紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF) 作:LongLong
第4話「転校生」
朝、まどかは夢の中にいた。
赤い空の下、壊れかけた街。ガラスの割れた高層ビル、傾いた信号機、遠くで燃える何か。その中で、黒い髪の少女が巨大な影と戦っていた。少女はぼろぼろで、息をするのも辛そうだった。それなのに、闘い続けていた。
隣にいた小さな白い生き物が答えた。
「助けたいと思うかい? あの子のこと。君なら運命を変えられる」
「わたしなんかでも、ほんとになにかできるの? こんな結末を変えられるの?」
「もちろんさ。───だから僕と契約して、魔法少女になってよ」
そこで目が覚めた。
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「はぁ……、夢オチ?」
白い生き物と、黒い髪の女の子と、壊れた街と。でも、もう細部を思い出せなかった。夢はいつもそうだった。
階下ではたつやがママを起こしていた。「ママー、ママー、あさー、あさー、おきてー」という、毎朝の呼びかけ。まどかも一緒にママを起こして、それから朝食の席についた。パパが家事をして、ママが化粧をしながら、いつも通り、仁美ちゃんのラブレターの話や、担任の和子先生の恋バナについて、まどかと話した。
「仁美ちゃんにまたラブレターが届いたよ。今月になってもう二通目」
「ふん。直にコクるだけの根性のねぇ男は駄目だ」
ママのこういう言い方は、いつも気持ちいいくらいにはっきりしていた。まどかは、こういうママが、ちょっとだけ憧れだった。
今朝はもう一つ、リボンの相談もあった。昨日ママが買ってきてくれた新しい赤いリボンを見せると、ママは「えぇ、派手すぎない?」と戸惑うまどかに、「それくらいでいいのさ。女は外見でなめられたら終わりだよ」と断言して、自分の手でそれを結んでくれた。
「おっし。じゃ、行ってくる」
ママは一気に朝食を食べて、カバンを持って立ち上がった。パパとまどかとたつやで送り出した。玄関から出て行くママの背中は、いつ見ても、誰よりもかっこよかった。
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四月の空は青くて、少し冷たい風が吹いていた。
川沿いの道を歩きながら、まどかは朝の夢のことを、ぼんやりと考えていた。黒い髪の女の子。壊れた街。──でも、思い出そうとすると、夢はまた少しずつ、遠くなっていった。
橋の向こうで仁美が合流した。もう少し歩くと、反対側から走ってくるさやかが見えた。
「まどか遅い。お、可愛いリボン」
「そ、そうかな? 派手すぎない?」
「とても素敵ですわ」
仁美が穏やかに応えた。
まどかはリボンを軽く触りながら、朝のママの話をした。
「相変わらずまどかのママはカッコイイな。美人だし、バリキャリだし」
さやかはママのファンだった。さやかはいつもまどかのママを褒めた。まどかはそれが、なんだか嬉しかった。
「ほぅ。まどかもひとみみたいなモテモテな美少女に変身したいと? そこで先ずはリボンからイメチェンですかな?」
「ち、違うよ。これはママが」
「さては、ママからモテる秘訣を教わったな。けしからん。そんな破廉恥な子はこうだ」
さやかはまどかをぎゅっと抱きしめた。まどかは笑いながら、その腕から抜け出した。
三人はそのまま、学校までの道を歩いた。いつもの朝。いつもの三人。いつもの、何も特別なことのない、四月の朝。
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一時間目の前のホームルームで、早乙女先生が入ってきて、いつも通り、恋愛話の延長のような深刻な顔で「目玉焼きとは、堅焼きですか、それとも半熟ですか」と切り出した。クラスの女子が半分呆れ、半分笑いながら聞く中で、先生は「そして男子の皆さんは、絶対に卵の焼き加減に、ケチをつけるような大人にならないこと」と話を締めくくった。今朝、ママが言った「今は危なっかしい頃合いだな」は、正解だったかもしれない、とまどかは思った。
「はい。あと、それから、今日は皆さんに転校生を紹介します」
さやかが呆れた声で呟いた。
「そっちが後回しかよ」
先生は教室の扉の方に声をかけた。
「じゃあ、暁美さん、いらっしゃい」
扉が開いた。
入ってきたのは、長い黒髪の少女だった。背が高くて、姿勢が真っ直ぐで、表情は硬く、視線は教室の一番奥を見ていた。
「うわ、すげぇ美人」
さやかが思わず呟いた。
まどかは、その少女を見た瞬間、息を呑んだ。
うそ、まさか。
朝の夢の中にいた、黒い髪の少女と、目の前の転校生が、どうしてか、重なった。
「はい。それじゃ自己紹介いってみよう」
少女は教壇の前で、短く、平坦な声で言った。
「暁美ほむらです。よろしくお願いします」
ほむらの視線が、一瞬、まどかの方を向いた。
まどかの胸が、どくん、と一度、大きく跳ねた。
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一時間目が終わって、休み時間になった。
暁美さんの周りに、クラスの女子たちが集まっていた。「前はどこの学校だったの?」「部活は?」「凄い綺麗な髪だよね、シャンプーは何使ってるの?」
みんな興味津々だった。暁美さんはそれに一つずつ、淡々と答えていた。
仁美が、まどかに小声で話しかけた。
「不思議な雰囲気の人ですよね。暁美さん」
「ねぇまどか。あの子知り合い? なんかさっきおもいっきりガン飛ばされてなかった?」
さやかも、少し不思議そうに、まどかの顔を覗き込んだ。
「いや、えっと」
まどかは、どう答えていいかわからなかった。知り合いではない。でも、知らない、とも言い切れない。朝の夢のことは、さやかにも仁美にも、まだ話していなかった。
その時、暁美さんが、急に、少しだけよろめいた。
「ごめんなさい。なんだか緊張しすぎたみたいで。ちょっと、気分が。保健室にいかせて貰えるかしら」
周りの女子たちが慌てた。
「え、あ、じゃあ私が案内してあげる」
「私もいくいく」
「いえ、お構いなく。係の人にお願いしますから」
暁美さんは、そう言って、まっすぐ、まどかの方を見た。
「鹿目まどかさん。あなたがこのクラスの保健係よね」
まどかは、びっくりして、椅子から少し腰を浮かせた。
「え、えっと。あの」
「連れてってもらえる? 保健室」
暁美さんの声は、柔らかいけれど、断らせないような何かがあった。まどかは慌てて立ち上がった。
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廊下を歩きながら、まどかは、暁美さんと少しだけ距離を置いて歩いていた。
「あ、あの。その、私が保健係って、どうして」
「早乙女先生から聞いたの」
「あ、そうなんだ。えっとさ、保健室は」
「こっちよね」
暁美さんは迷わずに、右に曲がった。まどかは立ち止まった。
「え、うん。そうなんだけど。いや、だから、その、もしかして、場所知ってるのかなって」
暁美さんは何も答えずに、先を歩いていった。
まどかは追いかけながら、思い切って、もう一度、声をかけた。
「あ、暁美さん」
「ほむらで良いわ」
「……ほ、ほむらちゃん」
「何かしら?」
まどかは、少しだけ、緊張した。
「あぁ、えっと、その、変わった名前だよね」
言ってしまってから、まどかは慌てた。
「いや、だから、あのね。へ、変な意味じゃなくてね。その、カッコイイな、な、なんて」
ほむらは、廊下の途中で立ち止まった。
そして、振り返って、まどかを真っ直ぐ見た。
「鹿目まどか」
ほむらの声が、さっきよりも、ずっと低く、ずっと真剣だった。
「あなたは自分の人生が尊いと思う? 家族や友達を大切にしてる?」
まどかは、その問いに戸惑った。でも、答えなくちゃいけない気がした。
「え、えっと、わ、わたしは、大切、だよ。家族も、友達のみんなも、大好きで、とっても大事な人達だよ」
「本当に?」
「ほんとうだよ。嘘のわけないよ」
ほむらは、しばらくまどかを見ていた。その目は、悲しそうで、同時に、何かを見通しているようで、まどかには読み取れなかった。
「そう」
ほむらは、それから、一言ずつ、ゆっくりと言った。
「もしそれが本当なら、今とは違う自分になろうだなんて絶対に思わないことね。さもなければ、すべてを失うことになる」
「え」
「あなたは、鹿目まどかのままでいればいい。今まで通り、これからも」
まどかは、その言葉の意味がわからなかった。何を言われているのかも、どうしてほむらがそんなことを言うのかも、全くわからなかった。
ほむらは、それ以上何も言わずに、保健室の扉を開けて、中に入っていった。
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午後、体育の授業中、まどかとさやかは見学席にいた。
校庭で、暁美さんが走っていた。
「け、県内記録じゃないあれ」
体育教師が驚愕した声を上げた。
「えぇ、なにそれ?」
さやかが驚いて、まどかを見た。まどかも首を傾げた。暁美さんは、さっきまで保健室で具合が悪いと言っていた人とは思えないくらい、速く、軽やかに走っていた。
「訳分かんないよね」
「文武両道で才色兼備かと思いきや、実はサイコな電波さん。くう、どこまでキャラ立てすりゃ気が済むんだ、あの転校生は。萌か。そこが萌なのか」
さやかは相変わらず、ネタにしていた。
仁美が横から、少し真剣な顔で口を挟んだ。
「まどかさん。本当に暁美さんとは初対面ですの?」
「うーん。常識的にはそうなんだけど」
「なにそれ。非常識なとこで心当たりがあると?」
まどかは、少しだけ迷って、朝の夢のことを話した。
「あのね、夕べあの子と夢の中で会ったような」
「すっげえ。まどかまでキャラが立ち始めたよ」
「ひどいよ。私真面目に悩んでるのに」
「あぁ、もう決まりだ。それ前世の因果だわ。あんたたち、時空を超えてめぐり合った運命の仲間なんだわ」
さやかは大げさに両手を広げた。仁美はくすりと笑った。
「夢って、どんな夢でしたの?」
「それが、なんだかよく思い出せないんだけど。とにかく変な夢だったってだけで」
「もしかしたら、本当は暁美さんと会ったことがあるのかもしれませんわ」
「え?」
「まどかさん自身は覚えていないつもりでも、深層心理には彼女の印象が残っていて、それが夢に出てきたのかもしれません」
「それ出来過ぎてない? どんな偶然よ」
さやかが笑った。仁美も頷いた。
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放課後になって、三人は昇降口で一緒に帰る準備をしていた。
「あら、もうこんな時間。ごめんなさい、お先に失礼しますわ」
仁美が時計を見て、慌てて帰っていった。今日はお茶のお稽古らしい。
「私たちも行こっか」
「うん、まどか帰りにCD屋に行ってもいい?」
「良いよ。また上条くんの?」
「まあね」
まどかとさやかは、校門を出て、いつものショッピングモールに向かった。
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ショッピングモールは、いつも通り賑わっていた。平日の放課後でも、人が行き交い、店内に流れる音楽、子供の声、買い物客の話し声。見滝原で一番大きな複合施設で、CD屋も、本屋も、雑貨屋も、全部ここに入っていた。
まどかとさやかは、エスカレーターで二階に上がって、奥のCD屋に入った。
さやかは、クラシックのコーナーに真っ直ぐ向かった。上条くんに聴かせたいCDがあるらしい。まどかはそれをちらりと見てから、自分はJ-POPのコーナーの方に行った。試聴用のコーナーに、最近話題の曲が並んでいた。まどかはヘッドホンを一つ手に取って、耳に当てた。
音楽が、まどかの耳の中を満たした。軽やかなピアノと、女の子のボーカル。まどかはリズムに合わせて、小さく頭を揺らした。
その時だった。
音楽の中に、音楽ではない、別の声が混じって聞こえた。
《助けて》
まどかは、ヘッドホンを外した。
店内の音が一度に流れ込んできた。店内BGM、店員の声、他のお客さんの話し声。でも、そのどれとも違う声が、さっきのヘッドホンの中の音楽と重なっていたはずだった。
ヘッドホンを付けていない今も、その声は、まどかの頭の中に続いていた。
《助けて。まどか》
まどかの胸が、どくん、と跳ねた。
ヘッドホンの外側からではなかった。内側からでもなかった。直接、頭の中に響いていた。
《僕を、助けて》
まどかは辺りを見回した。CD屋の中には、普通のお客さんと、試聴コーナーで音楽を聴いている人たちと、レジで会計している人がいた。誰も、変な様子はなかった。誰にも、あの声は聞こえていない。
「さやかちゃん」
まどかはクラシックコーナーに戻って、さやかを呼んだ。さやかも、ちょうどヘッドホンを外したところだった。
「まどか、今の、なに」
さやかの顔を見て、まどかは気づいた。さやかにも、聞こえたのだ。
「聞こえたの?」
「うん。なんか、頭の中に、直接……」
《助けて》
また声が響いた。今度はまどかもさやかも、同時に、同じ方向を見た。CD屋の入り口の方。そこから少し先、通路の奥の方から聞こえていた。
「誰、誰なの?」
まどかが呟いた。
《どこにいるの? あなた誰?》と心の中で問いかけたけれど、返ってくるのは、同じ呼び声だけだった。
《助けて》
《助けて》
まどかとさやかは、顔を見合わせた。
「行ってみよっか」
「うん」
二人は、CD屋を出て、声の方向に歩き始めた。
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通路の奥に進むと、だんだん人通りが少なくなった。閉店したテナントの空きスペース。改装中の区画。立入禁止の札と、工事中の黄色いテープが張られたエリアが見えてきた。
声は、その向こうから聞こえていた。
まどかは、立入禁止の札の前で、一瞬ためらった。でも、声はまだ呼んでいた。まどかはテープをくぐった。
工事中の通路は、薄暗かった。剥き出しの配管、養生シート、積み上げられた資材。そしてその中の、コンクリートの床の上に、何かが倒れていた。
「あ……」
まどかは思わず駆け寄った。さやかは少し遅れて、テープの手前で立ち止まっていた。「まどか、ちょっと待って」というさやかの声が、後ろから聞こえた気がした。でもまどかは、もう振り返れなかった。
それは、白い、小さな生き物だった。四本足の、長い耳の、赤い目の生き物。傷ついていて、横たわっていて、小さく震えていた。
「この子……」
まどかはしゃがんで、そっとその生き物を両手で抱き上げた。生き物は弱々しく、まどかの腕の中に身を委ねた。
《ありがとう》
頭の中に、声が届いた。さっきの声と同じ、小さな、弱々しい声。
「あなたが、呼んでたの?」
まどかは小さく問いかけた。生き物は答えなかった。ただ、目を細めて、まどかを見つめていた。
その時だった。
「そいつから離れて」
冷たい声が、背後から響いた。
まどかは振り返った。
暁美ほむら。
ほむらが、薄暗い通路の入口に、立っていた。手に、何か黒いものを握っていた。銃のような、長い筒のような。
「ほむらちゃん」
「そいつから離れて」
ほむらはもう一度、同じ言葉を繰り返した。
「だ、だって。この子、怪我してる。だ、だめだよ。ひどいことしないで」
まどかは、腕の中の生き物を、無意識にぎゅっと抱きしめた。
「あなたには関係ない」
「だってこの子、私を呼んでた。聞こえたんだもん。助けてって」
ほむらは、まどかの言葉に、わずかに目を細めた。その目の奥で、何かが一瞬、揺れた。
「そう」
ほむらの手が、少しだけ動いた。銃口を、まどかの腕の中の生き物に向けた。
その時だった。
「させるかーっ!」
通路の脇から、さやかの声が響いた。同時に、白い噴霧が広がった。粉の雲が、ほむらの身体を包み込んだ。
消火器だった。さやかが、いつの間にか壁際に置いてあった消火器を取って、ほむらに向かって全力でぶっかけたのだった。
「げほっ──!」
ほむらが咳き込んで、一歩後ろに下がった。粉に巻かれて、視界が利かなくなったのが見えた。
「まどか、こっち! 逃げるよ!」
さやかがまどかの腕を掴んだ。
「う、うん!」
まどかは生き物を抱えたまま、立ち上がった。さやかに引っ張られて、二人は逆方向に走り出した。背後で、ほむらが何か叫んだような気がした。でも振り返る余裕はなかった。
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工事中の区画を抜けて、二人は通路を走った。閉店したテナントの並び、薄暗い廊下、人気のないエスカレーターホール。どこを走っているのか、まどかにはもう、よくわからなかった。さやかが先に走っていて、まどかはその後を必死についていった。腕の中の生き物は、ぐったりしていた。
「さやかちゃん、どこに行くの」
「わかんない、とにかく人がいる方に、っていうか、あいつから離れる方に!」
二人は走った。走って、角を曲がって、また走って。
──気がつくと、辺りの様子が、おかしかった。
「あれ……」
まどかは足を止めた。
通路の壁が、歪んでいた。さっきまで普通のショッピングモールの通路を走っていたはずなのに、今、二人がいる場所は、もう、ショッピングモールではなかった。天井が高くなって、壁の色がおかしくて、光の向きが複数あって、影が変な方向に伸びていた。床には見たことのない模様が描かれていた。
「変だよ、ここ……」
まどかが呟いた。
「ああもう、どうなってんのさ」
さやかも、辺りを見回しながら、声を震わせていた。
「あ、何かいる」
まどかが小さく声を上げた。
通路の奥に、何か、異様なものが蠢いていた。頭のない、腕だけが異様に長い、飛び跳ねる姿。一つではなかった。いくつも、いくつも、影の中から湧き出てきた。
「冗談だよね。私、悪い夢でも見てるんだよね。ねぇ、まどか」
さやかが、声を震わせた。
異様なものたちが、二人に近づいてきた。逃げ場はなかった。まどかは腕の中の生き物を、ぎゅっと抱きしめた。
「あ、あれ」
さやかが呟いた。
その時だった。
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鋭い音が空を切って、異様なものたちの動きが、一斉に、止まった。
金色の、長いリボン。いくつものリボンが、どこからか飛んできて、異様なものたちをそれぞれ絡め取っていた。
まどかは、空を見上げた。
空間の奥から、一人の少女が、ゆっくりと歩いてきた。
白いブラウスに、焦茶のコルセット。腰から広がる山吹色のフレアスカート。白い長手袋に、膝上までの濃い色のロングブーツ。頭には黒いベレー帽。その前に、花をかたどった飾りの中心で、琥珀色の宝石が小さく光を放っていた。金色の長い髪は、両脇で大きなドリル状にカールして揺れていた。少女は、まどかとさやかの前に立った。
綺麗だった。
綺麗で、強くて、優しそうだった。
「危なかったわね。でも、もう大丈夫」
少女の声は、柔らかかった。
まどかの腕の中で、小さな生き物が、弱々しく声を上げた。少女はそれに気づいて、微笑んだ。
「あら、キュゥべえを助けてくれたのね。ありがとう。その子は私の大切な友達なの」
まどかは、慌てて説明しようとした。
「わたし呼ばれたんです。頭の中に直接この子の声が」
「ふぅん。なるほどね」
少女はまどかの制服を、少し見た。
「その制服、あなたたちも見滝原の生徒みたいね。二年生?」
さやかが聞き返した。
「あなたは?」
「そうそう、自己紹介しないとね。でも、その前に」
少女は、微笑みを深くした。
「ちょっと一仕事片付けちゃって良いかしら」
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少女は片手を振った。いつの間にか、もう一方の手に、古風なマスケット銃が握られていた。
少女は、銃を構えて、軽やかに動き始めた。戦いというより、踊りのような動きだった。一発、また一発、銃声が響くたびに、異様なものたちが一つずつ、消えていった。
「す、すごい」
まどかは息を呑んだ。
「も、もどった」
さやかが呟いた。気がつくと、辺りは、元のショッピングモールの通路に戻っていた。歪んだ壁も、変な模様も、異様なものたちも、全部、跡形もなく消えていた。
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少女は銃を下ろして、振り返った。
その視線の先に、ほむらが立っていた。通路の少し離れた場所に立っていた。ほむらは黙って、少女を見ていた。
少女はほむらに向かって、静かに言った。
「魔女は逃げたわ。仕留めたいなら直ぐに追いかけなさい。今回はあなたに譲ってあげる」
ほむらは、少女を睨むように見つめた。
「私が用があるのは」
「飲み込みが悪いのね。見逃してあげるって言ってるの」
少女の声は柔らかいままだった。でも、その柔らかさの中に、明確な線があった。譲る代わりに、ここから去ってほしい、という線。
「お互い、余計なトラブルとは無縁でいたいと思わない?」
ほむらはしばらく、少女を見ていた。それからほむらは、何も言わずに、身を翻して、ショッピングモールの奥の方に走り去った。
まどかとさやかは、ただ、その背中を見送った。
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まどかの腕の中で、小さな生き物が、ようやく少し動いた。
《ありがとうマミ。助かったよ》
頭の中に、直接、声が届いた。
少女──マミさんは、微笑んで、まどかの方を向いた。
「お礼はこの子たちに。私は通りかかっただけだから」
生き物は、まどかの腕の中から、ぴょんと飛び降りて、振り返った。
《どうもありがとう。僕の名前はキュゥべえ》
まどかは、まだ少し怯えながら、尋ねた。
「あなたが、私を呼んだの?」
《そうだよ、鹿目まどか。それと美樹さやか》
さやかが、びっくりして声を上げた。
「なんで私たちの名前を?」
《僕、君たちにお願いがあって来たんだ》
「お、お願い?」
《僕と契約して、魔法少女になって欲しいんだ》
まどかとさやかは、顔を見合わせた。契約。魔法少女。頭の中に直接届く、この不思議な生き物の声。今日、一日で、あまりにも多くのことが起きすぎていた。
マミさんは、そんな二人を見て、柔らかく微笑んだ。
「色々と、わからないことも多いでしょう。もしよかったら、うちでお茶でもしながら、ゆっくり話さない?」
まどかとさやかは、もう一度、顔を見合わせた。さやかは目を輝かせていた。まどかも、断る理由は思いつかなかった。
「はい、お願いします」
マミさんはもう一度、柔らかく微笑んだ。
その微笑みの端に、何か、ほんの一瞬だけ、別のものが混じったような気がした。
でもまどかは、それが何かを考える前に、その一瞬を忘れた。
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マミさんの家は、マンションの高層階だった。
玄関のドアを開けて中に入ると、広いリビングが見えた。丸いガラステーブル、ソファ、壁際の小さな本棚。紅茶を淹れる時に使うらしいワゴン。全体的に、綺麗に片付いた、少女らしい部屋だった。
マミさんはガラステーブルの前に立って、二つ並んだ椅子を見た。一瞬、ほんの一瞬だけ、その片方に目を留めた。それから、その椅子を指した。
「どうぞ、そこに座って」
まどかは、マミさんが指した椅子に座った。さやかがもう一方の椅子に座った。マミさんは、テーブルの向かい側の、自分の椅子に座った。
まどかが座った椅子は、背もたれがきちんとしていて、座り心地のいい椅子だった。でも、なぜか、少しだけ、冷たかった。長く誰も座っていなかった、という感じの冷たさ。気のせいかもしれなかった。
マミさんはキッチンに入って、紅茶の準備を始めた。
まどかとさやかはリビングで待ちながら、部屋の中を見渡した。さやかは「すっごい、綺麗な部屋!」と小さく呟いた。まどかもそう思った。でも同時に、まどかは、この部屋の中にある何か、言葉にできない感じを、薄く感じていた。
誰かが、前にここに、いた気がする、という感じだった。でもそれが何のことなのかは、まどかにはわからなかった。
「お待たせしたわね」
マミさんが紅茶を運んできた。三人分のティーカップと、ショートケーキ。ストロベリーの、生クリームがふわふわの、綺麗なケーキだった。
「わあ、美味しそうです!」
さやかが目を輝かせた。まどかも頷いた。
マミさんは、紅茶を注いで、ケーキを取り分けた。その動きは丁寧で、無駄がなくて、こういうことに慣れていることがわかった。でもまどかは、マミさんがケーキを切り分ける時、フォークを持つ手が、ほんの一瞬、何かを思い出すように止まったのを、視界の端で見た気がした。
「どうぞ」
マミさんが紅茶とケーキを、まどかとさやかの前に置いた。
「いただきます!」
さやかは元気に、ケーキを一口食べた。まどかもフォークを取って、ケーキを口に運んだ。
美味しかった。生クリームは軽くて、苺は酸味と甘味のバランスが絶妙で、スポンジはふわふわで。まどかは思わず、「美味しいです」と言った。
マミさんが、嬉しそうに、小さく微笑んだ。
その微笑みが、少しだけ、ゆっくりだった。一秒、二秒、遅れて、微笑みが顔に広がった。でも、まどかはその遅れに、深く注意を払わなかった。マミさんの微笑みは、そのあと普通の明るさに戻った。
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お茶を飲みながら、マミさんは、魔法少女のことを話してくれた。
魔女という存在のこと。魔女は人の負の感情から生まれて、人を不幸にすること。キュゥべえと契約した者だけが、魔女と戦える魔法少女になれること。契約の時には、一つ、どんな願いでも叶えてもらえること。
まどかとさやかは、真剣に聞いた。さやかは時々、興奮して質問を投げた。「本当に、どんな願いでも?」「魔女は、どこにでもいるんですか?」「私たちも、魔法少女になれるの?」
マミさんは一つ一つ、丁寧に答えた。その答え方は、年上の先輩が、後輩に物事を教える時の、あの柔らかさに満ちていた。まどかは、マミさんのことを、素敵な人だと思った。
「でも、ね」
マミさんが、少し声のトーンを落とした。
「魔法少女になるかどうかは、よく考えて決めてね。契約は、取り消せないから。一度決めたら、一生、その選択を背負うことになる」
マミさんは、まどかとさやかの顔を、一人ずつ、ゆっくりと見た。
「願いを叶えることと引き換えに、魔女と戦う使命を背負う。それは、簡単なことじゃないのよ」
まどかは、その時のマミさんの目に、何か、とても遠いものを見るような光があったのに気づいた。
それは、マミさん自身が背負っている、何かのように見えた。
でもまどかは、それが何なのか、訊けなかった。訊いていいことではない気がした。
「もしよかったら」
マミさんは、少しだけトーンを戻して、微笑みながら言った。
「明日からでも、私の魔女退治に、一緒についてきてみない? 見学だけ。それで、考えてから決めてくれたら、いいのよ」
「はい!」
さやかは即答した。まどかも、少し遅れて頷いた。
マミさんは嬉しそうに、「じゃあ、明日の放課後に、待ち合わせね」と言った。
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帰り際、まどかは玄関でふと、足元を見た。
玄関の隅に、靴が揃えて置いてあったように見えた。でも、実際には何も置かれていなかった。まどかは、気のせいだと思って、首を振った。
「ありがとうございました、マミさん」
まどかとさやかは、玄関で頭を下げた。マミさんは、「いいのよ、こちらこそ、来てくれてありがとうね」と、柔らかく応えた。
ドアが閉まる直前、まどかはマミさんの顔をもう一度見た。マミさんは微笑んでいた。でも、その微笑みは、ドアが閉まる瞬間に、ほんの少しだけ、別のものに変わった気がした。
ドアは閉まった。
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マミさんのマンションを出た時、外はもう夕方だった。
「すごかったね、まどか!」
さやかは興奮していた。魔法少女、魔女、契約、願い。さやかの頭の中は、そういう新しい言葉でいっぱいだった。まどかも、まだ頭が整理できていなかった。
「さやかちゃん、あのね、まだ決められないよね、こういうことは」
「うん、まあね。でもさ、ちょっとワクワクしない? だってさ、どんな願いでも叶うんだよ?」
まどかは頷いた。でも頷きながら、頭の中には、マミさんの、あの「遠くを見るような目」が残っていた。
契約は、簡単なことじゃない。マミさんはそう言った。きっと、マミさん自身が、それをよく知っているのだろう、とまどかは思った。
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さやかと別れた後、まどかは一人で家に向かう道を歩いた。
街の中は、夕日で赤く染まっていた。歩いている人、自転車に乗っている人、買い物袋を下げている人。みんな、それぞれの場所に帰っていく夕方だった。
まどかは住宅街の方に曲がった。少し遠回りだったけれど、たまにこの道を通るのが好きだった。静かな道で、考え事をしながら歩くのに向いていた。
途中、まどかはある家の前を通った。
普通の、小さな、どこにでもある家だった。二階建ての、少し古い、白い壁の家。表札には、小さく名前が書かれていた。「冬野」と。
まどかは、その表札の前で、なぜか、一瞬、足を止めた。
理由はわからなかった。ただ、その家の前を通り過ぎる時、何か、誰かがこの家の中にいるという気配を、強く感じたから。そして、その気配が、どこか、とても静かで、とても重いもののような気がしたから。
まどかは首を傾げた。
知らない家だった。知らない表札だった。なのに、なぜか、胸の中に何か小さな引っかかりが残った。
まどかはもう一度、その家を見上げた。二階の窓には、明かりがついていなかった。一階のどこかの窓から、かすかに、光が漏れていた。人が、いるのだ。でも、その光は、どこか、生きている家の明かりとは違う、もっと鈍い、もっと沈んだ光のように見えた。
まどかは、それ以上じっと見ているのは悪い気がして、歩き出した。
家に帰るまでの道、まどかはずっと、なぜか、さっきの家のことを頭の隅で考えていた。
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その夜、暁美ほむらは、見滝原の街を一人で歩いていた。
長い黒髪が、夜風で少しだけ揺れていた。ほむらの歩き方は、目的のある歩き方ではなかった。街を確かめるような、記憶と照合するような、そういう歩き方だった。
ほむらは、今日、何度目かの四月中旬を迎えていた。何度目かの転校初日。何度目かの、鹿目まどかとの出会い。
時間を遡行するたびに、微細な違いが生じる。それは仕方のないことだった。でもほむらは、その違いをできる限り正確に把握しようとしていた。まどかを守るために。
そして今日、ほむらは一つ、気になる違いに気づいていた。
巴マミ。
今日のショッピングモールの廃棄区画で、まどかとさやかを救った、あの先輩。ほむらは、結界の中でマミと直接顔を合わせた。「魔女は逃げたわ。今回はあなたに譲ってあげる」と、マミはほむらに言った。過去のループでも、同じ場面、同じやり取りがあった。マミの言葉も、表情も、ほとんど変わらないはずだった。
でも、何かが違っていた。
過去のループのマミの目には、もっと、迷いのない光があった。華やかな先輩として、自分の役割を疑わない、あの目。それが今日のマミの目には、わずかに、影が差していた。魔女を譲る時の、あの一瞬の視線の奥に、何か別のことを考えているような遠さがあった。
ほむらは、その違いが何から来ているのかを、知らなかった。
知らないまま、歩いていた。
夜の住宅街を抜けて、ほむらは川沿いの道に出た。川の上を、冷たい風が吹いていた。ほむらは川の方を見ながら、歩みを止めなかった。
まどかを守ること。
ほむらの頭の中には、その一つの目的だけがあった。巴マミの目の影は、今のほむらにとっては、些細な違和感の一つに過ぎなかった。記録はする。でも、追究はしない。今のほむらの優先順位の中で、その違和感は、まだ高くなかった。
ほむらは夜の街を、静かに歩き続けた。
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家に帰り着いた時、まどかは玄関の前で、もう一度、今日のことを振り返った。
転校生の暁美さん。保健室の前で言われた言葉。放課後のショッピングモール。あの異様な空間。マミさんと、紅茶と、ケーキ。そして、帰り道で、なぜか足を止めた、あの家。
色々なことが、一日に重なりすぎていた。
まどかは、全部を一度に考えるのをやめて、ドアを開けた。
「ただいまー」
中から、パパの声が返ってきた。「おかえり」。いつも通りの、明るい、あたたかい声だった。まどかはその声に迎えられて、靴を脱いで、家に上がった。
パパの声が、どれだけあたたかいか、まどかは改めて感じていた。
今日の自分が、なぜこんなことを感じているのか、まどかにはわからなかった。ただ、今日、マミさんの家で見た綺麗な部屋と、帰り道で見た白い壁の家と、この自分の家と、三つが頭の中で並んでいた。並んでいて、何かが違っていた。
まどかは、それ以上深く考えるのをやめた。
パパも、たつやも、ママも家にいる。今日は家族みんなで夕ご飯の日。それが、まどかのいつもの日常だった。
──明日の放課後、マミさんと、魔女退治の見学。
まどかは、その約束を頭の片隅に置いたまま、リビングに向かった。