002
機嫌を損ねている友人を助手席に乗せてる時のドライブほど、気が滅入るものはない。ただでさえ、機嫌を損ねた他人が隣のベンチに座ってきた時なんかその日一日全体の点数が下がるほどに憂鬱なのに、それが友人で、ましてやどこにも逃げ場のない車の中となったら、それはもう最悪の二乗みたいなもんだ。
僕は運転に集中している風を装いながら、ちらと横目で助手席の様子を確認する。不機嫌な同乗者は脱力してシートに体を預けながら、前をじっと見つめている。さっきからずっとこんな調子だ。おかげで車内の空気は重苦しいなんてものではなくて、気を抜いたら大気の重圧に負けてハンドルから手が離れてしまいそうなほどだ。
彼女が何に対してそれほどまでに気分を害しているのか、率直に尋ねることができれば良かったのだけど、この沈黙の中でそんなことを口に出せるほど僕は肝が据わっていない。ここでもし僕が、「ねえ、そんなに気を落とさないで、もっと楽しげに笑ったらどうだい? ほら! 空はこんなにも晴れていて、車内にはV6ツインターボエンジンの唸るような音色が響いてるんだ! 最高のドライブ日和に、お腹まで震えるような低音を感じられる、人生にこれ以外の何を求めるんだい?」なんて言い放ったら、彼女は一体なんて言うだろう。きっと、彼女は何も言わずに、シートとセンターコンソールの間に挟まれてるMPXの銃口を僕に向けてきて、そこからきつい文句が十発ぐらい飛び出すんだろう。それで僕の借りたレンタカーは穴だらけ。僕はレンタカー屋の店主に精一杯頭を下げる羽目になる。
まったく、これが最悪でないならなんなんだ?
「あの、さ。勘違いだったらいいんだけど、もしかして何かに怒ってる? ほら、君っていつもはそんなんじゃなかったろう? あるいは、僕の記憶違いかも知れないけど……」
我慢できなかった。
二回目の人生では花の女子高生になったからといって、別に女心ってやつを一から十まで理解できるようになったわけじゃない。だけど得られた知見はいくつかある。そのうちの一つが、事態の先送りは解決を意味しない、ってことだ。何か問題があるなら、やり方がどんなに不恰好でも非効率でも、まずは対処する必要がある。手法の洗練は応急処置の後でもいい。まずこちらから一手打たなければ、事態は悪くなる一方である。肝が据わっていなかったとしても、進まねばならない瞬間が人生にはある。
僕の言葉に反応したのか、あるいは窓の向こうに興味をそそられる看板でもあったのか、彼女は視線を僕の方へやった。僕も彼女の方へ顔を向ける。脇見運転ってやつだけど、連邦生徒会が機能してないこの状況では、車で外出してる市民なんてさっぱりいないから、大して問題はない。
「やっとこっちを向いてくれたね。……ユウカ、僕たちは友達だろう? 何か僕たちの間で納得できないことがあったなら、ちゃんと話し合おうよ。僕、君のそんな顔は見ていたくないんだ」
僕がそう投げかけると、彼女は再び顔を正面に向けた。
なるほど。これは俗に言う、察してほしいモードってやつだろう。めんどくさい彼女が頻繁に発動して、彼氏を困らせることでお馴染みのあれだ。このモードに入ってるってわけは、つまり彼女がご機嫌斜めな原因は僕にある。僕は今日一日の出来事を回想し始めた。
今日の僕の一日は、朝起きて、昨日ユウカとした約束通りに彼女の家まで迎えに行き、一緒にD.U.行きの飛行機に乗って空の旅を楽しんだだけだ。てことは、多分だけど原因は今日じゃない。
昨日の僕はどんなだったけ。久しぶりの休日にユウカを誘って、トリニティのカフェに行った。そこで美味しいモーニングセットを食べた。クロワッサンをフレンチトーストしたものにブルーベリーソースがかかってた。季節の紅茶はメロン&ローズ。そこで最近の仕事の忙しさについて意見を交換した。あとは、原作チュートリアルの様子がどうだったかを僕が質問した。ユウカ曰く、連邦生徒会長が実は失踪していて、代わりに「先生」という大人がキヴォトスにやってきていた。僕は先生の様子が知りたくて質問攻めにした。得られた情報としては、先生が男先生であること、指揮能力が卓越していること、銃弾一発で死んでしまうような虚弱体質であること。
そう、たしか先生について質問しているうちに、だんだん口数が少なくなっていたような気がする。明日一緒にシャーレを見に行かないか、と誘った時も、最初はちょっと渋っていた様子だった。僕は先生の情報が知りたすぎて夢中で質問してたけど、後から考えたらあれはちょっと変だった。
なるほど。完全に読めたぞ、女心。
つまり、先生は無事ユウカに好印象を与えることに成功したのだ。なんなら、結構良いかも、くらいは思ってるかも。そうでなければ、絆ランク一でメモロビが解禁されたりしない。ユウカからみれば、僕は自分の目の前で自分の気になっている男を狙っている泥棒猫。そりゃあ印象が良いわけがない。あまつさえ、会ってみたいから一緒に行こう、なんて言われたら。
そうと決まれば話は簡単だ。僕は先生のことを狙ってるわけじゃないですよアピールをして、ユウカの恋を応援してやる。そうすれば、ユウカは僕を競合相手から除外してくれる。なるほど、これがユウカの言っていた、悲しみも怒りも因数分解するってやつか。複雑そうな多項式でも、 一つ一つ考えていけば自ずと解が出せるってわけだ。けだし至言である。
「もしかして、昨日のことかい? 確かに、今思い返してみれば、先生についてあれやこれや詮索したのは、軽率だったと言わざるを得ない。君の気持ちを考えられてなかった、僕のミスだ」
「私の気持ち……、って、え、あ、その、気付いてたの?!」
「そりゃあ、君の態度を見てれば、自ずとね」
ユウカは、僕の言葉を受けて顔を真っ赤にした。さすが、正妻候補の一人と目されているだけある。なんと少女らしい反応だろう。さっきまでの仏頂面がまるで嘘のようだ。これが噂に聞く恋する乙女ってやつか。
「嘘、私ってそんなに分かりやすかったかしら?」
「これに限らず、君ってけっこう分かりやすい方だと思うけど。でも、こと色事方面だと、冷酷な算術使いも形無しって感じさ」
「冷酷ってなによ。というか、ええ、嘘、そうだったの……?」
「それ、何に衝撃を受けてるの? 変なあだ名をつけられてたことか、君が自分で思ってるより明け透けなことか」
「後者よ。いや、待って。私の感情を知ってるなら、なんで昨日あんなこと言ったのよ!」
「え、あんなこと?」
「忘れたの? 先生は男の人だったって聞いた途端、かっこよかったか、とか、指揮されてどう思ったか、とか……。私じゃダメなのかもって、ホントに不安だったんだから!」
あらら。いやはや、昨日の僕は本当にどうかしてたみたいだ。原作だと先生の財布の紐を管理する良妻みたいなオーラを出しまくってんだから、彼女が先生ラブだってことは重々理解してたのに、それを忘れて自分の好奇心を暴走させてしまうなんて。恋する乙女に対してなんたる非礼、なんたる無粋。世が世なら腹を切らねばならないところだった。
「それは、純粋に好奇心からさ。いきなり現れた大人の男の人が、連邦生徒会に属する組織のトップに据えられたんだから。セミナー役員として放っておけるテーマじゃなかったんだよ」
「まあ、それは分かるけどね? でも、あんなのは無しよ。てっきり——」
「てっきり?」
「取られちゃうんじゃないか……って、みなまで言わせる気?! あなたもちょっとは察しなさいよ!」
いや、察してないわけじゃないんだけどね。ただちょっと反応があまりにも可愛いから揶揄いたくなってるってだけで。なるほど、ノアが言ってたのはこれか。確かに、照れながらぷりぷり怒ってるユウカは、眺めてるだけで最高に楽しい。
「まあまあ、本当に悪気はなかったんだよ。だから今日も、一緒に行こうって誘ったんだし。一人で抜け駆けしなかったって時点で、僕の誠意は証明されてるわけさ」
「抜け駆けって……。まあ、分かってるならいいのよ。人の心を弄ぶだけ弄んで、反省の色が見られなかったらどうしてやろうかと思ってたけど」
「僕がそんな酷いことすると思う? いつだって君のことを第一に考えてるんだよ」
「っひゃぁ?! ちょ、あ、あなた、凄いこと言ってるわよ!」
「どれだけ一緒にやってきたと思ってるの。こんなの当たり前」
「そ、そうなの。ちょっと意外だわ。意外とグイグイ行くタイプなのね。あなたって、あまり人と深く関わらない主義だと思ってたから」
「当然の配慮ってやつさ。今だって、助手席に君が乗ってなかったら、こんなスカスカの道路なんて一回も止まらずにぶっ飛ばしてるんだから」
「信号は守りなさい。本当に」
紆余曲折はあったけど、なんだかんだ、ユウカの機嫌を直すことには成功したようだ。僕の考え無しっぷりには本当にうんざりさせられる。まさか僕が彼女の恋敵だと思われてしまうとは。僕は先生の仕事にそこまで干渉するつもりはないし、恋人としてそばに置くならかっこいい大人の男より可愛い女の子の方が好みだ。原作干渉を避けたいという僕のスタンスと、男には欲情できないという僕の嗜好。二重の意味で、ユウカの認識は誤解だった。解消できて何より。ギリギリセーフってところかな。
僕とユウカを乗せた車は、ここ数日の破壊の痕跡が残ったままの市街を走り抜けて、そろそろS.C.H.A.L.Eビルへ到着しようとしていた。ワカモは今回の一件でそうとう腕によりをかけたらしい。破壊されていまだに煙を吹いている戦車や、ことごとく窓が破られたビル群。ステアリングを通じて身体に伝わってくる路面状況は悲惨の一言に尽きる。何をどうしたらここまでインフラを破壊できるのか、方法からモチベーションまで、僕には理解不能だ。
壊す、という行為によって快感を得られるというのは、一体どういった機序なのだろう。僕はその感情の起源が知りたくなった。それはさながら、ビーチに作られた砂の城を子供が壊したがるような、原始的な興味に由来するものだろうか。壊れるところを見てみたい、という倒錯したようにも思える感覚。
そこまで考えて、僕は最初の人生の子供時代を思い出した。あの頃の僕は、その感情を少なからず理解していたのかもしれない。宇宙の遠い星からやってきた、ビルよりも大きいスーパーヒーローが、地球を脅かす怪獣と戦う特撮番組。僕は怪獣が大暴れしてミニチュアの街が壊れるのを、とても面白がっていた。腕の一振り、脚の一踏みで街が壊れていく様が、当時の僕にはなんとも痛快に映っていた記憶がある。怪獣が都市ではなく山間に出現した際は、壊れる街が見れなくてがっかりしていたし、怪獣がヒーローに倒される時には不思議な名残惜しささえも感じていた。
あの感覚の源には何があるのだろう。もしかしたらワカモは、その答えを持っているのかもしれない。破壊を望む不合理な本能の由来を。
僕は彼女と話してみたくなった。きっと、出会い頭に撃たれてしまうだろうから、その願いは叶わないと思うけど。
「そろそろ到着するけど、大丈夫? 忘れてることはない?」
「なによ、忘れてることって」
「ほら、リップを塗り直したり、髪のセットを確認したりさ。女の子には必要でしょ、魔法の下準備が」
「え、髪崩れてる?」
ユウカはかがみ込んでサイドミラーに自分の顔を映す。しばらく確認して満足したのか、小さく一つ頷いた。
「大丈夫よ。問題なし。えっと、あなたからみて変なところとか、あったりするかしら?」
「いや、全く。いつも最高に可愛いよ」
「……あなたのその、何でもないような顔して美辞麗句を並べるところ、本当に卑怯だと思うわ」
「卑怯? この僕が? 公明正大が人の姿をとったような、この僕のことを指して卑怯って?」
「軽佻浮薄が人の姿をとったようなあなたのことを指して言ったのよ」
ユウカは僕のことを何だと思ってるんだろう。さっきも、人と深く関わらない主義とかなんとか言ってたの、聞き逃してないからね。まるで僕が友達の少ないぼっちみたいな言い草じゃないか。ただブルアカのストーリー完結までプレイできなかったから、誰が原作登場キャラで誰がモブなのかわからなくて、人間関係の構築が難しいってだけなんだけど。あいにく、この世界で僕の悩みを理解してくれる人は存在しなさそうだ。ゲマトリアとかならもしかしたら? まあ、あんな見え透いた厄介者に僕が関わるなんてことはありえないんだけどさ。
そこそこ長いドライブの果てに、ようやくS.C.H.A.L.Eのビルが見えてきた。大きなガラスが奇妙な区割りで張られている、見ているだけで目が眩むような高さの建築だ。なんとも挑戦的な設計だと、僕はそびえ立つビルを見上げながら思う。あんなにガラスだらけで、壁として機能しているのだろうか? ワカモに目をつけられて、よく倒壊しなかったな。
僕はビルの前に横たわる大通りの脇で車を停めた。僕はS.C.H.A.L.Eの前にサンクトゥムタワーへ用事があるので、ユウカとはここで一旦お別れだ。
彼女が、車から降りようとドアハンドルへ手をかける。てっきり、そのまま出ていくんだと思ったけど、何か躊躇うように、そのままの姿勢で止まってしまった。僕は訝しがりながらユウカを見やる。この段になって、忘れ物でも思い出したのだろうか。たしかに、忘れ物ってのは決まって取り返しのつかないタイミングで思い出すものだけど、よりにもよって今日、それをやってしまったのか?
怪訝に思いながら様子を伺っていると、ユウカはシートに座り直して僕の方を見た。改まって何か言わなくてはならないことでもあるみたいだ。数秒口ごもっていたようだけど、ついには踏ん切りをつけて口を開いた。
「で、その……。なんて言うのかしら。こんな確認をするのは野暮ってやつかもしれないけど、私の気持ちはちゃんと通じてるってことよね? もしそうなら、私もこれからそのつもりであなたと付き合って行きたいんだけど……」
おや、これは一体なんだろう。私の気持ちってことは、さっきの話に立ち返ってきたってことなのかな?
そういうことなら話は簡単だ。僕は原作に介入するつもりはないし、先生と過度に仲良くなるつもりもない。生徒と先生が恋愛をするのは犯罪じゃないらしいけど、それはそれとして大人が未成年とってのは世間体とか色々あるしね。もちろん、ユウカがそれを望むと言うのなら、僕は止めるどころか盛大に祝福するつもりだ。先生の時間を存分に、病める時も健やかなる時もいただいてほしい。
僕は満面の笑みで答えを返した。ユウカの恋のライバルとして立ち塞がることなど絶対にないよ、と安心させるための、有効の証としてのスマイルで。
「ああ。君、先生のことが好きなんだろう?」
「は?」
「もちろん、親友として君の恋路は全力で応援させてもらうとも。邪魔立てや横取りをするつもりは毛頭ないよ」
「は?」
「先生と生徒。広く見れば、さながらロミオとジュリエットのような立場を超えたラブロマンスだね。すごくロマンチックじゃないか。ぜひとも悲劇には終わらせず成就させてくれ」
「は?」
「ああ、結婚式には呼んでくれよ? 新婦の友人として感動的なスピーチをして会場に涙の海を作ってあげるから」
「は?」
おや、なんだか様子がおかしい。まるで僕の言っていることがさっぱり理解できないみたいな顔だ。さっきまでの怒りがぶり返してきたみたいに、眉を吊り上げて臨戦態勢って感じ。もしかして何か致命的に選択肢を誤ったのかもしれない。いや、きっとそうだ。ユウカが僕に怒るときは決まって僕が何かを間違えている。
僕は努めて冷静に自分の言葉を振り返る。ユウカの恋を邪魔しないと言うスタンスもばっちり表明したし、なんなら応援だってすると約束した。他にどんな穴がある?
「えっと、どうしたんだい? なんか、まずいこと言ったかな」
「やめて。黙って。話しかけないで。いま私は史上最悪の気分なの」
完全にシャッターが閉まってる。これはどうしようもない。今までも何度かこのモードのユウカを見てきてるけど、僕はこうなった時の明確な対処法を未だ知らない。毎回、嵐が過ぎ去るのを祈りながら物陰に隠れるのがお決まりだ。そうしているうちに、きっと時間ってやつが彼女の怒りを溶かしてくれているんだと思う。詳しいメカニズムは僕も分からないけど。
「そうだった。こいつはそういうやつなのよ。いつだって、そういう部分には気が回らないの、人の気も知らないで。私の馬鹿、なんで今日に限ってまともになると思ってたのかしら」
「ごめん、ごめんね。僕が何かしたんだよね。えっと、今日の夕食は僕が奢るよ。ほら、気になってるって言ってたイタリアンがあったよね」
「その優しさは今の私には全く効果がないわ。これはタクシーで、あなたが運転手、私が客。今だけそういうことにして。放っておかれたい気分なの」
「オーケー、分かった。その、帰りは何時ごろになる?」
「タクシーを呼ぶわ。あなたより私の気持ちを理解してくれるタクシーをね」
ユウカはドアのハンドルに手をかけた。そのまま乱暴な手つきで開ける。少し涼しい外の空気が車内に吹き込んだ。
僕は咄嗟に彼女を呼び止める。このまま行かせるのは絶対に悪手だ。こんなところで彼女と険悪になんてなりたくなかった。最初の方こそキャラクターとそのファンってだけの関係性だったけど、今の僕と彼女はそれだけの間柄じゃない。友達に嫌われるなんて最低だ。そうでなくても、原作が始まったタイミングで彼女と仲違いするなんて、ストーリーにどんな影響が出るか分かったもんじゃない。
慌てる心を隠しながら、僕は可能な限り落ち着いた声色で語りかける。
「これだけは言わせて。君がそんなに怒ってるってことは、僕は相当な馬鹿をやらかしたんだろう。僕はこれまでも馬鹿なことをしてきた。今回もきっとひどいことをしたんだよね。でも、僕がどんなにまずいことを言ってたとしても、君を傷つけるような意図はなかったってことはわかってほしい。単純に僕の考えが足らなかったんだ。悪意があったわけじゃない。断じて、僕にそんなつもりはなかった」
「だから許してほしいって?」
「いや、違う。ただ、いつか仲直りをしてもいいかもって思えたら、今の言葉を思い出してほしいんだ。僕は確かに考えなしだけど、それでも悪人ってわけじゃないんだよ。本当にさ」
「ええ、ええ。そう、それは分かってるわ。これは、大元を辿れば私の勘違いなの。確かにあなたは察しが悪くて考えなしだけど、これに関しては私にも責任はあるわ」
彼女は、表面上は冷静さを装いながら、開いたドアにもたれて言った。それはさながら、大きな波に反対の位相の波をぶつけて相殺しようとしているかのような必死の冷静さだった。頭に血が昇っていることを自分でモニターできているのだろう。僕は彼女のこういうところが好きだ。理性の使い方をきちんと理解している。
「ちょっと頭を冷やして考えたいの。お互い時間を空けて冷静になって、それからもう一度話しましょ。あなたの奢りのピザと、あなたの奢りのパスタと、あなたの奢りのジェラートを食べながらね」
あんなに怒ってたのにちゃんと話は聞いてたらしい。さすがセミナーの誇る冷酷な算術使い、お金の話を聞き逃すことはしない。
ディナーの約束をしたところで、ユウカは車の扉を閉めて、S.C.H.A.L.Eビルの方へ歩いて行った。とりあえず、目先の困難は回避できたらしい。僕は特大サイズの安堵のため息を吐いた。シートに体を預け、緊張から解放された喜びを噛み締める。今のは結構やばかった。ユウカの冷静さに助けられた形になったけど、でも、一体僕の何が問題だったんだろうか。
女心を理解してない故のミスは、これまでに何回もやってきた。その度に僕は、結局女心は僕には分からないって答えに達してきたけど、今回の一件さえもそれに答えを帰着させるのは、なんだか不誠実ってやつな気がした。分からないことを分からないままに放置することにどうにも据わりが悪く感じるのは、ミレニアムスクール生の性だろうか。
だけど、今日のところはこれでいいや。
僕は、この難題にひとまずの見切りをつけて、車のアクセルを踏み込んだ。迫力という言葉が音の形をとったようなエンジン音が鳴り響く。僕は研究者気質の人間じゃないから、立ち止まって仮説を構築するのはどうにも肌に合わない。悩みなんてものは一踏みの加速で振り切って、いつか答えが落ちてくるのを待つ方がいい。果報は寝て待てってやつだけど、これも立派な解決策の一つだ。
誰もいないD.U.市街なんて滅多に見れるものじゃない。もっとスピードを、と呼びかけるエンジンの声に従って、僕はもっとアクセルを踏み込む。やっぱり、同乗者のいないドライブこそが最高のドライブだよね。女心に比べて、V6気筒エンジンは幾分か素直だし。