前途あるある - 多難がち
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もし、あなたが何らかの理由で死んだあと、自分に第二の人生が待ち受けていたってことを知ったら、どう思うだろうか。その死が不準備のなかで発生した不本意なものだったら、生のあることに安堵して胸を撫で下ろすかもしれない。その死が準備を重ねた末の本意のものだったら、生のあることに落胆して頭を抱えてしまうかもしれない。
命の数だけ死は存在していて、人間が死について考えられる脳みそを搭載している以上、死の受け止め方は人の数だけ存在しているだろう。人間は、死を自覚している唯一の生き物だ、なんて話もある。たしか地球には七十億だか八十億だかの人間が生きていて、毎日十万だか二十万だかの人間が死んでいるらしい。そんだけの命がそんだけ死んでたら、死についての捉え方が幾億通りあったところで驚くべきことではない。死後に第二の人生が始まることは世界の摂理だと考えている人だって沢山いるに違いない。
だけど、そんな発想があると理解していても、そんな信仰があると承知していても、もしあなたが僕と同じ状況になったとしたら、きっととんでもないイレギュラーに巻き込まれたって思うことだろう。
長々しい話は終わりにして、本題に移ることにする。何でこんな話をしたのかっていうと、今から僕がする話を、狂人の戯言だと思わないでほしいからだ。僕は(きっと)頭がおかしくなって幻覚を見ているわけではないし、これからする話は(おそらく)現実の中にある出来事だ。それを承知した上で聞いてほしい。
いったい何の因果なのか——僕は、前世でやっていたブルーアーカイブというゲームの世界で、第二の生を受けることになってしまったのだ。
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ミレニアムサイエンススクール——広大な敷地面積と大勢の学生、充実した学習環境と整備された研究環境、そして飽和した知的財産を有する学園だ。千年難題と呼ばれた、現在の技術では解決することのできない七つの難題を解かんとする研究者たちの集いが端緒となっている。そのため科学技術の研究に特に力を入れており、研究機関としての側面も持つという特徴がある。他の学校と比較しても歴史は浅いが、こと影響力という点においては他を優越していると言えるだろう。
持て余しているのではと疑いたくなるほどの敷地に、過剰なまでに装飾的なポスト・モダニズム建築が立ち並んでいる。僕は敷地内を漫然と歩きながら、目に飛び込んでくる奇態の構造に目眩を感じていた。そこに表れているのは、複雑と単純という相反する概念の表面的な融合だ。具体的でありながら高度に抽象化され、伝統の系譜を受け継いでいながら革新的な様相を纏っている。それはさながら、固体として形をとった発展の夢。
僕のこの世界での最初の記憶も、こんな不可解な建物と共にある。一度目の人生の終端に、死を覚悟して目を閉じて、それでもなかなか「終わり」らしきものが訪れないものだから、未練たらしく目を開けてみたら、こんなような建物が立ち並んだ街の道路で寝転んでいたのだ。僕の周りでは花火が弾けるような爆音が鳴っていて、僕の右手には青い拳銃が握られていて、僕のこめかみからは冗談みたいな量の血が出ていた。激痛にうめきながら頭を上げて辺りを見渡すと、天使の輪みたいなものを頭上につけた女の子たちが、制服姿で銃を撃ち合っていた。その異様な光景を目にしたときに僕が陥ったパニックは、きっと同じ経験をしたことがある人間にしか理解し得ないものだろう。僕の生きていた世界ではとうてい起こり得ない状況で、でも現に目の前でそれが起こっていて、おまけに僕はその状況が起こりうる世界を知っているのだ。
なんとか這々の体でそこから逃げ出した僕は、痛む体を宥めながらポケットに入っていたスマートフォンを開いた。時刻は午前十時二十六分。ロック画面の壁紙には、女の子二人が綺麗な海を背景に自撮りした写真が使われていた。僕はその二人の女の子を知らないはずだった。一回目の人生で、犬の耳が生えた赤い髪の女の子なんてゲームや漫画の中でしか見たことがなかったし、その横で下手くそな笑顔を浮かべながら不器用にピースサインをする黒髪の女の子も、僕の知り合いでは決してないはずだった。なぜそんな見ず知らずの人間二人の自撮り写真が壁紙に登録されているのか、その時の僕には全く理解不能だった。
だけど、それと同時に、僕は彼女たちを知っている、と深く確信してもいた。見たことも、会ったことも、話したこともある人間が写っている写真だということを。なんなら、この写真を撮ったのが自分であるということを、絶対の自信を持って断言できるとさえ思った。僕は犬の耳が生えた赤い髪の女の子を、同じ中学校に通っている「
僕が知らないはずのことを僕が知っている。まるで第二の記憶とでも言うべき意味不明な現象。だけど、それが一体何なのかについて思いを巡らせるには、その時の僕はいささか傷を負いすぎていた。スマートフォンのロックを解除する前に、僕の手からはだんだんと力が抜けていった。重力に従って、スマートフォンは僕の手から離れていく。手の中から滑り落ちたそれを拾おうと屈んだときに、足にもすっかり力が入らないってことを発見して、そのままの姿勢で崩れ落ちて、全く動けないまま視界がどんどん霞んでいった。まず救急車を呼ぶべきだったなって後悔したときには、僕の意識は闇に沈んでしまっていた。
次に目が覚めた時、僕は病院にいた。一度目の人生に戻ったのかって一瞬思ったが、僕が寝てるベットの横に、犬の耳が生えた赤い髪の女の子が座っているのを見つけて、その仮説は即刻棄却した。彼女——出どころ不明の僕の記憶では「謡鳥アマネ」という名前をしている彼女は、ベッドの横に置かれたパイプ椅子に座ったまま眠っているようだった。彼女の後ろにある窓からは、もうすっかり暗くなった空が見えていて、さっきの倒れたときから夜までの、そこそこ長いあいだ気絶していたってことを何となく悟った。
意識が戻ったことを知らせるためにナースコールを鳴らそうと腕を動かしたら、その音を聞きつけたのか、アマネは目を開けた。寝ぼけ眼の赤い瞳と、僕こと宮乃瀬ナギの青い瞳が完全に正対して、そのまま何秒か停止した。僕が何か言おうと口を開きかけたとき、アマネが僕に思い切り抱きついてきた。僕は驚いて硬直して、彼女に抱きしめられるがままの状態でしばらく過ごした。僕と彼女はかなり親しい仲なんだろうなとぼんやり思った。こいつは何かあるたびに抱きついてくるな、とぼんやり思った。やたらに力が強いのは常日頃から銃を持っているからだろうか、と僕は考えた。やたらに力が強いのはこいつが最近ハマってるらしいボルダリングの影響だろうか、と僕は考えた。
記憶が二つあるってのは、どうにも奇妙な感覚だ。
あとから来た医者の話によると、僕はあれから三日ほど眠っていたらしい。思ったより重症だったわけだ。頭は痛まないか、とか、体に違和感はないか、とか聞かれて、それら全ての質問にノーを返していたら、医者は満足した顔で病室から出ていった。新しい人格が生まれたかもしれません、とか、前世の記憶を思い出しました、とかの余計なことは言わなかった。話をややこしくしたくなかったし、医者がこの問題をどうにかできるとは思えなかった。もしかしたら僕は何かの脳障害や精神疾患を患ってしまったのかもしれないし、あるいは生まれ変わって第二の生が始まったのかもしれない、なんてことを医者に話せるだろうか。
それに、もしこれが脳障害や精神疾患で、本当は僕に前世なんて全くもって存在しなくて、ブルーアーカイブなんてものは僕の頭の中が作り出した完全なる虚構だったとしても、僕はそれでいいと思っていた。いつもと同じものだ、と思いながら日常を過ごすより、前世のゲームで見たやつだ、と思いながら非日常を過ごす方が、有り体に言って楽しそうだったから。
そこからの日々は怒涛だった。キヴォトスという新天地での身の振り方を考えなくてはいけなかったし、進学する高校をどこにするか決めなくてはいけなかったし、知識として知ってはいても体が全く追いつかない銃器の扱い方に習熟しなくてはいけなかったし、会員費だけ毎月払って全然行ってないフィットネスジムを解約しなくてはいけなかったし、毎月三十個ほどの手榴弾が家に届く謎のサブスクも解約しなくてはいけなかったし、信じられない会員費のモモフレンズファンクラブ・プレミアムプラチナグレードも解約しなくてはいけなかった。
生活していく中で知ったのだが、どうやら僕の二度目の人生最初の日に起こっていた大騒ぎは、もとを辿れば自業自得のようなものだった。どうやら宮乃瀬ナギという人物は、近所のカフェで調理の仕事をする傍ら、指名手配犯を捕まえて報奨金を得ていたようだ。彼女は捕まえた凶悪犯に掛けられていた賞金で、モモフレンズファンクラブ・プレミアムプラチナグレードの高額な会員費を払っていた。僕は、賞金稼ぎなんて職についている人間をワンピースの紙面でしか見たことがなかったと思っていたのだが、どうやらこの僕がそうだったらしい。その仕事の過程で血の気の多い連中の怒りを買って、通学途中に襲撃されたのがあの日だったようだ。
しかし、彼女にとって、チンピラが何人か徒党を組んで襲ってくる、というのは日常茶飯事だ。その程度の試練だったら、こめかみに銃弾をもらってぶっ倒れるなんてヘマはしない。問題は、その前々日から睡眠時間を削って、溜め込んでしまった未提出の宿題を何とか仕上げていた、という一点にあった。寝不足の状態で、仕事の報復を警戒しながら生活する、という彼女の普段の生活もままならなくなってしまい、あの事件が起こった、という顛末のようだ。
まったく、この宮乃瀬ナギという人物、前世に僕がいるからなのか、あるいはよほど金が欲しかったのか。理由はなんにせよ、ワークライフバランスが崩壊しすぎではないだろうか。今時、私生活まで犠牲にして仕事に打ち込むなんて流行らないと思うけど。
そんなことはともかくとして。
僕は、これまでの宮乃瀬ナギの基本方針であった「ガンガンいこうぜ」から大幅に転換し、「積極的平和主義」を掲げて生きていくことにした。生まれ変わったと言っても、心の部分は日本で生きる一般市民なのだ。銃を持ってたら捕まるし、人を撃ったら殺人罪。そんな世界に何十年もいたというのに、一朝一夕でキヴォトスの常識に染まれるほど、僕は柔軟な人間ではない。
住む場所も変えた。これまではゲヘナ自治区の端っこの安アパートに身を押し込んで暮らしていたが、より安全で治安の良いミレニアム自治区へと住まいを変えた。高校もミレニアムサイエンススクールへ進学するつもりだ。
ナギの元々の居住地はゲヘナ自治区だから、本人の気性も相まって、おそらくゲヘナ学園への進学を考えていたのだろうが、僕個人としては絶対に採りたくない選択肢だった。原作でのゲヘナ風紀委員長の過労っぷりを見ていれば、ゲヘナ学園に進学するのなんて余程の狂人か、余程の戦闘好きか、あるいは狂人の戦闘好きだけってのは自明だ。僕はそんなところには行きたくない。
トリニティ総合学園も却下だ。治安という意味ではゲヘナ学園より百倍ましだが、学内でギスギスしているところはちょっといただけない。政治闘争に巻き込まれるのはまっぴら御免だし、もし万が一、まかり間違って補修授業部に編入させられるなんてことになったら目も当てられない。
かと言って、ゲームに登場していない無名校に進学するってのも個人的には避けたいところだ。せっかくゲームの世界に生まれ変わったのだから、原作キャラの一人二人と友達になるくらいのことはしてみたい。それに、僕が死んだ時点でブルーアーカイブのストーリーは完結していなかった。僕の知らないイベントやストーリーで何か大きな事態に巻き込まれるかもしれないというリスクを考えると、すでにメインストーリーで登場している学園の方が安全択と言えよう。
翻ってミレニアムサイエンススクールは最高の環境である。ゲヘナのように気性の荒い生徒は少ないし、トリニティのような派閥争いもほとんどないし、無名校と違ってすでにメインストーリーの舞台になっている。そのストーリーも、ゲーム開発部やセミナーといった特定の組織が深く絡んでいるものであって、一生徒として過ごしているだけなら無関係でいられる。
ちなみに余談だが、僕の友人の謡鳥アマネはヴァルキューレ警察学校へ進学した。最初はSRT特殊学園を志望してたけど、のちのち解体させられるってことを知っていた僕は、彼女を何とか説得して進路をずらさせた。きっと、僕が生まれ変わってなかったら、そのままSRTに入ったんだろう。もしかしたら若干の原作崩壊が起こったかもしれないが……。まあ、どっちみち解体させられたらヴァルキューレに行くか公園でホームレスなので、早いか遅いかの違いだ。
あだしごとはさておき。そんな打算の上で、僕はミレニアムへ進学した。入試はちょっと苦労したけど、どうやらナギは脳みそのスペックがそこそこ良かったらしく、かなりの高得点でパスすることができた。
前途洋々の気分で入学式に出たら、僕の近くに早瀬ユウカが座っていた。これにはさすがに驚いた。数日前まで中学生だったユウカは原作よりちょっとだけ幼い感じがした。僕は式が終わったあと、浮かれ気分のまま彼女に話しかけた。思いの外に話が弾んで、それから学校の近くのファミリーレストランで一緒にお昼ご飯を食べた。そこでしっかり彼女と仲良くなった僕は、同じクラスになったこともあり、一年生の間はずっと一緒に行動していた。僕も彼女も数学が得意ということもあり(もっとも僕は、数学が好きってわけじゃない。前世と全く違う歴史や、さっぱり理解できないラテン語に嫌気がさして、前世で習ったものと同じ解法を使えば正しい答えが出てくる数学や物理学を得点源にしていただけだ)、お互い学内では一番の友人と言えるほどの関係になった。
そうしてミレニアムサイエンススクール生としての生活を満喫していたある時、ユウカがセミナーに入った。僕は原作の到来を予期して気分が高揚していた。ユウカがセミナーの中で僕を推薦したらしく、僕もセミナーへ誘われた。気分が高揚していた僕は二つ返事でそれを受けた。そうしてセミナーは、会長の調月リオ、書記の生塩ノア、会計の早瀬ユウカ、庶務の宮乃瀬ナギ、というメンバーで動き始めた。
僕は完全にやらかしていた。
言い訳をしておくと、別に僕は原作の流れが狂うことを望んでいるわけではない。それに実際のところ、僕がセミナーに入ったところで大した問題ではないのだ。セミナーで活動し始めてすぐに気づいたのだが、セミナーにも原作で名前が出ていない人物(言葉は悪いが、いわゆるモブ生徒ってやつだろう)がたくさんいた。まあ、考えてみれば当たり前の話である。ミレニアムスクールには数え切れないくらいの生徒がいて、各々が各々の活動をしているのだ。それの統括であるセミナーに在籍している生徒が、原作で名前が出ていたリオ、ノア、ユウカ、ついでにコユキの四人だけであるわけがない。ミレニアム自治区の権力中枢がそんな寡頭制で回るわけがない。
というわけで、セミナーに入りながらも、僕は原作崩壊の危機を脱している。C&Cやヴェリタスのみんなとか、食堂のおばあちゃんロボットとか、人工知能部の部長とか、頼れる人脈も手に入れることができたし、これからのプランは変更なしだ。原作崩壊に気をつけながら、真っ当な仕事をして順当な青春を送る。原作開始が近づいている今だからこそ、初心に帰って一生徒として生活しなければなるまい。僕はそう決意した。
昔話はこの辺りまでにしよう。結局、大切なのは今なのだ。
今の状況は、連邦生徒会長が失踪して、おそらく二週間ほど経った頃。つまりは、早ければあと数日以内に原作が始まるわけだ。セミナーはここ最近、急速に悪化する治安の沈静化を図るために、みんな寝る間も惜しんで仕事をしている。かくいう僕は、もうすぐ先生が来るという事実に興奮が冷めやらず、別の理由で眠れなくなってるわけだけど。
遠足の前の子供みたいな理由で眠れなくなっていた僕は、せっかく眠れないのだから仕事を片付けてしまおうと、ここ一週間はほとんど学校に泊まり込んでいた。ちょっとBDで勉強して、それが終わったらあとはずっと仕事だ。パソコンに齧り付いたり、他学園との折衝のためにちょっと出かけたり。それが終わったら、軽くシャワーを浴びてミレニアムタワーの中にある仮眠室で布団を被る。二時間ぐらい寝たら、シャワーを浴びてセミナーオフィスまで行ってパソコンに齧り付く。これを一週間ぐらいやっている。
出来ることとやるべきことが噛み合った最高のワークスタイルだと思っていたのだが、つい先ほど、僕の業務記録を訝しんだノアによって、このノースリープ仕事術は白日の下にさらされた。僕は健康上のリスクを理由に、強制的に今日と明日の二日を休みにされてしまった。
ノアは僕の行動に大変お冠らしく、いつもの微笑を撤回した真顔で僕のオーバーワークを叱責した。正直めっちゃ怖かった。彼女に厳命されてしまったので、僕は原作開始直前の大事な二日間が全く予定のない日になってしまったのだ。どうやらセミナーは本気で僕を休息させたいらしく、この二日間は、ノアに許可を得ずにミレニアムタワーに入ろうとすると警報が鳴ってしまうように警備システムの設定を変更したらしい。
こうなったらもうお手上げである。そういうわけで、僕はこの大事な時期に、ぼんやり中庭で景色を眺めながら散歩と洒落込んでいたわけだ。昔のことを順を追って思い出す、なんて暇な時にしかできないから、希少性のあるアクティビティとして悪くはないけど。
昼食時という時間帯もあってか、まばらに置かれたベンチでは制服や作業着を着た人々が話し合いながら栄養を補給している。栄養を補給、という表現はまさしくその通りで、彼女らは皆、片手にタブレットや本を広げながら、もう片方の手にエナジーバーを握りしめている。食事とは名ばかりで、実際のところ彼女らは、生存に必要なエネルギーと栄養が得られれば食物の質など問題外なのだろう。彼女らが重視しているのは本質的に思考というソフトウェアのみであり、肉体というハードウェアの整備は最低限でも構わないと考えているわけだ。コンピュータと違って人間は、ハードウェアの性能がソフトに影響を及ぼすことが少ない——そう観察されにくい、ということを考えれば、彼女らの行動も、合理と効率を追い求めるミレニアムスクールの校風に沿ったものだろう。僕個人としては、食事の楽しみってのも乙なものだと思うけど。
まあ、僕だって人のことをどうこう言えるような食生活じゃない。ユウカが家に遊びに来た時とかは、まだ料理ができない彼女の代わりに夕飯を作ったりしてるけど、ここ最近みたいな仕事が立て込んでいる時は、コンビニのエナジーバーに頼ることもある。
さて、今日の昼食はどうしようか? 不本意とはいえ労役から解放されたのは事実だし、行こうと思って行けてなかった遠くのレストランに足を運んで、ゆっくり食べるのも結構いい案に思える。食後にデザートとコーヒーを頼んでもいい。なんたって、今日は休日になったのだから。
いっそのこと、原作が始まる前にD.U.でS.C.H.A.L.Eのビルでも探そうかなと思ったけど、少し考えて却下する。きっとやめておいたほうがいいだろう。僕の原作についての記憶が正しければ、いま、D.U.には矯正局から脱走した狐坂ワカモがいるはずだ。
賞金稼ぎをやっていた時代の宮乃瀬ナギはそうとう血の気が多かったらしく、ひところ狐坂ワカモに狙いを定めて追い回していたことがあるらしい。どんだけ命知らずなんだ。結局一度も捕まえることは叶わなかったようだが、そのころかなりやり合ったのか、僕が仕事で矯正局に顔を出したときも、かなり積極的に絡んできた。なんでも、「牙を捨てて随分丸くなったつもりのようですが、私の目は誤魔化せません。良い子のふりをしていても、あなたの奥に獣が潜んでいることはお見通しですよ」とかなんとか。多分だけど、同類だと思われてる。完全なる誤解だ。
あの調子だと、僕が脱走した彼女に見つかろうものなら、地獄の果てまで追いかけてきて昔の借りを返されてしまうだろう。七囚人からの覚えがめでたくても嬉しくともなんともない。そもそも、犯罪者に顔を覚えられてるって時点で僕の身の安全がかなりまずい。僕の積極的平和主義生活に犯罪者との交流は想定されていないのだ。いまD.U.に行くのは、狐の巣に兎が飛び込むようなものだろう。
そんなことをつらつら考えながら歩いていると、唐突に僕のスマホが震えた。どうやら電話がかかってきたらしい。ポケットから出して発信者を確認する。画面には「早瀬ユウカ」の文字。僕は一も二もなく応答する。
「やあ、どうしたんだ? この前の密輸グループの件なら、もうある程度片がついたけど——」
「どうした、じゃないわよ! ノアから聞いたわ。あなた、しばらく碌に休んでなかったんですって?!」
「ああ、その件か。ついさっき彼女にこっぴどく怒られたところさ」
「当たり前でしょう! 今度は私が怒る番よ。あなた、いつもは私にしっかり休めとか言っておいて、自分は二時間睡眠ってどういうつもりよ」
「悪かったよ。仕事が立て込んでるんだ。知ってるだろう? 例の風力発電所の事故が尾を引いてる。モノレールが動いてないんだよ」
「それは知ってるわよ。今から連邦生徒会長に直談判しに行くところなの。それはそれとして、あなた一人が働きすぎてるのは問題よ」
「わかってるさ、自分でも働きすぎの自覚はあった。ただ、ちょっとこの事態に焦ってて——」
待て、いま彼女はなんと言った?
「——ねえ、連邦生徒会長に直談判しに行く、って言った?」
「ええそうよ。こんな事態なのに声明の一つも出さないなんてどういうつもりか問い詰めてやるんだから」
「それ、同じことをしようとしてる他の学園の生徒とか、いた?」
「さっき駅で、トリニティの正義実現委員会の人と会ったけど……。待って、話を逸らそうとしてるの? いい、睡眠を取らずに仕事をするって本当に危険なことなんだから——」
まさか。まさかだ。
いや、予想できていた事態だ。近いうちに原作が始まるって見込みは立ってた。それがまさか今日だったとは、ってだけだ。予測との誤差は数日、問題ない。事態は僕の予想通りに、知識通りに動いている。
いやはや、D.U.でS.C.H.A.L.Eビルを探すなんて馬鹿な考えを実行に移さなくて本当に良かった。もしそんなことをしようものなら、あのチュートリアル面子のなかに僕が紛れ込む、なんて事態になりかねない。原作の一ページ目から流れが狂うところだった。電話をくれたユウカには感謝しなくてはいけないな。
「——おまけに、糖尿病とか認知症のリスクも上がるんだから! 寝不足って本当に危険なことなのよ! 今は問題ないからって深く考えないで睡眠の足りない生活をしてると、十年二十年後の自分が困ることになるの。ねえ、聞いてる?」
「もちろん。寝不足がどんなに危険なことなのかも、君の心配も、とてもよく伝わったよ。ありがとう。やっぱり、君は頼りになるね」
「褒めたって何も出ないわよ。本当に、心配したんだから」
「ごめん。今日はしっかり休むことにするよ。レストランで美味しいものを食べて、銭湯に行ってゆっくり風呂に浸かって、温かい布団で八時間ぐっすり眠るんだ。健康で文化的な最高の生活」
「羨ましい限りね。私もこれが終わったらそのまま帰るわ。流石に疲れた……。ねえ、なんでD.U.の電車が止まってるか分かる? 調べたんだけど、交通情報が一週間前のから更新されてないのよ」
「それ、すごいな。えっと、たしか矯正局から脱獄した囚人が暴れてるんじゃなかったっけ。警戒情報がうちに回ってきてたよ」
「なによそれ、最悪じゃない」
「最悪で災厄だね。用心したほうがいい。狐の巣穴に入ったようなものだから」
「狐? なんの話?」
「ものの例えさ。気をつけて帰るんだよ。なんなら僕が借りてる部屋を使う? D.U.のマンションに部屋を持ってるんだけど」
「なんで? いや助かるけど。帰りが遅くなったら使わせてもらうわ」
「オッケー。あとで住所を送るよ。用事が終わったら電話してくれれば、鍵はこっちで開けるから」
「ありがと。……ねえ、たしか明日も休みになったのよね? 私も休みを取ったから、どこかに出かけない? 最近は全然遊べてなかったし……」
「うわ、それってすごい名案! そういう話なら良いところを知ってるよ。トリニティに素晴らしいカフェがあるんだ。マカロンと季節の紅茶が絶品でね。たしか今の時期はメロンとローズのフレーバーティーだったかな」
「ああ、やめて。今からサンクトゥムタワーに行くのに、三時のおやつの気分にさせないでよ。気が滅入ってくるから」
「ははっ、悪かったよ。明日には埋め合わせができるからさ。今日は頑張ってきな」
「ええ、ありがとう。行ってくるわ」
そう言ってユウカは電話を切った。
当初の予定では、SNSで先生の話題が出始めた時期を原作開始の目安にしようとしていたんだけど、まさかピンポイントでチュートリアル面子から連絡をくれるとは。ユウカと友達になったのは本当にいい選択だった。
まあ、原作が始まったからといって、僕が別段どうこうするってことはない。これは原作ファンとしての好奇心だけの行動であって、何か野心や目算があるわけじゃないのだ。
ただ。少しばかり欲を言うなら、先生の顔を一目見ておきたくはあるかもしれない。男先生か女先生か、それだけでも知れたら、僕の好奇心の疼きはかなり緩和されるだろう。S.C.H.A.L.Eには当番なるものがあるらしいし、ユウカが行く時におまけとしてついていく、ぐらいは一回やってもいいかもしれない。一回、ダメもとでユウカに頼み込んでみようか。もし、先生を独り占めしたい、なんて可愛らしい理由で断られてしまったらどうしよう。先生より先に僕がユウカの太ももに抱きついてしまうかも。もしそんなことになったら……。まあ、今の僕は女の子だから合法だし、懸念するようなリスクではないか。
僕はそんな目算を立てながら帰路についた。いつもの見慣れた帰り道の景色が妙に目新しく、なんだか輝いて見えたのは、原作が始まったことによる僕の湧き上がる興奮によるものだろうか。あるいはもしかしたら、一週間ぶりに家に帰れるという事実に、僕のすり減った精神が最後の活力を搾り出しているのだろうか。
どちらにせよ、今日は僕の人生でもかなり上位に食い込むほどのいい日だった。