紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF) 作:LongLong
第2話「紅茶とケーキと」
月曜の朝は、長い週末の後にしてはあっけなく訪れた。
マミは土曜も日曜も、ほとんど家から出なかった。外に出る気になれなかった。見回りは夜だけ、必要最小限にして、日中は部屋で紅茶を淹れて飲んでいた。いつもより、茶葉の消費が早かった。
二日間、マミはずっとあの子のことを考えていた。考えることしかできなかった。自分の知らない場所で、あの子が今どうしているのか、確かめる術はなかった。公園に行ってみたこともある。昼間の公園には誰もいなかった。夜の公園にも、誰もいなかった。
月曜の朝、マミは制服に着替えながら、もう一度決意を確かめた。
今日から、あの子を探す。
同じ学校の生徒なのだから、必ずどこかにいるはずだった。
-----
一時間目の授業中、マミは黒板を見ながら、頭の半分で別のことを考えていた。
三年生は全部で六クラス。マミ自身は三年二組。あの子がどのクラスにいるかはわからない。まず廊下を歩いてみようと思った。休み時間ごとに、別のクラスの前を通る。教室を覗いて、長い黒髪の、青白い顔の少女がいないか確かめる。
一時間目が終わった。マミは教科書をしまって、席を立った。
廊下に出る。三年一組の前を通る。教室の入り口から中を見る。何人かの生徒が振り返った。マミに気づいて、小さく会釈してくる生徒もいた。マミは会釈を返しながら、目だけは教室の隅々を探していた。
あの子はいなかった。
三年三組、四組、五組、六組。マミは午前中の休み時間を全部使って、他のクラスの前を歩いた。
見つからなかった。
一年生や二年生のクラスも、念のため、一応覗いてみた。
どこにもいなかった。
マミは自分のクラスの席に戻って、次の授業の準備を始めた。胸の中に、焦りに似た何かが小さく残っていた。
もしかしたら、あの子は今日、学校を休んでいるのかもしれない。
──あの寒さの中で、週末をどこで過ごしたかによっては。
マミは頭を振って、その想像を追い払った。
-----
火曜日。マミは同じことを繰り返した。
廊下を歩いて、教室を覗いて、見つからない。昼休みに食堂を覗いたが、少女はそこにもいなかった。そもそも、あの子が誰かと食事をしている姿が想像できなかった。
放課後、マミは部室棟の方にも足を延ばしてみた。もちろん、少女が何かの部活に入っているとは思えなかったが、確認だけはしたかった。案の定、いなかった。
帰り道、マミはゆっくり歩きながら考えていた。見つからないということは、ありえるのだろうか。同じ学校にいるなら、どこかで必ず目に入るはずだった。
それとも、自分が気づかないだけで、あの子はいつもどこかの教室にいて、ただ目立たないだけなのかもしれない。
その可能性の方が、マミには怖かった。
-----
水曜日の朝、マミは早めに学校に着いた。
朝のホームルームが始まる前の、教室の外を歩こうと思った。朝の教室では、生徒たちが自分の席について、ぼんやりしている時間がある。動きが少ない分、あの子がもし席についているなら、見つけやすいかもしれなかった。
マミは三年三組の教室の前を通り過ぎようとして、足を止めた。
中から、先生の声が聞こえた。朝のホームルームが既に始まっていた。三年三組の担任は、年配の男性教師だった。
「出席、取りますね」
ホームルームの中で、先生が出席簿を開く音がした。マミは廊下の壁際に立って、そっと教室の中を窺った。
名前が順番に呼ばれていく。
「青木さん」「はい」
「浅野さん」「はい」
「池田さん」「はい」
マミは教室の入り口から、生徒たちの席を目で追っていた。前の方には見覚えのある顔ばかりだった。後ろの方へ、目を移していく。
「上田さん」「はい」
「内海さん」「はい」
「木村さん」「はい」
教室の一番後ろの、窓際から二列目の席に、長い黒髪の少女が座っていた。
マミの心臓が、一度、大きく跳ねた。
前髪を目の上まで下ろしている。教科書を机の上に開いているが、それを読んでいるようには見えない。ただ、机の上の一点を見つめている。周りの生徒たちが声を上げて出席に応えていく中で、その席だけが静かだった。
やがて、先生が読み上げた。
「冬野さん」
少女が、小さく頷いた。
ただ、それだけだった。返事はなかった。「はい」という声も出なかった。ただ、教科書に目を落としたまま、わずかに頷いただけ。
マミは、驚かなかった。驚くような気がしていた場面で、驚けなかった。ああ、と思った。ただ、ああ、と。
先生は「冬野さん」の後、一瞬だけ間を置いた。返事を待っていたのかもしれない。でも、少しの間の後、普通に次の名前に進んだ。誰も、何も言わなかった。他の生徒たちも、何の反応もしなかった。
それが、この教室ではいつものことなのだとわかった。
「中島さん」「はい」
「西村さん」「はい」
出席確認は続いていた。マミは廊下の壁に肩を寄せて、息を整えていた。気づかれないうちに、その場を離れた。
自分のクラスに戻る道を歩きながら、マミは心の中で、ただ一つの名前を繰り返していた。
冬野さん。
下の名前は、わからなかった。でも、苗字だけで、十分だった。今は、十分だった。
マミはまだ、その子に声をかける勇気がなかった。
-----
木曜日、マミはまた三年三組の前を通った。今度は休み時間に。
教室の窓際の、後ろから二列目の席。冬野さんは今日も、そこに座っていた。机の上に広げているのは、数学の教科書だった。でもページをめくる気配はなかった。
他の生徒たちは休み時間を楽しんでいた。笑い声、席を立って友達のところに行く動き、廊下で追いかけっこをする男子たち。その中で、その席の周りだけが、別の時間が流れているように静かだった。
誰も、話しかけなかった。
無視されているのとは違うように、マミには見えた。もっと、古くからの了解のようなもの。「あの子には話しかけない」というルールが、いつの間にかこのクラスの中に出来上がっている。そういう静けさだった。
マミは教室の入り口から中を覗いていた。そのうちに、あの子の視線がふっと動いて、マミの方を向いた。
一瞬、目が合った。
細い肩が、小さく固まった。わずかに、本当にわずかに、上がった。呼吸が止まったのかもしれない。
マミは慌てて視線を外した。それから、小さく、まるで関係のない用事で通りかかっただけのように、教室の前を通り過ぎた。
あの子を怖がらせてはいけない、とマミは思った。
でも同時に、思った。
──今日の放課後、もしもう一度会えたら。今度は、声をかけよう。
-----
木曜日の放課後、マミは三年三組の前で、さりげなく生徒たちが帰っていくのを見ていた。友達同士で連れ立って帰る子、部活に向かう子、一人で足早に帰る子。色々な姿が過ぎていった。
冬野さんは、最後の方に一人で出てきた。
鞄を片手に、もう片方の手で制服の袖をきちんと手首まで下ろして、廊下を歩き始めた。目は床を見ていた。誰とも目を合わせないように、でもぶつからないように、視界の端だけで周りを把握しているような歩き方だった。
マミはその後を、少し距離を置いてついて歩いた。追いかける、というほどではなかった。帰る方向がたまたま同じ、という体で、自然に距離を縮めていった。
昇降口で、あの子は自分の靴に履き替えた。上履きを丁寧に揃えて、下駄箱にしまった。靴紐は結ばなかった。そもそも結ぶ紐のない、古いローファーだった。
校門を出て、商店街の方に向かう道。まだ明るい。午後の四時を過ぎたところで、二月の太陽はもうだいぶ傾いていたが、空はまだ青かった。
マミは、少しずつ距離を縮めた。十メートル、五メートル、三メートル。
そして、気づかれた。
その背中が立ち止まった。振り返らなかった。でも、後ろにいる誰かの存在を、はっきりと意識したのがわかった。肩の線が固くなった。
マミは静かに、その背中に声をかけた。
「冬野さん」
肩が、また固くなった。
「驚かせて、ごめんなさい。先週の夜の……公園で」
マミは最後まで言わなかった。あの子がその続きを知っていることは、反応の仕方でわかった。
あの子はゆっくりと振り返った。目は合わせなかった。マミの胸の前あたりを見ていた。前髪の下の黒い瞳が、マミの手の位置を確認した。マミは両手を、わざと自分の身体の脇に下ろしたまま、動かさないようにしていた。
マミは、制服のポケットに、ゆっくりと手を入れた。
シャープペンシルを取り出した。
「これ、あの時、落としていたから」
掌に載せて、差し出した。
あの子の目が、掌の上に落ちた。右手が、ゆっくりと動いた。指先だけで、シャープペンシルをつまんで取った。マミの掌には、触れなかった。
「覚えてる、かしら」
返事はなかった。でも、黒い瞳がもう一度、ほんの少しだけ動いた。マミの手から、マミの口元へ。それから、また手へ。覚えている、ということなのかもしれないとマミは思った。
「あの夜、ちゃんとお話もできなくて、気になっていたの」
マミは声を柔らかくしていた。できる限り、静かに、ゆっくりと。
「もしよかったら、今、少しだけ、時間あるかしら」
返事はなかった。
「私の家、この近くなの。お茶でも一杯、一緒にいかが?」
やはり返事はなかった。ただ、黒い瞳が、小さく動いた。
マミはその沈黙を、無理に解釈しようとしなかった。はっきり「いいえ」と言われているようには見えなかった。それだけで、マミには十分だった。
「無理に、じゃなくていいの」
前と同じ言葉を、マミは繰り返した。
「ただ、もし少しだけでも、あなたさえ嫌じゃなかったら」
視線が、地面に落ちた。
長い沈黙があった。
やがて、あの子は小さく頷いた。
本当に小さく、頷いたかどうかもわからないくらいに。でも、確かに頷いた。マミはそれを見逃さなかった。
-----
マミの家までの道を、二人は何も話さずに歩いた。
マミが前を、あの子が後ろを。三歩ほどの距離を保ったまま。マミは時々振り返って、ちゃんとついてきているかを確かめた。距離は常に同じだった。近づきも離れもしない、正確な三歩。
マンションの前に着いた時、あの子は一瞬、足を止めた。
建物を見上げていた。どこにでもある、普通のマンションだった。でも本人の目には、それが普通のマンションに映っていないのかもしれない、とマミは思った。この子にとって「人の家」というものが、どういう意味を持っているのか、マミには想像がつかなかった。
「こっち、上の階なの」
マミは静かに言った。
もう一度、小さく頷きが返ってきた。
-----
マミの部屋は、マンションの高層階にあった。広いリビングに、丸いガラステーブルとソファ。紅茶を淹れる時に使うワゴン。壁際には小さな本棚。それがマミのいつもの風景だった。
玄関のドアを開けて、マミが先に入った。
「どうぞ」
振り返ると、あの子は玄関の外で立ち止まっていた。
「いいのよ、入って」
マミはできるだけ柔らかく言った。ゆっくりと、一歩だけ、細い身体が玄関の中に入った。それから、自分の後ろのドアを、丁寧に閉めた。音がしないように、本当にそっと。
靴を脱ぐ時、両手を使った。片足ずつ、ローファーをそっと脱いで、両手で持って、揃えて、下駄箱のない玄関の隅に置いた。
ただ置いたのではなかった。
並べて置いた後、もう一度、左右の位置を微調整した。ほんの一センチ、右の靴の位置を動かして、完璧に揃えた。
マミはそれを見ていた。見ていて、何を見ているのかがわからなかった。ただ、几帳面な子なのだと思った。とても几帳面な子。
「こっちよ」
マミはリビングへの扉を開けた。また三歩の距離を保って、あの子はついてきた。
リビングに入ると、部屋の中をさっと見渡す目があった。見渡す、というのは正確ではないかもしれない。もっと素早い、何かを確認する目つきだった。部屋の四つの角、窓の位置、出入り口の数。そういうものを、一瞬で把握するような目の動きだった。
それから、壁に寄るようにして立った。部屋の中心には来なかった。
「座って、いいのよ」
マミはソファを指した。小さく首を横に振られた。
「じゃあ、こっちの椅子でいいかしら」
マミはガラステーブルの前の椅子を指した。あの子はそちらを見て、少しの間、考えていた。椅子の位置を見て、椅子から出入り口までの距離を測っているような目つきだった。
やがて、ゆっくりと椅子に近づいて、そっと腰を下ろした。
背もたれに身体を預けなかった。椅子の前半分にだけ座っていた。いつでも立ち上がれるように、という姿勢だった。
-----
マミはキッチンに入った。
少し前に焼いたケーキが、まだ残っていた。本当は、いつかの日のために焼いていたケーキだった。でも今日、このケーキを切り分けるのだ、と思った瞬間、マミの胸に小さな温かさが灯った。誰かに食べてもらえる、という感覚は、マミにとって久しぶりのものだった。
ストロベリーのショートケーキ。マミの得意な一品だった。
二切れ、皿に取り分ける。
それから、紅茶の準備を始めた。
茶葉を測る。
マミはいつも、茶葉を大きめの銀のスプーンで量っていた。一人分なら、すり切り一杯。今日は、二杯分だった。
二杯分の茶葉を、マミは慎重にポットに入れた。その動きが、いつもより少しだけ遅かった。慎重になりすぎて、動きが硬くなっていた。マミは自分で気づいて、小さく苦笑した。落ち着きなさい、と自分に言い聞かせた。私はいつも、ちゃんとお茶を淹れている。今日も普通にやればいいだけ。
お湯を沸かして、注ぐ。蒸らす時間を待つ。
その間、マミはリビングの方を気にしていた。冬野さんはどうしているだろうか。
そっとリビングを覗くと、椅子に座ったまま、両手を膝の上に置いて、じっとしていた。動かなかった。少しも動かなかった。その静けさが、また不思議な空気を作っていた。
紅茶が蒸れるまでの三分、マミは小さな声で話しかけた。キッチンから、リビングに向かって。
「今日はね、ストロベリーのケーキなの。苺の酸味と、生クリームの甘さが、私は好きなのよ。冬野さん、甘いもの、好きかしら」
返事はなかった。
「苦手なら、言ってね。無理に食べなくても、いいのよ」
返事はなかった。
マミは、自分の声だけが部屋の中に響いていることに気づいた。普段、マミが一人で紅茶を淹れる時にはない種類の静けさだった。普段の一人の静けさは、誰もいないから静か。今の静けさは、誰かがそこにいるのに静か。それは全く違う種類のものだった。
マミにはまだ、その違いが何かわからなかった。
-----
紅茶を注いで、ケーキと一緒にテーブルに運んだ。
「はい、どうぞ」
マミは自分の席に座って、微笑みかけた。
冬野さんは、目の前に置かれた紅茶のカップと、ケーキの皿を、じっと見ていた。何を見ているのかはわからなかった。湯気かもしれないし、ケーキの上の苺かもしれないし、皿の柄かもしれなかった。
「どうぞ、遠慮しないで」
マミは言った。
ゆっくりと、右手がフォークに伸びた。その動きは、最初の一歩を確かめるように慎重だった。フォークを持つ。持ち方は普通だった。
ケーキの端を、少しだけ切り取った。ほんの小さな一口分。それを口に運んだ。
噛んで、飲み込んだ。
それで、動きが止まった。
マミは、その様子を見ていた。
「……どう、かしら」
マミは尋ねた。
返事はなかった。ただ、フォークを皿の上にそっと戻された。もう、食べようとしなかった。
マミの胸の中に、小さな落胆が広がった。
口に合わなかったのだろうか。ケーキが甘すぎたのか、苺が酸っぱすぎたのか。でもその表情は、「口に合わない」という種類のものには見えなかった。
「紅茶、まだ熱いかしら」
マミは話題を変えた。
今度は、紅茶のカップに目が向けられた。カップを両手で包んで、持ち上げた。両手で包む動きに、少し戸惑いがあった。普段、熱い紅茶を飲む習慣がないのかもしれないとマミは思った。
一口、飲んだ。
それで、また、動きが止まった。
カップを両手で包んだまま、ゆっくりと、テーブルに戻した。カップを置いた後も、両手はしばらくカップを包んだままだった。指先が、だんだんと温められていく様子がマミにはわかった。
何も、言葉はなかった。
-----
マミは、自分ばかりが話している状況に、少しずつ気づき始めていた。
「冬野さんは、学校、どう?」
返事はなかった。
「クラスには、仲のいい子はいる?」
返事はなかった。
「何か、好きな科目はあるかしら」
返事はなかった。
マミの質問は、どれも、返ってこない空洞に落ちていった。黙っている、というより、声を出すという発想が、ここにはなかった。
マミは、質問を変えてみた。
「私、お菓子を作るのが好きなの。ケーキだけじゃなくて、クッキーも、マフィンも」
返事を期待しない形に変えてみた。
「今度はクッキーを焼いてみようかしら。ナッツを入れるか、チョコレートを入れるか、迷うわね」
視線はマミの顔には向けられなかった。でも、話を聞いているのはわかった。話を聞きながら、紅茶のカップに触れていた。両手を、カップから離さなかった。温かさを確かめているようだった。
マミはその様子を見て、ふと思った。
──この子は、温かいものに触れることが少ないのかもしれない。
その思考が頭をよぎった時、マミは自分の胸の中で、何かが小さく軋むのを感じた。
でも、口には出さなかった。
代わりに、マミはお茶の話を続けた。紅茶の種類の話、茶葉を選ぶ時のこと、季節によって飲みたくなる香りが変わること。向かいの席は聞いていた。マミの声が止まると、静かな沈黙が訪れた。マミはまた話し始めた。沈黙が怖かった。
それを埋めるように話していた自分に、マミはまだ気づいていなかった。
-----
三十分ほどが経った頃、冬野さんはテーブルの上の時計を、ちらりと見た。
マミはそれに気づいた。
「帰らなくちゃ、かしら」
小さく、頷きが返ってきた。
マミの胸に、少しだけ、寂しさが広がった。でもマミは引き止めなかった。
「お茶、ありがとう。飲んでくれて」
マミは自分の方からそう言った。普通の会話なら、招かれた側が「ありがとう」と言うはずだった。でもこの子にそれを求めるのは、きっと違うと思った。マミが先に言えば、何も言わなくていい。
ゆっくりと、椅子から立ち上がる動きがあった。
その時だった。
一瞬だけ、自分が使った食器に目が落とされた。紅茶の残っているカップ。ほとんど手をつけていないケーキの皿。フォーク。
それから、静かに、カップの位置を少しだけずらした。ほんの数ミリ。最初に置かれた位置に、戻した。皿も同じ。フォークも、皿の縁に平行になるように、元の角度に戻した。
そうやって、テーブルの上を、マミがケーキと紅茶を運んできた時の状態に、戻そうとしていた。
完璧には戻せなかった。ケーキは一口分、欠けていた。紅茶も少し減っていた。でも、それ以外は、全部、元の位置に戻っていた。
マミはそれを見ていた。
やっぱり几帳面な子なのね、と思った。
それ以上の意味を、マミはまだ、その動きから読み取ることができなかった。
-----
玄関で、冬野さんは靴を履いた。
ローファーに足を入れて、一度、立ち上がって、そして、もう一度しゃがんだ。しゃがんで、ローファーのかかとの部分を、指でそっと整えた。履く時に潰れたかかとを、元の形に戻している。
マミはそれも、几帳面な癖、と思った。
「気をつけて、帰ってね」
マミは言った。
玄関のドアに手を伸ばしかけて、一瞬、その動きが止まった。
止めて、マミの方を見た。目は合わせなかった。マミの胸の前あたりを見ていた。
何かを、言いかけたように見えた。
口元がわずかに動いた。何か音を発しかけて、途中で止まった。
それだけだった。
口は閉じられた。ドアが開いて、細い背中が外に出ていった。ドアが閉まった。
マミはその場に立ち尽くしていた。
あの子は、何か言おうとした。それは確かだった。でも、言えなかった。何を言おうとしたのかは、わからなかった。
「ありがとう」だったのかもしれない。
「さようなら」だったのかもしれない。
あるいは、もっと別の何か。
ただ、言えなかった、ということだけが、確かだった。
-----
リビングに戻ると、テーブルの上の食器が、あの子が置き直したままの位置で残っていた。
マミはソファに座って、そのテーブルを見ていた。
ケーキは、ほんの一口分だけ欠けていた。残りはほとんど手つかず。紅茶も、半分以上残っていた。冷めかけているだろう。
「几帳面な子ね」
マミは、誰にともなく呟いた。
何か、胸の中に残るものがあった。でも、それが何なのかはわからなかった。戸惑いとも、悲しみとも、違うもの。マミがこれまで経験したことのない種類の感情。
今日は、失敗したのだろうか、成功したのだろうか。わからない。
ただ、一つだけわかっていたことがあった。あの子は、マミの家に来てくれた。一人で、自分の足で、マミのソファのある部屋まで来てくれた。そして、マミが淹れた紅茶を一口飲み、マミが焼いたケーキを一口食べて、帰った。
それは、マミにとって、初めての出来事だった。
誰かが、マミの家で紅茶を飲んだ。
マミはテーブルの上の、あの子が使ったカップを見ていた。カップの縁に、薄く口紅のような跡はついていない。口紅はつけていなかった。ただ、紅茶の色が、カップの内側に薄く残っているだけだった。
マミはカップに手を伸ばして、そっと持ち上げた。
まだ、温かかった。
両手で包むと、その温かさが、マミの指先に広がった。さっきまで、同じように両手で包まれていた温かさ。
マミは目を閉じた。
今日の出来事を、一つ一つ思い返していた。玄関で靴を揃えた時のこと。ソファに座らなかったこと。椅子の前半分にだけ座ったこと。一口だけ食べたケーキ。カップを両手で包んで温めたこと。帰り際に何かを言いかけて、言えなかったこと。
──また、来てくれるかしら。
マミは声に出さずに、そう呟いた。
あの子がまた来てくれるかどうか。それはわからないけれど、ただ、来てくれたらいい、と思った。それだけは、はっきりと思った。
マミはそう思って、カップを置いた。
片付けは、明日でもいいかもしれない。今日はこのまま、この部屋を、少しだけ今日のままにしておきたい気がした。
ガラステーブルの上の、一口だけ欠けたケーキ。半分残った紅茶。それと、あの子が元の位置に戻していった、食器の配置。
マミはそれを、もう少し見ていたかった。
次は、もっと上手にできる気がした。もっと話しかけ方を工夫して、もっと静かに、もっと丁寧に。
カップはまだ、少しだけ温かかった。