紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF) 作:LongLong
第5話「届かない手」
マミさんの魔女退治は、まどかが想像していたものとは、少し違っていた。
もっと怖いものだと思っていた。暗くて、危なくて、血が出て、痛くて、そういうもの。でも実際には、マミさんが戦う姿は、怖いというより、綺麗だった。
金色のリボンが空を走る。マスケット銃が次々と生み出される。使い終わった銃を惜しげもなく捨てて、新しい銃を掴む。その動きの一つ一つが、無駄がなくて、軽やかで、まるで最初から振り付けが決まっていたみたいだった。
「ティロ・フィナーレ」
マミさんの決め技が、結界の奥で光った。一瞬の後、魔女が消えた。結界が崩れて、元の見滝原の街並みが戻ってきた。
「お疲れさまです、マミさん!」
さやかちゃんが駆け寄った。まどかも小走りでマミさんの方に向かった。
マミさんは変身を解いて、見滝原中学の制服姿に戻っていた。少しだけ息が上がっていたけれど、すぐにいつもの穏やかな笑顔を見せた。
「二人とも、怖くなかった?」
「全然! かっこよかったです、マミさん!」
さやかちゃんは興奮していた。まどかも頷いた。怖くなかった、というのは嘘ではなかった。マミさんが戦っている間、まどかは確かに怖くなかった。マミさんがいれば大丈夫だ、と思えたから。
「グリーフシード、落としてくれたわ。今日はいい日ね」
マミさんは小さな黒い種のようなものを拾い上げて、微笑んだ。
帰り道、三人で並んで歩きながら、さやかちゃんがまた質問を始めた。
「ねえマミさん、あの銃って何発でも出せるんですか?」
「ええ、魔力が続く限りはね」
「すっごいなぁ。私もああいう武器がいいな。剣とか」
「ふふ、武器は契約した時の願いや適性で決まるの。自分で選べるわけじゃないのよ」
まどかは少しだけ後ろを歩きながら、二人の会話を聞いていた。
魔法少女。魔女。契約。願い。
まどかの頭の中には、いくつもの言葉が回っていた。マミさんは「よく考えて決めてね」と言った。契約は取り消せない、と。
でも、まどかは思っていた。もし自分が魔法少女になれたら。もし自分にも、あんなふうに誰かを守る力があったら。今まで何もできなかった自分が、何かをできるようになるかもしれない。
その「何か」が具体的にどんなものなのかは、まだわからなかった。ただ、漠然とした気持ちだけが、胸の中で温かく膨らんでいた。
-----
翌日の学校は、いつも通りだった。
一時間目が終わって、休み時間。さやかちゃんと廊下を歩きながら、昨日の魔女退治の話を小声でしていた。
「ねえまどか、願い事決めた?」
「まだ……。さやかちゃんは?」
「あたしもまだ。でもさ、どんな願いでも叶うって、すごくない? 何にしようか考えるだけでワクワクするよ」
さやかちゃんは嬉しそうに笑った。まどかも笑い返した。
その時、まどかの視界の端に、何かが引っかかった。
廊下の壁際を、一人の生徒が歩いていた。
歩いていた、というより、壁に沿って移動していた。背を少し丸めて、視線を下に落として、他の生徒たちの流れから外れた位置で、壁ぎわを静かに歩いていた。長い黒髪が、前に垂れて顔を隠していた。
まどかは、その生徒のことを、前から見かけていた気がした。でも、今まで意識したことがなかった。廊下の風景の一部になっていて、誰の目にも止まらない。そういう歩き方をしていた。
今日、初めて、その子が目に入った。
なぜ今日なのかは、わからなかった。マミさんの世界を知ったからかもしれない。魔女の結界の中で怯えている人を見たからかもしれない。あるいは、「誰かの役に立ちたい」という気持ちが、まどかの目を変えたのかもしれなかった。
その子は、廊下の突き当たりで、階段の方に曲がっていった。まどかはその背中を見送った。
「まどか? どした?」
「ううん、なんでもない」
さやかちゃんに首を振って、まどかは教室に戻った。
-----
次の日も、その子を見かけた。
昼休みの廊下。今度は反対方向から歩いてきた。
すれ違う瞬間、まどかは初めて、その子の顔を少しだけ見た。前髪の下に、黒い瞳があった。細い顔。唇の色が薄い。すれ違った時、まどかの方を見ていなかった。下を向いたまま、まどかの横を通り過ぎていった。
制服は同じだった。見滝原中学の制服。でも、少しだけ大きく見えた。身体に対して、制服の方が一回り余っている感じ。
まどかは振り返った。その子はもう廊下の向こうを歩いていた。壁際を。
-----
その日の放課後、またマミさんの魔女退治に同行した。
今日の魔女は、前回より手強かった。結界の中が暗くて、マミさんのリボンが一度、弾かれた。まどかの心臓が、どくん、と鳴った。でもマミさんはすぐに体勢を立て直して、別の角度から銃を構えた。
「大丈夫よ。見ていて」
マミさんは振り返らずに言った。その声は落ち着いていた。
マミさんが魔女を倒した後、まどかはふと思った。
マミさんは、魔女を倒せる。使い魔も、結界も、全部、マミさんの力で消せる。マミさんが戦えば、誰かが助かる。
でも、今日、廊下で見たあの子のことを、マミさんは知っているだろうか。
壁際を歩く、あの子。前髪で顔を隠している、あの子。制服が少し大きい、あの子。
あの子の周りには、魔女はいない。結界もない。使い魔もいない。でも、あの子の歩き方には、何か、まどかの胸を引っかくものがあった。
魔法で倒せるものと、魔法では倒せないもの。
まどかの頭の中で、その二つが、ぼんやりと並んだ。
-----
金曜日の朝、まどかは少しだけ早く家を出た。
理由は、自分でもよくわからなかった。ただ、あの子が朝、どの時間に学校に来ているのか、気になっていた。
昇降口に着いた。まだ生徒はまばらだった。
靴を履き替えて、教室に向かう廊下を歩いていると、向こうから、あの子が歩いてきた。壁際を。いつもと同じ歩き方で。
まどかは、立ち止まった。
心臓が少しだけ速くなった。何を言えばいいか、考えていなかった。ただ、このまま何も言わずにすれ違うのは、嫌だと思った。
あの子が近づいてきた。三メートル、二メートル。
「あの」
まどかは声を出した。
あの子の足が、止まった。
肩が、小さく上がった。呼吸が浅くなったのが、その肩の動きでわかった。
まどかを見なかった。顔は下を向いたまま。でも、目だけが、少し動いた。まどかの顔ではなく、まどかの手の方に。
まどかは、右手を軽く挙げようとしていた。小さく手を振って、「おはようございます」を言おうと思っていた。
でも、手を挙げかけた瞬間、あの子の肩がびくりと跳ねた。
はっきりと。
声をかけられた、というだけでは説明のつかない反応だった。手が動いた、ということに対する反応だった。
まどかは、手を止めた。
挙げかけた手を、ゆっくりと下ろした。
「……おはようございます」
手を動かさずに、声だけで言った。
あの子は、動かなかった。足が止まったまま、壁際で、前髪の下からまどかの手を見ていた。まどかの手が動かないことを、確かめるように。
数秒が経った。
まどかの手が動かないことを確認してから、あの子の肩が、少しだけ下がった。呼吸が、ほんのわずかに、戻った。
でも、返事はなかった。
あの子は、まどかの横を、通り過ぎていった。壁際を、静かに。足音がしないくらい、静かに。
まどかは、その背中を見送った。
手を、見ていた。
この子は、まどかの顔ではなく、手を見ていた。手が何をするかを、見ていた。
まどかは自分の右手を見下ろした。何も持っていない、普通の手。誰かを叩いたことのない手。誰かを傷つけたことのない手。
なのに、この手を挙げただけで、あの子の肩が跳ねた。
-----
教室に戻って、席についた。
さやかちゃんが話しかけてきたけれど、まどかは上の空だった。
「まどか? 聞いてる?」
「あ、ごめん。なに?」
「だから、今日の放課後もマミさんのとこ行くでしょ? って」
「うん、行く」
まどかは頷いた。でも頭の中では、さっきの廊下のことを考えていた。
あの子の肩が跳ねた瞬間。まどかの手が動いただけで。
マミさんなら、もっとうまくやれるのかもしれない。マミさんは優しくて、丁寧で、人との距離の取り方を知っている。紅茶を淹れて、ケーキを出して、柔らかく微笑んで。
でも、ふと思い出した。マミさんの家で紅茶を飲んだ時のこと。マミさんのフォークを持つ手が、一瞬、何かを思い出すように止まったこと。あの冷たい椅子のこと。玄関の隅に、靴が揃えてあったように見えて、何も置かれていなかったこと。
まどかには、その意味がわからなかった。でも、何か、つながりそうな気がした。つながりそうで、つながらない。
-----
放課後、マミさんの魔女退治に同行した。
今日は魔女が見つからなかった。ソウルジェムの反応はあったけれど、結界は開いていなかった。孵化する前のグリーフシードかもしれない、とマミさんは言った。
「今日は空振りね。ごめんなさいね、せっかく来てもらったのに」
「いえ、全然。こういう日もあるんですね」
「ええ。毎日戦うわけじゃないのよ。魔女が現れない日は、普通の女の子と同じ」
マミさんは微笑んだ。
「普通の女の子と同じ」。その言葉が、まどかの胸に残った。
マミさんは魔法少女だけど、魔女がいない日は、普通の女の子。学校に通って、紅茶を淹れて、ケーキを焼いて、一人でマンションに帰る。
普通の女の子。
まどかは、またあの子のことを考えていた。
壁際を歩く子。手を見る子。声をかけたら肩が跳ねた子。
あの子も、普通の女の子のはずだった。同じ学校に通って、同じ制服を着て、同じ廊下を歩いている。でも、何かが違った。あの子の周りにだけ、別の空気が流れていた。
「マミさん」
「何かしら?」
「……いえ、なんでもないです」
まどかは口を閉じた。マミさんに何を訊きたかったのか、自分でもわからなかった。
-----
翌週の月曜日。
まどかは、また朝の廊下で、あの子を見かけた。
今度は、声をかけなかった。声をかける代わりに、少しだけ、あの子の歩き方を見ていた。
壁に沿って歩く。肩を内側に入れて、身体を小さくして歩く。すれ違う生徒がいると、さらに壁に寄る。足音を立てない。前を見ない。下を見る。でも、すれ違う人の手だけは、視界の端で追っている。
まどかには、それが少しだけ、わかるようになっていた。顔を見ていないのに、手だけは見ている。
教室に入る前に、あの子が三年三組の教室に入っていくのが見えた。三年生だった。マミさんと同じ学年。
まどかは、自分の教室に戻った。
-----
火曜日の昼休み。
まどかは一人で、三年生のフロアの廊下を歩いていた。さやかちゃんには「ちょっとトイレ」と言って離れた。嘘ではなかったけれど、本当の理由は別にあった。
三年三組の前を通った。教室の中を、ちらりと見た。
あの子は、一番後ろの窓際の席にいた。机の上に教科書を広げていたけれど、読んでいるようには見えなかった。周りの生徒たちは昼休みを楽しんでいた。お弁当を食べている子、おしゃべりをしている子、席を立って友達のところに行く子。
その中で、あの子の席の周りだけが、静かだった。
誰も話しかけていなかった。無視されているのとは、少し違うように見えた。もっと古い、暗黙の了解のようなもの。「あの子には話しかけない」というルールが、いつの間にかできている。そういう静けさだった。
まどかは廊下から見ていた。あの子の手が、机の上で、教科書の角を小さく揃えているのが見えた。指先だけで、ほんの数ミリ、教科書の位置を直していた。
誰もそれに気づいていなかった。
まどかだけが、それを見ていた。
-----
水曜日の朝。
まどかは、もう一度、声をかけようと決めていた。
今度は手を挙げない。手をポケットに入れて、声だけで。前回、手を動かしただけであの子の肩が跳ねたから。
廊下で、あの子が歩いてくるのが見えた。壁際を。いつもと同じ。
まどかは立ち止まった。手をスカートのポケットに入れた。
あの子が近づいてきた。
「おはようございます」
まどかは、できるだけ静かに言った。
あの子の足が止まった。
今度は、肩は跳ねなかった。でも、足が止まった。下を向いたまま。
まどかの手がポケットに入っていることを、あの子は見ていた。手が見えない位置にあることを、確認していた。
「わたし、二年の鹿目まどか」
小さく言った。手は出さずに。
「同じ学校、だから。えっと、それだけなんだけど」
あの子の口が、小さく動いた。
何かを言おうとしているように見えた。唇が少し開いて、音を作ろうとして、でも、音にならなかった。
まどかは待った。
あの子も、そこに立っていた。
沈黙が続いた。五秒。十秒。まどかは待った。あの子が何かを言うのを。でもあの子は、まどかが待っていることを感じ取って、余計に動けなくなっているように見えた。
待つことが、この子にとっては圧力になっている。
まどかは、それに気づいた。気づいたけれど、どうすればいいかわからなかった。
「……じゃあ、また」
まどかは小さく言って、離れた。
離れながら、振り返らなかった。振り返ったら、あの子がまだそこに立っているのが見えてしまう。それを見るのが、なぜか、怖かった。
-----
教室に戻って、自分の席に座った。
窓の外を見た。校庭では、体育の授業をしている学年があった。走っている生徒たちが見えた。普通の、元気な、走っている生徒たち。
まどかは自分の手を見た。
ポケットに入れていた手。挙げなかった手。
マミさんは魔女を倒せる。金色のリボンで結界を裂いて、マスケット銃で魔女を撃ち抜ける。マミさんの手は、人を守る手だ。
まどかの手は、何もできない。
声をかけることはできる。「おはようございます」と言うことはできる。でも、それだけ。手を挙げれば肩が跳ねる。待てば圧力になる。離れれば、あの子はまた壁際を一人で歩く。
何をしても、届かない。
まどかの手では、届かない。
-----
木曜日の放課後、マミさんの家でお茶を飲んだ。
今日はさやかちゃんも一緒だった。マミさんが紅茶を淹れて、手作りのマドレーヌを出してくれた。
「マミさん、これめちゃくちゃ美味いです!」
「ありがとう、美樹さん。バニラの量を少し変えてみたの」
さやかちゃんは三つ目のマドレーヌに手を伸ばしていた。まどかも一つ食べた。美味しかった。マミさんのお菓子は、いつも美味しい。
まどかは紅茶のカップを両手で包みながら、マミさんの顔を見ていた。
「マミさん」
「何かしら、鹿目さん」
「あの……、学校で、気にかけている子がいるんです」
マミさんの手が、紅茶のカップの上で、止まった。
「どんな子?」
マミさんの声は穏やかだった。でも、手が止まっていた。
「えっと、三年生の子で……。いつも廊下で壁際を歩いていて、誰とも話していなくて。声をかけたんですけど、返事がなくて」
まどかは言いながら、マミさんの表情を見ていた。
マミさんは微笑んでいた。でも、その微笑みの下に、何か別のものがあった。
「それで、その子に、手を振ろうとしたら、肩が跳ねたんです。びくって」
マミさんのカップを持つ指が、わずかに、力を入れた。
「そう」
マミさんは、一拍置いて、言った。
「……気をつけてあげて」
それだけだった。
まどかは、もっと何か言ってほしかった。マミさんなら何かアドバイスをくれると思っていた。どうやって話しかければいいか、どうすればあの子を怖がらせずに済むか、何か具体的なことを。
でもマミさんは「気をつけてあげて」とだけ言って、紅茶を一口飲んだ。
さやかちゃんが口を挟んだ。
「なにそれ、まどか。また新しい子が気になってるの? ほむらの次は三年生?」
「そういうんじゃないよ。ただ、気になって」
「まどかはそういうとこあるよね。放っておけないっていうか」
さやかちゃんはマドレーヌを齧りながら笑った。
まどかは笑い返した。でも頭の中では、マミさんの手が止まった瞬間のことを考えていた。
マミさんは、何かを知っている。
あの子のことを。
でも、それを話してくれなかった。
-----
帰り道、さやかちゃんと別れた後、まどかはまた住宅街の方を回った。
あの家の前を通った。「冬野」と書かれた表札。二階建ての、白い壁の家。
今日も、二階の窓は暗かった。一階の窓から、鈍い光が漏れていた。
まどかは立ち止まらなかった。でも、通り過ぎながら、思った。
あの廊下の子と、この家と、何か関係があるのかもしれない。
根拠はなかった。ただの直感だった。
でも、まどかの胸の中で、二つの引っかかりが、少しだけ近づいた気がした。