昔は吉原で男を見てきた。
今は長屋で人を見て、筆で食っている。
だが世の中は、女が書くことも、色里を語ることも、だんだん窮屈になっていく。
お春はそう書いて、筆を止めた。
硯の水はまだ黒い。障子の向こうでは、井戸端に集まった女たちの声がしている。朝餉の支度をする者、赤子を叱る者、亭主の弁当を包む者。火吹き竹の音、桶の水音、誰かの咳払い。
吉原の朝とは、まるで違う。
吉原の朝は、眠らない町がようやく瞼を閉じる刻限だった。酒と白粉と線香と男の吐息が、夜明けの冷えた空気に薄く溶ける。帰っていく客の背を見送り、女たちは笑みをほどき、やっと人の顔に戻る。
けれど、この長屋の朝は違う。
眠っていた者たちが、次々と暮らしの顔になる。
お春は、その違いが嫌いではなかった。
「お春さん、起きてるかい」
障子の外から声がした。大家の甚兵衛である。
「起きてますよ。死人じゃあるまいし」
「死人なら家賃を取らずに済むんだがな」
「大家さんがそれを言うと、洒落になりません」
お春が障子を開けると、甚兵衛は煙管を手に、腰を曲げて立っていた。年は六十に近いが、目だけはまだ若い。長屋中の揉め事を見てきた男の目である。
「また書いてたのか」
「ええ。飯の種ですから」
「飯の種なら結構だが、火種になるようなことは書くんじゃねえぞ。近頃は、あれを書くな、これを書くなとうるせえ」
「女が筆を持つだけで、火事みたいに騒ぐ人もいますからね」
「おめえさんの場合、火事場に油を持って立ってるようなもんだ」
甚兵衛はそう言って、にやりと笑った。
この長屋にお春が移ってきたのは、まだ春浅い頃である。年季が明け、吉原を出た。二十五を少し越えたばかり。花魁としては盛りを過ぎたと言われる年でも、堅気の町ではまだ若い女である。
だが、長屋の女たちは、お春を最初から同じ仲間とは見なさなかった。
無理もない。
吉原帰り。
男に買われてきた女。
それでいて、読み書きができ、妙に言葉が立つ。
おまけに、着物は質素でも、襟の抜き方、指の運び、座る姿に、どこか堅気離れした艶が残っている。
そういう女が長屋に一人で住めば、噂にならぬ方がおかしい。
「大家さん。朝からそれだけ言いに?」
「いや。ついでだ。辰五郎を見なかったか」
「魚辰さんを?」
「そうだ。今朝も魚河岸に行ってねえらしい」
お春は、筆を置いた。
辰五郎。通称、魚辰。
この長屋の端に住む魚屋である。
腕はいい。魚を見る目もある。包丁も早い。声も通る。真面目に働けば、行商どころか小さな店を構えてもおかしくない男だと、魚河岸の者は言う。
ただし、酒がいけない。
酒を呑むと陽気になる。陽気になると奢る。奢ると金が消える。金が消えると女房に詫びる。詫びた晩にまた呑む。
その繰り返しであった。
「おみつさんは?」
「さっき井戸端にいたが、顔色が悪かった」
「また、ですか」
「また、だ」
甚兵衛は煙管を懐にしまい、声を低めた。
「お春さん。おめえさん、あの女房と少し話してやってくれねえか」
「私が?」
「女同士だろう」
「大家さん。長屋の女衆は、私を女同士に入れてくれませんよ」
「だから頼んでるんだ」
お春は少し笑った。
甚兵衛は、遠回しなようでいて、時々ひどく真っ直ぐなことを言う。
「私はお説教は下手ですよ」
「知ってる。おめえさんは説教じゃなくて、人の腹の底を覗くんだろう」
「嫌な言い方ですね」
「吉原で覚えた芸だ」
お春は返事をしなかった。
昔は吉原で男を見てきた。
金を持った男。持たない男。持っているふりをする男。偉い男。偉そうなだけの男。泣く男。怒る男。女に甘える男。女を踏む男。
男の顔は、夜のうちはいくらでも変わる。けれど、金が尽きると、たいてい本当の顔に戻る。
魚辰も、似たようなものかもしれない。
酒を呑んでいる時だけ、威勢のいい魚屋でいられる。
酒が抜けると、自分の不甲斐なさに追いつかれる。
「……おみつさんが戻ったら、声をかけてみます」
「頼む」
甚兵衛はそれだけ言うと、隣の戸口へ向かって歩いていった。
お春は障子を閉め、書きかけの紙を見た。
――昔は吉原で男を見てきた。
――今は長屋で人を見て、筆で食っている。
悪くない。だが、まだ硬い。
売り物にするには、少しばかり血が通っていない。
そう思った時、井戸端の方で女の声が跳ねた。
「おみつさん、大丈夫かい」
お春は立ち上がった。
井戸端では、魚辰の女房おみつが、水桶を抱えたまま膝をついていた。二十をいくつか越えたばかりの、細面の女である。美人というより、きちんと働くことで顔の形を保っている女だった。髪は乱れ、目の下に薄い影がある。
そばでは、口うるさいことで知られるおとらが、腕まくりをして立っていた。
「まったく、あんたも無理するんじゃないよ。亭主が寝てるなら、寝床ごと河岸へ流しておしまい」
「おとらさん……」
「泣きそうな顔をするんじゃない。こっちまで腹が立つ」
言いながら、おとらは桶をひょいと持ち上げた。
お春が近づくと、井戸端の女たちの声が少し沈んだ。
お春はそれに慣れている。
吉原では見られることが商売だった。長屋では、見られることが居心地の悪さになる。そこが違うだけだ。
「おみつさん」
声をかけると、おみつは顔を上げた。
「あ……お春さん」
「顔色が悪い。少し休んだ方がいい」
「いえ、平気です。朝の支度が」
「亭主の朝餉なら、寝ている男の腹には入らないよ」
おとらが噴き出した。
「聞いたかい、おみつさん。吉原帰りは言うことが違うね」
「おとらさん」
「褒めてるんだよ。半分はね」
お春はおとらを軽く見てから、おみつに向き直った。
「魚辰さん、今朝も河岸へ?」
おみつは答えなかった。
その沈黙だけで、答えは足りた。
女が亭主の悪口を言わない時というのは、惚れている時か、もう悪口を言う力も残っていない時である。おみつは、そのどちらにも見えた。
「お春さん」
おみつが小さく言った。
「はい」
「あの人、悪い人じゃないんです」
「知ってます」
「魚を見る目は、本当にいいんです。河岸の人も、そう言ってくれて」
「ええ」
「でも……朝になると、起きられないんです。夜になると、呑んでしまうんです。呑むと、明日はやる、今度こそやるって言うんです」
お春は黙って聞いた。
おみつの声は、だんだん細くなった。
「私、あの人のその言葉を、何度信じたかわかりません」
井戸端が静かになった。
おとらも茶化さなかった。
お春は、ふと吉原の夜を思い出した。
今度こそ身請けする。
今度こそ迎えに来る。
今度こそおまえだけだ。
男たちは、いくらでも“今度こそ”を口にした。
お春は、それを笑って聞くのが仕事だった。
だが、おみつは笑えない。
この女の“今度こそ”は、明日の米に関わる。
「おみつさん」
「はい」
「信じるのに疲れたら、いったん休みなさい。信じるのをやめろとは言わない。でも、信じるにも体力がいる」
おみつは目を伏せた。
その時、長屋の入口の方から、調子外れの鼻歌が聞こえた。
「おや」
おとらが眉を上げた。
「あの馬鹿、帰ってきたよ」
魚辰だった。
まだ朝だというのに、顔が赤い。襟は曲がり、手拭いは首にだらしなくかかっている。魚籠は空で、商いをしてきた様子はない。
「よう、みんな早えな」
「早いのはこっちじゃない。遅いのがあんただよ」
おとらが言うと、魚辰はへらへら笑った。
「おとら婆さん、朝から元気だねえ」
「婆さんとは何だい。あんたより先にくたばってたまるか」
魚辰は笑いながら、おみつを見た。
「おう、みつ。飯は?」
おみつの肩が小さく震えた。
お春は、その震えを見逃さなかった。
「魚辰さん」
「あん?」
「朝の魚は?」
「魚?」
「魚屋でしょう」
魚辰は、お春を見て、少し目を細めた。
「ああ、お春さんか。相変わらず、朝から綺麗な顔してるねえ。吉原の女は違うや」
井戸端の空気が固くなった。
おみつが息を呑む。おとらが魚辰を睨む。
お春は、笑った。
「吉原の女はね、褒め言葉と嫌味の聞き分けくらいできますよ」
「嫌味じゃねえよ」
「なら、なお悪い」
魚辰は一瞬ぽかんとして、それから大きく笑った。
「こいつは敵わねえ」
「敵わないなら、河岸へ行きなさい」
「今日はいいんだよ」
「今日も、でしょう」
魚辰の笑いが少し引っ込んだ。
お春は続けた。
「腕のいい魚屋が、魚を持たずに朝帰り。長屋の女房衆に囲まれて、飯はあるかと聞く。見世物にしては、少し安い」
魚辰の顔に、赤みとは別の色が差した。
「お春さん、言うねえ」
「書く商売ですから」
「俺のことも書くかい」
「書けるほど働いたらね」
おとらが、今度こそ声を上げて笑った。
周りの女たちも、つられて笑う。
魚辰はばつが悪そうに頭をかいたが、怒りはしなかった。怒るだけの芯が、今の彼には残っていないようだった。
「みつ、飯」
小さく言って、魚辰は自分の家へ入っていった。
おみつはその背を追おうとして、ふらついた。
お春が支える。
「すみません」
「謝るところじゃない」
「私、どうしたらいいんでしょう」
おみつの声は、ほとんど息だった。
お春は答えなかった。
どうしたらいいか。
それを簡単に言えるほど、お春は若くなかった。
男を捨てろと言うのは簡単だ。
信じろと言うのも簡単だ。
だが、捨てた後の米代も、信じた後の涙も、言った者は払ってくれない。
お春は、おみつの手から桶を受け取った。
「まず、飯を食べることです」
「え?」
「腹が空いたまま考えると、人はだいたい悪い方へ転ぶ」
おとらが頷いた。
「それは本当だね。腹と懐が空っぽの時は、ろくな考えが浮かばない」
「おとらさん、少し味噌を分けてくれませんか」
「あたしに言うのかい」
「言いやすいので」
「ふん。吉原帰りは口がうまい」
そう言いながら、おとらは自分の家へ戻っていった。
文句を言う者ほど、動く時は早い。
お春は、おみつを見た。
「今夜、うちへおいで」
「お春さんのところへ?」
「ええ。話すだけでも、少しは違う」
「でも」
「私は女房じゃない。だから、女房の苦労を全部はわからない」
おみつが顔を上げる。
「でも、男の夢に付き合わされた女の顔なら、嫌というほど見てきた」
おみつの目に、涙が浮かんだ。
お春は、それを見ないふりをした。
泣くところを見られた女は、次から強がれなくなる。
だから、見ないふりも情けのうちである。
その日の昼過ぎ、お春は貸本屋の弥七に呼び止められた。
弥七は、長屋の入口に立ち、風呂敷包みを小脇に抱えていた。年は三十半ば。口が軽く、足も軽い。噂と本を同じくらいの速さで運ぶ男である。
「お春姐さん」
「その呼び方はやめてください。ここは吉原じゃありません」
「じゃあ、お春先生」
「もっと悪い」
「難しいねえ。物書きは呼び名にうるさい」
「用件は?」
弥七は包みから草双紙を一冊出した。
「この前の吉原噺、評判がよくてね。もう少し艶っぽいのを頼まれてる」
「私は艶を切り売りするために長屋へ来たんじゃありません」
「でも、売れるんだよ。色里の話は」
「売れるでしょうね。男は、自分が金を払った夢を、あとから紙で読みたがる」
弥七は苦笑した。
「相変わらず、きついことを言う」
「本当のことでしょう」
「だがね、お春さん。世の中、きれいごとじゃ飯は食えない」
「知ってます」
お春は静かに言った。
知っている。
誰よりも知っている。
きれいごとで飯が食えるなら、吉原に売られる女などいない。
「じゃあ、書いてくれるかい」
「今は別のものを書いています」
「何を?」
お春は、少し考えた。
朝の井戸端。
おみつの青い顔。
魚辰の空っぽの魚籠。
酒で赤くなった顔。
それでも悪人にはなりきれない、だらしない男の背。
「まだ題はありません」
「色っぽいかい」
「いいえ」
「笑えるかい」
「たぶん、少し」
「泣けるかい」
「それは、読む人の身に覚えがあれば」
弥七は首を傾げた。
「何だい、そりゃ」
「人の暮らしの話です」
「暮らしねえ。地味だな」
「地味なものほど、燃えると怖いんですよ」
弥七は肩をすくめた。
「まあいい。何か書けたら持ってきてくれ。けど、近頃はお上がうるさい。あんまり色里の裏だの、金持ちの恥だの、武家の悪口だのは困るぜ」
「女の本音は?」
「それも困る」
「では、何なら書けるんです」
「そこをうまく書くのが、物書きだろ」
弥七は笑って去っていった。
お春はその背を見送り、息を吐いた。
女が書くこと。
色里を語ること。
男の夢の裏側を明かすこと。
どれも、だんだん窮屈になっていく。
けれど、書かずにいれば、何もなかったことにされる。
その夜、おみつは本当にお春の部屋へ来た。
外は冷えていた。長屋の路地には、夕餉の匂いが残っている。焼いた鰯、味噌汁、大根の煮えた匂い。どこかの家では子どもが泣き、どこかの家では夫婦喧嘩が始まりかけている。
おみつは、戸口の前でしばらく迷っていた。
「開いてますよ」
お春が声をかけると、障子が細く開いた。
「すみません、こんな夜に」
「夜に来る話は、たいてい昼には言えない話です」
おみつは部屋に入り、膝をそろえて座った。
お春は白湯を出した。酒ではない。茶でもない。こういう時は、白湯が一番いい。体に嘘をつかないからだ。
「魚辰さんは?」
「寝ています」
「呑んで?」
「いいえ。今日は……お金がなくて」
おみつは両手で湯呑みを包んだ。
「お春さん。私、あの人を嫌いになれたら、どれだけ楽かと思うんです」
「ええ」
「でも、嫌いになれないんです。馬鹿ですよね」
「馬鹿とは思いません」
「どうしてですか」
「惚れた相手をすぐ嫌いになれるなら、世の中の女はもっと楽に生きています」
おみつの口元が、少しだけ緩んだ。
お春は続けた。
「ただ、惚れているからといって、何でも背負うことはない」
「……はい」
「魚辰さんは、明日も河岸へ?」
「行くと言っています」
「行くでしょうか」
おみつは黙った。
沈黙が答えだった。
お春は、火鉢の灰をならした。
「人は変われます。でも、勝手には変わらない」
「勝手には」
「ええ。何かにぶつかるか、何かを失うか、誰かに嘘をつかれるか」
おみつは、その言葉に少しだけ顔を上げた。
「嘘、ですか」
「嘘には二つあります。人を殺す嘘と、生かす嘘」
「生かす嘘……」
「もっとも、つく方はどちらでも苦しい」
おみつは湯呑みを見つめた。
その手が、かすかに震えていた。
お春は、何かを感じた。
この女は、まだ何もしていない。だが、もう何かを決めかけている顔をしている。
吉原で何度も見た顔だった。
男を待つ女。
男を捨てる女。
男のために嘘をつく女。
男を守るために、自分だけが泥を被る女。
「おみつさん」
「はい」
「まだ何も起きていないうちから、自分を責めないことです」
おみつは驚いたように、お春を見た。
「私、何か顔に出ていましたか」
「少し」
「お春さんは、怖いですね」
「よく言われました」
「吉原で?」
「ええ。男の嘘を当てすぎると、嫌われるんです」
おみつは、今度は少し笑った。
笑えるなら、まだ大丈夫だ。
お春はそう思った。
だが、その翌朝、魚辰は夜明け前に家を出た。
珍しいことだった。
まだ長屋が眠っている刻限である。路地には薄い霜がおり、空は鉛色に白み始めている。魚辰は古びた半纏を羽織り、魚籠を担ぎ、こそこそと戸を開けた。
その音で、お春は目を覚ました。
物書きの眠りは浅い。
言葉が頭の中で転がっているうちは、夢にも眠りにも深く沈めない。
障子の隙間から見ると、魚辰が長屋の入口へ向かって歩いていた。
足取りは重い。
だが、河岸へ行く足だった。
お春は、布団の中で小さく呟いた。
「行ったか」
その背を、おみつが戸口から見ていた。
両手を胸の前で握りしめ、祈るように。
魚辰は振り返らなかった。
それがいい、とお春は思った。
振り返る男は、たいてい言い訳を探している。
その朝、魚辰は芝の浜へ向かった。
そして、夢のような財布を拾うことになる。
だが、その時はまだ誰も知らない。
おみつが嘘をつくことも。
魚辰が夢を失って、人に戻ることも。
お春がその嘘を見届けることも。
ただ、江戸の朝だけが、いつものように白く明けていった。
芝の浜には、まだ朝の色が残っていた。
海から吹く風は冷たく、魚辰の頬を容赦なく叩いた。夜明け前に長屋を出た時は、胸の中に少しばかり意地があった。今日は行く。今日こそ河岸へ行く。そう思っていた。
だが、歩くほどに、その意地は薄くなっていく。
昨夜は酒を呑まなかった。
呑まなかったのではない。呑めなかった。懐に一文もなかったからだ。
おかげで頭は妙に冴えている。冴えているからこそ、自分の情けなさがよく見えた。おみつの青い顔も、井戸端でのお春の言葉も、長屋の女たちの笑いも、やけにはっきりと思い出される。
――魚屋でしょう。
お春はそう言った。
魚屋。
そうだ。俺は魚屋だ。
魚辰は魚籠を背負い直した。
腕がないわけじゃない。魚を見る目もある。包丁だって遅くない。昔は河岸の兄貴分から、辰はそのうち店を持つと言われたこともある。
では、どうしてこうなったのか。
答えはわかっている。
酒だ。
酒を呑むと、明日からやれる気がした。
酒を呑むと、おみつにいい顔ができた。
酒を呑むと、まだ自分は駄目になりきっていないと思えた。
だが、朝になると、何も残らない。
魚辰は足を止め、浜を見た。
潮が引き、濡れた砂が灰色に光っている。ところどころに流木や藻屑が打ち上げられ、烏が一羽、何かをつついていた。
「ちぇっ……寒い朝だ」
誰に聞かせるでもなく呟き、魚辰は浜へ下りた。
その時だった。
足先に、何か硬いものが当たった。
「何だ」
最初は石かと思った。
だが、濡れた砂の中から覗いているのは、石ではない。布で包まれた、ずしりとしたものだった。
魚辰は周りを見た。
誰もいない。
波の音だけがある。
腰をかがめ、拾い上げる。濡れてはいるが、しっかりした財布だった。結び目は固く、手に持つと重い。
「……おい」
魚辰の喉が鳴った。
まさかと思いながら、結び目を解く。指が震えた。寒さのせいではない。
中を覗いた瞬間、魚辰は息を止めた。
金だ。
小判が入っている。
一枚や二枚ではない。
朝の薄明かりの中で、小判の色だけが妙に生々しく光って見えた。
魚辰は、慌てて財布を閉じた。
心臓がどくどく鳴る。
落とし物だ。届けなきゃならねえ。
そう思った。
思った、はずだった。
けれど、その次に浮かんだのは、おみつの顔だった。
米が買える。
借りが返せる。
酒屋の清七にも払える。
魚を仕入れられる。
新しい桶も買える。
半纏だって誂えられる。
おみつに、少しはましな櫛を買ってやれる。
それから、もう一つ。
呑める。
その考えが浮かんだ瞬間、魚辰は自分で自分を殴りたくなった。
「馬鹿野郎」
小さく吐き捨てる。
だが、財布は手の中にある。重い。やけに重い。
この重さは、金の重さではない。
夢の重さだ。
魚辰はもう一度周りを見た。
誰もいない。
空は白み、遠くで舟の影が動いている。町はまだ完全には起きていない。今なら、何もなかったように懐へ入れて歩き出せる。
魚辰は立ち尽くした。
長いようで、ほんの短い間だった。
やがて、財布は魚辰の懐へ消えた。
「……今日だけだ」
魚辰は言った。
「今日だけ、夢を見たって罰は当たらねえ」
その声は、浜風にさらわれて消えた。
長屋に戻った魚辰は、別人のようだった。
魚籠はやはり空である。魚の一匹も入っていない。だが、顔つきが違った。赤くはない。酒に酔っているのではない。もっと危ういものに酔っていた。
金である。
「おみつ!」
戸を開けるなり、魚辰は声を張った。
おみつはかまどの前で振り返った。
「お帰りなさい。早かったですね。魚は……」
「そんなことより、見ろ」
魚辰は戸を閉め、懐から財布を出した。
おみつの顔が強張る。
「何です、それ」
「拾った」
「拾ったって、どこで」
「芝の浜だ。誰もいやしねえ。神様が俺にくれたんだ」
「辰さん」
「見ろよ」
魚辰は財布を開けた。
小判が畳の上にこぼれた。
おみつは息を呑み、思わず後ずさった。
「こんな大金……」
「な、すげえだろ」
「届けないと」
おみつはすぐに言った。
魚辰の顔から笑みが消えた。
「何だって?」
「届けないといけません。落とした人が困っています」
「誰も見ちゃいねえ」
「そういう話じゃありません」
「みつ」
魚辰の声が低くなった。
「俺はな、今までついてなかったんだよ。少しぐらい運が向いたっていいじゃねえか」
「運じゃありません。それは人様のお金です」
「人様、人様って、俺たちはどうなるんだ。米もねえ。借りもある。清七には睨まれる。お前だって、ろくなもん食ってねえじゃねえか」
「だからって」
「だからって何だ!」
魚辰は小判を掴んだ。
「俺だって、まともにやろうと思ってたんだよ。今朝だって河岸へ行くつもりだった。けど、これを拾った。これは、俺にやり直せってことだ」
「やり直すなら、なおさら届けてください」
「届けりゃ何が残る!」
その声に、おみつは黙った。
魚辰は肩で息をしていた。
言った自分も、ひどいことを言っているとわかっている顔だった。
「……みつ」
少しして、魚辰は声を和らげた。
「少しだけ使おう。な? 借りを返して、魚を仕入れて、それから……そうだ、お前に櫛を買ってやる。ずっと前から欲しがってただろ」
「欲しくありません」
「嘘つけ」
「そんなお金で買った櫛はいりません」
魚辰は小判を見つめた。
そして、笑った。
「お前は真面目だなあ」
「辰さん」
「真面目すぎるんだよ」
その笑いに、おみつはぞっとした。
これは酒に酔っている顔ではない。
酒より悪いものに酔っている。
魚辰は小判を財布に戻し、立ち上がった。
「どこへ行くんです」
「清七のところだ。借りを返してくる」
「いけません」
「うるせえな」
「辰さん!」
おみつが袖を掴む。
魚辰はそれを振りほどいた。
強くはなかった。だが、おみつは畳に手をついた。
魚辰は一瞬、しまったという顔をした。けれど、懐の財布に手を当てると、その顔はすぐに消えた。
「すぐ戻る」
そう言って出ていった。
おみつはしばらく動けなかった。
畳の上に、小判が一枚だけ残っていた。財布に戻し損ねたものだ。
おみつはそれを見つめた。
朝の光を受けて、小判は綺麗だった。
綺麗で、恐ろしかった。
その頃、お春は自分の部屋で、弥七から預かった草双紙をめくっていた。
どれもこれも、似たような男の夢ばかりだった。
吉原の女が客に惚れる。
貧乏侍が花魁に救われる。
若旦那が恋に狂う。
女は美しく、男に都合よく、最後には涙を流す。
「よく飽きないものですね」
お春が呟いた時、外が騒がしくなった。
「魚辰が清七の店で払いをしたってよ」
「えっ、あの魚辰が?」
「しかも釣りはいらねえって」
「馬鹿言うんじゃないよ。魚辰にそんな金があるもんか」
声は長屋の入口から近づいてくる。おとらの声も混じっていた。
お春は立ち上がった。
障子を開けると、おとらがちょうど通りかかった。
「おとらさん」
「ああ、お春さん。聞いたかい」
「魚辰さんのことですか」
「そうだよ。あの飲んだくれが、清七のところでツケを払ったんだとさ。それだけじゃない。酒を一升、いや二升か、買い込んで、肴まで頼んだって」
「魚は?」
「魚屋が魚を買わずに肴を買うんだから、世も末だよ」
お春は眉を寄せた。
「おみつさんは」
「家にいるんじゃないかい。顔を見てないね」
お春は、何かが胸に引っかかるのを感じた。
朝早く出た魚辰。
空の魚籠。
急な金。
酒。
おみつの顔。
「おとらさん、魚辰さんが戻ったら、私に知らせてください」
「何だい、揉め事かい」
「まだ、揉め事になる前です」
「じゃあ、これからなるんだね」
おとらは面白がるような、心配するような顔をした。
それから半刻もしないうちに、魚辰は戻ってきた。
戻ってきた、というより、長屋へ景気よく乗り込んできた。
「おう、みんな! 今日は呑むぞ!」
片手には酒。片手には包み。後ろには清七の店の小僧が二人、肴やら膳やらを抱えてついてきている。
長屋の者たちは、戸口から顔を出した。
「魚辰、どうしたんだい」
「仕事もしてねえのに景気がいいじゃないか」
「さては盗んだか」
「馬鹿言え。俺に運が向いたんだよ」
魚辰は笑った。
その笑いは、朝よりさらに危うかった。
お春は少し離れて見ていた。
おみつが家の奥から出てくる。顔は青い。目だけが妙に大きく見える。
「辰さん、やめてください」
「何言ってやがる。今日は祝いだ」
「何の祝いです」
「俺たちの祝いだよ」
「そんな祝いはいりません」
「みつ」
魚辰は、おみつの肩に手を置いた。
「今日くらい笑え。な? お前、いつも辛気くせえ顔してるじゃねえか。今日は笑っていい日なんだ」
おみつの唇が震えた。
「そのお金は」
「しっ」
魚辰は笑いながら、人差し指を立てた。
「夢だよ」
お春の目が細くなった。
「夢?」
おみつが呟く。
「ああ。夢みたいな話だ」
魚辰はそう言って、酒樽を開けさせた。
長屋の空気は、最初こそ戸惑っていた。だが、酒の匂いが流れ、肴が広げられ、魚辰が気前よく振る舞いはじめると、人は少しずつ近づいてくる。
貧乏長屋である。
ただ酒と肴を前にして、いつまでも道徳だけで立っていられる者ばかりではない。
「まあ、一杯だけなら」
「何の金か知らないけど、魚辰が出すってんなら」
「おみつさんも、今日は楽をしなよ」
そう言いながら、長屋の男たちは座り、女たちは肴を整え、子どもたちは騒ぎ出した。
おとらは腕を組んでいたが、やがてお春のそばへ来た。
「どう見る」
「悪い酔い方です」
「酒かい」
「いいえ。金に」
おとらは魚辰を見た。
魚辰は笑っていた。大声で笑い、酒を注ぎ、人の肩を叩いている。
その隣で、おみつだけが座っていない。
お春は、そっとおみつに近づいた。
「おみつさん」
おみつは振り向いた。
「お春さん……」
「何がありました」
おみつは口を開きかけた。
だが、周りを見て、閉じた。
「あとで」
それだけ言った。
お春は頷いた。
その時、魚辰がこちらに気づいた。
「お春さん!」
魚辰は酒の入った盃を掲げた。
「あんたも呑めよ。吉原の酒に比べりゃ安酒だが、今日は俺のおごりだ」
「結構です」
「つれねえなあ」
「酒は、書く手を鈍らせます」
「じゃあ、俺を書け。今日の俺を書けよ。運の向いた男の話だ」
「運の向いた男は、そんなに大声で運を語りません」
魚辰の笑いが一瞬止まった。
だが、すぐにまた笑った。
「やっぱり敵わねえな、お春さんには」
「敵う敵わないの話ではありません」
「じゃあ何だい」
お春は、魚辰の目を見た。
「明日の朝、あなたがその酒を覚えているかどうかです」
魚辰は盃を口元で止めた。
「覚えてるさ」
「なら、ほどほどに」
「ほどほどで夢が見られるかよ」
魚辰は盃をあおった。
お春はそれ以上言わなかった。
人は、自分から夢に落ちる時、他人の声を聞かない。
落ちきるまで、聞こえない。
宴は昼から始まり、夕方まで続いた。
魚辰は大盤振る舞いをした。清七の酒を空け、肴を足し、子どもには飴を買わせ、女たちには煮しめを配らせた。金の出所を問う者もいたが、魚辰はそのたびに「運だ」「夢だ」「神様がくれた」と笑った。
おみつは、笑わなかった。
ただ動いた。
膳を出し、皿を下げ、こぼれた酒を拭き、酔った者を避け、魚辰が財布に手をやるたびに顔を強張らせた。
お春はその様子を、少し離れて見ていた。
これが芝居なら、客は魚辰を笑うだろう。
落ちぶれた魚屋が大金を拾って、浮かれて酒を振る舞う。滑稽な話だ。
だが、暮らしの中で見るそれは、笑うには痛すぎた。
金は人を変えるのではない。
金は、その人間が隠していたものを、明るみに出す。
魚辰の中にあったのは、見栄だった。
自分はまだ終わっていないという見栄。
おみつにいい顔をしたい見栄。
長屋の者に馬鹿にされたくない見栄。
そして、その見栄は酒で膨らみ、今にも破れそうだった。
日が暮れる頃、魚辰はすっかり酔いつぶれていた。
「俺はなあ……やれる男なんだよ」
畳に寝転がり、魚辰は呟いた。
「みつ……見てろよ。店を持つ。魚辰の店だ。お前に苦労はさせねえ。櫛も、着物も……買ってやる」
おみつは黙っていた。
「お春さんも……書けよ。俺のこと。運のいい魚屋の話だ」
お春は、火鉢のそばに座っていた。
「今はまだ、書けません」
「何でだよ」
「終わりが見えない話は、書けないんです」
「終わりなんざ、めでてえに決まってらあ」
魚辰は笑い、そのまま眠りに落ちた。
宴の残骸だけが残った。
酒の匂い。食い散らかされた肴。転がる盃。子どもの飴の包み。畳に染みた汁。長屋の者たちは一人、また一人と帰っていった。
最後に残ったのは、おみつとお春だけだった。
外では、夜風が路地を抜けている。
おみつは魚辰の懐に手を入れた。
お春は止めなかった。
おみつは、財布を取り出した。
まだ重かった。
だが、朝よりは確実に軽くなっている。
おみつはそれを両手で抱え、膝の上に置いた。
「お春さん」
「はい」
「私、悪いことをします」
お春は静かに聞いた。
「この財布を、隠します」
「ええ」
「明日の朝、この人が起きたら、言います。そんなものはなかったって。酒を呑んで、夢を見たんだって」
お春は、おみつの顔を見た。
そこには、昼間までの迷いはなかった。
あるのは恐怖と、決意だった。
「夢と言うのですか」
「はい」
「魚辰さんは、信じるでしょうか」
「わかりません」
「怒るかもしれません」
「はい」
「手を上げるかもしれません」
おみつの指が財布を握りしめた。
「それでも」
お春は、少し間を置いた。
「どうして、そうしようと?」
おみつは眠っている魚辰を見た。
「今日のあの人は、怖かった」
「ええ」
「あのままお金を持っていたら、あの人はもう戻ってこない気がしました」
魚辰は寝息を立てている。
昼間の威勢はどこにもない。そこにいるのは、酒臭い、疲れた男だった。
「私は、あの人に金持ちになってほしいんじゃありません」
おみつの声が震えた。
「魚屋に戻ってほしいんです」
お春は何も言わなかった。
「だから、夢だったことにします」
「財布は?」
「大家さんに……いえ」
おみつは首を振った。
「まず、お春さんに預かってほしいんです」
「私に?」
「はい。大家さんに言えば、長屋中に知れます。清七さんに知られれば、もっと騒ぎになります。お上に届けるにも、今夜はもう遅い。私一人で持っていたら、怖くて……」
おみつは財布を差し出した。
「お願いします」
お春は、その財布を見た。
濡れた跡の残る布。
金の重み。
人の暮らしを狂わせるだけの力。
吉原で、何度も見たものだった。
金は夢を買う。
けれど、夢から覚めた後の始末までは、買ってくれない。
「おみつさん」
「はい」
「これは、人を生かす嘘ですか」
おみつは唇を噛んだ。
「そうしたいんです」
「そうしたい、では足りません」
お春の声は静かだった。
「嘘をつくなら、最後まで背負う覚悟がいります。魚辰さんが恨んでも。長屋の者に責められても。自分で自分が嫌になっても」
「……はい」
「それでも、夢と言うのですね」
おみつは、深く頭を下げた。
「言います」
お春は、差し出された財布を受け取った。
重かった。
財布の重さではない。
女の嘘の重さだった。
「わかりました。今夜は私が預かります」
「ありがとうございます」
「明日の朝、私は知らない顔をします」
「はい」
「けれど、もし魚辰さんが本当に壊れそうになったら、その時は止めます」
「……はい」
おみつの目から、涙が落ちた。
お春はそれを、今度も見ないふりをした。
その夜、お春は財布を文箱の奥へしまった。
そして、書きかけの紙を広げた。
筆を取る。
――昔は吉原で男を見てきた。
――今は長屋で人を見て、筆で食っている。
その下に、お春は一行を書き足した。
――夢と言った女がいた。
書いた瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
これは売り物にはできない。
少なくとも、今は。
火鉢の炭が小さく爆ぜた。
隣の家から、魚辰の寝息がかすかに聞こえる。おみつは眠れていないだろう。長屋は静まり返り、昼間の宴など、最初からなかったようだった。
だが、夢はまだ終わっていない。
明日の朝、魚辰は目を覚ます。
そして、自分が見たものを探す。
おみつは言うだろう。
それは夢です、と。
お春は筆を置き、文箱に手を置いた。
中には財布がある。
財布の中には金がある。
金の向こうには、まだ顔も知らない落とし主がいる。
誰かの夢は、誰かの災いでもある。
お春は灯明を吹き消した。
闇の中で、彼女は静かに呟いた。
「さて、朝が怖いね」
江戸の夜は、何も答えなかった。
朝は、あっけなく来た。
夜の間にあれほど重く部屋の隅に沈んでいたものが、障子の向こうから差す白い光ひとつで、何事もなかったような顔をする。長屋の朝とは、そういうものだった。
火を起こす音がする。
井戸端で桶が鳴る。
赤子が泣く。
誰かが咳をする。
味噌汁の匂いが、路地に流れはじめる。
お春は、ほとんど眠っていなかった。
文箱の奥には、昨夜預かった財布がある。何度も確かめるまでもない。あれほどの重みを、忘れられるはずがない。
魚辰の家は、まだ静かだった。
お春は身支度を整え、髪を結い直し、文箱の前に座った。
まるで筆仕事を始めるように。
だが、筆は取らなかった。
やがて、隣から低いうめき声がした。
「……うう」
魚辰が目を覚ましたのだ。
しばらくして、畳を這うような音。
何かを探す音。
衣を乱暴にまさぐる音。
「おい」
魚辰の声がした。
「みつ」
返事はすぐにはなかった。
「みつ!」
今度は大きい。
長屋の朝の音が、一瞬、細くなった。
お春は膝の上に手を置いたまま、耳を澄ませた。
「何ですか」
おみつの声は、思ったより落ち着いていた。
「財布は」
「財布?」
「とぼけるな。昨日の財布だ。俺が拾ってきた、あの財布」
「何を言っているんです」
「何って、お前、昨日見ただろう。小判が入ってた財布だよ。俺が芝の浜で拾ってきたやつだ」
沈黙。
その沈黙は、刃物のようだった。
おみつが、静かに言った。
「辰さん。そんな財布、ありませんよ」
魚辰の息が止まったのが、壁越しにもわかった。
「……何だと?」
「昨日は、朝からお酒を呑んで、昼には清七さんの酒を借りて、長屋の人たちまで巻き込んで騒いで。そのまま寝てしまったんです」
「違う」
「夢を見たんですよ」
「違う!」
魚辰の声が跳ね上がった。
何かが倒れた。膳か、椀か。おみつが小さく息を呑む音がした。
お春は立ち上がりかけた。
しかし、まだ動かなかった。
昨夜言った通りだ。
壊れそうになるまで、見届ける。
「ふざけるな。俺は見たんだ。芝の浜で拾った。小判が入ってた。お前にも見せた。清七にも払った。酒も買った。みんな呑んだじゃねえか」
「清七さんのところには、前からのツケがあります」
「払ったんだよ!」
「払えるお金なんか、うちにはありません」
「だから財布だ!」
「辰さん」
おみつの声が、少し震えた。
だが、折れてはいなかった。
「本当に財布を拾ったなら、どうして魚がないんですか」
「それは……」
「河岸へ行ったんでしょう。魚屋なんでしょう。なのに、魚籠は空っぽでした」
「財布を拾ったから」
「それも夢です」
「夢じゃねえ!」
魚辰が叫んだ。
戸が開いた。
お春は障子の隙間から外を見た。
魚辰が路地へ飛び出していた。髪は乱れ、目は血走っている。昨夜の酒がまだ抜けきらない顔だったが、それ以上に、恐怖に取り憑かれた顔だった。
夢だったら困る。
夢ではなかったら、もっと困る。
その二つの間で、男は揺れていた。
「おい、誰か!」
魚辰は長屋に向かって怒鳴った。
「昨日、俺が酒を振る舞ったよな。肴もあったよな。みんな呑んだよな!」
戸口が、少しずつ開いた。
おとらが最初に顔を出した。
「朝っぱらから何だい。頭に響くじゃないか」
「おとら婆さん、昨日のことを言ってくれ。俺は金を持ってたよな」
「婆さんじゃないよ」
「そんなことはいい!」
「よかないね」
おとらは髪を撫でつけながら、魚辰を眺めた。
「酒はあったよ。肴もあった。あんたが騒いでたのも本当だ」
「だろう!」
「けど、金を持ってたかどうかなんて、あたしは見てないね」
「何だと」
「清七の小僧が運んできたんだ。ツケにまたツケを重ねたんだと思ったよ」
「違う。俺は払った」
「清七に聞いてきな」
その言葉に、魚辰は弾かれたように走り出した。
おみつが後を追おうとする。
お春はそこで戸を開けた。
「おみつさん」
おみつが振り向く。顔は白い。
「追わなくていい」
「でも」
「今追えば、あなたは崩れる」
おみつの唇が震えた。
「……私、言いました」
「ええ。聞いていました」
「夢だって、言いました」
「ええ」
「私、悪い女ですね」
お春は首を横に振った。
「悪い女は、自分を悪い女だと恐れません」
おみつは、その言葉でかろうじて立っているようだった。
おとらが近づいてきた。
「お春さん」
「はい」
「あんた、何か知ってるね」
さすがに長屋の女である。目が利く。
お春は、おとらを見た。
「今はまだ、言えません」
「へえ」
「ただ、魚辰さんを殺す話ではありません」
「じゃあ、生かす話かい」
「そうなるようにしたい」
おとらは鼻を鳴らした。
「気に食わないね」
「でしょうね」
「でも、あんたがそういう顔をする時は、たぶん誰かが泣くんだろう」
「もう泣いています」
おとらは、おみつを見た。
それ以上は聞かなかった。
魚辰は、酒屋の清七の店に飛び込んだ。
清七は店先で徳利を並べていた。朝から酒屋に飛び込んでくる男は珍しくないが、魚辰の顔を見るなり、眉をひそめた。
「何だい、魚辰。もう迎え酒か」
「昨日の金はどうした」
「金?」
「俺が払った金だよ!」
清七は、少し間を置いてから、面倒くさそうに首を傾げた。
「あんた、何を言ってるんだ」
「とぼけるな。俺は昨日、ツケを払った。酒も買った。肴も頼んだ」
「酒と肴は出したよ」
「金は」
「金なんか、もらってないね」
魚辰の顔が凍った。
「嘘だ」
「嘘じゃない。こっちは商売だ。金をもらったら帳面につける」
清七は帳面を開いた。
「ほら見ろ。魚辰、酒二升、肴、膳、子どもへの飴代。全部ツケだ」
「そんなはずはねえ」
「そんなはずがあるんだよ。あんたが景気よく『つけとけ、近いうちにまとめて払う』って言ったんだ」
「俺は払った!」
「酔っぱらいの言うことを、いちいち真に受けてたら酒屋は潰れる」
魚辰は帳面を掴もうとした。清七がそれを避ける。
「おいおい、暴れるな」
「俺は金を持ってた。財布を拾ったんだ。小判が入ってた。芝の浜で」
清七の目つきが変わった。
「拾った?」
「ああ」
「それを届けずに使ったのかい」
周りの空気が変わった。
店先にいた小僧が、手を止める。向かいの味噌屋の女房がこちらを見る。魚辰は、自分が言ってはいけないことを口にしたと気づいた。
「いや、違う。使ってねえ。いや、使ったのか……」
「魚辰」
清七の声が低くなった。
「あんた、寝ぼけてんじゃないのか」
「寝ぼけてねえ」
「財布なんか持ってこなかった。金も払ってねえ。酒はツケだ。これは帳面に残ってる」
清七は帳面を叩いた。
「夢でも見たんだろ」
その一言で、魚辰は後ろへ一歩下がった。
夢。
おみつもそう言った。
清七もそう言った。
では、あれは本当に夢だったのか。
小判の光。
財布の重み。
芝の浜の冷たい風。
畳の上にこぼれた金。
おみつの青い顔。
あれが夢?
「……夢」
魚辰は呟いた。
清七は肩をすくめた。
「まあ、夢にしちゃ高くついたな。昨日の分もきっちり払ってもらうぜ」
魚辰は何も答えなかった。
ふらふらと店を出る。
外の光がまぶしかった。
まぶしすぎて、目が痛い。
長屋に戻る道が、やけに長く感じられた。
途中で、魚辰は芝の浜へ行こうとした。確かめればいい。あそこに行けば、何かわかる。財布を拾った場所を見れば、夢かどうかくらいわかる。
だが、足が止まった。
もし何もなかったら。
ただの砂浜だけだったら。
その時、自分は何になる。
魚屋でもなく、亭主でもなく、ただの酔っぱらいになる。
昨日、大金を拾った夢を見て、長屋中に酒を振る舞い、さらにツケを増やした馬鹿になる。
魚辰は、道端にしゃがみ込んだ。
「畜生」
声が漏れた。
「畜生……」
何に対しての畜生なのか、自分でもわからなかった。
金が消えたことか。
夢だったことか。
夢を見た自分か。
その夢にすがりついた自分か。
やがて、魚辰は立ち上がった。
長屋へ戻ると、おみつが戸口で待っていた。
お春は少し離れて、井戸端のそばに立っていた。おとらもいる。大家の甚兵衛も、いつの間にか煙管を手にして立っていた。
長屋中が、見ていないふりをして見ている。
魚辰は、おみつの前に立った。
「清七が」
「はい」
「金はもらってねえって言った」
「……はい」
「全部ツケだってよ」
おみつは何も言わなかった。
魚辰は笑った。
笑おうとして、失敗したような顔だった。
「夢だったのか」
おみつは、目を伏せた。
「はい」
魚辰の喉が動いた。
「俺は……夢を見たのか」
「はい」
「芝の浜で財布を拾って、小判を見て、金持ちになった気で、長屋の連中に酒を振る舞って……それが全部、夢か」
おみつは、唇を噛んで頷いた。
「そうです」
魚辰は、空を見上げた。
青くもない。曇ってもいない。江戸の朝の、薄い空だった。
「そうか」
それだけ言って、魚辰は家に入った。
おみつが追おうとすると、戸の内側から声がした。
「来るな」
おみつは立ち止まった。
「少し、一人にしてくれ」
声は怒っていなかった。
だからこそ、おみつは泣きそうな顔をした。
お春は近づき、そっと言った。
「今は、その方がいい」
「はい」
おみつは小さく頷いた。
その日、魚辰は家から出てこなかった。
長屋の者たちは、いつもより静かにしていた。おとらでさえ、戸口の前で大声を出さなかった。子どもたちは何度か魚辰の家の前を通りかかったが、おとらに耳をつままれて追い払われた。
昼過ぎ、甚兵衛がお春の部屋へ来た。
「で」
座るなり、甚兵衛は言った。
「何があった」
「夢を見たんです」
「おめえさんまでそれか」
「今は、そういうことにしておいてください」
甚兵衛は煙管をくわえたが、火はつけなかった。
「財布か」
お春は甚兵衛を見た。
「どうして」
「魚辰が騒いだ。芝の浜。小判。拾った。そこまで言やあ、わかる」
「大家さんは怖いですね」
「長屋を預かってりゃ、だいたいの揉め事は金か酒か色だ。今回は金と酒だろう」
「色はありません」
「おみつがいる」
お春は黙った。
甚兵衛は、火のついていない煙管を膝に置いた。
「財布はどこだ」
「私が預かっています」
「届けるぞ」
「はい」
「すぐにだ」
「はい」
お春は文箱を開け、奥から財布を取り出した。
甚兵衛はそれを受け取らず、じっと見た。
「重そうだな」
「重いです」
「金がか」
「いいえ」
甚兵衛は、ふっと笑った。
「そういうことを言うから、物書きは面倒だ」
「大家さんも、わかっている顔をしています」
「年を取ると、面倒なことが少しはわかる」
お春は財布を甚兵衛に差し出した。
「おみつさんは、今夜まで待ってほしいと言いました。魚辰さんが落ち着くまで」
「駄目だ」
甚兵衛の声は厳しかった。
「落とした者がいる。そいつは今、この金がなくて困ってる。魚辰を救うために、別の誰かを潰しちゃいけねえ」
「わかっています」
「なら、行くぞ」
「私も?」
「おめえさんが預かったんだろう」
お春は頷いた。
その時、戸口に影が差した。
おみつだった。
「大家さん」
甚兵衛が振り向く。
「私も、行きます」
「お前さんは魚辰についていろ」
「いえ」
おみつは首を振った。
「私が隠しました。私が、夢だと言いました。財布を届けるところを、見届けないといけません」
お春はおみつを見た。
顔色は悪い。だが、目は昨夜よりもしっかりしていた。
甚兵衛はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。
「なら、支度しな」
「はい」
「ただし、余計なことは言うな。拾ったのは魚辰。預かったのはお春さん。届けるのは大家の俺。お前さんは、それを見届けるだけだ」
「はい」
おみつは深く頭を下げた。
お春たちは、財布を持って長屋を出た。
行き先は、まず町内の自身番である。そこから町役人を通し、落とし主を探すのが筋だった。
道すがら、おみつはずっと黙っていた。
お春も、何も言わなかった。
甚兵衛だけが、時々ぼそりと口を開く。
「こういう金はな、持ってるだけで人相が変わる」
「ええ」
「魚辰は悪党じゃねえ」
「わかっています」
「悪党じゃねえから、余計に危ない。悪党は金を使う覚悟がある。半端な男は、金に使われる」
おみつが俯いた。
お春は、甚兵衛の横顔を見た。
「大家さんも、昔何か?」
「長く生きてりゃ、一度や二度は財布くらい拾う」
「届けましたか」
「届けたさ」
「迷いましたか」
甚兵衛は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
自身番へ着くと、番太が眠そうな目をこすっていた。甚兵衛が事情を簡単に話し、財布を出すと、眠気は一瞬で消えた。
「こりゃあ大事だ」
「拾い主はうちの長屋の魚屋だ。ただ、酒で前後が怪しい。芝の浜で拾ったと言っている」
「中は」
「開けた。小判が入っている」
番太は眉をひそめたが、甚兵衛が睨むと、それ以上は言わなかった。
やがて町役人が呼ばれ、財布の中身が改められた。
小判。
銀。
そして、包み紙の奥に、商家の印が入った書付があった。
「近江屋」
町役人が言った。
「日本橋の近江屋の金かもしれん」
おみつの肩が震えた。
お春はそれを横目で見た。
やはり、誰かの金だった。
誰かの暮らしを支える金だった。
町役人は甚兵衛を見る。
「拾い主には後で話を聞く」
「承知した」
「ただ、金に手がついているな」
空気が変わった。
おみつの顔が真っ白になる。
お春は一歩前に出た。
「その分は、長屋で立て替えます」
甚兵衛が目を剥いた。
「お春さん」
「私が預かった以上、知らぬとは言えません」
町役人はお春を見た。
「お前は」
「同じ長屋の者です」
「女が口を挟むことではない」
お春は微笑んだ。
吉原で身につけた笑みだった。
相手を怒らせず、しかし一歩も退かないための笑み。
「口を挟んだのではありません。金の不足分をどうするか、申し上げただけです」
町役人は少し不快そうな顔をした。
甚兵衛が横から入る。
「不足分は俺がいったん預かる。長屋の者で返す。拾い主の魚辰にも働かせる。それで筋を通す」
「ふむ」
「近江屋に届けてくれ。落とし主が困っているなら、早い方がいい」
町役人は頷いた。
「よかろう。だが、拾い主は後日呼ぶ」
「わかった」
自身番を出ると、おみつはその場に崩れそうになった。
お春が支える。
「大丈夫ですか」
「お金が……減っていました」
「昨日、使いましたから」
「私が、もっと早く止めていれば」
「止められなかったでしょう」
おみつは涙をこらえた。
「でも」
「人ひとりが金に呑まれる時、女房ひとりの腕では足りないこともあります」
甚兵衛が、厳しい顔のまま言った。
「足りねえ分は、魚辰に払わせる。酒代も含めてな」
「はい」
「そのためには、働かせるしかねえ」
「はい」
おみつは頷いた。
その頃、魚辰は家の中で一人、膝を抱えていた。
頭の中では、まだ小判の光がちらついている。
夢だった。
おみつはそう言った。
清七もそう言った。
長屋の者も、誰も金を見ていないと言った。
ならば夢なのだろう。
だが、手のひらは覚えている。
財布の重みを。
小判の冷たさを。
酒を振る舞った時の、あの馬鹿みたいな高揚を。
魚辰は自分の手を見た。
魚を掴む手。包丁を握る手。桶を担ぐ手。
それが昨日は、小判を握った。
そして、何もかも駄目にした。
「夢で、あれか」
魚辰は呟いた。
「夢であんな馬鹿をやるのか、俺は」
その時、戸の外で足音がした。
おみつたちが戻ってきたのだ。
魚辰は顔を上げたが、立てなかった。
戸が開く。
おみつが入ってきた。
その後ろに、お春がいる。甚兵衛は戸口に立ったままだった。
「辰さん」
おみつの声は静かだった。
魚辰は、おみつを見た。
「……どこへ行ってた」
「少し、大家さんと」
「何しに」
おみつは答えなかった。
お春が一歩前に出た。
「魚辰さん」
「何だよ」
「夢は、覚めましたか」
魚辰は笑った。
乾いた笑いだった。
「覚めたよ。嫌ってほどな」
「なら、これからが本当です」
「本当?」
「ええ。夢で作った借りを、起きて返すんです」
魚辰はお春を睨んだ。
「説教か」
「いいえ」
「じゃあ何だ」
「確認です」
お春は、魚辰の手を見た。
「あなたは魚屋ですか」
魚辰は答えなかった。
「魚屋なら、魚を売って返しなさい。亭主なら、女房に米を食わせなさい。酒飲みなら、酒の借りを働いて返しなさい」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません」
「だったら」
「でも、それ以外に道がありますか」
魚辰は言い返せなかった。
おみつが、そっと言った。
「辰さん」
「……何だ」
「私、もう昨日みたいな顔の辰さんは見たくありません」
魚辰の目が揺れた。
「あんなに笑っていたのに、ちっとも嬉しそうじゃなかった」
「みつ」
「怖かったんです。金を持った辰さんが、遠くへ行ってしまうみたいで」
魚辰は俯いた。
おみつは続けた。
「私は、お金持ちになりたいんじゃありません。立派な店がすぐ欲しいんでもありません。ただ、朝になったら辰さんが起きて、魚を仕入れて、帰ってきて、一緒にご飯を食べられたら、それでいいんです」
魚辰の肩が震えた。
「それができねえから、こうなってんだろ」
「なら、今日からやってください」
「今日から?」
「はい」
「俺が?」
「はい」
魚辰は笑おうとしたが、笑えなかった。
「俺は昨日、夢で大金を拾って、夢で全部なくしたんだぞ」
「だったら、もう夢は終わりです」
おみつは言った。
「起きてください」
その言葉に、魚辰は顔を上げた。
お春は黙って見ていた。
夢と言った女。
その女が今、男に起きろと言っている。
これが、この話の芯なのだと思った。
魚辰は、ゆっくりと立ち上がった。
ふらついた。おみつが手を伸ばしかける。だが、魚辰はそれを制した。
「……清七のところへ行く」
「辰さん」
「昨日のツケを聞いてくる。いくらか、ちゃんと」
おみつの目が潤んだ。
「それから、河岸へ行く。今からじゃ遅いが……兄貴分の政吉に頭を下げる。明日の仕入れを、少し回してもらえないか聞く」
甚兵衛が戸口で頷いた。
「それがいい」
魚辰は、お春を見た。
「お春さん」
「はい」
「俺のこと、書くかい」
お春は少し考えた。
「まだ書きません」
「まだ?」
「ええ。あなたの話は、始まったばかりです」
魚辰は、今度は少しだけ笑った。
「そうかい」
その笑いは、昨日の大声の笑いとは違った。
小さく、情けなく、けれど人間らしい笑いだった。
魚辰は手拭いを首にかけ直し、外へ出た。
おみつは、その背を見送った。
昨日の朝と同じように。
けれど、昨日とは違って、魚辰は長屋の入口で一度だけ振り返った。
「みつ」
「はい」
「飯、残しといてくれ」
おみつは、泣きながら笑った。
「はい」
魚辰は歩き出した。
今度の足取りは、まだ弱い。
だが、河岸へ向かう足だった。
お春は、その背を見ながら思った。
男は、夢で駄目になることもある。
けれど、夢から覚めて、ようやく人に戻ることもある。
その日から、魚辰は酒を断った。
もちろん、たやすくはなかった。
夕暮れになると手が震えた。清七の店の前を通ると、足が勝手に止まりそうになった。酔った客の笑い声を聞くと、腹の奥が疼いた。
そのたびに、魚辰は歯を食いしばった。
おみつは酒を責めなかった。
責める代わりに、朝、湯を沸かした。味噌汁を作った。握り飯を持たせた。
おとらは口うるさく見張った。
「魚辰、そっちは清七の店だよ」
「わかってるよ」
「わかってて足が向くから、飲んだくれは始末が悪いんだ」
「うるせえな」
「うるさいのが長屋の情けだよ」
清七は清七で、店先に立つ魚辰を見ると、にやりとした。
「一杯つけるかい」
「つけねえ」
「冷やかしか」
「借りを返しに来た」
魚辰は、その日稼いだ銭の一部を帳場に置いた。
清七は銭を数え、帳面に線を引いた。
「焼け石に水だな」
「水でもかけなきゃ、火は消えねえ」
「言うようになったじゃねえか」
「お春さんの受け売りだ」
「へえ。あの女、魚屋まで躾けるのかい」
「躾けられてたまるか」
そう言いながら、魚辰は少し笑った。
河岸の政吉も、最初は呆れていた。
「辰、おめえ、今さら戻ってきたのか」
「戻ってきた」
「酒は」
「やめた」
「いつまで」
「明日まで」
政吉は眉を上げた。
「明日まで?」
「明日になったら、また明日までやめる」
政吉は大声で笑った。
「いい答えだ。大きいことを言わねえだけ、少しは目が覚めたな」
それから政吉は、魚を少し回してくれた。
「売ってこい。売れなきゃ、次はねえ」
「わかってる」
「あと、魚を酒臭くするな。客に失礼だ」
「ああ」
魚辰は頭を下げた。
その日、魚辰は久しぶりに魚を売った。
声は最初、かすれていた。
人の目が怖かった。
長屋の者に見られるより、町の客に見られる方が怖い。相手は自分の昔を知らない。知らないからこそ、今の自分の商いだけを見て値をつける。
「鰯、安いよ。今朝の鰯だ」
声が通らない。
魚辰は咳払いをした。
「鰯だ、鰯! 脂が乗ってるよ!」
通りがかった女房が足を止めた。
「魚辰さん、久しぶりじゃないか」
「久しぶりでも魚は新しいよ」
「口も少し戻ったね」
「魚より遅れて戻った」
女房は笑い、鰯を買った。
小さな商いだった。
けれど、魚辰には、それが大金よりも確かなものに思えた。
夕方、魚辰が帰ってくると、おみつは戸口で待っていた。
「お帰りなさい」
「売れた」
「はい」
「全部じゃねえけど」
「はい」
「でも、売れた」
おみつは笑った。
「ご飯、あります」
「味噌汁は?」
「あります」
「酒は?」
言ってから、魚辰はしまったという顔をした。
おみつの顔が一瞬止まる。
だが、魚辰は頭をかいた。
「いや、聞いただけだ」
「ありません」
「だよな」
「白湯ならあります」
「白湯か」
「お春さんが、こういう時は白湯がいいと」
魚辰は苦笑した。
「どこにでも出てくるな、あの人は」
その頃、お春は自分の部屋で筆を取っていた。
弥七からは、また催促が来ている。
吉原噺を書け。
艶のあるものを書け。
売れるものを書け。
だが、お春の筆は、どうしても長屋へ向かった。
おみつの嘘。
魚辰の夢。
財布の重み。
小判の光。
白湯を飲む女。
酒を断つ男。
口うるさいおとら。
黙って筋を通す甚兵衛。
華やかではない。
艶もない。
けれど、ここには人がいる。
お春は紙に書いた。
――夢と言った女がいた。
――それは、男を騙すための嘘ではなかった。
――男を夢から起こすための嘘だった。
そこまで書いて、筆を止める。
これは売れるだろうか。
弥七は首をひねるかもしれない。
版元は、もっと色っぽくしろと言うかもしれない。
男の読者は、女房の嘘を怖がるかもしれない。
それでも、お春は書きたかった。
吉原では、男たちが夢を買った。
長屋では、女たちが暮らしを支えている。
その違いを書かずに、何を書くというのか。
数日後、近江屋の手代が長屋へやって来た。
若い男だった。名を幸助といった。顔色が悪く、目の下に深い隈がある。財布を落としてから、まともに眠れていなかったのだろう。
甚兵衛に案内され、幸助は魚辰の家の前に立った。
魚辰は魚籠を下ろしたところだった。
「あなたが、財布を拾ってくださった方ですか」
幸助は深く頭を下げた。
魚辰は言葉に詰まった。
拾った。
確かに拾った。
だが、今の魚辰にとって、それは夢のはずだった。
おみつの顔が強張る。
お春は少し離れて見ていた。
甚兵衛が言った。
「財布は無事、届けた。少しばかり金に不足が出た分は、こちらで返すことにしてある」
幸助は慌てて首を振った。
「いえ、それは。戻っただけで、私は」
「筋だ」
甚兵衛は短く言った。
幸助は黙った。
魚辰は、ようやく口を開いた。
「その財布がなくなったら、困ったかい」
幸助は顔を上げた。
「はい」
「奉公先を追われたか」
「それだけでは済まなかったかもしれません。あれは主人から預かった大事な金でした」
「そうか」
魚辰は、深く息を吐いた。
「そうか……」
その一言に、何かが滲んでいた。
夢ではなかった。
だが、夢だったことにしなければ、自分は戻れなかった。
その苦さを、魚辰は呑み込んだ。
幸助はもう一度頭を下げた。
「ありがとうございました」
魚辰は首を横に振った。
「礼を言われるようなもんじゃねえ」
「ですが」
「俺は、その財布で夢を見た。あんたは、その財布がなくて地獄を見た。礼を言われると、こっちの腹が痛え」
幸助は驚いたように魚辰を見た。
お春は、そっと目を伏せた。
いい言葉だと思った。
飾りはない。だが、魚辰自身の腹から出た言葉だった。
幸助が帰った後、魚辰はおみつに向き直った。
「みつ」
「はい」
「夢だったんだよな」
おみつの顔が青くなる。
しかし魚辰は、静かに続けた。
「そういうことにしてくれ」
おみつの目から涙が落ちた。
「辰さん」
「俺は、夢で十分懲りた」
魚辰は笑った。
「二度と、あんな夢は見たくねえ」
おみつは泣きながら頷いた。
お春は、その場を離れた。
これ以上は、夫婦の間のことだった。
その夜、魚辰の家では小さな膳が出た。
豪勢なものではない。白飯に味噌汁、焼いた鰯、大根の煮物。魚辰が売れ残りではなく、自分で選んで持ち帰った魚だった。
おみつは、膳の端に小さな盃を置いた。
魚辰が眉を上げる。
「何だ」
「一杯だけ」
「おい」
「今日は、幸助さんが来ました。財布も戻りました。辰さんも働いています。だから、一杯だけなら」
魚辰は盃を見た。
酒の匂いがした。
喉が鳴る。
手を伸ばしかける。
おみつは何も言わなかった。
魚辰の指が、盃の縁に触れた。
その瞬間、昨日の夢が戻ってきた。
芝の浜。
小判。
長屋の宴。
清七の帳面。
おみつの「夢です」という声。
魚辰は、盃から手を離した。
「よそう」
「辰さん」
「また夢になるといけねえ」
おみつは、ぽろぽろと泣いた。
魚辰は困ったように笑った。
「泣くなよ。酒を呑まねえって言って、女房に泣かれるとは思わなかった」
「だって」
「白湯をくれ」
「はい」
おみつは盃を下げ、代わりに白湯を出した。
魚辰はそれを飲んだ。
「……薄いな」
「白湯ですから」
「でも、腹に落ちる」
「はい」
夫婦は、向かい合って飯を食べた。
その頃、お春は自分の部屋で筆を走らせていた。
外では、春の夜風が路地を抜けている。
長屋の灯りが、障子越しにぽつぽつと揺れている。
お春は書いた。
――男は盃を置いた。
――女は夢と言った。
――それでようやく、二人の朝が始まった。
筆を置いた時、戸口から声がした。
「お春さん」
おとらだった。
「はい」
「魚辰が酒を断ったってさ」
「そうですか」
「そうですかって、あんた知ってたんだろ」
「見届けただけです」
「ふん」
おとらは戸口に腰を下ろした。
「吉原帰りってのは、もっと人の亭主を惑わすもんだと思ってたよ」
「失礼ですね」
「褒めてるんだよ。半分はね」
「残り半分は?」
「悔しいのさ」
お春は少し笑った。
おとらは横目でお春を見た。
「おみつがね、あんたに礼を言ってたよ」
「礼を言われることはしていません」
「そう言うと思った」
「では、なぜ伝えに?」
「伝えたいんだよ。長屋ってのはね、そういう余計なことをするところさ」
お春は黙った。
吉原では、礼も恨みも金に混じった。
言葉ひとつにも値がついた。
だが、長屋の礼は、時に味噌一椀であり、時に余計な伝言であり、時に黙って戸を閉めてやることだった。
「おとらさん」
「何だい」
「私、この長屋にいてもいいんでしょうか」
おとらは呆れた顔をした。
「家賃払ってるんだろ」
「払っています」
「じゃあ、いればいい」
「そういうものですか」
「そういうもんだよ」
おとらは立ち上がった。
「ただし、妙な色気で長屋の男を転がしたら、あたしが承知しないよ」
「筆で転がすのは?」
「それは……まあ、面白けりゃ許す」
お春は笑った。
おとらも、少しだけ笑った。
おとらが去った後、お春は書き上げた紙をまとめた。
題をどうするか、少し迷った。
芝の浜の夢。
拾い財布。
酒断ち魚屋。
どれも違う。
これは魚辰の話であり、おみつの話だ。
しかし、芯にあるのは、あの一言だった。
夢です。
夫を騙すためではなく、夫を起こすために言った一言。
お春は、表紙に題を書いた。
――夢と言った女
翌日、貸本屋の弥七が来た。
「お春さん、何か書けたかい」
「ええ」
「吉原ものかい」
「長屋ものです」
弥七は露骨に顔をしかめた。
「地味だねえ」
「人が生きています」
「艶は?」
「ありません」
「色恋は?」
「夫婦があります」
「事件は?」
「財布を拾います」
「お、少し面白そうだ。で、女は脱ぐかい」
お春は原稿で弥七の額を軽く叩いた。
「馬鹿をお言いでないよ」
「痛い痛い。冗談だよ」
「読んでから言いなさい」
弥七は原稿を受け取り、題を見た。
「夢と言った女……へえ」
「売れませんか」
「わからないね」
「正直ですね」
「商売だからね。ただ」
弥七は原稿を小脇に抱えた。
「お春さんが書く長屋ものなら、少し読んでみたい気はする」
「それはどうも」
「けど、お上に睨まれるようなことは書いてないだろうね」
「女房が亭主に嘘をつく話です」
「それは世の亭主に睨まれるな」
「お上より怖いですか」
「場合による」
二人は少し笑った。
弥七が去る時、ふと振り返った。
「お春さん」
「はい」
「長屋の者たちは、あんたを何て呼んでるんだい」
「さあ。吉原帰りとか、物書き女とか」
「いや、今朝、おとらさんが言ってたよ」
「何と?」
「長屋の姉貴、ってさ」
お春は目を瞬いた。
「姉貴?」
「ああ。口は悪いが面倒見はいい。妙に腹が据わってる。だから姉貴だと」
「私は、そんな立派なものではありません」
「立派じゃないから、長屋の姉貴なんだろ」
弥七は笑って、路地の向こうへ消えた。
お春は、しばらくその場に立っていた。
長屋の姉貴。
おかしな呼び名だ。
吉原の花魁だった女が、長屋の姉貴。
けれど、悪くないと思った。
昔は吉原で男を見てきた。
今は長屋で人を見て、筆で食っている。
だが世の中は、女が書くことも、色里を語ることも、だんだん窮屈になっていく。
それでも、書く。
男の夢も。
女の嘘も。
長屋の朝も。
お春は部屋に戻り、新しい紙を広げた。
外では魚辰の声がした。
「鰯だ、鰯! 今朝の鰯だよ!」
声はまだ少しかすれている。
だが、昨日よりも通っていた。
おみつの笑い声が、それに重なる。
お春は筆を取った。
そして、次の一行を書き始めた。
――長屋には、夢から覚めても続く暮らしがある。