紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF) 作:LongLong
第19話「魂」
日曜日の午後、マミの家のリビングに六人がいた。
紅茶が淹れられていた。六人分。テーブルにはケーキの皿が並んでいた。食べかけの皿、空になった皿、一口だけ欠けた皿。
さやかの声が聞こえていた。まどかの笑い声が聞こえていた。杏子がポッキーを齧る音が聞こえていた。マミが「佐倉さん、おかわりは?」と訊く声が聞こえていた。
冬野しずくは椅子の前半分に座って、膝の上に手を置いていた。
ほむらは窓際に立ってその光景を見ていた。
ソウルジェムの真実を、今日、ここで言う。
ほむらはそう決めていた。決めていたはずだった。
窓の外を見た。空が青かった。雲が少しだけ動いていた。
リビングではさやかが笑っている。まどかが笑っている。マミがケーキを切り分けている。杏子がポッキーを齧っている。
この光景が、ほむらの言葉で終わる。
言えば、マミは崩壊するかもしれない。さやかは確実に崩れる。まどかは契約から遠ざかるか、あるいは逆に近づく。どちらに転ぶかは、わからない。
言わなければ、まどかは何も知らないまま契約するかもしれない。それはほむらが最も避けたい結末だった。
どちらのリスクが高いか。
ほむらは計算していた。計算しながら、窓の外の雲を見ていた。
まどかの笑い声が聞こえた。
ほむらの指先が、ポケットの中で、ソウルジェムに触れた。冷たかった。
今、言わなければ、次の機会はない。全員が同じ場所にいる。バラバラに知れば、各自が孤立して崩壊する。
ほむらは窓から視線を戻した。
ケーキを食べ終わり、紅茶が半分ほど減った頃。
ほむらは口を開いた。
「言わなければならないことがある」
六人の視線がほむらに向いた。冬野しずくの視線だけは、ほむらの顔ではなくほむらの手に向いていた。
ほむらは左手を持ち上げた。指の間にソウルジェムを挟んでいた。紫色の宝石が窓からの光を受けて鈍く光った。
「これが何か、知っていると思う」
マミが頷いた。さやかが「ソウルジェム」と小さく言った。
「魔力の源。そう教わったはず」
ほむらは宝石を窓の光にかざした。
「違うわ」
一語だった。リビングの空気が変わった。
「これは魔力の源じゃない」
ほむらは宝石を下ろした。全員の顔を一人ずつ見た。マミ、杏子、さやか、まどか。冬野しずくは見なかった。
「これは、私たちの魂そのもの」
沈黙が落ちた。
さやかの口が半分開いたまま止まっていた。
まどかの顔から色が引いていった。
杏子は動かなかった。表情も変えなかった。ただ、組んでいた足を静かに下ろした。
マミのカップを持つ手が止まった。カップは唇に届く前の位置で、空中に止まっていた。
ほむらはそれを観察していた。
「契約した瞬間に、魂は身体から抜き取られる。このソウルジェムの中に移される。身体はただの入れ物になる。外側の殻」
ほむらの声は平坦だった。事実を伝えていた。
さやかが立ち上がりかけた。椅子が鳴った。
「嘘……」
「嘘じゃない」
ほむらはさやかを見た。
「美樹さやか。あなたの魂も、あなたの身体にはない。あなたのソウルジェムの中にある」
さやかの膝が震えた。立ち上がりかけた身体が椅子に戻った。まどかがさやかの腕に手を伸ばした。袖を掴んだ。
杏子が口を開いた。
「……知ってたよ」
全員が杏子を見た。
「知ってた、ってわけじゃねえ。ただ、そうだろうなと思ってた」
杏子の声は低かった。
「父親に裏切られた時に大体わかった。あたしたちは最初からまともな取引をしてない」
杏子はそれだけ言って口を閉じた。ポッキーの箱をポケットに戻した。
予想の範囲内だった。さやかの反応も予想通り。崩れかけている。ただ、まどかがさやかの袖を掴んでいる。その手がさやかを椅子に留めていた。
まどかの顔は白かった。震えていた。声は出していなかった。
マミはカップを持ったまま動かなかった。ほむらはマミの手を見た。カップを持つ指の関節が白くなっていた。力が入りすぎている。
冬野しずくは椅子に座ったまま膝の上に手を置いていた。何も変わっていなかった。ソウルジェムも魔力も魂も、この子にとっては意味のない言葉だった。
ほむらはここまでを確認した。全員が同じ場所にいる。誰も部屋を出ていない。
--—
「暁美さん」
自分の声が、思ったより低かった。
「ソウルジェムが、濁りきったら……どうなるの」
喉が干上がっていた。答えを知りたかった。知りたくなかった。頭の奥では既に答えが形を作り始めていた。それを、暁美さんの口から否定して欲しかった。
暁美さんは答えた。
「魔女になる」
マミの指からカップが滑った。
音を立ててテーブルに落ちた。倒れた。紅茶がテーブルの上にこぼれた。琥珀色の液体がガラスの表面を広がっていった。
誰も拭かなかった。
マミの手はカップがあった位置でそのまま止まっていた。指が開いたまま。何も持っていない手が空中で止まっていた。
紅茶がテーブルの上を流れていた。
マミはそれを見ていた。見ていたが目に入っていなかった。
音が、遠くなっていた。
美樹さんが何か言っている。声が聞こえる。意味が入ってこない。鹿目さんが美樹さんの袖を掴んでいる。その手が震えている。見える。見えているのに、それが何を意味するのか、頭が処理できなかった。
心臓の音だけが、耳の奥で鳴っていた。
自分の心臓。
マミは、反射的に、胸に手を当てそうになった。止めた。
胸の奥で動いているものは、もう心臓ではない。
ただの身体が、ただの血液を循環させている音。魂のない入れ物が、動いているだけの音。
マミの呼吸が止まった。吸えなくなった。肺が動き方を忘れたみたいだった。
頭の中で暁美さんの声が繰り返されていた。
魂はソウルジェムの中にある。身体はただの入れ物。濁りきったら、魔女になる。
魔女に。
マミは自分の手を見た。
この手でケーキを焼いた。冬野さんが初めてうちに来た日、ストロベリーのショートケーキを焼いた。切り分けて、皿に載せて、テーブルに並べた。冬野さんが一口だけ食べて、動きが止まるのを見ていた。
この手で椅子を引いた。冬野さんが立ったまま動けない夜、椅子の背に手をかけて、静かに引いた。座ってとは言わなかった。ただ引いた。
この手で紅茶を淹れた。二人分。冬野さんの前にカップを置いた。何も言わずに。冬野さんが両手でカップを包むのを見ていた。
この手で食器を洗った。冬野さんが元の位置に戻した茶碗を、お椀を、箸を、丁寧に洗った。
全部、この手でやった。
この手は、魂のない身体の手だった。
ずっとそうだった。契約した瞬間から、ずっと。
マミの呼吸が浅くなった。胸の奥で何かが締まっていった。
今まで倒してきた魔女。結界の中で戦って、砕いて、グリーフシードを回収してきた。あの魔女たちはかつて誰かだった。かつての魔法少女だった。自分と同じように契約して、自分と同じように戦って、ソウルジェムが濁って、そして。
マミは冬野さんの方を見た。
冬野さんは椅子に座っていた。いつもと同じ座り方。膝の上に手を置いて、背もたれには触れていない。
この子は何も理解していない。ソウルジェムが何かも、魔女が何かも、今の会話の意味も。ただ部屋の空気が変わったことだけを身体で感じている。
この子の隣に自分がいる。
いずれ魔女になるかもしれない存在が、この子の隣に。
マミの中で、何かが、痛くなった。
この子は、この家に来た。自分の足で来た。マミの靴を揃えた。マミのカップの取っ手を回した。マミが帰ってくる部屋に、椅子の前半分に座って、待っていた。
マミはそれを、人間として受け取っていた。
一人暮らしの家に人が来てくれる、という感覚として。紅茶を二人分淹れることの小さな幸せとして。靴が二足並んでいる玄関の光景として。人として。人として感じていた。
人ではなかった。
あの子のカップの取っ手の向きを揃えていた指。あの子がマミの靴を揃えていた手。あの子が椅子の前半分にだけ座って、マミの帰りを待っていた時間。全部、人間だと思っていた私の隣での話だった。
人間ではなかった。
マミの胸の中で、何かが壊れかけた。
マミは立ち上がった。
「お茶を淹れ直すわね」
声が震えなかったのは訓練のおかげだった。何年も一人で暮らして、何年も一人で戦って、何年も一人で笑顔を作ってきた。声を震わせない技術だけは持っていた。
キッチンに向かった。
ポットを手に取った。
持ち上がらなかった。
手が震えていた。指の力が入らなかった。ポットの取っ手を握っているのに握れていなかった。
もう一度力を入れた。
持ち上がらなかった。
マミはポットの取っ手を握ったまま動けなくなった。キッチンの流し台の前で、背中をリビングに向けて立っていた。震えている手を誰にも見せたくなかった。
後ろから足音が聞こえた。
佐倉さんがマミの横に立った。
何も言わなかった。
佐倉さんの手がマミの手に触れた。ポットの取っ手をマミの指から受け取った。
マミの指が離れた。力が抜けた。
佐倉さんがポットを持ち上げた。やかんの前に立った。水を入れた。火にかけた。
昔と同じ動きだった。マミより先に動く。マミが動けない時に代わりに動く。一緒に戦っていた頃の佐倉さんが、よくやっていた動き。
マミは佐倉さんの背中を見ていた。
佐倉さんは振り返らなかった。
マミの目の奥が、熱くなった。泣きたかったのかもしれない。泣かなかった。キッチンの流し台の縁を両手で掴んで、そのまま立っていた。
マミはリビングに戻った。
椅子に座った。
テーブルの上の紅茶は美樹さんが紙ナプキンで拭いていた。鹿目さんが美樹さんの隣で手伝っていた。二人とも顔が白かった。手だけが動いていた。
暁美さんは窓際に立ったまま動いていなかった。
冬野さんは椅子に座ったまま動いていなかった。
マミは自分の手を膝の上に置いた。まだ震えていた。膝の上に置けば見えにくくなる。
リビングは静かだった。
佐倉さんがキッチンで湯を沸かしている音だけが聞こえていた。
美樹さんが紙ナプキンを丸めてテーブルの上に置いた。手が止まった。美樹さんの目が自分の手の甲を見ていた。
「あたしの身体、空っぽなんだ」
美樹さんの声は小さかった。
鹿目さんが美樹さんの手を握った。何も言わなかった。握っただけだった。美樹さんの指が、鹿目さんの指を、きつく握り返した。
暁美さんは窓際に立ったまま、こちらを見ていなかった。美樹さんの方を見ているようだった。何を考えているのか、マミにはわからなかった。
マミは二人を見ていた。何を言えばいいかわからなかった。自分も同じだった。自分の身体も空っぽだった。
冬野さんは膝の上に手を置いたまま座っていた。部屋の中で何が起きているのか、この子にはわからなかっただろう。ただ、全員が黙っていること、美樹さんの声が震えていたこと、鹿目さんが手を握っていること、マミの手が膝の上で震えていること、それだけは見えていたはずだった。
誰も次の言葉を見つけられなかった。
時計の秒針が動いていた。その音だけがリビングに響いていた。
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マミは、冬野さんを見た。
冬野さんの視線が、動いていた。
さっきまで下を向いていた目が、ほんの少しだけ上がっていた。マミの顔は見ていない。マミの手を見ていた。膝の上で震えている、マミの手を。
それから、視線が動いた。美樹さんの手の甲に。鹿目さんの握り返している指に。
冬野さんは、見ていた。
この子には、ソウルジェムの意味はわからない。魔女化の意味もわからない。ただ、部屋の中で何かが起きていることだけは、身体で感じ取っていた。
全員が震えていること。誰かの手が誰かを掴んでいること。声が出ないこと。
冬野さんの視線が、もう一度、マミの方に戻った。
今度は、マミの顔の、もう少し上の方を見ていた。目ではない。頬のあたり。口の端。その近く。
冬野さんの呼吸が、一瞬、止まった。
冬野さんの口が動いた。
マミはそれを見た。他の誰よりも先に見た。
冬野さんの唇がわずかに開いた。音を作ろうとしていた。口の形が何かを言おうとしていた。
マミは息を止めた。
この子が自分から言葉を発するのを、マミは聞いたことがなかった。マミが知っているのはいつもの沈黙だけだった。食器を戻す音。靴を揃える音。カップの取っ手を回す、あの小さな音。全部、言葉の代わりだった。声を使ったことは一度もなかった。
冬野さんの唇が動いた。
声が出た。
細かった。弱かった。部屋の空気に溶けてしまいそうなほど小さかった。
「……でも、優しかった」
音が消えた。
リビングの中の全ての音が一瞬消えた。キッチンで湯を沸かしている音も、時計の秒針の音も、窓の外の風の音も、全部聞こえなくなった。
マミの手が膝の上で止まった。
震えが止まっていた。
マミは冬野さんを見た。
冬野さんは下を向いていた。マミを見ていなかった。自分が何を言ったのかわかっているのかどうかもわからなかった。
冬野さんの身体が固まっていた。肩が上がっていた。呼吸が浅くなっていた。両手が膝の上できつく握られていた。
呼ばれていないのに、声を出した。
その重さの分だけ、冬野さんの身体は固まっていた。
マミだけがそれに気づいていた。
マミの呼吸が、戻っていた。
さっきまで肺が動き方を忘れていた。息を吸おうとしても、吸えなかった。喉の奥で、空気が止まっていた。
今は、吸えていた。
冬野さんの声が、リビングの空気を少しだけ変えた。変えたのは音量ではなかった。意味でもなかった。ただ、変わった。マミの肺が動き始めたのは、それが理由だった。
マミは、自分の手を見た。
震えが止まっている手。ついさっきまでポットを持ち上げられなかった手。魂のない、身体の手。
その手に、冬野さんが「優しかった」と言った。
マミには、言葉の意味が、すぐには処理できなかった。この子が何を言ったのか、誰に向けて言ったのか、何を意味しているのか。全部、後から、ゆっくり、入ってきた。
人間かどうかは関係なかった。魔女になるかどうかも関係なかった。
ただ、優しかった。
この子はそれを見ていた。マミが人間だと思っていた日々の中で、この子は、ただ、マミの手を見ていた。靴を揃える手、カップを出す手、椅子を引く手、紅茶を淹れる手。魂があるかないかは、この子には見えていなかった。
見えていたのは、ただ、手の動き方だけだった。
その手の動き方が、優しかった。
マミの目の奥が、また熱くなった。
泣かなかった。
美樹さんは自分の手の甲を見つめたままだった。聞こえていたのかどうか、わからなかった。
鹿目さんは美樹さんの手を握ったまま、動かなかった。
キッチンから、やかんの音が聞こえていた。佐倉さんの手が動いている音がしていた。途中で一瞬、音が止まった。それから、また動いた。
暁美さんは窓際に立っていた。表情は変わっていなかった。
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沈黙が続いた。
長かった。
時計の秒針が十回、二十回、三十回。
誰も動かなかった。
マミは冬野さんを見ていた。冬野さんは下を向いたままだった。握られた両手が膝の上で白くなっていた。
この子の声が、まだ耳の奥に残っていた。
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キッチンから佐倉さんが戻ってきた。
新しいポットを持っていた。テーブルにポットを置いた。カップを並べた。六つ。さっきこぼれた分も含めて全部新しく注いだ。一つずつ、全員の前に置いていった。
佐倉さんは何も言わなかった。ポットを置いてソファに戻って座った。
マミの前にもカップが置かれた。湯気が立っていた。
佐倉さんが淹れた紅茶。昔マミが教えた淹れ方。茶葉の量も、湯の温度も、蒸らす時間も。佐倉さんはそれを覚えていた。
マミはカップに手を伸ばした。
指先がカップの縁に触れた。まだ少し震えていた。さっきよりは小さな震えだった。
カップを持ち上げた。
一口飲んだ。
温かかった。
マミはカップをテーブルに置いた。置いた音が静かなリビングに小さく響いた。
美樹さんがカップに手を伸ばした。鹿目さんも。二人とも紅茶を一口飲んだ。美樹さんの目が赤かった。泣いてはいなかった。ただ赤かった。
佐倉さんは自分のカップを手に取った。一口飲んで、何も言わなかった。
暁美さんはカップに手を伸ばさなかった。窓際に立ったまま動かなかった。
冬野さんの前にもカップがあった。冬野さんはまだ手を伸ばしていなかった。両手は膝の上で握られたままだった。
時間が過ぎた。
マミが二口目を飲んだ。美樹さんが紅茶を見つめていた。鹿目さんが美樹さんの隣に座ったまま、自分のカップを両手で包んでいた。佐倉さんがソファの背にもたれた。
冬野さんの指が、ほんの少しだけ開いた。
握られていた手が、ゆっくりと、膝の上で緩んだ。
右手が動いた。テーブルの上のカップに向かって。
ゆっくりと。
カップの縁に指先が触れた。両手で包んだ。
マミはそれを見た。
見て、視線を逸らした。
気づいていないふりをした。いつもと同じように。
窓の外では日曜日の午後の光が少しずつ傾き始めていた。
リビングには六人がいた。
紅茶の湯気が静かに立ち上っていた。
誰も泣いていなかった。
ただ、世界の動きが、少しだけ、ずれていた。