紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF) 作:LongLong
第3話「どうして」
翌週の木曜日も、冬野さんはマミの家に来た。
前の週の放課後、マミは同じ商店街の道で、同じように声をかけた。「今日も、うちに来る?」と。冬野さんは立ち止まって、しばらくマミの手を見て、それから小さく頷いた。頷くかどうかもわからないくらいに小さな頷き。でも、前の週と同じ頷きだった。
その日もマミはケーキを焼いていた。今度はシフォンケーキにした。苺のショートより軽い。もしかしたらこっちの方が口に合うかもしれないと思ったから。紅茶は、ダージリンではなく、アッサムにした。香りが強すぎない、やさしいミルクティーにも合うもの。マミは「飲みやすさ」を考えていた。
玄関で、冬野さんは前の週と同じように、両手でローファーを脱いで、並べて、微調整した。リビングに入ると、前の週と同じ壁際に寄って、前の週と同じ椅子に、前の週と同じ座り方で腰を下ろした。ぴったり同じだった。マミが不思議に思うくらい、全く同じだった。
シフォンケーキを一切れ、皿に載せて出した。
冬野さんは、ゆっくりとフォークを持った。
ケーキの端を、小さく切り取った。
口に運んだ。
噛んで、飲み込んだ。
それで、動きが止まった。
前の週と全く同じだった。
紅茶を一口飲んだ。動きが止まった。両手でカップを包んだ。温めるように。
マミは微笑んで、「美味しい?」と訊いた。返事はなかった。マミは微笑みのまま、別の話題に切り替えた。学校のこと、季節のこと、マミが最近読んだ本のこと。冬野さんは聞いていた。目はマミの顔には向けられなかった。返事はなかった。
三十分ほどが経って、冬野さんは時計を見た。
帰る時間。
冬野さんは立ち上がって、食器を元の位置に戻した。前の週と全く同じ動きで。カップ、皿、フォークの順に。戻された食器は、マミが持ってきた時の配置とほとんど同じだった。
玄関で、靴を履いた。しゃがんで、ローファーのかかとを整えた。
「気をつけて、帰ってね」
マミは言った。
冬野さんは、前の週と同じように、玄関のドアに手を伸ばしかけて、一瞬、止めた。それから、何か言いかけて、言えなかった。そして、ドアを開けて、出ていった。
マミはその場にしばらく立っていた。
前の週と全く同じだった。
ただ、完全に同じだった、というわけでもなかった。マミの胸の中の、小さな何かが、前の週とほんの少しだけ違っていた。ほんの少しだけ。気づかないほど、小さく。
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その次の週も、冬野さんは来た。
マミは今度はクッキーを焼いた。シフォンケーキの次に軽いものを、と考えたからだった。紅茶は、今度はダージリンに戻した。香りの軽いシンプルな紅茶が、小さなクッキーには合う気がしたから。ひょっとしたら、量の問題かもしれないと思った。一切れのケーキは冬野さんには重すぎるのかもしれない。小さなクッキーなら、食べてもらえるかもしれない。
結果は同じだった。
冬野さんはクッキーを一つ、小さく齧った。噛んで、飲み込んだ。それで、動きが止まった。紅茶を一口飲んだ。動きが止まった。
マミはまた、別の話題を探した。音楽の話、天気の話、最近見た夢の話。冬野さんは聞いていた。返事はなかった。
帰る時間になって、冬野さんは立ち上がった。食器を戻した。一つだけ齧ったクッキーの皿も、元の位置に戻された。マミが持ってきた時の配置と、ほとんど同じに。
玄関で、靴を履いた。かかとを整えた。何か言いかけて、言えなかった。ドアを開けて、出ていった。
マミはその場に立っていた。
胸の中の、小さな何かが、前の週よりも少し大きくなっていた。
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さらにその次の週は、マドレーヌだった。
もしかしたら甘さが強すぎるのかもしれない、とマミは考えた。バターの風味が強いもの、でも甘さが控えめなものを、と考えて、マドレーヌにした。いつもよりバニラの量を減らして焼いた。
冬野さんはマドレーヌを一つ、手に取った。小さく齧った。噛んで、飲み込んだ。動きが止まった。
紅茶を一口飲んだ。動きが止まった。
マミは微笑んだ。微笑みが、前の週よりも少しだけ固かったかもしれない。
「今日はね、マドレーヌなの。バニラを少し控えめにしたのよ。どうかしら」
返事はなかった。
「……甘すぎない?」
返事はなかった。
「紅茶は、今日はアールグレイにしてみたの。ベルガモットの香りが、わかるかしら?」
返事はなかった。両手は紅茶のカップを包んだままだった。
三十分が経って、時計を見て、立ち上がった。食器を戻した。今日のマドレーヌの皿には、一つ、小さく齧られたマドレーヌが残っていた。冬野さんはその皿を、元の位置に戻した。
玄関で、いつもの儀式。ドアを開ける。出ていく。
マミは、見送りながら、今日はもう「気をつけて、帰ってね」という言葉すら、少し忘れかけていたことに気づいた。ドアが閉まる直前に、慌てて「気をつけて」と言った。冬野さんの背中はもう廊下にあった。聞こえたかどうかはわからなかった。
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その夜、マミは眠れなかった。
ベッドに入っても、天井を見上げて、冬野さんのことを考えていた。あの子は何を考えているのだろう。あの子はなぜ何も言わないのだろう。あの子は、マミが焼いたケーキを、本当は美味しいと思っているのだろうか、それとも、嫌々食べているのだろうか。あの子がマミの家に来るのは、来たいから来ているのだろうか、それとも、断れないから来ているだけなのだろうか。
わからなかった。
何もわからなかった。
マミはこれまで、誰かの気持ちを「わからない」と感じたことが、あまりなかった気がする。他人の気持ちは、だいたい想像がついた。喜んでいるか、困っているか、悲しんでいるか、怒っているか。表情と言葉と雰囲気で、なんとなく読み取ることができた。読み取って、それに合わせて自分の言葉を選ぶことが、マミにとっての「優しさ」だった。
でも、冬野さんの気持ちは読み取れない。表情はない。言葉もない。雰囲気は──ある。でも、その雰囲気をどう読み取ればいいのかがわからない。
マミは枕の上で寝返りを打った。
もしかしたら、あの子はマミの家に来たくて来ているのではないのかもしれない。
そう思った瞬間、マミの胸の中に、冷たいものが落ちた。
それなら、あの子が毎週うちに来るのは、何のためなのだろう。来たくないのに来ているのだとしたら、マミはあの子に何を強いているのだろう。マミはあの子を解放するべきなのかもしれない。もう「来る?」と訊かないほうが、あの子にとっては楽なのかもしれない。
でも、と、マミは思った。
でも、それでは、あの子は。
あの子はあの家に戻る。あの怖がっていた家に。マミの部屋で一口しかケーキを食べられないあの子は、あの家でちゃんと食事をしているのだろうか。あの子が夜、どこで眠っているのかも、わからない。寒い夜に、コートもなしで公園に蹲っていたあの子が、今どうしているのかも、わからない。
マミは両手で顔を覆った。
わからない、わからない、わからない。
わからないことばかりだった。そして、わからないままでは、マミは何もできない。マミは、何かを「わかりたかった」。あの子のことを、何か一つでも、わかりたかった。
一つでいい、と思った。
ただ一つ、あの子が何を考えているのか、わかりたい。
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翌週の木曜日、冬野さんはまたマミの家に来た。
その日のマミは、いつもより少しだけ、疲れていた。見回りで夜遅くまで歩いた日が続いていたから、かもしれない。あるいは、眠れない夜が続いていたから、かもしれない。
マミはケーキを焼いた。今日はパウンドケーキにした。もう何種類目だろうか、とふと思った。思って、その思考を振り払った。
冬野さんが玄関に来た。靴を脱いだ。両手で、丁寧に揃えた。微調整もした。マミはそれを見ていた。いつもの光景だった。見慣れた光景。
リビングで、冬野さんはいつもの椅子の前半分に座った。
マミはキッチンで紅茶を淹れて、パウンドケーキを切り分けた。運んできた。冬野さんの前に置いた。
「はい、どうぞ」
冬野さんはフォークを持った。パウンドケーキの端を、小さく切り取った。口に運んだ。噛んで、飲み込んだ。動きが止まった。
紅茶を一口飲んだ。動きが止まった。両手でカップを包んだ。
マミは微笑んだ。微笑んで、話しかけた。
「今日はね、パウンドケーキにしたのよ。バターと卵をたっぷり使ったの。ふんわり、というよりは、しっとり、した感じなのだけれど」
返事はなかった。
「冬野さん、こういう重めのケーキ、苦手じゃない?」
返事はなかった。
「ダージリンとアッサムと、それからアールグレイ。前に三種類試してみたでしょう。どれが一番好きだった?」
返事はなかった。
マミは微笑みを保ちながら、紅茶を一口飲んだ。自分の紅茶は、いつもより少しだけ、苦く感じた。
沈黙が落ちた。
マミはいつものように、沈黙を埋めようとして、次の話題を探した。でも、今日は、いつもより少しだけ、次の話題を探すのが遅れた。ほんの一秒か二秒、マミの頭の中が空白になった。その空白の中に、冬野さんの姿があった。椅子の前半分に座って、両手でカップを包んで、何も言わない、この子の姿が。
ふと、言葉が出た。
「ねえ、冬野さん」
柔らかく。
「何か話したいことがあったら、言ってくれていいのよ?」
言い終わった瞬間、マミは自分の言葉の中に、何かが混じっていたのを感じた。
優しい言葉の形。優しい口調。ただ、別の何かが混じっていた。
それが何か。言い終わってから、気づいた。
今の言葉は、「話してほしい」だった。
「話してくれてもいい」ではなく、「話してほしい」。マミはあの子に、何かを話すことを、求めていた。
その気づきと、ほとんど同時に、目の前の冬野さんの身体が、固まった。
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呼吸が止まった。
マミは、見ていた。
冬野さんの肩が、わずかに上がったまま、下がらない。吸った息がどこかで止まって、吐かれない。指がスカートを握りしめた。細い指が、布地を引き攣らせるほど強く。
目が、マミの方に向けられた。
いや、正確には、マミの手に向けられた。膝の上に置いたマミの手に。公園の街灯の下で見たのと、同じ目の動きだった。手の位置を確認する目。次に何をされるかを警戒する目。
マミの全身から、血が引いた。
何を。
今、自分は、何を言った。
マミは、自分の言葉を追いかけるように、脳の中で言葉を再生した。「何か話したいことがあったら、言ってくれていいのよ?」。柔らかい言葉だった。優しい言葉だった。でも、目の前のこの子にとっては。
この子にとって、「何か言って」という言葉は、命令だった。この子の世界では、「言え」と「言わなければ罰される」は、同じ言葉なのかもしれなかった。
「あ、」
マミの口から、小さな声が漏れた。
「違うの、ごめんなさい、そういう意味じゃなくて」
マミは慌てて言葉を重ねた。
「無理に話さなくていいの、本当に。私は、ただ、もしあなたが話したかったら、聞きたいだけで、それだけで」
言葉を重ねれば重ねるほど、冬野さんは縮こまった。椅子の上で、肩が内側に入っていく。頭が下がる。前髪が、ますます目を隠す。指がもっと強くスカートを握る。
マミの言葉は、今、この子を追い詰めている。
口を、止めた。
止めるしかなかった。どんな言葉も、今この子を追い詰める。優しい言葉も、取り繕う言葉も、謝罪の言葉も、全部。マミの口から出る音の全てが、この子にとっては「何かを言わなければならない圧力」だった。マミの存在そのものが、今、この子を追い詰めていた。
部屋の中に、沈黙が落ちた。
今までの沈黙とは、全く違う沈黙だった。
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しばらくの時間が、流れた。
どれくらいだったのかはわからない。長い時間だったかもしれないし、短い時間だったかもしれない。マミには、時計を見る余裕がなかった。
やがて、冬野さんが、動いた。
ゆっくりと、椅子から立ち上がった。
立ち上がる動きは、いつもより硬かった。身体が強張っていて、スムーズに動かなかった。でも立ち上がった。立ち上がって、テーブルの上の食器に目を落とした。
いつもの儀式。食器を元の位置に戻す儀式。
冬野さんは、手を伸ばした。
指が、震えていた。
カップに触れようとして、震える指が、カップの縁に小さく当たった。カップが、わずかに音を立てた。陶器と陶器のぶつかる、ほんの小さな音だった。
その音に、冬野さんが、怯えた。
見ていてわかるほど、はっきりと、怯えた。まるで自分が何か大きな失敗をしたかのように、肩が跳ねた。マミの方を見た。マミの手を確認した。マミが動かないことを、確認した。
それから、もう一度、カップに手を伸ばした。今度は、両手で。震えないように、両手でカップを支えて、そっと、元の位置に戻そうとした。
でも、戻らなかった。
完璧には戻せなかった。カップの位置が、少しだけ、元の位置からずれた。
皿もずれた。フォークもずれた。
冬野さんは、それを直そうとして、でも指がうまく動かなかった。
マミは、見ていた。
見ていて、見ているしかなかった。手を伸ばして「いいのよ、そのままで」と言いたかった。でもマミの声は、今、この子を追い詰める。マミが声を出せば、この子はもっと縮こまる。だからマミは、何も言わず、手も動かさず、ただ見ていた。
やがて、冬野さんは、諦めたように、テーブルから離れた。
食器は、完璧には戻されていない配置で、そこに残された。
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玄関で、冬野さんは靴を履いた。
いつものように、丁寧に。でも今日は、かかとを整える儀式はしなかった。その余裕がなかった。両足の靴を履いて、立ち上がって、ドアの方を向いた。
マミは玄関の上がり框に立っていた。
「……、」
マミは何か言おうとした。言葉が出てこなかった。「待って」と言いたかったのかもしれない。「ごめんなさい」と言いたかったのかもしれない。「また来て」と言いたかったのかもしれない。でも、どれも、今のこの子にとっては、重すぎる言葉だった。
マミは、何も言わなかった。
冬野さんは、ドアに手を伸ばした。開けた。
今日は、いつものように、手が止まったりはしなかった。止まる余裕も、振り返る余裕もなかった。ただ、ドアを開けて、外に出ていった。
ドアが閉まった。
小さな、でも確かな、閉まる音がした。
マミは、その音を聞いて、その場に立ち尽くしていた。
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どれくらい立っていたかはわからなかった。
やがて、マミはリビングに戻った。
テーブルの上の食器が、中途半端な位置で残されていた。いつもなら、完璧に元の位置に戻されていた食器が、今日は少しずつずれたままだった。カップも、皿も、フォークも。
一口だけ齧られたパウンドケーキ。
半分残った紅茶。
震えた指で戻されようとして、戻せなかった、配置。
マミは、テーブルの前の、自分の椅子には座らなかった。少し離れた、ソファに座った。そしてテーブルの上の、その中途半端な配置を、見ていた。
しばらく、見ていた。
胸の中に、何もなかった。
落胆でも、悲しみでも、自己嫌悪でも、後悔でもなかった。何もなかった。ただ、空洞があった。マミが今まで、善意とか優しさとか先輩らしさとか、そういうもので埋めていた空洞が、今、そのまま何もない空洞として露出していた。
マミは、両手で顔を覆った。
顔を覆ったまま、しばらく動かなかった。
声は、出なかった。
何を言っても、今、自分自身に対してさえ、嘘になる気がした。「ごめんなさい」と言っても、「私は何をしたのだろう」と呟いても、全部、マミの中の空洞の外側を撫でるだけの言葉だった。
マミは、空洞の中に、何も持っていなかった。
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翌週の木曜日、冬野さんは来なかった。
マミはケーキを焼いていた。ガトーショコラ。甘すぎないように、少し苦めに。冬野さんが、もしかしたら、これなら、と思って。
午後四時になっても、冬野さんは来なかった。四時半になっても、五時になっても、来なかった。マミは窓から下を見た。マンションの前の道には、誰もいなかった。六時まで、マミは待った。来なかった。
マミは、一人でケーキを食べた。一口だけ食べて、残した。
その次の週も、冬野さんは来なかった。
マミはケーキを焼かなかった。
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マミは学校で、冬野さんを見かけていた。
三年三組の教室の前を、時々通った。冬野さんは、いつもの席に、いつものように座っていた。休み時間も、授業中も、お昼休みも。前髪を目の上まで下ろして、机の上の一点を見つめていた。相変わらず、誰も話しかけなかった。
マミは、教室に入ることができなかった。廊下から、少しだけ見て、通り過ぎるだけだった。
一度だけ、目が合いそうになった。冬野さんの視線が、廊下の方を向きかけた。マミは慌てて顔を逸らした。冬野さんに自分を見つけられることが、怖かった。見つけられて、また身体が固まるのを見ることが、怖かった。
マミは、自分がこの子を避けていることに気づいていた。
避けている。マミがあの子を避けている。優しさで差し伸べた手が失敗して、その失敗から自分を守るために、マミはあの子を避けている。
それは、マミが今まで軽蔑していた種類の振る舞いだった。失敗から逃げる、大人の振る舞い。マミはそうならないと、ずっと思ってきた。自分がやってしまったことには責任を取る。それがマミの、勝手な誇りだった。
でも、今、マミは逃げていた。
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夜、マミは一人で紅茶を淹れていた。
キッチンのカウンターに立って、ポットにお湯を注いだ。茶葉は、銀のスプーンで一杯。一人分。すり切り一杯。いつもの量。
今夜はストレートで飲むことにした。
ポットに注いだお湯が、茶葉と混ざる。湯気が立つ。マミはそれを見ていた。
二人分の茶葉を測った日のことを、マミはふと思い出した。あの日、マミは銀のスプーンで二杯、測った。慎重に。その慎重さは、誰かのために何かをするという、マミにとっては初めての種類の緊張だった。あの日、マミの指先は、少しだけ温かくなった気がした。想像するだけで。
今夜、マミの指先は、冷たかった。
紅茶が蒸れるのを待つ間、マミはキッチンの壁に寄りかかった。壁が、少し冷たかった。
マミの頭の中に、あの日の言葉が、また流れた。
「何か話したいことがあったら、言ってくれていいのよ?」
優しい言葉の形をしていた。マミは優しいつもりだった。でも、あの子の身体が固まった瞬間に、マミは悟った。マミは、何かを求めていた。あの子から、何かを受け取りたがっていた。「ありがとう」でも、「美味しい」でも、「また来ます」でも、何でもよかった。何か一つ、あの子がマミに与えてくれるものが、欲しかった。
マミは、与える側のつもりでいた。ずっと、そのつもりでいた。
でも、本当は。
マミは、与える側でいる自分を、誰かに認めてほしかったのかもしれなかった。自分の善意を、誰かに受け取ってほしかったのかもしれなかった。受け取ってくれる相手がいて初めて、マミは「優しい先輩」でいられる。相手が受け取ってくれなかったら、ただの、孤独な一人の少女に過ぎない。
マミは、それが怖かったのかもしれない。
紅茶が蒸れた。マミはポットからカップに注いだ。お湯の色が、琥珀色に染まっていった。
一人分の紅茶を、両手で包んだ。
温かかった。
でも、二人分を測った日の温かさとは、違う温かさだった。
あの日の温かさは、指先から胸の方まで広がる温かさだった。今夜の温かさは、指先で止まっていた。
マミは、カップを口に運んで、一口飲んだ。
紅茶の味は、いつも通りだった。変わらなかった。マミが淹れる紅茶は、マミがいつも通り淹れれば、いつも通りの味になる。それだけのことだった。
マミは、カップを置いた。
置いて、キッチンの壁に、もう一度、寄りかかった。
誰にも話せない、と思った。
この失敗を、誰かに話すことは、できない。話せば、マミがこれまで築いてきた優しい自分が、崩れる。マミはその自分を、失うことができない。失ったら、マミには、本当に、何も残らない気がした。
だから、抱えるしかない。
一人で、抱えるしかない。
マミは目を閉じた。
閉じた瞼の裏に、冬野さんの震えた指が、浮かんだ。
カップの縁に当たった、あの、小さな音が、耳の奥で、もう一度、鳴った。