紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF)   作:LongLong

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第22話「出撃前夜」

第22話「出撃前夜」

 

朝、マミが目覚めた時、空気が、わずかに重かった。

 

ベッドから起き上がって、カーテンを開けた。空はいつも通りに見えた。風の向きが少しおかしい気もしたけれど、気のせいかもしれなかった。

 

マミはキッチンに立って、紅茶を淹れた。二人分。自分のカップと、冬野さん用のカップ。湯気が立ち上るのを、しばらく見ていた。

 

冬野さんは、いつも通りの時間にリビングに出てきた。椅子の前半分に座って、マミが出したトーストを小さく噛んだ。

 

いつも通りの朝だった。

 

ただ、マミの指先に、わずかな冷たさが残っていた。朝の空気のせいかもしれなかった。

 

-----

 

昼過ぎ、マミのスマホが鳴った。

 

画面に、暁美さんの名前があった。

 

マミは少し驚いた。暁美さんから電話がかかってくるのは、珍しかった。

 

「はい、巴です」

 

「今夜、あなたの家に行きたい」

 

暁美さんの声は、低かった。

 

「全員、集めて欲しい」

 

「……暁美さん、何が」

 

「電話では言えない。直接、話す」

 

それだけで、電話が切れた。

 

マミは、キッチンに立ち尽くした。

 

朝、感じた空気の重さの違和感が、戻ってきていた。

 

気のせいじゃなかった。

 

何か、大きなものが、近づいている。

 

マミは、美樹さんに電話をかけた。鹿目さんに電話をかけた。二人とも、夜、マミの家に来ることになった。佐倉さんは最近、昼間はふらりとどこかに行って、夜になるとマミの家に戻ってくることが続いていた。今夜も、どうせ戻ってくる。電話はしなかった。

 

電話を切った後、マミはテーブルの椅子に座って、しばらく動けなかった。

 

暁美さんが、あの声で電話をかけてくるなら、何か、重いことだ。覚悟はしておくべきだった。

 

リビングで、冬野さんがいつもの椅子に座って、膝の上に手を置いていた。朝食の後、そのまま、そこにいた。

 

マミは、冬野さんの方を見た。

 

冬野さんは、気づかなかった。いつも通りに、椅子の前半分に座っていた。

 

-----

 

夕方、佐倉さんが戻ってきた。

 

鍵を渡してから、佐倉さんは、自分の家のように出入りしている。「ただいま」とも言わない。ポッキーの袋を片手に持って、ソファにどさりと座った。

 

マミが「今夜、暁美さんが話があるって。美樹さんと鹿目さんも来るわ」と告げると、佐倉さんは眉を寄せた。

 

「何の話だ」

 

「電話では言えないって」

 

佐倉さんは、少しの間、黙った。それから、ポッキーを一本齧った。

 

「……やな予感がする」

 

マミも、同じことを思っていた。

 

-----

 

夜、七時過ぎ。

 

インターホンが、鳴った。

 

美樹さんと鹿目さんが、一緒に来た。二人とも、何が起きるのかマミに訊こうとして、訊けなかった。マミも、何も答えられなかった。

 

暁美さんは、最後に来た。

 

玄関に立った暁美さんは、いつもと変わらない顔だった。長い黒髪、紫の瞳、表情のない口元。マミを見て、小さく頷いた。

 

「入って」

 

マミは言った。暁美さんが、靴を脱いだ。

 

-----

 

リビングに、六人が揃った。

 

マミ、佐倉さん、美樹さん、鹿目さん、暁美さん、そして、冬野さん。

 

冬野さんは、いつもの椅子に座っていた。椅子の前半分に。膝の上に手を置いて。

 

紅茶を淹れた。六人分。マミの手が、少し震えた。ポットの取っ手を握る指に、いつもより力が入った。

 

カップを、一つずつ、全員の前に置いた。冬野さんの前にも置いた。マミは、テーブルの端の椅子に座った。

 

暁美さんは、窓際に立ったまま、カップに手を伸ばさなかった。

 

誰も、多くを話さなかった。

 

緊迫した空気が、リビングに降りていた。

 

暁美さんが、窓から振り返った。

 

「明日の夜、ワルプルギスの夜が来る」

 

リビングの空気が、凍りついた。

 

美樹さんが息を止めた。鹿目さんの顔から、色が引いていった。佐倉さんが「やっぱりか」と小さく呟いた。

 

マミは、朝から感じていた空気の重さの正体を、知った。

 

これだった。

 

 

「……暁美さん」

 

マミは、自分の声が硬くなっているのに気づいた。

 

「なぜ、明日だとわかるの?」

 

暁美さんが、一瞬、答えに詰まった。

 

窓の外を見ていた。

 

「それは、後で話す」

 

声から、いつもの抑揚が抜けていた。

 

「まず、ワルプルギスが何か、説明する必要がある」

 

マミは、続きを待った。

 

暁美さんが、窓の外から、視線をマミに戻した。

 

「マミ、あなたから、説明してほしい」

 

 

マミは、頷いた。

 

カップを持つ手が、まだ少し震えていた。カップを、テーブルに置いた。

 

「ワルプルギスの夜は、ただの魔女ではないの」

 

声が、少し硬くなった。

 

「複数の魔女が合体して生まれる、極めて強大な存在。結界を作らない。現実世界に、直接、現れる」

 

美樹さんの目が、マミを見ていた。

 

「街を丸ごと破壊するほどの力。一般人にも、被害が出る」

 

佐倉さんが、ポッキーの袋をポケットに戻した。表情は変わらなかった。ただ、目の奥が、少し暗くなった。

 

「……あたしも、噂で聞いたことがある」

 

佐倉さんが、口を開いた。

 

「伝説の魔女、みたいに言われてるらしい。ぶっ壊れた街の映像も、ニュースで見たことがある。どこの街だったかは、忘れた」

 

リビングが、静かになった。

 

美樹さんが、小さく訊いた。

 

「……それって、そんなにやばい魔女なの?」

 

声は、まだ落ち着いていた。訊く時は、訊ける子だった。

 

マミは、静かに答えた。

 

「魔法少女何人かがかりで、ようやく、倒せるかどうか、という相手よ」

 

佐倉さんが、補足した。

 

「倒せずに、全員死ぬこともあるって聞いた」

 

美樹さんが、そこで、震えた。指先で、自分の膝を、軽く握った。

 

鹿目さんの顔は、青ざめていた。言葉を失っていた。

 

冬野さんは、椅子の前半分に座ったまま、動かなかった。会話の意味は、わかっていないはずだった。ただ、部屋の空気が、重くなっていることだけは、身体で感じているはずだった。

 

暁美さんが、窓際で、口を開いた。

 

「私は、ワルプルギスを倒しに来ている」

 

全員が、暁美さんを見た。

 

「……どういう、こと?」

 

美樹さんが訊いた。

 

マミも、さっきの疑問の答えを、求めるように、暁美さんを見た。

 

-----

 

暁美さんは、しばらく、口を開かなかった。

 

窓の外を見ていた。

 

それから、振り返って、全員を一人ずつ見た。

 

「これが、初めてじゃないの」

 

言葉が、静かに落ちた。

 

「私は、同じ時期を、何度も繰り返している」

 

マミが、息を呑んだ。

 

「時間を、遡って」

 

リビングの時計の秒針の音だけが、聞こえた。

 

佐倉さんが、眉を寄せた。

 

美樹さんが「え……?」と、かすれた声で呟いた。

 

鹿目さんは、動けなかった。

 

暁美さんの声の奥に、何かを押し殺した気配があった。

 

「きっかけは、鹿目まどかを救えなかったこと」

 

暁美さんの視線が、鹿目さんに向いた。

 

鹿目さんの目が、大きくなった。

 

「まどかは、私を庇って、死んだ。あるいは、魔女になった。何度も」

 

暁美さんの声が、一度、揺れた。揺れて、すぐに、戻った。

 

「だから、契約する前のまどかに戻って、何度もやり直してきた」

 

「どの時間軸でも、ワルプルギスの夜で、まどかは死ぬか、魔女になる」

 

「契約させないことが、私の、唯一の策だった」

 

鹿目さんが、震えていた。声は出していなかった。

 

マミも、震えていた。両手を、膝の上で、きつく握った。

 

「だから、暁美さんは、ずっと、鹿目さんが契約しないように……」

 

マミが、かすれた声で言った。

 

「そう」

 

暁美さんが、頷いた。

 

「今度こそ、彼女を守りたかった」

 

 

暁美さんが、リビングを見渡した。

 

ソファに座る佐倉さん、美樹さん、鹿目さん。椅子の前半分に座る冬野さん。テーブルの端の椅子に座るマミ。

 

「この時間軸は、今までとは違う」

 

暁美さんが、静かに言った。

 

「ソウルジェムの真実を、私は、何度も告げてきた」

 

「告げるたびに、皆、バラバラになった」

 

「美樹さやかは、絶望して、魔女になった」

 

美樹さんが、自分の中指の指輪を、無意識に触った。

 

「巴マミは、受け止めきれずに、壊れた」

 

マミは、自分の指が、膝の上で白くなっているのに気づいた。

 

「鹿目まどかは、契約した」

 

鹿目さんが、震えながら、暁美さんを見ていた。

 

「佐倉杏子が、見滝原に来ることも、なかった」

 

佐倉さんが、静かに、聞いていた。

 

暁美さんが、冬野さんの方に、視線を向けた。

 

「冬野しずくを、私は、初めて見た」

 

「前の時間軸では、彼女と私たちは、一度も関わらなかった」

 

「……存在していたのかどうかも、私は知らない」

 

「ただ、この時間軸で、初めて、彼女に会っている」

 

冬野さんは、何も言わなかった。膝の上の手が、少しだけ、強く握られた。マミだけが、それに気づいた。

 

暁美さんが、一度、言葉を切った。

 

「真実を知った後も、こうして皆が、同じ部屋に集まっている」

 

「それも、初めて」

 

暁美さんが、一度、小さく息を吸った。

 

「この時間軸は、何かが違う」

 

暁美さんが、まっすぐに全員を見た。

 

「ただ、ワルプルギスの夜は、必ず来る」

 

「それだけは、変わらない」

 

-----

 

リビングが、静かだった。

 

誰も、何も言えなかった。

 

マミは、暁美さんの言葉を、ゆっくり、受け止めていた。暁美さんは何度も、この時期を繰り返していた。ソウルジェムの真実を、何度も告げていた。

 

そのたびに、マミは、壊れていた。

 

今、マミは、壊れずに、ここに座っている。

 

それが、初めて、だと暁美さんは言った。

 

美樹さんが、何かを考えている顔で、指輪を触り続けていた。それから、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……暁美さん」

 

美樹さんの声が、少し、震えていた。

 

「あの、グリーフシード」

 

暁美さんの視線が、美樹さんに向いた。

 

「杏子ちゃん経由でもらった、あれ……」

 

「あんたが、一人で魔女を倒して、集めてくれてたんだよね」

 

「……あたしが、戦わなくていいように」

 

暁美さんは、美樹さんの方を見なかった。窓の外を見ていた。

 

「鹿目まどかが、あなたの傍にいたかったから」

 

「あなたに、崩れてほしくないと思っていた」

 

「それだけ」

 

美樹さんが、頭を下げた。

 

「……ありがと」

 

声は小さかった。

 

「助かった。本当に」

 

暁美さんは、答えなかった。

 

ただ、窓の外を見たまま、わずかに、頷いた。

 

佐倉さんが、ポッキーを齧りながら、暁美さんの方を見て、ふっと、笑った。それが何を意味する笑いなのか、マミにもわかった気がした。

 

 

マミは、話を戻すことにした。声の調子を、少し、整えた。

 

「明日の夜、どう動くか、決めましょう」

 

全員の視線が、マミに集まった。

 

「戦うのは、私、佐倉さん、暁美さん、美樹さんの四人」

 

「鹿目さんは、戦わない。契約もしない」

 

鹿目さんが頷いた。

 

「冬野さんは、誰が守るか」

 

冬野さんの名前が出た時、冬野さんの視線が、ほんのわずかに、マミの方に動いた気がした。気のせいかもしれなかった。

 

マミは、続けた。

 

「見滝原中学の体育館が、避難所として指定されているわ」

 

「街の人も、明日の夜には、そこに避難している」

 

マミは、鹿目さんを見た。

 

「鹿目さん、冬野さんと一緒に、そこに行ってくれる?」

 

鹿目さんが、頷いた。

 

「はい。私が、冬野さんと一緒にいます」

 

「危ねえぞ」

 

佐倉さんが口を挟んだ。

 

「街が崩れるかもしれないんだぞ」

 

鹿目さんは、佐倉さんを見て、静かに答えた。

 

「魔法少女は戦う。私は、冬野さんと一緒にいる。それぞれの役割」

 

佐倉さんが、少し、黙った。それから、肩をすくめた。反論はしなかった。

 

マミは、深く頷いた。

 

暁美さんが、鹿目さんの方を見た。

 

「絶対に、契約しないで」

 

「何があっても」

 

「キュゥべえが近づいてきても、絶対に」

 

鹿目さんが、頷いた。

 

「うん」

 

-----

 

美樹さんが、口を開いた。

 

「あたしは、戦う」

 

全員が、美樹さんを見た。

 

「魂のない身体でも、剣は振れる」

 

美樹さんの声は、静かだった。ただ、迷いがなかった。

 

「最後くらい、誰かのために使えるなら、使いたい」

 

佐倉さんが、ポッキーの箱を、テーブルに置いた。

 

「同じだな」

 

佐倉さんが、言った。

 

「あたしも、他人のために願った」

 

「最後は、他人のために戦う」

 

佐倉さんが、ポケットから、グリーフシードを一つ取り出した。美樹さんの前に置いた。

 

「使え。明日、たくさん必要になる」

 

美樹さんが、グリーフシードを、手に取った。

 

「……ありがと」

 

佐倉さんは「あっそ」とだけ答えた。口の端が、少しだけ、上がった。

 

マミも、頷いた。

 

「私も、戦うわ」

 

「皆、護らせてちょうだい」

 

声が、震えなかった。訓練のおかげだった。

 

-----

 

九時を、少し過ぎた。

 

暁美さんが、立ち上がった。

 

「そろそろ、戻る」

 

佐倉さんも立ち上がった。今夜はマミの家に泊まることになっていた。美樹さんと鹿目さんが、立ち上がった。

 

マミは、玄関まで、全員を見送った。

 

佐倉さんが「じゃあな」と、客間に向かった。

 

美樹さんが「おやすみ、マミさん」と、靴を履いた。

 

鹿目さんが「また明日」と、美樹さんに続いた。

 

暁美さんが、最後に、出ていこうとした。その時、暁美さんの手が、鹿目さんの肩に、軽く触れた。

 

「少し、話せる?」

 

鹿目さんが頷いた。

 

二人は、マンションの廊下に、出ていった。

 

マミは、ドアを閉めた。

 

何を話しているか、マミにはわからなかった。ただ、暁美さんが鹿目さんにだけ、話したいことがあるのだろう、と思った。

 

踏み込まなかった。

 

ドアに、少しの間、背を預けた。

 

リビングに戻ると、冬野さんが、まだ椅子に座っていた。いつもの姿勢で。カップは両手で包まれたまま。

 

マミは、テーブルの上のカップを、片付け始めた。

 

-----

 

片付けが、途中まで進んだ時、マミは、手を止めた。

 

冬野さんの前のカップは、まだ、そこにあった。冬野さんが、両手で包んでいた。中の紅茶は、半分以上、残っていた。

 

マミは、ポットに残っていた紅茶を、自分のカップに注ぎ直した。そして、冬野さんの前の椅子に座った。

 

二人、テーブルを挟んで、向かい合っていた。

 

冬野さんは、カップを両手で包んだままだった。湯気は、もう、ほとんど立っていなかった。

 

マミも、自分のカップを、両手で包んだ。

 

しばらく、二人とも、何も言わなかった。

 

マミは、自分の手を見た。指が、震えていた。紅茶のせいではなかった。

 

口を開いた。

 

「……怖いわ」

 

声が、思ったより小さく出た。

 

冬野さんは、何も言わなかった。ただ、こちらを見ていた。カップから、目が、ゆっくりと上がっていた。

 

マミは、続けた。

 

「明日、戦うの。大きな魔女を」

 

「今まで、魔女退治は、何回もやってきた。一人でも、やってきた」

 

「けれど、明日は、怖い」

 

「帰ってこられるか、わからない」

 

マミは、一度、息を吸った。

 

「……それだけじゃないのよ」

 

声が、さらに小さくなった。

 

「あの日、暁美さんが言った話。ソウルジェムが、魂そのものだって話」

 

「あれから、ずっと、怖いの」

 

マミは、自分の胸に、手を当てそうになって、止めた。

 

「私の身体は、入れ物だって、知った日から」

 

「自分で、自分を、信じられなくなった」

 

「毎日、紅茶を淹れて、冬野さんと一緒にご飯を食べて、普通に暮らしてる」

 

「けれど、これをやっているのが、本当に、私なのか、わからない時があるの」

 

マミは、一度、言葉を切った。

 

次の言葉が、喉で、詰まった。

 

「それに……」

 

声が、さらに小さくなった。

 

「今まで、私、たくさんの魔女を倒してきたの」

 

「あの子たちは、元々は、魔法少女だったって、知ってしまった」

 

「みんな、私と同じように、願いを叶えて、戦って、ソウルジェムが濁って、そして、魔女になった」

 

マミの指が、カップの縁を、軽く擦った。

 

「私は、その子たちを、砕いてきたの」

 

「何も知らないで。魔女だと思って、倒してきた」

 

「あの子たちは、かつての、私だったのに」

 

マミの声が、震えた。

 

「そして、いつか、私も、同じようになる」

 

「誰かに、砕かれる」

 

「かつて、自分が魔法少女だったことも、忘れて、誰かに、倒される」

 

マミは、自分のカップを、見ていた。

 

「それが、怖い」

 

「明日、死ぬかもしれないことより、その方が、ずっと、怖いの」

 

 

マミは、苦笑いしようとした。うまくいかなかった。

 

「……それでも、今日まで、暮らしてこられたのは」

 

マミは、言葉を切った。

 

言い終わらなかった。言い終わる必要もなかった。

 

冬野さんの手が、カップの縁から、離れた。

 

震えていた。

 

小さく、ではなく、はっきりと、震えていた。

 

冬野さんは、その震える手を、ゆっくりと、テーブルの上を、マミの方へ、動かした。

 

動きは、遅かった。途中で、止まりそうになった。止まらなかった。自分の中にある何かと、闘っているように見えた。

 

冬野さんの手が、マミの手の、すぐ隣まで、来た。

 

触れなかった。

 

ただ、そこに、置かれた。

 

マミの手と、冬野さんの手の間に、わずかな隙間が、あった。

 

それでも、冬野さんは、手を、そこに置いていた。

 

 

マミは、それを見ていた。

 

息が、一瞬、止まった。

 

この子が、自分から、こんなふうに、手を差し出すなんて。

 

今まで、一度も、なかった。

 

呼ばれないと動かない。勧められないと触れない。そう生きてきた子が、震えながら、自分から、手を出した。

 

マミの目の奥が、熱くなった。

 

マミは、冬野さんの手に、触れなかった。

 

触れたら、この子が、また固まるかもしれないから。

 

ただ、マミも、自分の手を、冬野さんの手の隣に、置いた。

 

二人の手が、テーブルの上で、近くにあった。

 

触れていない。

 

ただ、隣にあった。

 

マミは、少しだけ、笑った。

 

今度は、うまく笑えた。

 

 

息を吐いて、自分のカップから、一口、飲んだ。

 

紅茶は、ぬるくなっていた。それでも、温かかった。

 

「……戻ってくるわね」

 

マミは、小さく言った。

 

「必ず、戻ってくる」

 

「冬野さんが、待っていてくれるなら」

 

冬野さんが、小さく頷いた。

 

冬野さんの手は、まだ、テーブルの上にあった。

 

マミは、紅茶を、もう一口、飲んだ。

 

-----

 

十時を過ぎた頃、マミは、洗い物を始めた。

 

六人分のカップ、小皿、ティーポット。いつもより数が多かった。

 

時間をかけて、丁寧に洗った。

 

洗い終わって、ふきんで拭いて、食器棚に戻した。明日の朝も、この食器棚を開ける。そのつもりで、いつもの位置にいつものように戻した。

 

佐倉さんは客間で、もう寝ていた。静かな寝息が、薄く、聞こえていた。

 

冬野さんも、寝室のベッドで目を閉じていた。マミはドアを少しだけ開けて、確認した。呼吸は、穏やかだった。眠っているかどうかはわからなかった。マミは、静かにドアを閉めた。

 

リビングに戻った。

 

灯りを、一つだけ消した。もう一つは、つけたままにした。明るすぎず、暗すぎない、普段通りの夜の明るさ。

 

ソファに、座った。

 

 

明日の準備は、何もしなかった。

 

魔力を貯めたり、武器の調子を確認したり、そういうことは、しなかった。

 

今日まで戦ってきた身体を、信じるしかない。

 

特別なことをするのは、かえって、自分を不安にさせる気がした。

 

ただ、いつも通りに、座っていた。

 

 

テーブルの上には、自分の紅茶のカップだけが、残っていた。湯気は、もう立っていなかった。冷めていた。

 

マミは、それを、飲まなかった。

 

ただ、そこに、置いておいた。

 

 

美樹さんは、今夜、どんな夜を過ごしているだろうか。

 

自分の家で、一人で、ベッドに入っているだろうか。眠れるだろうか。

 

中指の指輪を、何度も見ているだろうか。

 

鹿目さんは、どんな顔で、これから来る夜のことを考えているだろうか。

 

暁美さんは、今夜、どこにいるのだろうか。

 

誰の顔も、マミからは見えなかった。

 

ただ、皆、それぞれの夜を、過ごしているはずだった。

 

 

明日、戦う。

 

何人かは、戻ってこないかもしれない。

 

自分が、戻ってこないかもしれない。

 

冬野さんのことを、考えた。

 

冬野さんに「戻ってくる」と、言った。

 

それを守れるかどうか、わからない。

 

守りたい。

 

 

全てを使う。

 

ティロ・フィナーレの、最後の一発まで。

 

ワルプルギスの夜を、倒す。

 

冬野さんのところに、帰る。

 

 

マミは、もう一度、寝室のドアを、開けた。

 

冬野さんの寝顔を、確認した。

 

冬野さんは、目を閉じていた。眠っているかどうかは、わからなかった。

 

ただ、呼吸は穏やかだった。

 

マミは、静かに、ドアを閉めた。

 

リビングに戻って、もう一度、ソファに座った。

 

夜が、深くなっていった。

 

見滝原の街は、最後の静けさを保っていた。

 

明日、ワルプルギスの夜が、来る。

 

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