない。今は、わからない。わからないまま、ポケットの底に指先を押し込んで、歩いた。

 

夜の住宅街を抜けて、大通りに出た。コンビニの明かりが見えた。

 

杏子は、コンビニに入った。

 

ポッキーを一箱、買った。

 

新しい箱をポケットに入れて、歩き出した。

 

-----

 

次も、たまたま近くを通るだろう。

 

たまたま。

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