紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF)   作:LongLong

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第6話『見えていなかったもの』

第6話「見えていなかったもの」

 

鹿目さんたちが帰った後、マミは一人でテーブルを片付けていた。

 

三人分のカップを流しに運ぶ。皿を重ねる。マドレーヌの残りをラップで包む。いつもの動き。何十回も繰り返してきた動き。

 

手が、止まった。

 

流しの中に、三つのカップが並んでいた。マミのカップ。美樹さんのカップ。鹿目さんのカップ。三つとも空だった。三人とも、紅茶を飲み干してくれていた。

 

でもマミの目は、三つのカップではなく、テーブルの方を見ていた。

 

ガラステーブルの前に、椅子が三つ並んでいた。マミの椅子。鹿目さんが座っていた椅子。美樹さんが座っていた椅子。

 

鹿目さんが座っていたのは、あの椅子だった。

 

あの子が、座っていた椅子。

 

マミはあの椅子を、片付けられないまま、ずっとテーブルの前に置いていた。あの子が来なくなった後も。使わなくなっても。ただそこに置いておくことしかできなかった。片付けたら、あの子がいなくなったことを認めることになる気がして。

 

鹿目さんは、今日もあの椅子に座っていた。きっと、何も知らずに座った。

 

あの椅子に、別の人が。それが、マミの胸の中で、何かを動かしていた。

 

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マミは流しに向き直って、カップを洗い始めた。

 

スポンジで一つずつ、丁寧に洗う。すすいで、布巾で拭いて、食器棚に戻す。戻す時、カップの取っ手の向きを揃える。マミの癖だった。

 

今日、鹿目さんが言ったことが、頭の中で繰り返されていた。

 

「学校で、気にかけている子がいるんです」

 

マミの手がカップの上で止まった瞬間のことを、マミ自身が、一番よく覚えていた。あの瞬間、マミの身体は正確に反応した。心臓が跳ねて、指先が冷たくなって、それを悟られないように、すぐに紅茶を一口飲んだ。

 

「三年生の子で……。いつも廊下で壁際を歩いていて、誰とも話していなくて」

 

壁際。

 

「声をかけたんですけど、返事がなくて」

 

返事がない。

 

「手を振ろうとしたら、肩が跳ねたんです。びくって」

 

マミは食器棚の前で、動きを止めていた。

 

カップを棚にしまう手が、空中で止まっていた。

 

知っている。

 

マミはそれを知っている。手を差し出した時に肩が跳ねることも、返事がないことも、壁際を歩くことも、全部、マミは知っている。

 

そして、マミが「気をつけてあげて」としか言えなかったことも。

 

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寝室に入って、制服を脱いで、部屋着に着替えた。

 

ベッドに座って、髪を解いた。ドリル状にカールした金色の髪は、解くと、肩よりずっと長く垂れ下がった。

 

マミは髪を梳かしながら、考えていた。

 

鹿目さんが声をかけている。あの子に。マミが壊してしまったあの子に、鹿目さんが、自分から近づこうとしている。

 

鹿目さんは知らない。マミがあの子に何をしたか。マミがあの子を招いて、紅茶を淹れて、ケーキを出して、何週間も通わせて、それで最後に「何か言いたいことがあるなら言って」と言ってしまったことを。あの子の身体が固まったことを。あの子が二度と来なくなったことを。

 

鹿目さんは知らない。だから、鹿目さんは怖がらずに近づける。

 

マミは怖い。あの子に近づくことが。もう一度同じ失敗をすることが。

 

でも、鹿目さんが近づいていることを聞いた時、マミの中に生まれた感情は、恐怖だけではなかった。

 

もう一つ、別の何かがあった。

 

鹿目さんなら、と思った。

 

鹿目さんなら、マミとは違うやり方で、あの子に届くかもしれない。マミにはできなかったことが、鹿目さんにはできるかもしれない。

 

その思いが浮かんだ瞬間、マミは自分に嫌気が差した。

 

他人にやらせようとしている。自分が失敗したことを、鹿目さんに託そうとしている。それは、先輩として最も醜い振る舞いだった。

 

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眠れなかった。

 

天井を見上げて、何度も寝返りを打った。

 

閉じた瞼の裏に、いくつもの映像が流れた。

 

街灯の下で蹲っていたあの子。マミの手の動きを目で追っていた、あの瞳。椅子の前半分にだけ座っていた姿。ケーキを一口食べて、動きが止まった瞬間。帰り際に食器を元の位置に戻していた指先。あの几帳面な動作。

 

几帳面。

 

マミは、あの時、そう思った。「几帳面な子ね」と。

 

几帳面。本当に、そうだったのだろうか。

 

マミは目を開けた。

 

暗い天井を見ていた。

 

あの子がカップを元の位置に戻していたのは、几帳面だからではなかったのかもしれない。ローファーを両手で丁寧に揃えていたのも、几帳面だからではなく。帰り際にフォークの角度まで元に戻していたのも。

 

あれは。

 

あれは、自分がここにいた痕跡を消す動きだったのではないか。

 

自分が存在した形跡を、何一つ残さないように。ここに来たことが、なかったことになるように。

 

マミは、枕に顔を押し付けた。

 

あの時は見えなかった。あの時のマミには、それが見えなかった。「几帳面な子ね」。そう思って、それで終わりだった。その動きの向こう側にあるものを、見ようとしなかった。見る力がなかった。───見たくなかった。

 

今は、見える。

 

見えるのに、もう、あの子はここにいない。

 

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翌朝、マミは少し早く学校に着いた。

 

理由を自分に問わなかった。

 

三年三組の教室の前を通る。朝のホームルームにはまだ少し時間がある。教室の中には、ぱらぱらと生徒が席についていた。

 

マミは廊下の壁際に立って、教室の中を見た。

 

一番後ろの、窓際から二列目の席。

 

冬野さんは、もう座っていた。

 

前髪を目の上まで下ろして、机の上に教科書を開いている。読んではいない。ただ、机の上の一点を見つめている。

 

マミは、その姿を見ていた。

 

以前もこうして見たことがあった。あの子が来なくなった頃。廊下から教室を覗いて、あの子がいることだけを確認して、通り過ぎた。あの時は、怖かった。見つけられて、また身体が固まるのを見ることが、怖かった。

 

今日は、違った。

 

マミは見ていた。怖さは、あった。でも、それとは別の何かが、マミの目を、あの子に留めていた。

 

あの子の右手が、机の上で、教科書の角を小さく触った。

 

指先だけで、ほんの数ミリ、教科書の位置を直した。机の端と、教科書の端を、平行に揃えた。

 

それだけの動きだった。

 

周りの生徒は誰も見ていなかった。教室の中では、前の方の席で女子が笑い合っていて、男子が机の間を歩き回っていて、朝の教室の普通の喧噪があった。その中で、後ろの窓際の席で、あの子が一人で、教科書の角を指先で揃えている。

 

マミは、その動きを見ていた。

 

以前なら、見逃していた動きだった。気づかなかった。あるいは気づいても、「几帳面な癖」で片付けていた。

 

でも今のマミには、それが違うものに見えた。

 

あの動きは、あの子にとっての、何かの秩序だった。周りが騒がしい中で、あの子だけが、自分の机の上の一点を、静かに整えている。誰にも気づかれないように。誰にも見られないように。見られていないと思っている時にだけ、あの子は動く。

 

マミは、それを見ていた。

 

見ている自分に、気づいていた。

 

-----

 

一時間目の休み時間、マミはまた三年三組の前を通った。

 

今度は、あの子が席を立つところだった。立ち上がって、教室の出口に向かって歩いていった。壁際を。いつもの歩き方で。

 

マミは廊下に出たあの子の後ろを、少しだけ離れて歩いた。

 

あの子の歩き方を、見ていた。

 

肩を内側に入れている。身体を小さくしている。足音を立てない。すれ違う生徒がいると、さらに壁に寄る。前を見ない。下を見る。

 

以前からそうだった。マミが最初にあの子を見かけた時も、きっとそうだったはずだった。でも以前のマミは、その歩き方の意味がわからなかった。「人見知りの子」「おとなしい子」。そういう言葉で片付けていた。

 

今は、違って見えた。

 

あの歩き方は、「見つからないための歩き方」ではないのか。自分の存在を消すための歩き方。廊下の壁と同化して、誰の視界にも入らないようにする歩き方。

 

そして、すれ違う生徒の手を、あの子の目は追っていた。顔ではなく、手を。腕を振って歩く生徒がいると、あの子の肩がわずかに固くなった。手が自分の近くを通り過ぎると、呼吸が一瞬、浅くなった。

 

マミは、それを見ていた。

 

以前のマミは、見えていなかった。

 

今のマミは、見えている。

 

その違いが、マミの胸の中で、静かに、重く、沈んでいった。

 

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昼休み、マミは自分のクラスの教室で弁当を食べていた。

 

一人だった。魔法少女になってから、いつも一人だった。クラスメイトと仲が悪いわけではないけれど、マミは昼食を誰かと一緒に食べる機会はほとんどなくなかった。

 

弁当を食べながら、さっき見たことを考えていた。

 

あの子の指先が教科書の角を揃える動き。あの子が廊下で他人の手を目で追う動き。あの子の肩が、腕を振って歩く生徒とすれ違うたびに固くなる動き。

 

マミは、あの子と何週間も一緒にお茶を飲んでいたのに、それが見えていなかった。

 

いや、見えていた。

 

見えていたけれど、読めていなかった。

 

食器を元の位置に戻す動きは見えていた。「几帳面」。椅子の前半分に座る姿勢は見えていた。「緊張している」。ケーキを一口食べて止まる反応は見えていた。「口に合わなかったのかしら」。

 

全部、見えていた。でも、全部、読み間違えていた。

 

マミは箸を止めた。

 

弁当の中の卵焼きを、しばらく見ていた。

 

あの子が一口だけ食べて止まったのは、口に合わなかったからではなかった。あの子が椅子の前半分にだけ座っていたのは、緊張していたからだけではなかった。あの子が食器を元に戻していたのは、几帳面だったからではなかった。

 

全部、もっと深い場所から来ていた。

 

マミには、あの時、それを見る目がなかった。見る目がないまま、「何か言いたいことがあるなら言って」と言った。見えていないのに手を差し伸べた。見えていないから、壊した。

 

今は見える。

 

見えるようになったのは、壊した後だった。

 

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放課後、マミは見回りに出た。

 

ソウルジェムの反応は薄かった。魔女の気配はない。使い魔も、結界もない。今日はおそらく、戦う必要のない夜だった。

 

それでもマミは歩いた。街灯の並ぶ通りを、ゆっくりと。制服のジャケットの下に、冷たい空気が入り込んでくる。春になりかけの、まだ少しだけ冬を引きずった夜だった。

 

歩きながら、マミは自分の手を見た。

 

この手で、リボンを操る。銃を撃つ。魔女を倒す。この手は、そういう手だった。

 

でもこの手は、あの子を壊した手でもあった。

 

紅茶を淹れた手。ケーキを切り分けた手。「何か言いたいことがあるなら言って」と言った時、テーブルの上に置かれていた手。

 

あの子は、ずっと、この手を見ていた。マミの顔ではなく、この手を。この手が次に何をするかを、見ていた。

 

今朝、廊下で、あの子が他の生徒の手を目で追っていた時、マミはようやく理解した。あの子が見ているのは、「手」だった。人の手が何をするかを、あの子はいつも見ていた。手が物を掴むか、手が何かを叩くか、手がどこに向かうか。

 

あの子にとって、手は、一番怖いものなのかもしれない。

 

マミは立ち止まった。

 

夜の商店街の、閉まった店のシャッターの前で、立ち止まった。

 

自分の両手を見た。

 

この手は、あの子を助けたくて差し伸べた手だった。でもあの子にとっては、この手は、何をするかわからない手だった。優しく差し伸べたつもりの手が、あの子の身体を固まらせた。

 

見えていなかった。

 

あの子が何を怖がっているのか、何を見ているのか、何に反応しているのか。全部、見えていなかった。

 

今日、見えた。

 

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家に帰り着いた。

 

玄関のドアを開けて、靴を脱いだ。

 

リビングに入って、テーブルの前に立った。

 

椅子が三つ並んでいた。マミの椅子と、もう二つ。今日は鹿目さんと美樹さんが座っていた。でも、そのうちの一つは、ずっと前から、別の誰かのために置かれていた椅子だった。

 

あの子が来なくなった後も、マミはその椅子を片付けられなかった。テーブルの前に、置いたままにしていた。片付けたら、あの子がいなくなったことを認めることになる気がした。かといって、その椅子を見るたびに、あの子の不在が目に入った。

 

鹿目さんは、いつもあの椅子に座っていた。

 

初めてこの家に来た日から、鹿目さんはあの椅子に座った。マミが指したから。「少し冷たい」と感じたかもしれない。それから何度か来るたびに、同じ椅子に座った。隣に美樹さんが座って、向かいにマミが座って、お茶を飲んで、魔法少女の話をして、帰っていく。そのたびに、あの椅子は少しずつ温まっていた。

 

あの子の不在だけで冷えていた椅子に、鹿目さんの体温が、少しずつ、重なっていた。

 

マミはその椅子の前に立って、手を伸ばした。背もたれに触れた。

 

冷たくはなかった。さっきまで鹿目さんが座っていた。

 

でも、その温かさは、あの子の温かさではなかった。

 

マミは手を引いた。

 

自分の椅子に座った。テーブルを挟んで、あの椅子と向かい合った。

 

紅茶は淹れなかった。ケーキも焼かなかった。

 

ただ、あの椅子を見ていた。

 

今のマミには、あの子の姿が見える。あの椅子の前半分にだけ座っていた姿。カップを両手で包んでいた姿。一口食べて止まった姿。帰り際に食器を戻していた指先。

 

全部、見える。

 

見えなかった時は、何もわからなかった。見えるようになった今は、何もできない。

 

でも、見えている、ということだけは、もう手放さないでおこう、とマミは思った。

 

見えているのに何もしない自分を、許せるかどうかはわからない。でも、見ないふりをする自分よりは、見えている自分の方が、少しだけましかもしれない。

 

マミはテーブルの上に両手を置いた。

 

自分の手を見た。

 

この手は、あの子を壊した。でも、この手は、あの子のことを一番長く見てきた手でもあった。

 

あの子の微かな動きを。あの子の指先の震えを。あの子の肩が上がる瞬間を。

 

その全部を見てきた。見ていた。読み間違えていたけれど、見ていた。

 

だから今、読み直すことができている。

 

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翌朝、マミは学校に向かう道を歩きながら、鹿目さんのことを考えていた。

 

鹿目さんが、あの子に声をかけている。手を振ろうとして、肩が跳ねて、手を引っ込めた。マミは昨日、それを聞いた。

 

鹿目さんは、マミが最初にやったのと同じことをしている。声をかけて、手を差し伸べて、届かない。

 

でも、鹿目さんとマミには、一つ、決定的な違いがあった。

 

鹿目さんは、手を引っ込めた。

 

マミは、引っ込めなかった。

 

マミは手を差し伸べ続けた。善意で、優しさで、先輩の自信で、手を差し伸べ続けた。あの子が受け取れないことに気づかずに。受け取れないのは、あの子が心を閉ざしているからだと思った。もっと優しくすれば、もっとケーキを焼けば、もっと話しかければ、いつか開くと思っていた。

 

鹿目さんは、手を引っ込めた。あの子の肩が跳ねた瞬間に、手を引っ込めた。

 

それは、マミには持てなかった種類の反射だった。

 

マミは学校に着いた。

 

鹿目さんの教室の前を通る時、鹿目さんが席について、窓の外を見ているのが見えた。何かを考えている顔だった。廊下のあの子のことを、考えているのかもしれなかった。

 

マミは通り過ぎた。

 

鹿目さんに声をかけることは、今はしなかった。「気をつけてあげて」。あれ以上のことは、まだ言えない。

 

でも、見ている。

 

マミは、見ている。

 

あの子のことも、鹿目さんのことも。見えていなかったものが、今は見えている。見えているから、怖い。見えているから、動けない。

 

でも、見えているということだけは、本当のことだった。

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