紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF) 作:LongLong
第7話「願いごと」
その日の放課後も、マミさんの家でお茶を飲んだ。
明日は、マミさんが前から追っていた魔女の結界に入る日だった。「最近、少し魔女の反応が強くなってきている気がするの」と、マミさんは言っていた。でも表情はいつも通り穏やかで、紅茶を淹れる手も、ケーキを切り分ける手も、いつもと変わらなかった。
今日のケーキは、チーズケーキだった。まどかはフォークで一口食べて、「美味しいです」と言った。マミさんは嬉しそうに微笑んだ。
さやかちゃんは、今日は少し元気がなかった。
紅茶を飲みながら、しばらく黙っていた。マドレーヌには手を伸ばしたけれど、いつもの三つ目には届かなかった。二つ目の途中で、フォークを置いた。
「マミさん」
「何かしら、美樹さん」
「あの、願い事のことなんですけど」
さやかちゃんの声は、いつもより少しだけ低かった。
「自分のためじゃない願い事って、ありですか」
マミさんは、紅茶のカップをソーサーに戻して、さやかちゃんの方を見た。
「ありよ。もちろん」
マミさんの声は柔らかかった。
「でもね、美樹さん。誰かのために願い事をする時は、自分の気持ちをよく確かめた方がいいわ」
「自分の気持ち?」
「その人を助けたいのか、それとも、その人を助ける自分でいたいのか。似ているけれど、違うものよ」
さやかちゃんは、少し考え込んだ顔をした。
「……それって、どう違うんですか?」
「助けたいなら、助けた後に何も返ってこなくても、平気でいられる。でも、助ける自分でいたいなら、相手から何かが返ってこないと、辛くなる」
マミさんは、穏やかに言った。でもまどかは、その言葉の中に、マミさん自身の何かが混じっているのを感じた。マミさんが今、一般論を話しているのではない。誰かに対して、実際にそれを経験した人の言葉だった。
さやかちゃんは黙って頷いた。
「さやかちゃん、上条くんのこと?」
まどかが、小さく訊いた。
さやかちゃんは少し驚いた顔をしたけれど、すぐに小さく笑った。
「バレてるか」
「だって、さやかちゃん、いつも」
まどかは最後まで言わなかった。さやかちゃんが「いいよ、わかってる」という顔をしたから。
マミさんは二人を見て、微笑んだ。
「美樹さん。急いで決めなくていいのよ。契約は、いつでもできるわ。でも、一度したら、戻れない」
さやかちゃんは頷いた。それから、時計を見た。
「あ、やば。今日、お見舞いの日だった」
さやかちゃんは慌てて立ち上がった。
「マミさん、ごちそうさまでした! まどか、先に帰るね」
「うん、またね」
さやかちゃんは鞄を掴んで、玄関に走っていった。ドアが開いて、「失礼しまーす!」という声がして、閉まった。
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さやかちゃんが帰って、リビングが急に静かになった。
マミさんが紅茶を淹れ直してくれた。二人分。まどかのカップに注いで、自分のカップにも注いで、テーブルを挟んで向かい合った。
窓の外は夕暮れだった。オレンジ色の光がリビングに差し込んで、ガラステーブルの上に影を作っていた。
まどかは、紅茶のカップを両手で包んでいた。
温かかった。
「マミさん」
「何かしら」
マミさんは穏やかだった。さやかちゃんがいた時と、二人になった時で、マミさんの空気が少し変わる。二人の時の方が、少しだけ、静かになる。
まどかは、ずっと考えていたことを、口にした。
「魔法少女になったら、あの子を助けられますか」
マミさんの手が、止まった。
カップを持ち上げようとしていた手が、カップの取っ手に触れたまま、止まった。
前に「気にかけている子がいるんです」と言った時と、同じ反応だった。手が止まる。でも今回は、もっと長かった。
「あの子、というのは」
「前にお話しした子です。廊下の。壁際を歩いている子」
マミさんは、しばらく黙っていた。
紅茶の湯気が、二人の間で、ゆっくりと立ち上っていた。
マミさんの表情が、一瞬だけ、揺れた。嬉しそうに見えた。鹿目さんが魔法少女になりたいと思っている。一緒に戦ってくれるかもしれない。ずっと一人で戦ってきたマミさんにとって、それがどれだけ嬉しいことか、まどかにも伝わった。
でも、その嬉しさは、すぐに別のものに変わった。
「鹿目さん」
マミさんの声は、いつもより少しだけ低かった。
「魔法少女は、魔女を倒せるわ。結界を裂いて、人を救い出せる。願い事で、誰かの怪我を治すこともできる。病気を治すことも。不可能に見えることを、可能にする力がある」
マミさんは、一つ一つ、丁寧に言った。
「でも」
マミさんは、カップから手を離した。両手を膝の上に置いた。
「あの子を救えるかどうかは、わからない」
まどかは、マミさんの顔を見ていた。
マミさんは、まどかの方を見ていなかった。テーブルの上の、まどかが座っている椅子の、少し横あたりを見ていた。
「魔法で倒せる敵と、魔法では倒せないものがあるの。魔女は倒せる。使い魔も倒せる。結界も壊せる。でも、あの子の周りにあるものは、たぶん、魔法では壊せない」
「魔法では壊せない……」
「そういう種類の、ものよ」
マミさんの声が、かすかに、震えた。震えたのは一瞬で、すぐに元に戻った。でもまどかは、その一瞬を、聞き逃さなかった。
「マミさんは」
まどかは、訊いた。
「あの子のこと、知ってるんですか」
マミさんは、長い沈黙の後、答えた。
「……少しだけ」
それ以上は言わなかった。まどかも、それ以上は訊かなかった。マミさんの「少しだけ」が、本当は「少しだけ」ではないことは、わかっていた。でも、今のマミさんに、それ以上を訊くことはできなかった。
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まどかは紅茶を一口飲んだ。
少しぬるくなっていた。
「マミさん」
「何かしら」
「わたし、まだ、何を願えばいいかわからないんです」
マミさんは、ようやくまどかの方を見た。
「さやかちゃんは、上条くんのことがある。はっきりしてる。でもわたしは、何も取り柄がなくて、何もできなくて。ただ、マミさんが戦ってるのを見て、かっこいいなって思って。わたしもああなりたいなって。でも、それだけじゃ、だめなのかなって」
マミさんは、まどかの言葉を聞いていた。
「だめ、ということはないわ」
マミさんは静かに言った。
「でもね、鹿目さん。『何かになりたい』という気持ちだけで契約すると、なった後に、迷うことがあるかもしれない」
「迷う?」
「魔法少女になっても、救えないものがある。さっき言った通り。その時に、『何のために魔法少女になったんだろう』って、思うかもしれない」
まどかは、マミさんの目を見た。
マミさんの目は、優しかった。でも、その優しさの奥に、もっと深いものがあった。まどかが見たことのない種類の光。遠くて、暗くて、でも確かにそこにある光。
「マミさんは、思ったことありますか。何のために、って」
マミさんは、少しだけ微笑んだ。
「あるわ」
その微笑みは、今までで一番、静かだった。
「私の場合は不可抗力だったけれど、あるわよ。何度も」
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まどかは帰り支度をしながら、マミさんを見ていた。
マミさんは流しでカップを洗っていた。二人分のカップを、丁寧に。背中は、いつも通りだった。真っ直ぐで、きちんとしていて、三年生の先輩らしくて。
でも今日の会話の後だと、その背中が、少しだけ違って見えた。
マミさんは、あの子のことを知っている。「少しだけ」と言ったけれど、それは嘘だ。マミさんの手が止まった時の、あの反応。「救えないかもしれない」と言った時の、あの声の震え。
マミさんは、あの子に対して、何かをした。何かをして、何かを失敗した。
まどかには、それがわかった。わかったけれど、言葉にはできなかった。
「マミさん、魔女退治の時」
「ええ」
「気をつけてくださいね。最近強くなってるって言ってたから」
マミさんは振り返って、微笑んだ。
「大丈夫よ。私、もう長いもの」
その言葉は、いつものマミさんだった。自信があって、頼もしくて、先輩らしくて。
でもまどかは、その言葉の中に、さっきとは違うものを感じていた。
「私、もう長いもの」。
それは自信ではなくて、もっと別の何かだった。長く一人で戦ってきた人の、疲れと、慣れと、その奥にある、ほんの少しの諦め。
まどかは「おやすみなさい」と言って、玄関に向かった。
靴を履く時、また、玄関の隅を見た。前に来た時、靴が揃えてあったように見えた場所。今日も、何も置かれていなかった。
でも今は、まどかには少しだけわかった。
そこには、かつて、誰かの靴が置かれていたのだ。
「ありがとうございました」
まどかは頭を下げた。マミさんは「気をつけて帰ってね」と言った。
ドアが閉まった。
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鹿目さんが帰った後、マミは流しの前に立っていた。
洗い終わったカップが三つ、伏せてある。水滴が、カップの底から、布巾の上にゆっくり落ちていく。
三つのカップ。
魔法少女になってから、ずっと一人だった。紅茶はいつも一人分だった。それが当たり前で、それ以外の在り方を忘れかけていた。
鹿目さんと美樹さんが来てくれるようになって、マミは二人分や三人分の茶葉を測るようになった。誰かのために紅茶を淹れて、誰かが「美味しい」と言ってくれて、誰かとテーブルを囲んで話をする。それだけで、嬉しかった。
そして鹿目さんは、魔法少女になろうとしてくれている。
一緒に戦ってくれるかもしれない。もう一人で結界に入らなくていいかもしれない。背中を預けられる誰かが、隣にいてくれるかもしれない。
嬉しかった。本当に、嬉しかった。
でも。
「魔法少女になったら、あの子を助けられますか」
鹿目さんの声が、まだ耳の中に残っていた。
マミは自分が何と答えたかを、正確に覚えていた。「あの子を救えるかどうかは、わからない」。「魔法では壊せない」。「そういう種類の、ものよ」。
声が震えた。一瞬だけ。鹿目さんには気づかれたかもしれない。
マミは流しの縁に両手をついた。
答えながら、マミが考えていたのは、鹿目さんのことではなかった。
あの子のことだった。
マミの家に通ってきたあの子。椅子の前半分に座って、ケーキを一口食べて、紅茶を一口飲んで、食器を全部元の位置に戻して、帰っていったあの子。マミが「何か言いたいことがあるなら言って」と言った瞬間に、身体が固まったあの子。
魔法少女の力では、あの子を救えなかった。
マミはリボンを操れる。銃を創れる。魔女を何体も倒してきた。見滝原で一番の魔法少女だと、自分でも思っていた。でもあの子の前では、その全部が何の意味もなかった。銃もリボンも、あの子のドアを開けることはできなかった。
「救えないかもしれない」。
あれは、鹿目さんに向けた言葉であると同時に、マミが自分自身に言った言葉だった。
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マミはリビングに戻って、テーブルの天板を指で撫でた。
鹿目さんが座っていた椅子を見た。あの椅子。
鹿目さんは今日、「魔法少女になったら、あの子を助けられますか」と訊いた。
その問いの中に、マミは鹿目さんの善意を見た。純粋な、混じりけのない、「誰かのために何かをしたい」という気持ち。マミにもかつてあった気持ちだった。
そして同時に、マミはその善意の中に、危うさも見た。
あの子を助けたい、という気持ちで魔法少女になったら。なった後に、助けられないとわかったら。鹿目さんは、どうなるだろう。
マミは知っている。助けられないとわかった時に、人がどうなるかを。マミ自身がそうなったから。あの子を壊して、自分も少し壊れて、その壊れた場所を「先輩」の形で埋めて、今日まで戦ってきた。
鹿目さんに、同じ道を歩かせたくなかった。
でも、「契約しないで」とは言えなかった。
それは鹿目さんの選択で、マミが決めることではないから。
それは、独りで戦うことを考えたら、いつも指が震えるから。
マミは椅子には座らなかった。立ったまま、窓の外を見た。
夜の見滝原。街灯の光。遠くに見えるビルの明かり。
最近、魔女の反応が強くなってきている。次に当たる相手は、今までより手強いかもしれない。
マミは、ふと、思った。
明日、いつも通りに戦えるだろうか。
いつも通り。いつも通りに銃を構えて、いつも通りにリボンを放って、いつも通りに仕留める。いつも通り。
いつもなら、それで十分だった。
でも今夜のマミは、「いつも通り」が、少しだけ怖かった。
いつも通りにやれば勝てる。そう思っている自分が、怖かった。
あの子のことを、「いつも通り」の目で見て、全部読み間違えた。あの時も、自分は正しいやり方をしているつもりだった。紅茶を淹れて、ケーキを焼いて、優しく話しかけて。いつも通りの、巴マミのやり方で。それで、壊した。
「いつも通り」が、正しいとは限らない。
マミは目を閉じた。
明日、結界の中で、「いつも通り」に頼らないようにしよう。いつもと違う何かがあったら、立ち止まろう。見落とさないようにしよう。
見えているものを、見えているまま、受け取ろう。
間違えないように。
もう、間違えないように。