紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF) 作:LongLong
第20話「拒絶」
放課後の教室に、さやかは一人残っていた。帰り支度を終えて、鞄を肩にかけて、立ち上がろうとした時、後ろから仁美の声がした。
「さやかさん」
さやかは振り返った。仁美が、いつもより少しだけ真剣な顔で立っていた。
「お話が、ございます」
さやかは鞄を机に置き直した。
仁美は、しばらく黙っていた。言葉を選んでいる顔だった。さやかは待った。教室には二人以外いなかった。窓の外で、運動部の掛け声が聞こえていた。
やがて仁美が口を開いた。
「わたくし、明日、上条さんに、お気持ちをお伝えしようと思います」
さやかは、一瞬、何を言われたのか処理できなかった。仁美の声は静かで、穏やかで、いつも通りの仁美の声だった。その声で、今、何が告げられたのか。
頭が追いついた。仁美が、恭介のことを。
「先に、さやかさんにお伝えしたかったのです」
仁美がそう言った。さやかの顔を、まっすぐに見ていた。
さやかは、何も言えなかった。
仁美が、続けた。
「さやかさんには、先にお気持ちをお伝えになる権利があります」
その言葉が、さやかの胸の中で、ゆっくり形を持った。
「わたくしは、一日、お待ちします」
仁美は静かに言った。
「明日の放課後まで。もし、さやかさんがご自分のお気持ちを上条さんにお伝えになるのでしたら、わたくしは、身を引きます」
さやかは、仁美の顔を見ていた。仁美は、本気で言っていた。冗談でもなければ、嫌味でもなかった。仁美は、順番を譲ろうとしていた。礼儀として。
「それが、筋だと思いますから」
仁美は、そう結んだ。
さやかは、笑顔を作った。身体が勝手に作った。何年も友達をやっていれば、こういう時にどう反応すればいいか、筋肉が覚えている。
「ああ、そっか。仁美、恭介のこと好きなんだ」
「はい」
「……ううん、いいよ。仁美、言いなよ」
自分の声が、自分のものじゃないみたいに聞こえた。遠くから聞こえていた。
「応援するよ」
少し驚いた顔をした後、仁美は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
仁美は顔を上げて、もう一度さやかを見て、それから教室を出ていった。靴の音が廊下を遠ざかっていった。
さやかは、教室に一人残された。
笑顔が消えた。
身体から力が抜けた。机に手をついて、支えた。指先が震えていた。
仁美は、さやかの気持ちを察していた。ずっと前から。だから、今日、先にさやかに伝えに来た。仁美なりの礼儀だった。仁美は意地悪じゃない。仁美は、ちゃんと順番を譲ってから、戦いに行く。
「先にお気持ちをお伝えになる権利があります」
仁美の言葉が、頭の中で繰り返された。
権利。
さやかにはもう、その権利を行使できる身体がなかった。
恭介の前に立って、好きですと言える身体ではなかった。魂のない身体で、恭介に気持ちを伝えることは、できない。恭介の手を握ることもできない。笑いかけることも、できない。できる、と思い込んで差し出した手は、きっと、もう、誰にも届かない。
仁美は、さやかに譲った。
さやかは、それを受け取れなかった。
明日、仁美は告白する。さやかが動けなかったから。動けないのではなくて、動ける身体がもうなかったから。
仁美を恨めなかった。仁美はちゃんと礼儀を尽くした。
恨めるのは、契約した自分だけだった。
さやかは、左手を持ち上げた。
中指に、青い石のついた指輪があった。普段から着けている指輪。誰にも見られても怪しまれない形。これが、さやかの魂の入れ物だった。
指先で触れた。
指輪が、さやかの意思に応じて、形を変えた。青い光が一瞬だけ手の中で広がって、指輪が卵形の宝石になった。掌に乗る大きさの、青い卵。
ソウルジェム。
さやかは、それを窓からの西日にかざした。光が宝石を通って、机の上に青い影を落とした。
濁りが、見えた。
昨日、マミさんの家を出た時に見た濁りよりも、深くなっていた。一晩で、ここまで進んでいた。仁美の声を聞いた瞬間、また加速した気がした。
宝石の中に、小さな黒い霧のようなものが、浮かんでいた。昨日の分は浄化した。今日、生まれたものだった。
さやかは、息を止めていた。
気づいて、息を吐いた。白く曇った息が、宝石の表面に少しだけかかって、消えた。
ソウルジェムに、もう一度、意識を向けた。
卵形が、指輪に戻った。青い光が手の中で収束した。元の、普通の指輪。中指に着けた時と同じ形。
さやかは、その指輪を見た。
この中に、今見た濁りが、ある。
見えないだけで、ある。
さやかは、左手を下ろした。指輪は、いつも通りの位置にあった。誰にも見えなかった。誰にも気づかれない色だった。
恭介のために契約した。
その願いは叶った。恭介の手は治った。恭介はヴァイオリンが弾けるようになった。
そして今、仁美は恭介に告白する。
何のために契約したのか、わからなくなっていた。
-----
校舎を出た。
いつもの通学路を歩いた。下校する生徒たちが、さやかの横を通り過ぎていった。誰かがさやかの名前を呼んだ気がしたが、返事をしなかった。
足が、自分のものじゃないみたいだった。動いている。ただ、動かしているのは自分じゃない。身体だけが勝手に、いつもの道を歩いている。
恭介のことを思い出した。
病室のベッドで、ヴァイオリンのCDを一緒に聞いた日。恭介はベッドに座って、膝の上に動かない右手を置いていた。左手でCDのケースを持っていた。指がケースに触れた時、ケースが小さく音を立てた。
「もう、弾けないんだ」
恭介が言った。声は低かった。泣いていなかった。ただ、事実を言っていた。
さやかは何も言えなかった。お見舞いの花の匂いがした。消毒液の匂いがした。窓の外で、遠くからサイレンが聞こえていた。
その夜、キュゥべえが現れた。白い毛並みの、赤い目の生き物。
「君の願いは?」
さやかは、すぐに答えた。迷わなかった。
「恭介の、手を、治して」
契約が、成立した。
翌日、恭介の手は動いた。指が一本ずつ、動いた。恭介は自分の手を見ていた。それから、さやかの顔を見て、笑った。
あの笑顔を、さやかはまだ覚えている。
その時、さやかは嬉しかった。ただ、嬉しかった。それだけだった。契約の代償も、ソウルジェムの意味も、何も考えていなかった。恭介の笑顔を見て、満たされた。
「ありがとう」は、言われなかった。恭介は、自分の手が治ったのが誰のおかげか、知らないから。
それでよかった。さやかも、伝えるつもりはなかった。願いを叶えるために契約した。叶えた。それで、さやかの役目は、もう終わっていたのだ。
歩きながら、さやかは理解した。
今まで、気づかないふりをしていた。
恭介の笑顔を見た瞬間に、さやかの役目は終わっていた。その先に、自分の居場所は、もうなかった。
ただ、あの時はまだ、恭介の隣に立てた。お見舞いに行って、音楽の話をして、笑い合えた。友達として。幼馴染として。
もしかしたら、恋人として。
今は、違う。
昨日、暁美ほむらがソウルジェムの真実を告げた。自分の身体に、魂はない。魂はソウルジェムの中にある。身体はただの入れ物。
仁美は、恭介の隣に立てる。人間の身体で、人間の気持ちで、普通の女の子として、恭介の隣に立てる。
さやかには、もう、それができない。
仁美が恭介を奪うわけじゃない。仁美は、順番を譲ってくれた。ちゃんと一日、さやかに譲ってくれた。
譲られても、さやかは受け取れなかった。
受け取れる身体が、もう、なかった。
ただ、自分が、そこに立っていられる身体ではなくなった。
それだけのことだった。
それだけのことなのに、胸の奥で、重かった。
歩き続けた。
家の方向に向かっていたはずだったが、途中で道を逸れた。家に帰っても、親の顔を見られる気がしなかった。いつも通りに「ただいま」と言って、いつも通りに夕食を食べて、いつも通りにお風呂に入って、いつも通りに眠る。できる気がしなかった。
制服のまま、街を歩いた。
生ぬるい夜の空気が、頬に当たった。自分の足音が、アスファルトに響いた。一歩、一歩。
遠くから聞こえるみたいだった。自分の足音なのに、誰か別の人の足音を聞いているみたいだった。
歩いているのは、身体だけ。自分は、どこにいるのか。
手を、顔の前に持ち上げてみた。左手。青い石が、街灯の光を受けて、小さく光った。
指を動かしてみた。
動いた。
動くのに、これは自分の手なのか、よくわからなかった。中指の中の自分が、指の外の手を、遠隔操作しているような感覚があった。
歩き続けた。
-----
気がつくと、冬野さんの家の前にいた。
表札が見えた。「冬野」と書かれた古い木の表札。窓には明かりがついていなかった。
冬野さんは、もうあの家にいない。マミさんの家にいる。さやかはそれを知っていた。
冬野さんは、どうなったのだろう。父親のことがあって、マミさんの家に住むようになった。それは、杏子が運んだ夜から、少しずつ変わった。変わったはずだった。
さやかは、表札を見ながら、少しだけ足を止めた。
廊下で冬野さんに声をかけた日のことを、思い出した。
放課後の廊下だった。冬野さんは、壁際を歩いていた。さやかは声をかけた。「あたし、美樹さやかです」「何かあったら、言ってください」。
さやかは手を挙げて、自分を指した。その手の動きに、冬野さんの視線が吸い寄せられた。顔は動かないのに、目だけが、さやかの手を追った。
気づいた。動物が、危険を目で追うような目の動き方。
気づいたのに、止まらなかった。
さやかは手を伸ばして、冬野さんの肩に、軽く触れた。励ますつもりの、軽いタッチだった。
冬野さんの身体が、跳ねた。肩がさやかの手の下でびくりと震えて、壁に背中をぶつけるように後ろに下がった。呼吸が止まった。前髪の下から、見開かれた瞳孔が一瞬見えた。顔が青ざめていた。
さやかは慌てて手を離した。両手を挙げて、触れていないことを示そうとした。その手の動きが、また冬野さんの目を追わせた。
「ご、ごめん、ごめんなさい、本当に」
さやかは両手を後ろに回して、下がった。冬野さんは壁に背中をつけたまま、動けなかった。呼吸が、細切れで浅く、少しずつ戻り始めていた。
あの時、さやかは思った。
「あたしは正義の味方なのに」
助けたかった。困っているなら、力になりたかった。正義の味方になりたくて魔法少女になったのだから、困っている人を助けるのは、当然のはずだった。
目の動き方で、気づけた。気づいていたのに、手を伸ばした。止まらなかった。そして、触れた。あの子の呼吸を止めた。
さやかの「助けたい」は、あの子にとって「危険」の形をしていた。
助けるつもりで、怖がらせた。
正義の味方のはずが、あの子に傷をつけた。
-----
さやかは歩き出した。足が、マミさんのマンションの方に向かっていた。
行こうとしていたわけではなかった。ただ、歩いていたら、その方向に向かっていた。
マンションの前で立ち止まった。
見上げた。
マミさんの家の窓に、明かりがついていた。あの中に、冬野さんがいる。マミさんもいる。昨日、あそこで、みんながソウルジェムの真実を聞いた。
さやかは、明かりを見ていた。
恭介の手は、治した。それでも、恭介の隣には、もう立てない。
冬野さんは、結界から運び出した。それだけだった。あの日、手を伸ばして、怖がらせた。それから後、何もできていない。
誰のためにも、何もできていなかった。
願いは叶えた。それだけは、事実だった。ただ、その願いは、自分を恭介から遠ざけた。正義の味方にもなれなかった。
魔法少女になった意味が、どこにもなかった。
さやかの身体が震えた。
魔法少女であることが、初めて怖くなった。
今まで、怖かったのは魔女だった。結界だった。戦いだった。それは、覚悟していた。
でも今、怖いのは自分の身体だった。魂を差し出して手に入れた力は、誰にも届かなかった。届かない力のために、自分の魂を差し出した。
取り返しがつかない。
明日、仁美は恭介に告白する。
自分は、見ていることしかできない。
足が動かなくなった。
マンションの下で、立ち止まったまま、動けなくなった。
それでも、あの明かりの下に、あの子はいる。
冬野さんは、まだあそこにいる。あたしが何もできなかった子が、それでも、今もあそこで生きている。
あたしが何もできなかったことは、変わらない。
あの子がまだそこにいることも、変わらない。
さやかは、窓を見上げていた。目の奥が熱くなった。泣きたいのか、泣きたくないのか、自分でもわからなかった。
-----
後ろから、足音がした。
走ってくる足音。
「さやかちゃん」
さやかは振り返りたくなかった。でも、振り返った。
まどかが、息を切らしていた。走ってきたのだろう。前髪が額に張り付いていた。頬が赤かった。
「さやかちゃん、大丈夫?」
さやかは、答えられなかった。大丈夫、と言う声が出なかった。大丈夫じゃない、と言う声も、出なかった。
まどかが、一歩近づいた。
「昨日の、冬野さんが言ったこと」
まどかの声は震えていた。ここまで走ってきて、息が上がっている。それだけじゃなく、何かを言おうとして、声が震えていた。
「さやかちゃんの気持ちは、ちゃんと届いてたよ」
さやかは、笑った。笑おうとしたのが、笑いになったのかどうか、自分でもわからなかった。顔の筋肉が勝手に動いた。
「そんなの、関係ないじゃん」
声が、低く出た。
「それとこれとは違う」
まどかが口を開きかけた。さやかは遮った。
「あたしは、誰にも何もできなかった。冬野さんだって。あたしじゃない」
「さやかちゃん」
「恭介の隣に、もう、いられない」
声が震えた。
「明日、仁美が告白する。あたしは、見てるしかない。魂もない身体で、見てるしかない。……そんな身体で、冬野さんに、届いてたって言われても」
さやかは、言葉を切った。
「ゾンビみたいな身体で。そんなの、何の意味もないよ」
まどかは、黙っていた。
言うべき言葉を探している顔だった。見つからない顔だった。
さやかは、まどかを見なかった。見たら、崩れる気がした。
救われたくなかった。
救われたら、全部が救われないといけなくなる。恭介のことも、魂を抜かれたことも、冬野さんを怖がらせたことも、仁美に対して何も言えなかったことも、全部。
それは無理だった。
一つも、救われていいことがなかった。一つだけ救われることは、できなかった。だから、全部、拒絶するしかなかった。
「……帰って、まどか」
さやかは言った。
「あたし、一人でいたい」
まどかは、動かなかった。
それから、手を伸ばして、さやかの腕を掴んだ。
「一緒に来て」
まどかの手は、冷たかった。走ってきたのに、冷たかった。指の力は、思ったより強かった。
さやかは、振り払おうとして、振り払えなかった。力が入らなかった。抵抗するだけの力が、身体に残っていなかった。
まどかが、さやかの腕を引いた。マンションの入口の方へ。
エレベーターに乗った。まどかがボタンを押した。扉が閉まった。
上昇が始まった。
-----
まどかは、さやかの腕を掴んだまま、エレベーターの階数表示を見ていた。
数字が、一つずつ上がっていく。
さやかちゃんは、まどかの横で、俯いていた。手を振り払おうとしない。振り払うだけの力が、たぶんない。それが、さやかちゃんの状態を一番よく表していた。普段のさやかちゃんなら、「離してよ」と言う。今、さやかちゃんは何も言わない。
エレベーターが止まった。扉が開いた。
まどかは、さやかちゃんの腕を引いて、廊下に出た。
マミさんの家の前で、足を止めた。
まどかは、深く息を吸った。ここで自分が動けなくなったら、さやかちゃんをここまで連れてきた意味がなくなる。
インターホンに手を伸ばした。
押した。
少しして、ドアが開いた。
マミさんが、顔を出した。
マミさんはまどかを見て、それから、さやかちゃんを見た。まどかの手がさやかちゃんの腕を掴んでいるのを見た。たぶん、一瞬で、何があったのか、半分くらい察したと思う。
「……入って、いいですか」
まどかは、声を絞り出した。
マミさんは、何も訊かなかった。ドアを大きく開けて、二人を通した。
玄関に入った。
さやかちゃんの靴が、斜めに脱がれた。いつもの、さやかちゃんの脱ぎ方だった。まどかはそれを見て、少しだけ安心した。さやかちゃんがまだ、さやかちゃんだった。
リビングに入った。
マミさんの家のリビングは、いつもの配置だった。ソファがあって、ガラステーブルがあって、壁際に棚があった。
ソファの端に、杏子ちゃんが座っていた。
テーブルの向こうの椅子に、冬野さんが座っていた。椅子の前半分に。膝の上に手を置いて。いつもの姿勢で。
昨日と、同じ光景だった。
昨日と違うのは、ほむらちゃんがいないこと。そして、さやかちゃんが、立っていられないこと。
さやかちゃんがソファに崩れ落ちた。
まどかの手を振り払ったのではなく、身体が支えられなかった。膝から力が抜けて、ソファに倒れ込むように座った。
まどかは隣に座った。さやかちゃんの背中に手を当てた。さやかちゃんの身体は冷たかった。制服のブラウス越しに、肩甲骨の骨の形がわかった。瘦せたわけじゃないと思う。ただ、さやかちゃんの身体から、温度が抜けていた。
「恭介のために、契約したのに……」
さやかちゃんの声が、震えていた。
「あたし、もう、隣にいられない……」
さやかちゃんは、それから、嗚咽した。声を抑えようとして、抑えきれなかった。肩が震えた。まどかはさやかちゃんの背中に手を当てたまま、何も言えなかった。何を言えばいいか、わからなかった。
マミさんは、立ったまま、さやかちゃんを見ていた。表情が動かなかった。何かを考えているような、何も考えられないような、そういう顔だった。
杏子ちゃんは、ソファの端で、黙っていた。ポッキーの箱をポケットに戻した。
冬野さんは、椅子に座ったまま、動かなかった。
時間が、過ぎた。
さやかちゃんの嗚咽が、少しずつ静かになっていった。嗚咽が止まったわけではなく、声を出す力がなくなっていった、というほうが近かった。
誰も、何も言わなかった。
マミさんが、キッチンに向かおうとした。紅茶を淹れに行こうとしたのだと思う。いつものマミさんの対応。
途中で、マミさんは足を止めた。
立ち止まったまま、リビングに戻ってきた。キッチンには行かなかった。紅茶は淹れなかった。今、それじゃないと、マミさんは判断したのだと思う。
マミさんは、テーブルの向こうの椅子に、静かに座った。
-----
杏子ちゃんが、口を開いた。
「……さやか」
杏子ちゃんの声は、低かった。いつもの乱暴な感じはなかった。ただ、静かだった。
さやかちゃんが、顔を少し上げた。
「聞きたかったら、聞きな」
杏子ちゃんが言った。
「あたしの話」
リビングが、静かになった。
杏子ちゃんが何を話そうとしているのか、まどかにはわからなかった。さやかちゃんにも、わからなかったと思う。
杏子ちゃんは、視線を下に向けて、話し始めた。
「あたしの父親、神父だったんだ。教会の」
杏子ちゃんの声は、感情を抑えていた。怒ってもいないし、悲しんでもいない。ただ、事実を並べていた。
「ある時、父親が、教義を変えようとした。世の中のために、もっと開かれた教会にしようって。あたしは、子供だったから、詳しいことはわからなかった。ただ、父親がすごく真剣だったのは、覚えてる」
杏子ちゃんは、言葉を切った。
「……けれど、誰も聞かなかった。信徒が離れていった。教会に人が来なくなった。家は、だんだん貧しくなった。母親は病気になった。妹は、お腹を空かせて泣いてた」
杏子ちゃんの指が、膝の上で動いた。握って、開いた。
「父親は、だんだん、おかしくなっていった。毎晩、一人で祈ってた。誰も聞いてくれない説教を、誰もいない教会で、一人で続けてた」
杏子ちゃんは、一度、深く息を吐いた。
「そういう時に、あたしの前に、キュゥべえが現れた」
背筋が、冷たくなった。
「あたしは、願った」
杏子ちゃんが、まっすぐに顔を上げた。目がさやかちゃんの方に向いていた。
「『みんなが、父親の話を聞いてくれるように』ってさ」
杏子ちゃんの声は、揺れなかった。
「願いは、叶った」
「翌週の日曜日、教会に、たくさんの人が来た。最初は、何人か。それから、どんどん増えた。父親の説教を、みんなが真剣に聞いた。父親は、嬉しそうだった。母親も妹も、教会が賑わうのを見て、泣いて喜んでた」
杏子ちゃんの目は、どこか遠くを見ていた。
「家計も、少しずつ良くなった。母親の薬も買えるようになった。妹にご飯を食べさせられるようになった」
杏子ちゃんは、そこで息を止めた。
「救われたと思った。あたしの願いで、家族が救われたって」
「ただ、父親は、気づいた」
杏子ちゃんの声が、少しだけ、沈んだ。
「自分の説教が、いきなり聞かれるようになった理由に」
さやかちゃんが、顔を上げて、杏子ちゃんを見ていた。さやかちゃんの目から、涙が落ちていた。さやかちゃん自身は、たぶん、気づいていなかった。
「父親は、あたしを見て言った。『これは、悪魔の力だ』って。『お前は、悪魔を宿した娘だ』って」
まどかは、息が浅くなっていた。杏子ちゃんの話を、聞きたくないのと、聞かなければならないのが、同時にあった。
「ある夜、父親は、母親と妹を殺した」
杏子ちゃんの声は、平坦だった。
「そして、自分も死んだ」
リビングが、静かになった。
「あたしだけが、取り残された」
杏子ちゃんは、話し終わった。
涙はなかった。叫びもなかった。杏子ちゃんは、ただ、事実を最後まで並べきった。
リビングに、音がなかった。
さやかちゃんが、泣いていた。声を出さずに、涙だけが落ちていた。自分のためなのか、杏子ちゃんのためなのか、わからなかった。たぶん、どちらでもあった。
まどかは、震えていた。
杏子ちゃんの話が、まどかの中で、何かを壊していた。
まどかは、ずっと、冬野さんを助けたいと思っていた。魔法少女になって、冬野さんを助けられる力を手に入れたいと思っていた。キュゥべえがまどかに近づいてくるたびに、そう思っていた。
でも今、杏子ちゃんの話を聞いて、まどかの中のその気持ちが、形を失っていった。
冬野さんを助けるために魔法少女になりたい、は、「他人のために願う」と同じだった。
杏子ちゃんの願いと、同じ形をしていた。
杏子ちゃんが、さやかちゃんを見た。
「あんたの気持ちは、わかる」
杏子ちゃんの声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
「あたしも、他人のために願った。同じだよ」
さやかちゃんは、答えなかった。涙が、頬を伝っていた。
杏子ちゃんは、視線をまどかの方に向けた。
まどかは、身体が固まった。
「……あんたは」
杏子ちゃんが、ゆっくり言った。
「絶対に、契約するな」
まどかの心臓が、大きく打った。
「自分のためじゃない願いは、必ず壊れる」
まどかは、何か言おうとした。口が動いた。声は出なかった。
冬野さんを助けたい、と言おうとした。言えなかった。その言葉を、今、杏子ちゃんの前で言うわけにいかなかった。
まどかの身体が、震えていた。
契約への一歩が、ここで、止まった。
杏子ちゃんが、もう一度、さやかちゃんの方に視線を戻した。
さやかちゃんは、ソファに身体を預けたまま、泣いていた。声を出す力はもうなかった。涙だけが、頬を伝って、ソファのクッションに落ちていた。
杏子ちゃんの口が、小さく動いた。
杏子ちゃんの声は、さっきよりもっと静かだった。
「さやか。あんたは独りじゃないだろ」
さやかちゃんに言ったのか、自分に言い聞かせたのか、わからなかった。杏子ちゃんの目は、さやかちゃんの方に向いていたけれど、その奥で、杏子ちゃん自身の過去を見ているようにも見えた。
「まどかもいる。マミもいる。暁美ほむらもいる。……あたしもいる」
杏子ちゃんは、そこで一度言葉を切った。
「だから」
その先を、杏子ちゃんは言わなかった。
言わないまま、視線を窓の方に向けた。
さやかちゃんは、答えなかった。答える力もなかった。ただ、ソファの上で、さやかちゃんの指が、少しだけ動いた。まどかの手の近くで、何かを掴もうとするような動き。
まどかは、その指に、自分の指を近づけた。触れなかった。近くに置いた。さやかちゃんが、掴みたくなったら、掴める場所に。
マミさんが、静かに、杏子ちゃんを見ていた。
何も言わなかった。杏子ちゃんの話を、マミさんは、全部知っていたのかもしれない。初めて聞いたのかもしれない。どちらなのか、まどかにはわからなかった。ただ、マミさんの目が、少し赤かった。
杏子ちゃんは、マミさんと視線を合わせなかった。
さやかちゃんが、ソファに倒れ込むように身体を預けた。力が抜けた身体が、クッションに沈んだ。声を出す力は、もうなかった。
冬野さんは、椅子に座ったまま、動かなかった。
リビングに、時計の秒針の音だけが聞こえていた。
時間が、過ぎた。
どれくらい経ったのか、わからなかった。
マミさんが、立ち上がった。キッチンに向かって、今度こそ、紅茶を淹れ始めた。やかんの音が聞こえた。棚を開ける音が聞こえた。
その音を聞きながら、まどかは、自分の中で何かが決まるのを感じていた。
契約はしない。
杏子ちゃんが言った通りに。冬野さんを助けたいという気持ちはある。その気持ちで契約したら、壊れる。
冬野さんのことは、まどかが魔法少女にならなくても、マミさんが、杏子ちゃんが、さやかちゃんが、ほむらちゃんが、見てくれている。まどかは、魔法少女にならなくても、冬野さんのために、できることがあるかもしれない。
ないかもしれない。
でも、契約はしない。
そして、もう一つ、決まった。
さやかちゃんの傍にいる。
今は、さやかちゃんが一番、支えを必要としていた。明日、仁美ちゃんが上条くんに告白する。さやかちゃんは、それを一人で受け止められない。
まどかは、さやかちゃんの隣に座っていた。さやかちゃんの背中に、さっきから手を当てたままだった。
さやかちゃんの背中の震えが、少しだけ、収まっていた。収まったのではなく、震える力もなくなっていた。
ただ、身体の温度が、さっきよりほんの少しだけ戻っていた気がした。まどかの手のひらが、さやかちゃんの体温を感じていた。
まどかは、手を離さなかった。
杏子ちゃんに、視線を送った。
杏子ちゃんは、こちらを見ていなかった。窓の方を見ていた。自分の話を終えた後の顔で、何を考えているのか、まどかにはわからなかった。
まどかは、小さく、言った。
「……ありがとう」
杏子ちゃんには、聞こえたはずだった。
杏子ちゃんは、答えなかった。
窓の外を見たまま、小さく、肩をすくめた。それだけだった。
マミさんが、紅茶をトレイに乗せて戻ってきた。五人分のカップが並んでいた。冬野さんの分もあった。
マミさんは、一つずつ、全員の前にカップを置いていった。
さやかちゃんの前にも、紅茶が置かれた。さやかちゃんは、まだ手を伸ばせなかった。まどかは、自分のカップを見つめていた。
杏子ちゃんが、自分のカップを手に取って、一口飲んだ。
冬野さんの指が、わずかに動いた。
マミさんは、それを見て、視線を逸らした。
リビングに、紅茶の湯気が、静かに立ち上った。
窓の外は、夜だった。
誰も、泣いていなかった。さやかちゃんの涙は、頬の上で、もう乾きかけていた。
明日、仁美ちゃんが上条くんに告白する。
それは、止められない。
さやかちゃんが魂のない身体で明日を迎えることも、止められない。
それでも、まどかは、さやかちゃんの隣にいる。
冬野さんも、マミさんの家にいる。
杏子ちゃんも、このソファに座っている。
それだけのことが、今夜、このリビングで、積み上げられていた。