紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF) 作:LongLong
第8話「油断」
放課後、鹿目さんから連絡が入った。
《マミさん、病院で、グリーフシードを見つけました。さやかちゃんとキュゥべえが見張ってます。早く来てください》
マミは鞄を置いて、変身した。
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見滝原総合病院。美樹さんの友人の上条恭介が入院している病院だった。鹿目さんと美樹さんが見舞いの帰りに、病院の外壁にグリーフシードが刺さっているのを見つけた。まだ孵化していなかった。美樹さんとキュゥべえがその場で見張り、鹿目さんがマミを呼びに走った。
マミが病院に着いた時、鹿目さんは正門の前で待っていた。息が上がっていた。走ってきたのだろう。
「マミさん!」
「場所は?」
「外壁の、裏手の方です。さやかちゃんが」
鹿目さんの言葉が途切れた。
病院の建物が、揺れた。揺れた、というよりは、歪んだ。外壁の一部が、色を変え始めていた。コンクリートの灰色が、飴のような色彩に。
「……孵化したわ」
マミは呟いた。
結界が広がっていた。病院の外壁を起点に、空間が歪み、色が変わり、お菓子のような質感が壁を覆い始めていた。
「美樹さんとキュゥべえは、中に取り込まれたわね」
鹿目さんの顔が青ざめた。
「さやかちゃんが!」
「大丈夫。キュゥべえがいるわ。テレパシーで位置を誘導してくれる。急ぎましょう」
マミは鹿目さんの手を引いて、結界の中に入った。
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結界の中は、お菓子の城だった。飴の柱、クッキーの床、チョコレートの壁。甘い匂いが充満していた。病院の廊下の面影が、ところどころに残っていた。ハサミやメス、点滴のスタンドが、お菓子の装飾に混じって立っている。
マミは鹿目さんを背中に庇いながら、結界の奥に向かって進んだ。
キュゥべえのテレパシーが届いた。
《マミ、こっちだよ。さやかと一緒にいる。まっすぐ奥に向かって》
マミは頷いて、進んだ。
その時、背後に気配があった。
振り返ると、暁美ほむらが立っていた。結界の中に、後から入ってきたのだ。
「巴マミ」
暁美さんの声は低かった。
「今回の魔女は、これまでとは訳が違う。私が狩る。手出ししないで」
「そういうわけにはいかないわ。美樹さんとキュゥべえを迎えに行かなくちゃ」
マミは彼女を見た。
彼女の目は、いつもと少し違っていた。冷たさの下に、何か、切迫したものがあった。
マミの右手が、無意識に動いた。
指先にリボンの感触が生まれる。金色のリボンが、手の中で形を取りかけた。
ここで拘束する。リボンで縛って、結界の柱に繋いでいく。「信用すると思って?」。そう言って、彼女を置いて奥に進む。
リボンが、指の間で形を成していく。
マミの手が、止まった。
──いつも通り。
あの子のことを、同じやり方で扱って、全部間違えた。
マミは、リボンを解いた。
指の間から、金色の光が消えた。
暁美ほむらを見た。何も言わなかった。
彼女の目が、わずかに動いた。驚き、とまでは言えない。でも、何かを計算し直しているような、微かな揺れがあった。
マミは、背を向けた。
鹿目さんの手を引き、結界の奥に向かって歩き出した。
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最深部の手前で、使い魔が現れた。
丸い頭の、風船のような使い魔。道を塞ぐように、いくつか浮かんでいた。
マミはマスケット銃を構えた。銃声が結界の中に響いた。使い魔が弾けて消えた。
「す、すごい……」
背後で鹿目さんの声が聞こえた。
マミは振り返らなかった。でも、その声が聞こえたことが、胸の中で温かかった。
見てくれている人がいる。
独りじゃない。
その温かさを感じた瞬間、マミの中で何かが鳴った。警報のような、小さな音。
──浮かれるな。
マミは自分に言い聞かせた。
今、嬉しさに引っ張られた。一瞬だけ、戦いの外に意識が逸れた。
あの子のことを思い出した。あの子の食器を「几帳面」と読んだ時のことを。見えているものを、自分に都合のいいように読んだ時のことを。
マミは前を向き直した。
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結界の最深部に辿り着いた。
美樹さんとキュゥべえが、隅の方にいた。美樹さんがマミたちに気づいて、顔を上げた。
「マミさん!」
「無事ね。そこにいて」
マミは前を向いた。
そこに、それはいた。
マミは銃を構えた。
「見つけたわ」
マミは冷静だった。
相手は動かない。何の抵抗もしていない。人形のように、ただそこにいるだけ。
マミはリボンを放った。金色のリボンが魔女を絡め取り、拘束した。魔女は動かなかった。リボンに巻かれたまま、何もしなかった。
マスケット銃を連射した。至近距離から、何発も。魔女の身体が弾け、崩れ、散ったように見えた。
煙が晴れた。
魔女の姿は、もう、なかった。
「やった……!」
美樹さんの声が聞こえた。
「マミさん、すごいです!」
鹿目さんの声が聞こえた。
マミは、銃を下ろしかけた。
──下ろしかけて、止めた。
結界が、消えていない。
お菓子の色彩は、まだそこにあった。飴の柱も、クッキーの床も、チョコレートの壁も。全部、まだある。
グリーフシードが、落ちていない。
魔女を倒したら、結界は消える。グリーフシードが残る。それが、いつもの流れだった。いつも、そうだった。
でも今、結界は消えていない。
マミは銃を構え直した。
「……まだよ」
小さく呟いた。
「え?」
美樹さんが首を傾げた。
「マミさん?」
鹿目さんが不安そうに訊いた。
マミは答えなかった。目の前の、魔女がいたはずの場所を、見ていた。
何かがおかしい。
見えているものを、見えているまま、受け取る。
今、見えているのは、倒したはずの魔女の残骸。でも結界は消えていない。グリーフシードもない。ということは。
──倒していない。
その結論に至った瞬間だった。
残骸の中から、何かが出てきた。
白い。巨大な。蛇のような。丸い頭に、ピエロの顔。鋭い牙。さっきの小さな人形とは比べ物にならない大きさ。
真の姿。
鹿目さんが悲鳴を上げた。美樹さんが後ずさった。
魔女の顎が開いた。マミに向かって。
マミは、一歩、後退した。
この一歩が、全てだった。
普段なら、この一歩はなかった。魔女を倒した直後に勝利を確信して、追撃していた。ティロ・フィナーレの構えに入っていた。
でも、マミは追撃しなかった。結界が消えていないことに気づいて、立ち止まった。その数秒が、一歩の後退を可能にした。
魔女の牙が、マミの顔のすぐ前を通過した。
風が、頬を撫でた。
死の風だった。
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一瞬だった。
瞬きひとつの間に、魔女の周囲に爆弾が出現していた。いくつもの爆弾が、魔女の身体を囲むように、正確に配置されていた。
そして、さっきまでいなかった場所に、暁美さんが立っていた。
時間停止。マミにはその一瞬の間に何が起きたのかわからなかった。ただ、結果だけが目の前にあった。
爆発が、結界を揺らした。
魔女の身体が裂けた。脱皮しようとした。再生しようとした。でも爆弾はそれを許さなかった。連鎖する爆発が、魔女の身体を何度も何度も引き裂いていく。
マミは、その隙を見逃さなかった。
リボンを放った。魔女の残った部分を拘束する。今度は本体だった。脱皮する前の、核のような部分。
銃を創った。一丁ではなく、何丁も。同時に。円形に並べて。
全方位から、同時に撃った。
魔女が、砕けた。
結界が崩壊した。お菓子の色彩が消えて、病院の外壁沿いの、コンクリートの灰色に戻った。
床の上に、黒い種のようなものが転がっていた。グリーフシード。
マミは、それを拾い上げた。
手が、震えていた。
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「マミさん!」
鹿目さんが走ってきた。美樹さんも後ろから来た。
「大丈夫ですか! マミさん!」
鹿目さんの声は震えていた。目が潤んでいた。
マミは変身を解いた。制服姿に戻った。
「大丈夫よ」
マミは微笑んだ。微笑もうとした。でも、唇が少しだけ震えていた。
「マミさん、あの魔女、途中から急に」
「ええ。変化する魔女だったのね。珍しいわ」
マミは声を安定させようとした。先輩らしく。
「でも、大丈夫。ちゃんと倒せたわ」
グリーフシードを見せた。鹿目さんと美樹さんは、安堵の顔をした。
マミは、少し離れた場所に立っている暁美さんを見た。
暁美さんは、マミを見ていた。
あの黒い瞳が、マミを見ていた。いつもの冷たさとは違う光があった。何かを測っているような、何かを確かめているような。
マミは、暁美さんに何も言わなかった。
「ありがとう」も「助かったわ」も言わなかった。
言えなかったのではなかった。言わなかった。暁美さんに何かを言うことが、今のマミには、正しくない気がした。暁美さんがついてきたのは、暁美さんの判断だった。マミが頼んだわけではない。暁美さんが自分で選んだ。その選択に、マミが後から意味をつけるのは、違う気がした。
暁美さんも、何も言わなかった。
しばらくの沈黙の後、暁美さんは身を翻して、病院の角の向こうに消えていった。
マミはその背中を見送った。
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帰り道、鹿目さんと美樹さんと三人で歩いた。
「いやー、危なかったですね」
美樹さんが大きく息を吐いた。
「あの魔女、変身したとこ、マジでびびりました」
「でも、マミさん、すごかったです。あの瞬間に気づいて、下がったの」
鹿目さんが言った。
マミは微笑んだ。
「……気づけたのは、たまたまよ」
嘘だった。たまたまではなかった。
結界が消えていないことに気づいたのは、見えているものを額面通りに受け取らなかったから。倒したはずなのに結界が残っている、その違和感を、流さなかったから。
普段の自分なら、流していた。
でも今日のマミは、その違和感を流さなかった。
それが、あの一歩の後退を生んだ。
あの一歩がなかったら、マミは死んでいた。
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「あと、あの爆弾、ほむらちゃんだよね?」
美樹さんが言った。
「うん。助けてくれたんだよね」
鹿目さんが答えた。
「あいつ何なんだろ。いっつも突然現れて突然いなくなるし」
美樹さんが腕を組んだ。
「でも、今日は助かったんじゃん。マミさんがやばかった時に」
「うん。ありがとうって言いたかったな。もう行っちゃったけど」
鹿目さんは、暁美さんが消えていった方向を、少しだけ振り返った。
マミは何も言わなかった。
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鹿目さんと美樹さんと別れた後、マミは一人で家に向かった。
夕暮れの街を歩きながら、マミは自分の手を見た。
まだ震えていた。微かに。
グリーフシードを握っている手。魔女を倒した手。さっき、死の風が頬を通り過ぎた時、銃を握っていた手。
あの一瞬。
魔女の牙が、顔の前を通過した一瞬。あの瞬間、マミの頭の中には何もなかった。恐怖も、後悔も、何もなかった。ただ、風が頬を撫でた。それだけだった。
怖さは、後から来た。
今、歩きながら、じわじわと来ていた。膝が少し柔らかくなっている。呼吸が、意識しないと浅くなる。
マミは立ち止まった。
商店街の、人通りの少ない道で、立ち止まった。
手の震えを、もう片方の手で押さえた。
生き残った。
暁美ほむらを拘束しなかった。結界の中にいてくれた。彼女の協力がなかったら、マミは一歩後退しただけでは逃げ切れなかったかもしれない。
あの瞬間。リボンを構えかけて、やめた瞬間。あの判断は、どこから来たのだろう。
マミは知っていた。
あの子から来ていた。
あの子のことを同じやり方で扱って、壊した。その経験が、暁美ほむらを拘束する手を止めさせた。
あの子は、何もしていない。
ただマミの家に通ってきて、椅子の前半分に座って、ケーキを一口食べて、食器を元の位置に戻して、帰っていった。それだけ。
マミが壊して、マミが失敗して、マミが苦しんだ。それだけの話。あの子は何もしていない。
マミは手の震えが収まるのを待った。
収まらなかった。
収まらないまま、歩き出した。
家に着いたら、紅茶を淹れよう。一人分の。今日は、一人分でいい。
あの椅子を見ながら、一人分の紅茶を飲もう。
そして明日、学校で、三年三組の前を通ろう。廊下から、あの子がいることを、確認しよう。
声はかけない。近づかない。
ただ、いることを、確認する。
あの子がいるということ。あの子がまだ、壁際を歩いているということ。あの子が、マミの知らないところで、生きているということ。
それだけを確認して、通り過ぎる。
マミに今できるのは、それだけだった。