紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF) 作:LongLong
第23話「遠い光」
目が覚めた時、部屋の中はまだ薄暗かった。
時計を見ると、六時を少し過ぎていた。いつもなら、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる時間だった。今日は、灰色の光しか入ってこなかった。
まどかは、布団の中で、しばらく天井を見ていた。
昨夜の、ほむらちゃんの声が、まだ耳に残っていた。
マンションの廊下だった。マミさんの家のドアが閉まって、廊下の蛍光灯が一本、少しだけ瞬いていた。ほむらちゃんは、すぐには話し出さなかった。手すりの向こうの夜を見ていた。
「あなたは、魔法少女にならなくても、人を救える」
振り向かないまま、ほむらちゃんはそう言った。
「魔法の力がなくても、誰かの隣に座ることはできる。言葉をかけることもできる。手を握ることもできる。それは、契約とは違う形の、力」
まどかは、何も言えなかった。
ほむらちゃんが、そこで初めて、こちらを見た。
「……私も、それに、救われてきた」
紫の瞳が、蛍光灯の光を映していた。いつもの、何を考えているのかわからない目ではなかった。
「魔法少女としてじゃない。一人の人として、あなたに」
それから、ほむらちゃんは視線を逸らした。
「だから、契約しないで。絶対に。あなたは、そのままで、十分だから」
少し間を置いて、ほむらちゃんは付け加えた。
「明日、冬野しずくのことも、よろしく。あなたが、一緒にいてくれるなら、それで、大丈夫」
それだけ言って、ほむらちゃんは廊下を歩いていった。まどかは、その背中がエレベーターの中に消えるまで、動けなかった。
布団から手を出して、自分の手のひらを見た。
この手で、誰かを救ったことがあるのだろうか。
思い出せなかった。ほむらちゃんの言う「救われてきた」が、いつのことなのか、まどかにはわからない。それでも、ほむらちゃんは、嘘を言う人ではなかった。
今日、この手でできることは、一つだけだった。
冬野さんの隣にいること。
まどかは、手のひらを握って、布団から起き上がった。
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リビングに降りると、テレビがついていた。
パパが、朝ご飯の支度をしながら画面を見ていた。ママは、仕事の服ではなく、動きやすい服を着ていた。タツヤだけが、いつもと同じ顔で、子ども用の椅子に座ってパンをかじっていた。
画面の上の方に、赤い帯が出ていた。
見滝原市付近で大型のスーパーセルが急速に発達している、とアナウンサーが繰り返していた。気象庁が、これまで経験したことのない規模の豪雨と暴風のおそれがある、と会見で言ったらしかった。映像が切り替わって、見滝原の上空が映った。雲が、渦を巻いていた。まだ朝なのに、空の色は夕方のようだった。
「市から避難勧告が出た」
ママが言った。
「昼過ぎには避難所に移るよ。まどかの学校の体育館だ」
その時、まどかのスマホが鳴った。ママのスマホも、パパのスマホも、同時に鳴った。三つの音が重なって、タツヤがびっくりしてパンを落とした。
緊急速報だった。同じ文面が、三つの画面に並んでいた。
まどかは、スマホを握ったまま、少しの間、黙っていた。
台風ではないことを、まどかは知っていた。
「ママ」
「ん?」
「わたし、先に出てもいい? マミさんの家に、三年生の冬野さんがいるの。一緒に避難する家族がいなくて。わたしが、体育館まで連れていく」
ママが、まどかの顔を見た。
何か訊かれる、と思った。ママは、訊かなかった。まどかの顔を、しばらく見ていただけだった。
「体育館で必ず合流。着いたら連絡よこしな」
「うん」
「風が強くなる前にな」
「うん」
パパが、おにぎりを二つ、ラップに包んで渡してくれた。
「その子の分もね」
まどかは、それを鞄にしまった。
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外に出ると、風が生ぬるかった。
空は、テレビで見たのと同じ色をしていた。灰色に、少しだけ緑を混ぜたような色。雲が低くて、重くて、ゆっくりと回っていた。雨はまだ降っていなかった。空気だけが湿っていた。
通りの先で、防災無線が鳴っていた。割れた声が建物に跳ね返って、同じことを何度も言っていた。
マミさんの家に着いたのは、十時を過ぎた頃だった。
インターホンを押すと、マミさんがドアを開けてくれた。
「いらっしゃい、鹿目さん」
いつもと同じ声だった。いつもと同じ笑い方だった。エプロンをしていて、キッチンから、何かを炒める音と醤油の匂いがしていた。
リビングには、杏子ちゃんがいた。ソファの端でポッキーを齧っていた。さやかちゃんも、もう来ていた。ソファの反対の端で、膝を抱えていた。
冬野さんは、いつもの椅子に座っていた。椅子の前半分に。膝の上に手を置いて。
ほむらちゃんは、いなかった。
「暁美さんは、準備があるそうよ。出る前に、ここに寄るって」
マミさんが、キッチンから言った。
まどかは、冬野さんの隣の椅子に座った。
冬野さんは、まどかの方を見なかった。まどかも、何も言わなかった。二人で、ガラステーブルに映る灰色の窓を見ていた。
昼ご飯は、焼きうどんだった。
マミさんは、五人分の皿を並べた。誰も、多くは話さなかった。杏子ちゃんが「うまい」と一回だけ言った。さやかちゃんは、半分くらい食べて箸を置いて、それからもう一度箸を取って、残りを全部食べた。マミさんはそれを見て、少しだけ笑った。
冬野さんは、いつもの速さで、少しずつ食べていた。
食べ終わった頃、窓ガラスが鳴った。
風だった。窓の外で、何かが唸るような音を立てていた。
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インターホンが鳴ったのは、一時を少し過ぎた頃だった。
ほむらちゃんは、玄関から中に入らなかった。ドアの外に立って、マミさんを見て、それから部屋の奥を見た。
「行くわよ」
マミさんがエプロンを外した。畳んで、椅子の背にかけた。
杏子ちゃんが、ポッキーの箱をテーブルに置いて立ち上がった。さやかちゃんも立ち上がった。左手の中指の指輪を、親指で一度だけ撫でた。
四人が、玄関に並んだ。
マミさんが靴を履いて、それから振り返った。
冬野さんが、リビングの入口に立っていた。
いつの間にか、椅子から立ち上がって、そこまで来ていた。まどかは、それを見て、息を止めた。誰にも呼ばれていないのに、冬野さんが自分から動いていた。
マミさんも気づいたようだった。ほんの一瞬、目が大きくなった。
「行ってくるわね、冬野さん」
冬野さんは、頷かなかった。首を振りもしなかった。
ただ、マミさんを見ていた。前髪の奥の黒い瞳が、まっすぐマミさんの顔に向いていた。
マミさんは、微笑んだ。それから、まどかに小さな鍵を差し出した。
「出る時、お願いね」
銀色の鍵だった。キーホルダーに、ティーカップの形の飾りがついていた。まどかは、両手で受け取った。
「まどか」
さやかちゃんだった。
「冬野さんのこと、よろしくね」
「うん。……さやかちゃんも、気をつけて」
さやかちゃんが、笑った。口の端だけじゃない、目も一緒に動く笑い方だった。そういう笑顔を見たのは何日ぶりだろう、とまどかは思った。
杏子ちゃんは、何も言わなかった。通りすがりに、まどかの頭をぽんと一回だけ叩いた。
ほむらちゃんは、ドアの外から、まどかを見ていた。
言葉はなかった。
まどかは頷いた。ほむらちゃんも、ほんのわずかに顎を引いた。
ドアが閉まった。
四人分の足音が、廊下を遠ざかっていった。エレベーターの扉が開いて、閉まる音がした。
それから、何も聞こえなくなった。
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冬野さんは、まだリビングの入口に立っていた。閉まったドアを見ていた。
「冬野さん。行こう」
冬野さんの視線が、ゆっくりと、ドアからまどかに移った。
「手、つないでもいい?」
返事はなかった。
まどかは、冬野さんの手に、自分の手を近づけた。触れる前に、一度止めた。それから、指先だけで、そっと冬野さんの手の甲に触れた。
冬野さんの肩が、小さく跳ねた。
まどかは、手を引かなかった。そのまま、動かずに待った。
冬野さんの肩が、少しずつ、下りていった。
まどかは、冬野さんの手を、柔らかく握った。冷たかった。指が細かった。握り返してはこなかった。
振り払いも、しなかった。
鍵を閉めて、マンションを出た。
外は、さっきより風が強くなっていた。街路樹の枝が、同じ方向に大きく撓んでいた。通りには、人がたくさん歩いていた。リュックを背負った親子。小さな犬を抱いたおばあさん。店のシャッターを下ろしてから、鞄を抱えて走っていく人。
みんな、同じ方向に歩いていた。
「台風、すごいらしいわね」
すれ違った誰かの声が、風に千切れて聞こえた。
まどかは、空を見上げた。
雲の渦の真ん中が、ほかより暗かった。暗いのに、奥の方で、何かがかすかに光っている気がした。
まどかは、冬野さんの手を握ったまま、少しだけ早足になった。
見滝原中学の体育館の入口には、市の職員の人が机を出していた。避難者の名簿に、名前を書くようになっていた。
まどかは、ボールペンを取って、自分の名前を書いた。鹿目まどか。
その下の欄を見て、冬野さんの方を見た。
「書く?」
冬野さんは、動かなかった。
まどかは、もう一度ペンを紙に置いた。
冬野しずく。
自分の手で冬野さんの名前を書くのは、初めてだった。「しずく」の三文字を書き終えるまで、まどかは、少しだけ息を詰めていた。
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体育館の中は、人でいっぱいだった。
床に、青いビニールシートが敷き詰められていた。毛布と、水のペットボトルと、非常食の箱が、壁際に積まれていた。子どもの泣き声がした。誰かのラジオが、気象情報を流していた。
真ん中あたりで、ママが手を振っていた。パパと、タツヤもいた。
まどかは、冬野さんを連れて、そちらに歩いた。
ママは、冬野さんを見た。冬野さんは、ママの方を見なかった。まどかに手を握られたまま、床のシートの継ぎ目を見ていた。
「こんにちは」
ママが言った。
冬野さんは、答えなかった。
ママは、それ以上、話しかけなかった。まどかの顔を見て、冬野さんの手を見て、少しだけ頷いた。
「人の少ないとこの方がいいな」
ママが、毛布を二枚、まどかに渡してくれた。
「何かあったら、すぐ呼びな。飛んでくから」
「うん」
まどかは、ステージ脇の壁際に、冬野さんと並んで座った。人の流れから少し外れた場所だった。見上げると、壁の高いところに、横長の窓が並んでいた。灰色の空が見えた。
毛布を一枚、冬野さんの膝にかけた。冬野さんは、それを見下ろして、動かなかった。
時間が過ぎていった。
三時になった。空の色が、もう一段、暗くなった。
四時になった。雨が降り始めた。最初は、高い窓にぽつぽつと当たるくらいだった。それが、すぐに叩きつけるような音に変わった。体育館の屋根全体が、ざあっと鳴り続けていた。
五時になった。外は、もう夜と変わらなかった。
まどかは、鞄からおにぎりを出した。一つを、冬野さんに差し出した。
「パパが作ってくれたの。食べる?」
冬野さんは、しばらく、おにぎりを見ていた。
それから、両手で受け取った。ラップの上から包むように持って、膝の上に置いた。
まどかが自分のおにぎりを一口食べるのを見てから、冬野さんも、ラップを少しだけ開いた。端を、小さく噛んだ。
まどかは、それを横目で見ながら、自分のおにぎりを食べた。塩の味が、いつもより濃く感じた。
「寒くない?」
冬野さんが、小さく首を振った。
「お水、飲む?」
冬野さんが、小さく頷いた。
ペットボトルの蓋を開けて渡した。冬野さんは両手で受け取って、少しだけ飲んで、まどかに返した。
スマホを見た。誰からも、何も来ていなかった。
六時になった。七時になった。
体育館の中の話し声が、少しずつ減っていった。誰かのラジオが、同じ気象情報を何度も繰り返していた。見滝原市全域に、大雨特別警報。命を守る行動を。アナウンサーの声が、雨の音に紛れて、途切れ途切れに聞こえた。
まどかは、膝を抱えて、高い窓を見ていた。
さやかちゃんのことを考えた。朝、さやかちゃんが学校に来る。それだけを毎日確認していた日々のことを考えた。「おはよ」が返ってくるだけで、その日は大丈夫だった。
明日の朝、それを確認できるのかどうか、まだわからなかった。
風が一段強く鳴るたびに、冬野さんの目が、高い窓の方に動いた。毛布の上で、指先が、わずかに縮こまった。まどかは、それを見ていた。何も言わずに、毛布の下で、冬野さんの手の近くに、自分の手を置いておいた。
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八時を過ぎた頃、体育館の照明が、ふっと消えた。
一瞬、真っ暗になった。あちこちで悲鳴が上がった。すぐに、非常灯が点いた。緑がかった薄い光が、体育館の床を、ぼんやりと照らした。
「停電です。落ち着いてください。その場を動かないでください」
職員の人の声が、拡声器で響いた。
まどかは、冬野さんの手を探した。毛布の下で、すぐに見つかった。
握った。
その時、高い窓が、白く光った。
雷かと思った。音が来なかった。代わりに、光がもう一度、窓を染めた。今度は白ではなかった。
金色だった。
まどかは、窓を見上げた。
雨に叩かれるガラスの向こう、遠い空に、細い金色の線が走っていた。一本ではなかった。何本も、何本も、空を編むように伸びていった。
マミさんのリボンだ、と思った。
金色の線の間を、青い光が裂くように走った。短く、鋭く、何度も。さやかちゃんの剣だった。その少し離れたところで、赤い光が、弧を描いて跳ねていた。杏子ちゃんの槍だった。
誰の光か、見ればわかった。
そして、光ではないものが来た。
床が、下から揺れた。空気が、胸を押した。高い窓のガラスが、一斉に、びりっと鳴った。体育館の中で、また悲鳴が上がった。子どもが泣き出した。
見上げても、何も光っていなかった。ただ、衝撃だけが、遅れて、何度も届いた。
ほむらちゃんだ、とまどかは思った。
一度、空のある一点で、何もかもが止まったように見えた。雨粒まで、そこだけ止まっている気がした。
次の瞬間、その一点で、爆発がいくつも、束になって咲いた。音は、少し遅れて来た。体育館の壁が、ずん、と震えた。
隣で、冬野さんの身体が、固くなった。
まどかは、冬野さんの手を握ったまま、窓を見ていた。
戦いは、長かった。
光が、何度も空を駆けた。そのたびに、体育館の中が一瞬だけ色に染まった。人々は、それを雷だと思っていた。「近いな」「落ちたんじゃないか」と、誰かが言っていた。床に伏せて、耳を塞いでいる人もいた。
まどかは、目を閉じなかった。
一つ一つの光を、数えるように見ていた。
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どのくらい経った頃だったか、わからない。
金色の線が、ある瞬間、大きく膨らんだ。空の一角が、真昼みたいに明るくなった。
その光の中に、黒いものが見えた。
逆さまになった、巨大な何か。歯車のような、ドレスのような、形のわからないもの。その影が、金色の光の中で、ゆっくりと回っていた。
光が消えた。
金色が、どこにもなかった。
まどかは、窓を見上げたまま、待った。すぐに、また灯ると思った。
灯らなかった。
五秒。十秒。
青い光が、一度だけ、金色が消えたあたりに向かって走った。細かった。さっきまでの鋭さがなかった。途中で、ちらついて、消えた。
赤い光が、同じ場所の上を、何度も行き来していた。何かを探しているように見えた。
爆発の衝撃が、来なくなった。
窓ガラスが、鳴らなくなった。
雨の音だけが、体育館の屋根を叩いていた。
まどかの手が、震え始めた。止めようとして、止められなかった。
「鹿目まどか」
声がした。
耳ではなく、頭の中に、直接響いてくる声だった。
毛布の端に、白いものが座っていた。長い耳。赤い目。尻尾が、非常灯の光の中で、ゆっくりと揺れていた。
キュゥべえ。
「マミが落ちたよ」
キュゥべえは、いつもと同じ調子で言った。天気の話をするみたいに。
「まだ生きてはいる。ただ、もう立てるかどうかはわからない。さやかのソウルジェムも、限界に近い。ほむらの武器も、ほとんど残っていない。杏子一人では、あれは止められない」
まどかは、何も言えなかった。
「ワルプルギスの夜は、まだほとんど傷ついていないよ。このままだと、見滝原は消える。この体育館も、ここにいる人たちも、君の家族もね」
体育館の真ん中に、ママが見えた。タツヤを膝に抱いて、非常灯の下で、高い窓の方を見ていた。パパが、その肩に手を置いていた。
「君なら、たった一つの願いで、全部を覆せる」
キュゥべえの赤い目が、まどかを見上げていた。
「僕と契約して、魔法少女になってよ」
まどかの喉が、ひくりと鳴った。
口を開きかけた。
──あなたは、そのままで、十分だから。
ほむらちゃんの声が、した気がした。
ほむらちゃんは、何度も、この夜を繰り返してきた。そう言っていた。何度も、まどかが契約して、何度も、まどかが死んで、何度も、戻ってきた。
今、この空の下で、ほむらちゃんは、まだ戦っている。まどかに、契約させないために。
わかっていた。
わかっていても、手の震えが止まらなかった。ママが、あそこにいる。タツヤが、あそこにいる。マミさんが、落ちた。
まどかの手の中で、何かが動いた。
冬野さんの手だった。
冷たい指が、まどかの指の間に、ゆっくりと入ってきた。震えていた。冬野さんの手も、はっきりと震えていた。指は、途中で止まりそうになって、止まらなかった。
握られた。
冬野さんの方から、まどかの手を、握っていた。
強い力ではなかった。すぐにほどけてしまいそうな力だった。ただ、確かに、握っていた。
まどかは、冬野さんを見た。
冬野さんは、まどかの方を見ていなかった。高い窓も、見ていなかった。毛布の上の、キュゥべえが座っている場所を、冬野さんの目は素通りしていた。
冬野さんには、キュゥべえが見えていない。
何が起きているのか、冬野さんは知らない。
それでも、冬野さんは、震えるまどかの手を、握っていた。
まどかは、冬野さんの手を、握り返した。
「……しない」
声が、かすれた。
「わたしは、契約しない」
キュゥべえが、首を傾げた。
「どうしてだい? 君一人の選択で、みんなが助かるかもしれないのに」
「わたしは、ここにいる」
まどかは、繋いだ手に、少しだけ力を込めた。
「冬野さんの隣に、いる。それが、わたしの役割だから」
キュゥべえは、しばらく、まどかを見ていた。
「わけがわからないよ」
それだけ言って、キュゥべえは、毛布の上から降りた。白い尻尾が、非常灯の影の中に溶けていった。
まどかは、窓を見上げた。
金色は、まだ、どこにもなかった。
冬野さんの手を握ったまま、まどかは、待った。
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最初に見えたのは、一本の糸だった。
地面の方から、空に向かって、細い金色の線が、一本だけ伸びた。頼りなく、揺れながら。今にも切れそうに。
切れなかった。
その糸に、もう一本が絡んだ。さらにもう一本。金色の線が、下から、束になって、空へ昇っていった。
まどかの口から、声にならない息が漏れた。
青い光が、金色の束の横に並んだ。さっきより弱かった。それでも、並んでいた。赤い光が、その反対側に並んだ。
三つの光が、空の一点に向かって、同時に伸びた。
次の瞬間、空全体が、金色に染まった。
体育館の高い窓が、昼間のように光った。床に伏せていた人たちが、顔を上げた。誰かが「なんだ、あれ」と言った。
光の真ん中に、あの逆さまの影があった。影は、金色の光に貫かれて、軋むように傾いていた。
そこに、衝撃が来た。
一つではなかった。数え切れない爆発が、影の周りで、同時に咲いた。束になって、重なって、途切れなかった。床が揺れた。窓ガラスが鳴り続けた。まどかは、冬野さんの手を、両手で包んだ。
爆発は、長く続いた。
まるで、ほむらちゃんが、持っているもの全部を、そこに置いていくみたいだった。
最後に、ひときわ大きな衝撃が来た。
体育館全体が、どん、と沈んだ。
それから、何も来なくなった。
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光が、消えていた。
金色も、青も、赤も、どこにもなかった。高い窓の向こうは、ただ暗かった。
風の音が、少しずつ小さくなっていった。屋根を叩いていた雨が、細くなって、まばらになって、やがて聞こえなくなった。
体育館の中が、静かになった。
誰も、何も言わなかった。泣いていた子どもも、いつの間にか泣き止んでいた。
まどかは、窓を見上げたまま、動けなかった。
勝ったのか。負けたのか。
誰が、立っているのか。誰が、立っていないのか。
何もわからなかった。
ほむらちゃんは、この静けさを、何度聞いてきたのだろう、とまどかは思った。戦いが終わった後の、この音のない夜を。その先で、何度、同じものを失ってきたのだろう。
スマホを見た。何も来ていなかった。電話をかけようとして、指が止まった。今、マミさんのスマホを鳴らしていいのか、わからなかった。
冬野さんの手は、まだ、まどかの手の中にあった。
握られていた。
冬野さんの方からの力が、ずっと、抜けていなかった。
まどかは、それを、ほどかなかった。
夜が、長かった。
周りの人たちが、一人、二人と、毛布にくるまって眠り始めた。職員の人が、懐中電灯を持って、静かに見回りをしていた。ママが一度、こちらに来て、まどかと冬野さんの肩に、毛布をもう一枚かけていった。何も訊かなかった。
まどかは、眠らなかった。
冬野さんも、眠らなかった。目を閉じないまま、膝の上の、繋いだ手を見ていた。
高い窓の色が、少しずつ変わっていった。
黒から、濃い青へ。濃い青から、灰色へ。
どこか遠くで、鳥が鳴いた。
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スマホが震えたのは、五時を少し過ぎた頃だった。
画面に、マミさんの名前があった。
まどかの指が、うまく動かなかった。二回、画面を滑らせ損ねて、三回目で、やっと出た。
「……鹿目さん」
マミさんの声だった。
掠れていた。息が、少し浅かった。
それでも、マミさんの声だった。
「マミさん」
「そっちは、大丈夫?」
「はい。わたしも、冬野さんも、無事です」
「……よかった」
電話の向こうで、マミさんが、長く息を吐くのが聞こえた。
「終わったわ」
まどかは、繋いだ手を、ぎゅっと握った。
「みんな、生きてる」
少し間があった。
「……ぎりぎりだったけど」
まどかの目の奥が、熱くなった。
「さやかちゃんは」
「生きてる。ソウルジェムが、本当に危なかったの。佐倉さんが、最後のグリーフシードを使ってくれた。今は、佐倉さんの隣で、座り込んでる」
「杏子ちゃんは」
「ぼろぼろよ。ぼろぼろなのに、ずっと美樹さんに何か言ってるわ。何を言ってるのかは、ここからは聞こえないけど」
「ほむらちゃんは」
マミさんが、少し黙った。
「……瓦礫に背中を預けて、空を見てる。さっきから、一度も動かないの。息はしてる。目も、開いてる。ただ、空を見てるだけ」
まどかは、何も言えなかった。
「何か、言ってあげたいのだけど」
マミさんの声が、少しだけ笑った。
「私も、今は立てないの。左腕が、ちょっと動かなくて。平気よ。少し休めば」
「マミさん」
「本当に、平気」
それから、マミさんは、声の調子を変えた。
「冬野さんは」
まどかは、隣を見た。
「隣に、います」
電話の向こうが、しばらく静かになった。
「……そう」
それだけだった。
それだけなのに、マミさんの声が、少し、震えていた。
「少ししたら、私たちも戻るわ。鹿目さん、冬野さんと、先に家に戻っていてくれる?」
「はい。鍵、持ってます」
「ええ。……お願いね」
電話が切れた。
まどかは、スマホを膝の上に置いた。
冬野さんの方を向いた。
冬野さんは、高い窓を見ていた。灰色だった窓が、もう、白くなりかけていた。
「冬野さん」
冬野さんが、まどかを見た。
「マミさんから、電話だった」
まどかは、一度、息を吸った。
「マミさん、生きてる。みんな、生きてる」
冬野さんの手から、力が、抜けた。
ほどけたのではなかった。一晩中、込められていた力が、ゆっくりと、手の中から流れ出ていった。
冬野さんの肩が、下がった。
細くて、長い息が、冬野さんの口からこぼれた。夜の間、ずっと止めていたみたいな息だった。
まどかは、何も言わなかった。
冬野さんの手を、握ったままでいた。
冬野さんも、手を、引かなかった。
立ち上がる時、ママがこちらに来た。まどかの顔を見て、冬野さんを見て、繋いだ手を見た。
「送ってくのか?」
「うん。マミさんの家に」
ママは、少しだけ黙った。それから、まどかの髪を、指で一度だけ梳いた。
「行ってきな」
体育館の扉を開けると、朝の空気が流れ込んできた。
冷たくて、濡れていて、土と、焦げたような匂いがした。
空は、晴れていた。
雲は、どこにもなかった。昨日の渦が嘘みたいに、薄い青が、見滝原の上に広がっていた。
街は、壊れていた。
校庭の木が、何本も根元から倒れていた。フェンスが、ねじれて地面に伏せていた。遠くの方で、ビルの上の方が欠けているのが見えた。煙が、何本も、細く空に昇っていた。水たまりが、あちこちにできていた。どの水たまりにも、青い空が映っていた。
まどかは、冬野さんの手を引いて、歩き出した。
ポケットの中で、鍵が揺れていた。ティーカップの形の飾りが、歩くたびに、腿に当たった。
冬野さんは、まどかの半歩後ろを歩いていた。手は、繋いだままだった。時々、水たまりを避ける時に、冬野さんの指に、ほんの少しだけ力が入った。
夜の間、遠くの空で光っていたものは、もう、どこにもなかった。
朝の光だけが、二人の足元に、落ちていた。