セミナーの仕事は忙しすぎる   作:あさなが

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ちょっとお時間いただけますか?

 

 

 

003

 

 サンクトゥムタワーでの退屈な仕事を片付けて、僕はS.C.H.A.L.Eビルへの道をかっ飛ばしていた。時速二百キロで移動する鉄塊に喧嘩を売ろうって気概のある不良はいないようで、ワカモ軍の残党っぽいものは度々見かけるけど、僕を撃ってきたりはしなかった。もし彼女本人がいたら、こんな大音声を撒き散らしながら暴走する車なんて一も二もなく叩き潰すところだろうけど、真の意味で彼女の破壊者スピリッツを受け継いでいるものはいないようだ。あんな数の手駒がいるのに、誰にもマインドを理解されていないのは、はたから見ているとどうにも虚しく感じてしまう。恐怖で支配して不良をかき集める彼女のやり方には一定の理解を示すけど、それでも僕好みの手口じゃない。いくら集めたところで一つ一つの駒の強さは弱いままだ。だから彼女が筆頭に立って暴れなきゃいけない。非効率にも程がある。

 

 そう時間はかからずに、目的地に到着した。来客用の駐車場に車を停めて、正面の自動ドアの前に立つ。タイムラグをほとんど感じないような時間でドアが開く。よく知らないけど、きっと高級な自動ドアなんだろう。スーパーとかの、前に立ってもなかなか開かない自動ドアと違って。

 

 一面ガラス張りのエントランスホールはかなりの賑わいを見せている。この建物の主人である先生は数日前に着任したばかりだというのに、こうも来客があっては大変そうだ。原作で描かれてないだけで、先生ってのは忙しい仕事なんだろう。特に今は、連邦生徒会長不在期間の傷がまだ癒えていない。どの学校も様々な形で協力を求めている。お客さんの中には、大人が来てるって噂だけ聞いて見物しに来ただけの野次馬も多そうだけど。

 僕はてんてこ舞いの受付嬢の前に立つ。ポケットから学生証を取り出して、利発そうな彼女に見せた。僕の学生証にはミレニアムサイエンススクールのセミナー役員であることが明記されてるから、邪険にされることはそうそうない。見せればヴァルキューレの職質も一発でパスできる。ブラックマーケットの商店で店主に見せて割引してもらったことも一度や二度じゃない。あそこの住民は自分を得させてくれる権力者が大好きだからね。それに、大抵の場所に入ることができるというのは、便利を通り越して快感でさえある。立場が人を作るとはこういうことを言うんだって、昔どこかで聞いた格言を思い出す。強権を持つと傲慢になるのは、こういった特権的な利便性に原因があるんだろう。きっと、甘やかされて育った子供がわがままを押し通そうとするのに似てる。

 

 ロビーの奥に通されて、必要以上に明るいエレベータで上階に昇る。最上階近くまで音もなく上がり、慣性を感じさせないような速度で止まる。トリニティへ渉外役として赴いた時に乗ったリムジンを思い出す、エレガントな運動だ。きっと高級なエレベータなんだろう。

 ドアが開くと、清潔を体現したかのようなフロアが目に入る。そこから少し歩いて、目的のオフィスは労せず見つかった。この扉の向こうに、今僕がいる、やたらに大きな摩天楼の主人が座している。つまり、先生だ。

 

 先生!

 僕がブルーアーカイブをプレイした時には、プレイヤーである僕の分身のような立ち位置だったけど、この世界では全く事情が違う。僕は先生の行動の観測者にして傍観者という立場から外れて、彼が庇護し教導するべき生徒の一人として、彼の前に立つことになる。今の僕は観客ではなく役者だ。うまく生徒を演じられるだろうか?

 思えばここ十何年、僕はその疑問を胸に抱えながら生きてきた。心のどこかで、先生にその問いの答えを聞きたいと思ってる。だけど、それが馬鹿な行いだってことも、重々承知してる。だって、先生からしたら、こんな訳の分からないことってないだろう。先生質問です、僕はあなたの生徒ですか?

 この状況に何の疑問もないって言うと嘘になる。僕はこの世界にとっては紛い物であり混ざり物だ。何か、とてつもなく大きな間違いが、どこかで起こったのだ。その結果として、今僕はここにいる。これは正しい状況じゃない。先生は一体どう思うのだろう。僕という異分子の存在を。

 僕の前世は、ある意味であなただったんですよ、なんて。そんなことを本気で言う人間がいたとしたら。

 

 だけど、そんな不安とは裏腹に、僕の中には期待と高揚の感情が間違いなく存在している。好きなゲームの主人公が、この扉の向こうにいるんだ。興奮しない方が変だろう。ゲームの中で、スマートフォンの画面越しだったけど、僕は彼の選択を見届けてきたのだ。対策委員会編で黒服の虜囚となったホシノを助け、対策委員会の負っている責任をとると決めた時も、アトラ・ハーシスの方舟で色彩の嚮導者となったプレナパテスとの先生同士の対話も、僕は見届けたのだ。その彼が、いまここにいる。

 共感は全くできなかったけど、それでも彼の精神性は驚嘆に値するものだ。その献身、そして責任。どれもこれも、僕には全く縁遠いものだ。だからこそ、僕は彼の意志の源を知りたいと思った。残念なことに、前世では彼はゲームのキャラクターとしてしか触れられなかったから、その答えを得ることは叶わなかったけど。今度の僕は画面越しではなくて、実際にその目で彼の行いを見届けることができる。何かの間違いとは言え、せっかくこの世界に生まれたのだ。幸運ってのは使ってこそだろう。

 

 僕はそんな未来への希望を口の端に浮かべながら、眼前の白い扉を叩いた。先生、ちょっとお時間いただけますか? ってね。

 

 ほとんどタイムラグ無く、扉の横にあるインターホンから返事が返ってきた。入っていいよ、鍵は空いてるから——だって。防音性能はかなり優秀みたいだ。扉からは全く音が漏れてなかった。中で他の人に聞かせたくない話をすることもあるだろうから、それも当然だけど。

 ドアノブを捻ったら、言われた通り抵抗なく扉が開いた。顔だけ出して室内を覗ってみる。ゲームの背景で見た、あのオフィスだ。着任したばかりだからか、部屋のあちらこちらに段ボールが置かれたままになってるのが見える。

 

「お邪魔しまーす。今って大丈夫ですか?」

 

 僕が恐る恐る声をかけると、部屋のどこかから、大丈夫だよ、という返事が聞こえた。若い男性の声。ユウカも言ってたけど、どうやらこの世界の先生は男性のようだ。通れる幅まで扉を開けて中に入っていくと、入り口から死角になってる棚の前に、スーツを着た男の人が立っているのを見つけた。段ボールに入ってるファイルを、棚に並べている最中のようだ。

 

「ごめんごめん、今ちょっと立て込んでてね。すぐ終わるから、ソファに座って待っててくれる?」

 

 彼が僕の方を振り返ってそう言った。僕は了解してソファに座る。びっくりするくらい柔らかいソファだ。これもきっと高級なソファなんだろう。さすが連邦生徒会長が気に入った男だ。とんでもないほど貢がれてる。

 何分も待たないうちに、先生はファイルを棚にしまう仕事を終えた。彼はそのまま、僕と正対する位置にあるソファに腰掛けた。来客を応対するモードに入ったのだろう。書類を整理してる時の真剣な顔も悪くなかったけど、人好きのする笑みを浮かべてるこっちの表情もなかなかだ。

 正面から顔を見ると、思ったより整った顔立ちをしていることがわかる。それぞれのパーツの完成度はさることながら、位置や大きさのバランスが完璧だ。それでいながら、記号的なイケメンって感じじゃなくて、どこか落ち着いた印象を受ける。アイドルってよりは俳優の顔って感じだ。この顔の人間を作った神は最高のデザイナーだろう。なるほど確かに、こんな顔の男が近くにいたら、女性陣は放っておかない。いろんな生徒から粉をかけられるのも納得だ。

 これを見るとつくづく思うけど、アロナの絵心はほとんど壊滅的と言ってもいいレベルだね。この顔を見てあんな落書きみたいなものしか出力できなかっとは、もはやバグやハルシネーションの類に思える。それともシッテムの箱のカメラ機能がゴミカスなのか?

 

「ごめんね、ちょっと散らかっててさ。知ってるかもしれないけど、ここに来たばっかりなんだ。今はいろいろ準備中でね」

「謝らないでください。急に押しかけた僕のせいです。こちらこそ申し訳ありません、仕事を邪魔してしまって。よければ手伝いましょうか?」

「いや、それには及ばないよ。他に手伝ってくれてる子がいるし、もうそろそろ終わるところだからね」

「そうですか、それはなによりです。そう、それで思い出したんですが、今朝はユウカが来てましたよね? 仕事ぶりはどうでしたか?」

「すごかったよ、決算書類が一瞬で片づいちゃった。彼女と友達なの?」

「そうですね……、少なくとも僕はそう思っていますよ。今朝も、ここまで送ってきました」

「そうなんだ。僕は、って言うと?」

「今朝、ちょっと喧嘩しちゃったんです。些細なことですよ。今晩、ディナーに誘ってるんで、そこでちゃんと許しを乞うつもりです。それまでは、多分の友達」

「なるほどね。じゃあ私からも、許してもらえるよう祈っておくよ」

 

 話してみた感じ、かなり好感の持てる人物だ。気配りはするけどおせっかいではなく、人当たりは良いけど踏み込みすぎない。思春期の子供を相手にするのに、これほど上手い距離感もないだろう。なるほど、この先生は“本物”だ。

 正直な話、先生がやってくるという事態へ備えるにあたって、僕はいくつかの懸念をシミュレートしていた。その懸念の一つに、先生も僕のような異物だった場合があったのだ。僕のように、前世でブルーアーカイブをプレイしていた、謂わばネット小説の転生主人公って可能性だ。そうだった場合、原作には登場しないくせにこんなストーリーの序盤からユウカの友人として登場するキャラクターなんて、不気味にも程があるだろう。だから、僕に対する反応で、先生が原作そのままの存在なのか、あるいは異物なのかを判断できる。僕は腹の中でそういう考えを持っていた。

 結果として、懸念は全くの空振りだったと言えるだろう。詳しく検証できた訳じゃないけど、ひとまず、可愛い生徒たちとイチャコラすることしか考えてないヤバい先生って可能性は消しても良さそうだ。もし内心のところではそうだったとしても、これほど巧く外面を装うことができるなら、ホシノやミカとかの難物な少女たちとも絆を育むことができるだろう。可愛い女の子目当てなら、彼女らを邪険にすることもないだろうし。元プレイヤー先生なら周年実装組との仲が悪くなることは絶対に避けるはずだから、出力される結果は同じだ。

 

「先生に祈っていただけるとは、百人力ですね。……そう、自己紹介が遅れました。ミレニアムサイエンススクールのセミナーに所属しています。宮乃瀬(みやのぜ)ナギと申します」

「こちらこそ、初めまして。知ってたみたいだけど、私は連邦捜査部S.C.H.A.L.Eの代表をやってるよ。気軽に、先生って呼んで。セミナーって、ミレニアムの生徒会組織だよね。ユウカもセミナー所属だったっけ」

「ええ。彼女は会計で、僕は庶務をやってます。単なる気楽な雑用ですが、僕も書類仕事は得意ですよ」

「それは心強いな。いつか、君にもS.C.H.A.L.Eの仕事を手伝ってもらいたいな」

「お力になれるかは分かりませんが、ご用命とあらば、万難を排して駆けつける所存です」

 

 嘘だ。当番とか行きたくない。

 S.C.H.A.L.Eの当番は僕ではなく原作で名前の出てる人にやってもらったほうがいい。僕はこんなシナリオの中心地に長居したくない。仕事なら他にももっと有能なのがいるでしょ。ユウカとかノアとか、アコとかハナコとか。わざわざ僕に声かけないでほしい。僕は原作に登場しないんだぞ。

 

「そうだ。せっかくのお客さんだし、飲み物を出さないと。コーヒーを淹れようか」

「いえ、お気遣いなく。二三、話をするだけですから」

「いやいや。仕事の話をするんだから、コーヒーは必要さ。私にとってもね。それに、仕事の話だけして帰っちゃうのも、なんだか味気ないし。それか、この後に予定があったり?」

「いえ、予定はありませんが。……ええ、そうですね。確かに、仕事の話をするのなら必要です。S.C.H.A.L.Eのコーヒーがどんな味なのかも気になりますし」

「味は保証するよ。私が豆を選んで、心を込めて淹れた一杯だからね。コーヒーは好き?」

「ええ、とても」

「なら良かった。私もコーヒーには目がなくてね。これがあるから、その膨大な書類の山と戦える。コーヒーのないオフィスワークなんて、応援団のいない運動会みたいなものだよね」

 

 先生はソファを立って、部屋の隅に据えられた小さな机へ歩く。そこにはシンプルなデザインのドリップケトルが置かれている。彼は引き出しを開けてマグカップとドリッパー、ペーパーフィルタを二つずつ取り出して、それから砕かれたコーヒー豆の入った透明な容器を慎重に持ち上げた。あれは真空キャニスターだろうか? コーヒーに目がないって言葉は本当らしい。

 フィルタを丁寧に広げてドリッパーに沿わせ、キャニスターからミルされた豆を入れる。銀色のスプーンが、大きい窓から入り込む日光を反射して、僕の目に光を届ける。彼の丁寧な手つきは、そのまま嗜好品というものがどうあるべきかを物語っているような気がした。趣味を楽しむには、何においてもまず余裕というものが欠かせない。

 僕は、彼がその精巧な手仕事をしているのを遠巻きに眺めながら、漂ってくる香りに意識を集中させていた。セミナーの部室で飲むような、粉を溶かしただけのインスタントコーヒーとはまた違った質感の芳香が部屋を満たしている。

 

 しばらくして、カップを乗せたトレイを持って、先生がキッチンから出てきた。彼はトレイを応接用の机の上に置き、さっきまでと同じソファにゆっくりと腰を下ろした。僕と彼の目の前には、部屋の調度品を水面で反射するコーヒーが、大人しく佇んでいる。僕たちは示し合わせたように机上のカップを取り、ゆっくりと傾けた。

 

「——これは。驚きました。僕も自分で淹れることはありますが、こうも違うとは」

「後で私の使っている豆を分けてあげようか。この近くにいい喫茶店があってね、そこの主人に教えてもらったものなんだ。淹れ方もその人に教わったんだけど、彼の淹れたものの方が美味しいよ」

 

 彼はカップに目を落としてそう言った。てずから淹れた一杯の向こうに様々なものを見ているような深い目で。懐かしむように彼は言葉を続ける。

 

「これは私の持論なんだけどね、コーヒーの味を決めるのは、きっと豆や淹れ方だけじゃないんだと思うんだ。きっと、淹れた人がこれまで飲んできたコーヒーとか、あるいはこれまで片付けてきた仕事とか、これまで生きてきた時間……そういう色々なものが、一杯の中にゆっくりと混じっていくんだろうね。だから、あの喫茶店の一杯と、ここで私が淹れた一杯と、君が家で淹れる一杯が、全部違う味になるんだよ」

「素敵なお考えです。コーヒーが苦いのは、それが人生の味だからでしょうか?」

「コーヒーが黒いのは、それが人生の色だからだ。長く生きていると、透明というわけにはいかなくなってくる」

「では、美味しいコーヒーが淹れられるように、生きなくてはなりませんね」

「そうだね。自分で納得できる美味しいコーヒーを淹れられたら、それはとても素晴らしいことだ。そう生きたいものだよ。最期に、人生を清算できるくらい美味しい一杯が飲めるようにね」

 

 彼はそう言って笑った。楽しげで、しかし寂しげで、どこか満足げな、人間の生のような微笑みだった。或いはコーヒーのような笑み。

 

「そう、話があるって言ってたよね? 冷めないうちに、仕事の話をしてしまおうか」

 

 一時の安穏を堪能し終えたのか、先生はそう切り出した。そういえば、僕はここに仕事の話をしにきたんだった。リラックスしすぎてすっかり頭から抜けてしまってたけど。

 僕は持ってきていた鞄から、一つの紙束を取り出す。ファイルに纏められたもので、表紙には「重要」と大きな文字で書かれている。連邦生徒会から渡されるファイルには決まってこの二文字が大きく踊っているのだ。きっと生徒会の連中は、重要って言葉の意味を、ぐだぐだ言わずさっさと処理してほしい書類につける記号かなんかだと勘違いしているのだろう。どれもこれも重要ばっかで、何が一番大事なのかの優先度付けがさっぱり機能しちゃいない。

 

「ええ。連邦生徒会長が、しばらく前から行方不明になっていることはご存知ですね? 彼女、仕事ぶりはまさしく超人が如きものだったんですが、なにぶん引き継ぎを全くしないままで居なくなってしまったので、責任の所在が宙吊りになっているプロジェクトが山ほどあるんですよ」

「へ、へえ……。そうなんだ。それは大変だね……」

 

 ああそうだよ無茶苦茶大変だよ聴いてるかアロナ。詳しいところは知らないままで転生したからよく分かってないけど多分お前が元連邦生徒会長みたいなもんなんだろおい。お前がやりかけにした仕事のせいでこっちはてんてこ舞いの二乗みたいな有様なんだよ。この落とし前は耳揃えて先生に支払ってもらうからな。

 

「当然ですがミレニアムスクールも、そういった宙吊りのプロジェクトをいくつか抱えてましてね。先生には、連邦生徒会長がやり残した仕事を引き継いでいただきたいのです」

「なるほどね……。そういうことなら、力になれるかもしれない。具体的に何をすればいいの?」

「業務の内容はケースバイケースですが、大まかに言ってしまえば、何か起こった際の責任を取る、というのが、やるべきことですかね。組織のトップがやる仕事なんて、そんなもんでしょう?」

 

 途端、先生の顔色が少し変わる。安請け合いした仕事のリスクがあまりにも大きいことに驚いたのか……、あるいは、責任という言葉に反応したのか。どちらにせよ、少し警戒されてしまったみたいだ。

 

「いま最優先のプロジェクトは、数ヶ月前に始まった、ミレニアムスクールの航空宇宙工学部と、カイザーサテライトの間で起こっている特許係争ですね。争点になっている、液体燃料をロケット装置に供給する新しい機構に関する研究は、連邦生徒会から特別研究援助プログラムの対象に指定されていたので、発明後の特許権は連邦生徒会科学技術室に売却される予定でした。そのため、今回の係争でも実質的には連邦生徒会がカイザーと係争することになっているのですが、この時の連邦生徒会側の代表者として立てられていたのが、連邦生徒会長なんです。なので、彼女なき今、先生にこの役を代わっていただけないかと」

「えっと……、なるほど。この……、書いてある一連の手続きは、法的には問題ないのかな?」

「はい。うちの法務に確認しましたが、代理としてあなたが立つことに問題はないそうです。ミレニアムスクールとしても、特許の売却は数十億円規模の取引になると目されているので、ここでカイザーに持っていかれるのは何としても避けたいのです。受けていただけますか?」

「な、なるほどね……。うん、話はわかったよ……。えっと、一旦持ち帰ってもいいかな? その、色々考えることがありそうだし……」

「ええ。問題ありません。そのファイルは機密情報なので、転写はしないでくださいね」

「うん、分かった……」

 

 なんか、今の一瞬で先生がすごくしなしなになってしまった。待ってくれたまえ、ことばの洪水をワッといっきにあびせかけるのは!

 

 彼の心情を察するに、ちょっとした雑用とか、あるいは妙な悪巧みでも持ちかけられるのかと思ったら、想像よりちゃんと仕事らしい仕事が振られてげんなりしてる、って感じだろうか。悪く思わないでほしい。行政機関のトップがいきなりすげかわるってのは大変な事態なのだ。S.C.H.A.L.Eの持っている権限を考えたら、こんな仕事はこれからもひっきりなしに舞い込んでくるだろうし、ここは一つ我慢して粛々と業務に当たってほしい。恨むべくは連邦生徒会長だ。

 

「それとですね……。二ヶ月ほど前にミレニアムスクールは、キヴォトス連邦図書館の新館を建造する工事を落札したのですが、連邦生徒会長の失踪に伴って、この建設計画も遅れに遅れているのです。と言うのも、文化室の公文書記録管理課が、連邦機密文書の保管場所を移動するには連邦生徒会長の許可が必要だ、の一点張りでして。つきましては、こちらも先生に調整業務を行なってもらいたいのですが」

「ああ、なるほどね。この件なら、書類がうちに届いてたよ。えっと、あの紙束のどこかにあると、思うんだけど……」

 

 そう言って、先生は自身のデスクに目を向けた。うずたかく積まれた書類が、ピサの斜塔のような奇跡的なバランスで林立している。D.U.中心部のビル街か、あるいは先生の墓標のようだ。なにか象徴的な比喩のように見えるのは気のせいだろうか?

 

「今探してくるよ。ちょっと待ってね」

 

 先生はソファから立ち上がって、デスクの方へ歩いていく。それから、ジェンガみたく書類の山からファイルを抜いては戻してをしばらく繰り返した。さすがに危なっかしくて仕方がない。倒壊した際の被害は考えただけで目が回りそうだ。僕も手伝ったほうがいいだろう。

 僕は席を立つ。見てるだけでも怖すぎるから、読まれるのを待っている紙束と格闘している先生の近くに待機することにした。これで、山が崩れても支えられる。ファイルの中身をぶちまけずに軟着陸させることくらいはできるだろう。

 

「この辺りに……、あれ?」

「どうしました?」

「いや、確かにこの辺りに置いておいたんだけど、おかしいな。移動させたんだっけ……」

「聞くのも恐ろしいんですが、まさか失くした、なんてことはないですよね?」

「いや、そう判断するのは時期尚早だ。こうしよう、ナギはデスクの右半分、私は左半分。二人で探せば半分の時間で発見できるはず」

「僕、この書類たちの存在を知れるセキュリティ・クリアランスは持ってないはずですけど……」

 

 適当にデスクの上のファイルを手に取る。中を見たら、矯正局の詳しい図面が書いてあった。丁寧に監視カメラの位置まで書いてある。七囚人の脱獄に関する報告書みたいだ。これは明らかに機密文書。僕は見なかったことにして書類探しに戻る。

 

 山を掻き分けていったら、PCモニターの裏にも紙束があるのを見つけた。崩れないようにするためか、束の頂上には文鎮代わりに拳銃が置かれている。塗装やカスタムも手付かずになっている、BerettaのM9A1だ。グリップにはS.C.H.A.L.Eの刻印が入ってるけど、先生がこれを撃つ機会なんてあるんだろうか。先生が撃たなきゃいけない状況って、もう詰みみたいなもんだと思うけど。

 銃をどかして紙束を手に取ると、案の定、目当ての書類が下の方で押し潰されていた。機密文書の管理者を連邦生徒会長から先生に移すための紙だ。可哀想に、サインを書いてもらえずこんな所で熟成されていたなんて。あと少し救出が遅れていたら付喪神みたいに化けて出てたかもしれない。大事にされなかった行政文書の霊、人一人呪い殺すぐらいの力はありそう。

 

「ありましたよ。モニターの裏で銃と一緒に忘れ去られてました」

「あ! そう言えばそうだった。ありがとう、見つけてくれて」

「どういたしまして」

 

 先生は発掘されたばかりのそれを僕から受け取ると、ざっと斜め読みして、そのままサインを書いた。その一筆で、自分が機密文書の管理権を持っていると承認したわけだけど、大丈夫なんだろうか。僕は別にいいんだけど、多分めちゃくちゃ仕事増えるぞ。

 

「よし、これでオッケーだね。それ以外に、頼みたいことはある?」

「いえ。今日のところは大丈夫です。あと用事は、あのコーヒーを冷めないうちに飲み切ることぐらいですね」

「はは、ごめんね、手伝わせちゃって。良かったら、豆をいくらか分けてあげようか?」

「それには及びませんよ。そう、どこで買ったのかを教えていただけますか? それで十分です。店に行って自分で選ぶのも、楽しみのうちですからね」

 

 僕はソファに戻ってコーヒーを一口飲む。今ので少し酸化してしまったようだ。なんともったいないことをしたのか。手伝わなきゃ良かった。

 

「そう、それと……。銃を雑に管理するのは、やめたほうが宜しいかと思います。ラックに掛けるなり、ケースにしまうなり、したほうがいいですよ」

「ああ、そうか……。銃を持つのは初めてだから、よくわからないんだよね。これってどうすればいいの?」

 

 僕の言葉でようやく銃の存在を思い出したのか、先生は机の上に置かれたM9A1を手に持った。矯めつ眇めつ眺めてるけど、ちょっと危機管理がなってなさすぎる。僕は手の中のそれが暴発しても怪我しないけど、あなたはそうじゃないんだろ? アロナバリアって自傷にも効果あんのかな。

 流石に見ていられなくて、僕はマグカップ片手に先生のもとへ歩く。

 

「まず、そうおっかなびっくり持つのは、不安定なのでやめてください。危険です。それと、銃口の先に何があるのかを常に意識してください。何回か僕の方に向いてますけど」

「うわ、ごめん!」

「いいんで、ちょっと僕に渡してください。あなたにこのまま持たせておくのは、あなたの安全と僕の精神衛生に悪影響です」

 

 僕は有無を言わさず先生を武装解除する。マガジンを抜いてチャンバーチェック。薬室は空だったけど、マガジンには9×19mm弾が、重さからして15発入ってる。押して見た感じ、これでフルだ。少なくともこの銃はカリフォルニア州で買ったものではないことが、これで分かった。

 薬室の匂いを嗅いでみると、案の定、新しいガンオイルの匂いだ。一発も撃ったことのない、完全な新品。

 

「銃の扱い方、誰かから教わったりしなかったんですか?」

「いやあ、勉強しなきゃとは思ってるんだけど、忙しくてね。せっかくだし、軽くでいいから教えてくれる?」

「言われなくてもそうしますよ。危なっかしくて見ていられません」

「ははは……。いや、そりゃそうだよね、普通に考えて」

 

 僕はソファに座り直して、机の上に銃とマガジンを置いた。

 

「風穴を開けたくないものに対しては銃口を向けない、撃つつもりが無いなら引き金に指を掛けない、銃撃戦の予定がないなら薬室に弾を込めない。とりあえずこれを守っておけば、銃だって安全に扱えます。詳しいレクチャーはまたいつか、他の生徒から教わってください。身体に覚えさせるのは時間がかかりますから」

「本当に申し訳ない……。先生なのに、教わることばっかりだね」

「大丈夫ですよ。ここに来るまでは、銃が身近にある環境ではなかったんでしょう?」

 

 眉を下げて申し訳なさそうな顔をする先生。いや、そんな恐縮しなくてもいいんだけどね。銃の扱い方なんてキヴォトスの外にいる普通の人は知らないもんだし。

 

「とりあえず今日は、簡単なお手入れの方法だけでも教えておきます。銃を持つのが初めてなら、買った時に、クリーニングキットとガンオイルも一緒に買わされましたよね? どこにしまってあります?」

「あ、えっと、これはリンちゃんから貰ったやつだから、ちょっと分かんないなぁ」

 

 七神行政官!

 いや、確かに分かるけどね? 自前のクリーニングキットとお気に入りのガンオイルはみんな持ってるし、忘れるのも仕方ないとは思うよ。だけどキヴォトスに初めてきた人なんだし配慮ってもんは必要なんじゃないですか!

 まあ、来て早々にワカモ軍相手に指揮をしてたんだし、銃の扱いには慣れてるのかなって誤解する要素は十分にあった。となると、これは銃を貰っておいてろくに調べなかった先生の責任だよね、うん。

 

「そ、そうですか。えっと……。それでは、メンテナンスのやり方だけでも」

 

 予想外の流れになったけど、とりあえず最低限のことは話しておくことにしよう。それ以上のことは、明日当番に来る生徒に聞けばいい。というか、本来は七神行政官がレクチャーするべきことなはずだ。僕が帰った後でみっちり教えてもらって欲しい。

 僕は机の上の銃とマガジンを手に取る。

 

「用途が用途ですから、銃というのはそこらの工業製品よりは頑丈に作られてます。ですがそれは、適切な手入れを欠かさなかったら、という但し書きが前提です。なんの手入れもしないで使い続けたら、壊れて逆に自らを危険に晒します。撃った後は必ず、手入れを欠かせないようにしてください。撃たなくても、月に一回くらいは手入れが必要です。それを守ったら、結構長いこと使い続けられますからね」

「なるほど。撃たなくても、毎月メンテナンスが必要なんだ」

「まあ、先生は、って話です。そもそも一ヶ月撃たないなんてことがそうそうないので、普通は撃った日の夜にって感じですね」

 

 僕は銃の左サイドを先生に見せる。構えた時に左手がある側だ。

 

「グリップのところに、小さいボタンがついてるでしょう? これが、マガジンを抜くためのボタンです。普段は挿しておいて、メンテナンスをするときは、これを押してマガジンを外す」

「ほー、なるほど」

「銃に弾が無いことを確認したら、今度はここのボタンを押します」

 

 今度は右側面を先生に見せる。

 

「まず、ここのボタンを押し込みます。すると、反対側で、この棒みたいなのが少し飛び出すんです。分かりますか?」

 

 先生が身を乗り出して僕の手元を凝視する。なんだかちょっと緊張する絵面だ。

 

「押し込んで、棒が飛び出している状態だと、このラッチが動くようになります。90度下に倒したら、これでスライドは外せます」

「うわ、結構大胆に分解できるんだね。もうちょっと細かい作業だと思ってた」

「使った後は毎回メンテナンスすることが前提のデザインですからね。設計する段階で、分解の手間は当然考えてます」

「ああ、それもそうか……」

「スライドを外したら、次は内側にある、このバネを抜きます。スプリングガイドってパーツがあるので、これを持ってバネを押すと、こんな感じで引き抜くことができます」

「おお……。なんか、こういうのってワクワクしない?」

「機械を分解するのに興奮するのは、正直分かりますよ。子供の頃、ボールペンをバラバラにして遊んだりしましたか?」

「うわあ、懐かしいな、それ。中の芯を取り出して、それだけで書いたりしたよね」

「ええ。それ、僕もしましたよ。スプリングを外したら、後はバレルです。この、スプリングガイドの奥にあるパーツを摘んで、こっちに引っ張ると、これでバレルも外れます。ここまでが、簡単な分解方法ですね」

 

 机の上にパーツを並べると、M9A1、というかM9自体の構造的魅力が浮き彫りになる。軍隊という、様々な人間が同じ武器を使って戦うという環境に適応して作られる銃である以上、当然要求されたのは、単純で明快である、ということだ。大量に配備しても事故を起こさずに、どんな人間でも簡単に扱える。その基準をクリアすることがどれほど難しいことか。この銃は、機能美という概念を最も端的に表現している。最初に作られたのは1985年だ。それから長い間、アメリカの軍隊と共にあり続けた。イラクやサウジアラビア、アフガニスタンなどの砂埃に塗れた過酷な環境で、海兵隊員が命を預け続けた銃だ。工業製品として、これほど実績に裏打ちされた信頼が積み重ねられているものは、他にそう無いだろう。断言できる。この銃はまさしく名作だ。

 

「すごく分かりやすいでしょう? この分かりやすさも、大きな魅力の一つです。誰にでも使える。そして使いこなせば、何にもまして頼れる相棒です」

「うん、本当だ。確かに簡単だね」

「ええ。僕の使ってるハンドガンは、M1911のカスタム品なんですが、そっちはもうちょっと面倒です。だからこそ愛着が湧く、という面もありますが」

「分かるよ。手入れが必要な、言ってみればちょっと面倒なもののほうが、長く使い続けたくなる。私にとっては、万年筆がそれかな」

「いいご趣味ですね。ここまで分解したら、次は清掃です」

 

 机の上に並べられたパーツからバレルを手に取る。

 

「銃というのは、銃弾に入っている火薬に火を付けることで、燃焼ガスを発生させ、そのガスの圧力で弾を発射しています。なのでもちろん、撃った後の銃の内部には火薬の燃え滓が大量に残っています。それにもちろん外から入った砂埃も。銃弾がバレルを通って出ていくとき、圧力によって同時にバレル内の空気も一緒に出ていきます。そのため、発射した後のバレル内は一時的に、真空に近い状態となります。一瞬のことなので、外からすぐに空気がやってくるのですが、この時に、周囲の砂埃がバレルに吸い込まれるのです。そのため一回の銃撃戦で、銃の内部はかなり汚れます。劣化しやすい部品なので、念入りに清掃してやりましょう」

 

 僕はスマホを取り出して、行きつけのガンショップのウェブサイトを開く。取扱商品、クリーニング用品、とディレクトリを下っていくと、僕が使っているガンオイルの画像が出てきた。とりあえず、これをお勧めしておけばいいだろう。

 

「世の中には便利なものがあって……。CLPガンオイルってやつなんですが、これは、ガンオイル本来の潤滑剤としての役割のほかに、汚れを溶かして落としやすくする溶剤、金属パーツの錆を防ぐ防腐剤にもなります。銃のクリーニングキットには、バレルの中まで掃除できる細長いブラシが入ってるので、CLPとブラシでバレルとチャンバーの中を掃除しましょう」

「細かい作業だね。これを、撃った日は毎日やるのか。大変だね」

「慣れれば簡単ですよ。ドラマでも見ながらやってください。同じように、バネ、スライド、マガジン、金属同士が接触しているところは全て、汚れを落としてガンオイルを塗りましょう。整備不良は命取りです」

「だね。整備不良は命取り。肝に銘じておく。私も自分でちょっと調べてみるよ」

「そうしてください。まあそれでも、慣れないうちは、他の生徒とかに見てもらいながらやったほうがいいですね。でも、いずれは自分でできるようにならないとダメですよ?」

 

 先生は興味深そうに頷いた。オリジナルでも、ロボットのおもちゃにお金を使い過ぎてしまうシーンとかは見たことがあったし、こういうメカ系のものには目がない質なのかもしれない。これで調べさせた結果、先生が銃にハマってガンマニアになっちゃったらどうしよう。カスタムパーツのために散財して食費を削っているのをユウカに見つかって怒られたら僕のせいだ。

 そう、銃で思い出した。撃たれたら怪我を負う体がいかに弱いか共感できる者のよしみとして、銃とは縁遠い世界に生きていた僕がここで暮らして得られた教訓を共有しておこう。

 

「それと、もう一つ。これは先生だからこそ知っておくべき話です」

「うん? なにかな」

「先生がこれまでいたところでは考えにくいことだったかもしれませんが、このキヴォトスで生活するのなら、銃についての知識は何よりも重要です。それは、護身という実用上の役割にとどまりません。銃は時に、ファッションのように、自己を表現し、表明し、表象する役割をも果たします。その人がどんな銃を使っているか、というのは、他者に対してのアピールやコミュニケーションの一環でさえあるのです。銃は、野蛮で恐ろしいものである、というのは、確かに事実です。ですが、そういった面だけに囚われると、重要なメッセージを見逃してしまうことにもなりかねません。どんな銃を使うか、どういう塗装を施すか、どのようなアタッチメントをつけるのか、それら全てがアイデンティティになり得るのだということを、忘れないようにしてください。このキヴォトスにとって銃とは、ただの道具では無いんです」

 

 この認識の相違は、キヴォトスで暮らし始めたばかりの頃の僕を度々困らせた。武器を持ち歩くことが文化レベルで当然のものとなっている社会は、あまりにも日本と違いすぎる。人を殺し得る武器を誰もが公然と持ち運べた時代なんて、日本では440年くらい遡らなければならないのに。

 

「だから、くれぐれも、人の銃を勝手に触っちゃダメですよ?」

「分かった。胸に刻んでおくよ」

 

 彼が硬くうなづいたのを確認して、僕は机の上に並べられた分解済みのM9A1を組み立て始めた。他人の銃に勝手に触るなとか言った直後にこれは、なんだか矛盾しているみたいだけど。

 もしこれから先生が情念重め湿度高めの女の子たちと知り合ったら、彼女たちはこうやって先生の銃を分解して代わりに清掃してやったりするんだろうか。細かいところまでブラシで丁寧に磨いてやって、ピカピカになったものを先生に見せるのだ。綺麗になったよ、先生……ってな感じで。なんだか深いフェチズムを感じるシチュエーションだ。フロイト先生に言わせれば、これはほとんど性行為だろうな。

 

「銃器の取り扱い講習はこれで終わりです。再三言ってますが、これ以上のことは、先生がこれから仲良くなる他の生徒たちに聞いてください。キヴォトスに住んでたら、多かれ少なかれ銃に対するこだわりが出てくるものですから、それを話の種にするのもいいでしょう。僕から教えられるのはここまでです。僕は、ガンマニアってわけじゃないので」 

「いやいや、すごく勉強になったよ。ありがとう。こういうのは全くの素人だったしね。それに、他の子達と話すのがより一層楽しみになった」

「それは何よりです。……差し出がましいことを言うようですが、その気持ちを忘れないようにしてくださいね。この街で先生をやるのは、きっと、色々と大変なことでしょうから」

 

 さて、仕事の用事も済ませたし、先生との邂逅も上々の結果で終わらせることができた。僕はそろそろお暇することにしよう。さっきモモトークでメッセージが来てたけど、ユウカも、仕事も無事に終わらせることができたみたいだ。どうやら彼女は今、S.C.H.A.L.Eの色々な部署にセミナー役員として挨拶回りをしていたらしい。同じ建物にいるなら好都合だ。帰りがけに拾っていくとしよう。

 今思ったけど、彼女が地道な仕事をしている間に僕が先生と話しているってのは、もしかしたら抜け駆けにカウントされてしまうかもしれないな。今日のディナーは相当の出費を覚悟する必要がありそうだ。セミナー役員ってことでそれなりの額を貰ってはいるけど、しばらく遊びは控えなくちゃだ。

 

「それでは、僕はこの辺りでお暇させていただきます。どうやら、ユウカが待ちくたびれているみたいなので」

「ああ、ごめんごめん。個人的な話で引き留める感じになっちゃったかな」

「いえ、お気になさらず。とても楽しい時間でしたよ」

「ははっ、そう思ってくれたならありがたいな」

「そう、最後に一つ、いいですか?」

「うん? なにかな」

「この素晴らしいコーヒーを生み出してくれた豆をどこで買っているのか、ご教授してくれませんか? 僕の納得できる一杯のために」

「ああ、そうだったね。D.U.のアオバ地区にある、三日月珈琲店ってところだよ。店主の若月さんに私からの紹介だって言ってくれたら、きっと良くしてくれると思う。マラコフっていう、コーヒームースを挟んだダッコワーズが絶品なんだ。ダッコワーズって知ってる?」

「洋菓子の最中(もなか)、ですよね? ビスキュイにクリームが挟まってる」

「そう、それ。あれは一度は食べておくべきスイーツだよ」

「なるほど、良いことを聞きました。ありがとうございます」

「礼には及ばないよ。美味しいものを共有するのは当然のことさ」

 

 僕は席を立って、先生のオフィスを後にした。彼と話していたのは、時間にするととても短いものだったが、体験としての濃度は数日分にも匹敵するようなものだった気がする。そのおかげか、埃の一つも落ちていないS.C.H.A.L.Eの廊下は、なんだかとても久しぶりに見たもののように思えた。

 高級なエレベータを待っている間、僕はだんだんと熱が冷めてきた脳みそで、先ほどの時間をゆっくりと咀嚼していた。

 仕事の話をそこそこに、コーヒーと人生の曖昧な類似性を語り合って、銃のメンテナンス方法をレクチャーした。仕事にかこつけてイケメンを漁る卑しか女枠の生徒に見えてなかったら良いけれど。

 もしかして、先生視点では、二番目にメモロビが解放された生徒は僕だったんじゃないだろうか。そうだとすればまた一つ、小さな原作改変だ。この程度だったら大した問題じゃないだろうけど、それでも気になるものは気になる。こういった小さな綻びが、積もり積もって大きく土台を傾けてしまうことだってあるかもしれない。杞憂と切り捨てるにはいささか現実味のあるシナリオに、僕の気分は少し重くなった。

 ある程度は割り切っているけど、それでもちょっとした懸念がいくつか、僕の頭蓋骨の裏側あたりに張り付いているような気がした。

 

 

 

 

 

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